アシュトン様の、私への歪んだ執着は、日を追うごとに巧妙になっていった。
彼は私に「自由」を与えると宣言しながらも、その実は、見えない鎖で私を縛りつけようとしていたのだ。 社交の場には、彼の護衛が必ず同行するようになった。彼らは私を影のように見守り、私が誰かと長く話し込めば、さりげなく会話を遮り、私を彼の元へと連れ戻そうとする。 友人たちも、私の変化に気づき始めていた。「セリーナ、最近、ヴァルター公爵の執着が噂になっているわ。大丈夫なの?」
親友であるリーゼロッテが、心配そうに尋ねてきた。 「ええ、大丈夫よ。アシュトン様は、私に興味を持ってくださっただけだから」 私は努めて明るく振る舞ったが、リーゼロッテの心配そうな視線が、私の心に突き刺さった。アシュトン様は、私を常に彼の視界の中に置きたがった。
私が公爵邸のどこにいようと、彼は必ず私を見つけ出し、隣に座るか、あるいは私を執務室に連れて行って、彼の執務の傍らに置いた。 執務室で彼が書類に目を通す音、ペンを走らせる音、そして時折聞こえる彼の低い咳払いの音。それらは、私にとって日常の音となりつつあった。ある日の夕食の席でのことだった。
テーブルには、私の好きな甘いデザートが並んでいた。 「セリーナ、これを食べろ」 アシュトン様が、私の皿にデザートを盛りつけた。 「ありがとうございます、アシュトン様」 私が一口食べると、彼は満足そうに頷いた。 「俺は、貴様が喜ぶ顔を見るのが好きだ。だから、遠慮なく望みを言え」 彼の言葉は、一見すると優しさのように聞こえる。けれど、その裏には、私を完全に手中に収めたいという、彼の強い支配欲が透けて見えた。 私は彼の執着に息苦しさを感じながらも、同時に、今まで誰からも向けられたことのないような、彼の強い「特別扱い」に、どこか抗えない魅力を感じている自分に気づき、戸惑っていた。そして、彼の執着は、私の過去にまで及ぶようになった。
ある日、私は公爵邸の庭園で、幼い頃に父から贈られた小さなオルゴールを手にしていた。 それは、私が心を許せる唯一の宝物だった。 そのオルゴールを眺めていると、アシュトン様が静かに私の隣に座った。 「それは、何だ?」 彼は、私の手の中のオルゴールに視線を向けた。 「幼い頃に、父からいただいたものです。私にとっては、大切な思い出の品でございます」 私が答えると、彼はオルゴールをそっと手に取った。 彼の指先が、オルゴールの細工をなぞる。その表情は、普段の冷徹なものとは違い、どこか遠い過去を懐かしむような、微かな陰りを帯びていた。「……思い出、か」
アシュトン様が呟いた。 「貴様の思い出の中には、俺はいないな」 彼の言葉に、私は思わず彼の顔を見た。 彼の瞳は、オルゴールをじっと見つめていた。その奥には、私が今まで見たことのない、深い孤独のような感情が揺らめいているように見えた。「アシュトン様は……何か、大切な思い出でもございますか?」
私は、ついそう尋ねてしまった。 アシュトン様は、オルゴールを私の手に戻すと、遠くの空を見つめた。 「……俺には、愛などという不確かなものを与えてくれる者は、いなかった」 彼の言葉は、まるで彼の心の奥底に秘められた、深い傷を露呈するかのような響きだった。 「幼い頃から、俺は『ヴァルター公爵家』の人間として、完璧であることを求められてきた。感情を出すことも、弱さを見せることも許されなかった」 彼の言葉は、静かで、感情の起伏はないが、その響きには、深い哀しみが込められているように聞こえた。私は、彼の言葉に驚きを隠せなかった。
彼が、こんなにも個人的なことを、私に話すなんて。 今まで彼のことを「冷徹な人間」としか見ていなかった私にとって、それは彼への見方が変わる、小さなきっかけとなった。 「アシュトン様も、大変なご経験をされてこられたのですね」 私がそう言うと、アシュトン様は私に視線を向けた。 彼の瞳には、今までのような執着の光ではなく、一瞬だけ、純粋な驚きが浮かんだように見えた。 「……貴様は、俺を憐れむのか?」 彼の声には、僅かながらだが、怒りのような感情が混じっているように聞こえた。 「いいえ、決して。ただ、アシュトン様も、私と同じように、苦しい思いをされてこられたのだと感じただけです」 私が正直に答えると、彼の瞳の奥の感情が、揺れ動くのが見えた。彼は、何も言わずに立ち上がると、再び私に背を向け、公爵邸へと戻っていった。
その後ろ姿は、いつものように威厳に満ちていたが、私には、彼の背中に、どこか寂しげな影が張り付いているように見えた。アシュトン様の執着は、私を縛りつける檻のようだったが、その中に、彼の秘められた過去と、人間らしい感情の片鱗が見え隠れし始めた。
それは、歪んだ執着の中に生まれた、小さな綻び。 この関係は、単なる独占欲だけでは終わらない、もっと複雑なものへと変化していく予感を、私は感じていた。アシュトン様が私に見せる歪んだ執着は、公爵邸での私の生活を大きく変えた。 私は彼の監視下にあるような息苦しさを感じつつも、彼が私にだけ見せる、微かな人間らしい感情の片鱗に、抗えない興味を抱き始めていた。 そんな中、私はある日、公爵邸の裏庭にある古びた離れに、ふと足を踏み入れた。普段は立ち入り禁止になっている場所で、使用人たちも近づかない不気味な雰囲気の場所だった。 好奇心に駆られ、私がその扉を開けると、そこには思いがけない光景が広がっていた。 埃を被った家具の数々、古びた肖像画。そして、壁にはびっしりと、色とりどりの植物の押し花が飾られていた。 それは、まるで時が止まったかのような、忘れ去られた部屋だった。 その中で、ひときわ目を引いたのは、部屋の隅に置かれた年代物のピアノだ。鍵盤には埃が積もり、音を奏でることはもうないだろう。「……誰の部屋だろう?」 私は、思わず呟いた。 その時、背後から冷たい声が聞こえた。「何をしている、セリーナ」 振り返ると、アシュトン様が、いつの間にかそこに立っていた。 彼の顔には、普段の冷徹さに加えて、微かな怒りのような感情が浮かんでいるように見えた。「アシュトン様!ここは……」 私が言い訳をしようとすると、彼は私の言葉を遮り、冷たい視線で部屋全体を見回した。「ここは、立ち入り禁止だ。知っていたはずだろう」 彼の声には、私を責めるような響きがあった。「申し訳ございません……好奇心に駆られて、つい」 私が謝罪すると、彼はゆっくりと部屋の中へと足を踏み入れた。 彼の視線は、部屋の中の物すべてをなぞるように動き、やがて、壁に飾られた押し花に止まった。 アシュトン様の表情が、わずかに揺らいだように見えた。 その瞳の奥に、深い悲しみのような感情が浮かんだのを、私は見逃さなかった。「この部屋は……」 彼の声は、いつもの冷徹な響きではなく、どこか感傷的な響きを帯びていた。「……俺の、母の部屋だ」 その言葉に、私は息を飲んだ。 アシュトン様の母親。彼が幼い頃に亡くなったと聞いている。 私は、壁に飾られた押し花を見上げた。どれも、繊細で美しい花々だ。「お母様は、植物がお好きだったのですね」 私がそう言うと、アシュトン様は何も言わずに、押し花に手を伸ばした。 彼の指先が、押し花の表面をそっと撫で
アシュトン様の、私への歪んだ執着は、日を追うごとに巧妙になっていった。 彼は私に「自由」を与えると宣言しながらも、その実は、見えない鎖で私を縛りつけようとしていたのだ。 社交の場には、彼の護衛が必ず同行するようになった。彼らは私を影のように見守り、私が誰かと長く話し込めば、さりげなく会話を遮り、私を彼の元へと連れ戻そうとする。 友人たちも、私の変化に気づき始めていた。「セリーナ、最近、ヴァルター公爵の執着が噂になっているわ。大丈夫なの?」 親友であるリーゼロッテが、心配そうに尋ねてきた。「ええ、大丈夫よ。アシュトン様は、私に興味を持ってくださっただけだから」 私は努めて明るく振る舞ったが、リーゼロッテの心配そうな視線が、私の心に突き刺さった。 アシュトン様は、私を常に彼の視界の中に置きたがった。 私が公爵邸のどこにいようと、彼は必ず私を見つけ出し、隣に座るか、あるいは私を執務室に連れて行って、彼の執務の傍らに置いた。 執務室で彼が書類に目を通す音、ペンを走らせる音、そして時折聞こえる彼の低い咳払いの音。それらは、私にとって日常の音となりつつあった。 ある日の夕食の席でのことだった。 テーブルには、私の好きな甘いデザートが並んでいた。「セリーナ、これを食べろ」 アシュトン様が、私の皿にデザートを盛りつけた。「ありがとうございます、アシュトン様」 私が一口食べると、彼は満足そうに頷いた。「俺は、貴様が喜ぶ顔を見るのが好きだ。だから、遠慮なく望みを言え」 彼の言葉は、一見すると優しさのように聞こえる。けれど、その裏には、私を完全に手中に収めたいという、彼の強い支配欲が透けて見えた。 私は彼の執着に息苦しさを感じながらも、同時に、今まで誰からも向けられたことのないような、彼の強い「特別扱い」に、どこか抗えない魅力を感じている自分に気づき、戸惑っていた。 そして、彼の執着は、私の過去にまで及ぶようになった。 ある日、私は公爵邸の庭園で、幼い頃に父から贈られた小さなオルゴールを手にしていた。 それは、私が心を許せる唯一の宝物だった。 そのオルゴールを眺めていると、アシュトン様が静かに私の隣に座った。「それは、何だ?」 彼は、私の手の中のオルゴールに視線を向けた。「幼い頃に、父からいただいたものです。私にとっては、大切な思い
アシュトン様の執着は、日を追うごとにその度合いを増していった。 彼は、私の行動すべてを把握しようとするかのように、公爵邸での私の滞在時間を延ばし、私がどこへ行くにも、誰と会うにも、常に彼の許可を求めるようになった。 初めは、彼の唐突な変貌に戸惑いと警戒心を抱いていた私だが、彼の執着は、どこか幼稚な独占欲にも似ていて、妙な居心地の悪さを感じていた。「セリーナ、今日の社交会には参加するのか?」 朝食の席で、彼は唐突に尋ねた。「はい。叔母様からお誘いを受けておりますので」 私が答えると、アシュトン様は眉をひそめた。「誰と会うのだ?」「……ただの社交です。特に意味はございません」 私の返答に、彼は不満げな表情を浮かべた。「無意味な社交は必要ない。俺の許可なく、公爵邸を離れることは許さない」 彼の言葉に、私は思わず反論した。「アシュトン様!私はまだフェルティア公爵家の娘です。社交の場に出ることは、貴族としての務めでもございます」 私の言葉に、アシュトン様の瞳が鋭く光った。「務め、か。貴様はもうすぐ俺の妻となるのだ。フェルティア公爵家の務めよりも、ヴァルター公爵家、ひいては俺の隣にいることが貴様の務めとなる」 彼の言葉は、まるで私を囲い込もうとするかのような響きだった。 私は、彼の執着に息が詰まる思いだった。 以前は私に興味すら示さなかった彼が、今では私のすべてを支配しようとしている。それは、私を尊重する「愛」とは程遠い、ただの「独占欲」でしかなかった。 しかし、彼の執着は、時に私を驚かせるような行動にも表れた。 ある日、私が公爵邸の庭園で、足を滑らせて転びそうになった時、アシュトン様が信じられないほどの速さで駆け寄り、私を支えてくれたのだ。 彼の腕の中に抱きとめられた時、私は彼の体温と、かすかに聞こえる彼の心臓の音を感じた。「……大丈夫か、セリーナ」 彼の声には、今まで聞いたことのないような、微かな焦りが含まれているように聞こえた。「はい、アシュトン様。ありがとうございます」 私が礼を述べると、彼は私の腕を掴み、その指先が私の脈を測るかのように触れてきた。「怪我はないか? どこか痛む場所は?」 彼の視線は、私の全身を細かく確認するように見ていた。 彼の行動に、私は戸惑った。これは、単なる心配なのだろうか? それとも、や
アシュトン様の言葉は、まるで雷鳴のように私の頭の中を駆け巡った。「俺は、貴様を、手に入れたいと思った。それだけだ」「貴様は、俺のモノだ。この契約が破棄されようと、俺は貴様を手放すつもりはない」。 今まで私を完全に無視し、まるで空気のように扱ってきた彼が、一体何を言っているのだろう?混乱と、わずかな恐怖、そして理解できない感情がない交ぜになり、私はその場に立ち尽くすしかなかった。「……アシュトン様、それは、一体どういう意味でございますか?」 声が震えるのを自覚しながら、私は問い返した。 アシュトン様は、私の顎を掴んだまま、ゆっくりと顔を近づけてきた。彼の黒曜石のような瞳が、私の顔をじっと見つめる。その深淵を覗き込むような視線に、私は身動きが取れなくなった。「言葉の通りだ、セリーナ」 彼の低い声が、私の耳元で囁かれる。「貴様は、俺のモノだ。これまで、俺の隣に置かれることを当然だと思っていた貴様が、初めて自分の意思で俺から離れようとした。それが、俺の心を捕らえた」 彼の言葉は、まるで獲物を追い詰める捕食者のようだった。「愛などという不確かなものではない。貴様が俺に背を向けたことで、この俺が、貴様を――」 彼はそこで言葉を切ると、私の頬を包み込むように手を滑らせた。彼の指先が、私の肌をゆっくりと撫でる。その冷たさと、微かな熱が、私の心をざわつかせた。「――貴様を、欲するようになったのだ」 その言葉に、私の全身を電流が走ったかのような衝撃が襲った。「欲する……?」 私が呆然と呟くと、アシュトン様は満足げな笑みを浮かべた。それは、先ほどの底が見えない笑みとは違い、確かな支配欲を含んだ、傲慢な笑みだった。「そうだ。貴様は俺の好奇心を刺激した。この俺が、これほどまでに興味を抱いた女は、貴様が初めてだ」 彼の言葉は、私にとっては全く理解できないものだった。 興味?好奇心? 彼は私を、まるで珍しい玩具か何かのように見ているのだろうか。「アシュトン様、私は……」 私が何かを言おうとすると、彼は私の言葉を遮った。「良いか、セリーナ。この同意書に、俺は署名しない。貴様との婚約は、継続する」 アシュトン様は、同意書をデスクの隅に押しやると、私をぐっと引き寄せた。 予想外の力に、私の体は彼の胸に吸い寄せられる。彼の硬い胸板に、私の顔が埋もれた。
アシュトン様の呟きは、重い沈黙となって執務室に広がった。 その間、私は彼から視線を逸らさなかった。彼の言葉に動揺を見せないように、という私の最後の意地だった。 契約破棄の同意書に目を落としたままの彼は、まるで時が止まったかのように微動だにしなかった。その横顔は、普段と変わらない冷徹さを保っているように見えたが、私には確信があった。彼の内側で、何かが確かに動き出している。「……セリーナ」 やがて、アシュトン様が、私の名を呼んだ。 それは、今まで聞いたことがないような、少しだけ掠れた声だった。「貴様が、本当にこの婚約を破棄したいと?」「はい。私の意思は固うございます」 私は、きっぱりと答えた。もう後戻りはしない。「王家との関係や、フェルティア公爵家の体面は、私の父と母が然るべき対応を取るでしょう。ご心配には及びません」 そこまで言い切ると、彼の視線がゆっくりと書類から私へと移った。 その黒曜石のような瞳が、先ほどよりも鋭く、そして、何かを試すかのように私を見つめてくる。「……愛など、いずれ消え去るまやかしだ。政略結婚に、そのような不確かなものを求めること自体が愚かではないか?」 アシュトン様の声には、わずかながらの動揺が含まれているように聞こえた。今まで私を無視し続けた彼が、私に語りかけている。その事実が、私の心をほんの少しだけ揺さぶった。「たしかに、アシュトン様のおっしゃる通りかもしれません。愛は、いつか形を変え、あるいは消え去るものかもしれません」 私は静かに答えた。「ですが、私は、人生を共に歩む上で、互いへの尊敬や、少なくとも相手を人として気遣う心がなければ、共にいる意味はないと考えております。アシュトン様は、私にそのような心をお見せになったことは一度もございません」 私の言葉に、アシュトン様の表情が、さらに硬くなった。 彼は私から視線を外し、デスクに置かれたペンに手を伸ばした。「同意書、か」 彼は、ゆっくりとペンを手に取り、同意書に署名する体勢に入った。 私は、息を詰めてその様子を見守った。 ああ、これで終わる。この冷たい結婚から、私は解放されるのだ。 安堵と、ほんの少しの寂しさがない交ぜになった感情が、私の胸に去来した。 ――カツン。 ペン先が、紙に触れる寸前で止まった。 アシュトン様は、顔を上げ、再び私
その日、私は公爵邸の図書室にいた。 普段は滅多に人が訪れない、静かで落ち着く場所だ。埃一つない書架には、貴重な書物がずらりと並んでいた。 そこで私は、とある一冊の恋愛小説を読んでいた。身分違いの二人が、数々の困難を乗り越え、真実の愛を育んでいく物語。登場人物たちの情熱的な言葉や、互いを想い合う気持ちが、私の心を強く揺さぶった。「馬鹿げている」 読み終えた時、そう呟いたのは自分自身だった。 愛なんて、貴族の政略結婚には必要ない。そんなことは、頭では十分に理解している。けれど、心はどうだろう? 毎日のように突きつけられる彼の冷淡な態度。まるで空気のように扱われる日々に、私の心は悲鳴を上げていた。 私は、愛を求めてはいけないのだろうか? たとえ政略結婚であっても、少しの優しさや、人間らしい温かさくらいは期待しても良いのではないか? そんなことを考えていると、ふと、彼の言葉が脳裏をよぎった。「貴様が愛を求めるのであれば、今すぐにでも破談にする」 そうだ。彼は、そう言った。 つまり、破談の選択肢は、私にも与えられているのだ。 私は、ゆっくりと立ち上がった。 今まで、私はフェルティア公爵家の娘として、与えられた役割を果たすことだけを考えてきた。それが義務であり、貴族としての矜持だと思っていた。 けれど、もう、限界だった。このまま彼の隣で、心まで凍えさせるような人生を送るなんて、私にはできない。 私は、決意した。 この結婚を、私から破棄する。 それから数日後。 私は公爵邸に赴き、アシュトン様との面会を求めた。執務室で彼と向き合うのは、婚約が決まって以来、数えるほどしかない。 彼の執務室は、相変わらず冷たい空気が張り詰めていた。窓から差し込む陽光さえも、どこか凍りついているように見える。 アシュトン様は、書類に目を通したまま、私に視線を向けることもなく言った。「何の用だ」 その冷たい声に、私の決意は揺るぎないものとなった。「アシュトン様にお伝えしたいことがございます」 私は深呼吸をし、背筋を伸ばした。「私、セリーナ・フェルティアは、アシュトン・ヴァルター公爵様との婚約を、本日をもって破棄させていただきたく、参りました」 私の言葉に、アシュトン様の手がぴたりと止まった。 そして、ゆっくりと顔を上げ、私にその黒曜石の瞳を向けた。