LOGIN淳子は由利と紫苑、碧斗がいる前であるにもかかわらず、声を荒らげ続けた。「アンタのせいよ!アンタがあんなことしなければ……私は幸せでいられたのよ!」とうとう淳子は洋介に掴みかかった。しかし、華奢な女性である淳子が、男の洋介に力で敵うはずがない。彼女はすぐに手首を掴まれ、動きを封じられてしまった。元々ヒステリックで精神的に不安定な人ではあったが、ここまで暴れているところを見たことはなかった。多くのものが溜まり、限界を迎えて爆発したのだろう。(……父さんと母さんの間に一体何があったのかしら?)由利は当然、彼らが抱える事情を知らなかった。一方の紫苑は知っているのか、無感な目で二人を眺めていた。父親は何とか彼女の暴挙を止めようと、説得を試みた。「淳子、落ち着かないか……由利と紫苑が見ているぞ」娘二人の前でみっともない真似はやめろと、洋介は遠回しに言った。しかし、もはや正気を失っている淳子に響くことはなかった。「知らないわよ、あんなの!」淳子は由利と紫苑を一瞥すると、キッパリ言い放った。「――こっちは産みたくもないアンタの子を産ませられてるのよ!?今すぐでも捨てたいくらいだわ!あんな可愛げのない子供たち!」「………母さん」初めて直接口から語られた、母の本当の気持ち。わかってはいたが、由利はショックを隠しきれなかった。「淳子、なんてことを言うんだ!」行き過ぎた淳子の発言に、洋介は怒りを露わにした。しかし、そんな彼を彼女は嘲笑った。「うるさいわね、アンタだっていつも仕事が忙しいとか言ってまともに育児に参加してなかったじゃない!そのくせ今さら父親面して私を叱るわけ!?」「……!」「――結局のところ、アンタも私と同じなのよ!私と同じ、最低な父親だってこと!」アハハハハハ―――と淳子の笑い声が部屋に響き渡った。洋介は動揺しているのか、淳子を掴む手の力が弱まった。彼女はその隙を逃さず、彼の手を振り払った。自由になった淳子はドサリとソファに腰を下ろし、偉そうに足を組んだ。もはや本当の姿を隠すつもりもないようだ。「……淳子、お前の本当の気持ちはよくわかった」「あら、わかってくれるだなんてとっても嬉しいわ。遅すぎるけどね」洋介は何かを決めたかのように、淳子の前に立ち、彼女を見下ろした。「――お前とは離婚だ。手切れ金はいくらか渡すから、家を出て行
紫苑が淳子の部屋のゴミ箱から取り出したのは、夫の洋介がかつて贈った婚約指輪だった。由利が薄井夫人から貰ったものほどではないにしろ、かなり大きいダイヤモンドがあしらわれている。洋介は信じられないというように、身を震わせていた。「淳子……一体どういうことだ……?なぜ、私があげたものが捨てられているんだ……?」「あ、あなた……違うのよ……あれは……」もはや言い逃れなどできない状況だったが、淳子はみっともなく罪から逃げようとしていた。彼女になりに言い訳を考えているのだろうが、何も思いつかない。窮地に追い込まれた人間のように、額からダラダラと汗を流している。そんな淳子を見るのは初めてだった。追い打ちをかけるように、紫苑は淳子に尋ねた。「母さん、私も本当のことを知りたいわ。どうして父さんがあげたはずの大切な指輪が、ゴミ箱に捨てられているのかしら?」「紫苑……」誰よりも可愛がってきた娘に追い詰められるとは思いもしなかっただろう。しかし、こればっかりは紫苑が正しい。淳子は他にも由利の指輪を盗むという罪を犯している。そして、彼女の罪は続けざまに明かされていった。「ねぇ、母さん……引き出しに入ってたこの拓って男からの手紙……一体どういう関係なのかしら?母さんのことを愛しているとか結婚していてもかまわないとか書いてるんだけど」「!」――それはまさに、淳子の長年の不倫を表す証拠だった。彼女は結婚後、多くの男性と性的関係を持ちながら、そのうちの一人の男に本気で恋をした。それが拓という男だった。彼は淳子より三つ下の小さな工場の社員で、彼女とは二十年来の付き合いだった。淳子が彼を好きになった理由は単純、最愛の元婚約者に少しだけ雰囲気が似ていたから。彼を愛していたというよりかは、前の婚約者を未だに忘れられずにいたのだ。不倫を知った夫の洋介は、愛する妻を問い詰めた。なぜそんなことをしたのかと、泣いているように見えるのは気のせいだろうか。しかし、当の淳子はそんな夫を冷めた目で眺めていた。「……るさいわね」「……何だと?」「うるさいって言ってんでしょう!離しなさいよ!」淳子は肩を掴んでいた洋介の手を振り払った。開き直った彼女に、彼は呆気に取られていた。淳子は涙を流し、洋介に怒鳴り散らした。「大体、元はと言えば全部アンタのせいよ!アンタのせいで私は不幸になっ
顔を手で覆い、嗚咽を上げる淳子に、碧斗と父親は困惑していた。この光景だけを見れば、由利と紫苑が加害者であるように見えるだろう。「……お前たち、何をしていたんだ?」「……父さん」父の疑念の目が、由利と紫苑の二人に向けられた。由利は慌てて否定しようと、口を開いた。「父さん、私は……」「なぜ、淳子が泣いているんだ?」しかし、母の涙を前にもはや父は理性を保つことができないようだった。彼女が由利と紫苑に泣かされたのではないかと、父は疑っていた。紫苑のことを溺愛している父だが、彼女にも険しい目を向けた。父は冷たいように見えるが、実はこの世の誰よりも妻の淳子を愛していた。今にも二人に詰め寄りそうな父を、碧斗が慌てて止めた。「――お義父さん、娘の話くらいきちんと聞くものですよ」「碧斗君、君は黙っていなさい」父は碧斗を振り払おうとするが、彼も退かなかった。「いいえ、黙ってはいられません。家族のことに口を出すなと言うおつもりなら、私も家族ですから。口出しする権利はあるはずです」「……」碧斗の正論を前に、父は黙り込んだ。彼がゆっくりと肩を撫でると、ようやく落ち着きを取り戻したようだった。碧斗は由利を守るように父の前に立ちはだかった。彼は父と違って、由利が悪さをしたわけではないことを、心の中で確信していた。「由利、何があったか説明できるか?」「……はい」振り向いた碧斗の視線を受けた由利は、ゆっくりと口を開いた。「実は、母さんの部屋から私が薄井夫人に頂いた指輪が出てきたんです。今日の朝突然なくなって、ずっと探していたものだったんですけど……」由利はチラリ、と母の淳子に視線を向けた。話を聞いているのかいないのか、ずっと顔を手で覆って泣いているままだ。淳子は昔から、自分に都合の悪いことがあるとすぐに被害者ぶる人間だった。今回もそうやって泣き崩れることで、父の同情を誘おうとしているのかもしれない。何ともずるいやり方だ。「指輪が……?由利が貰ったはずのものを、なぜ義母さんが持っていたんです?」碧斗は床にへたり込む淳子を問い詰めた。父はともかく、碧斗は淳子の手口にやられたりはしない。「……私は盗んでなんていないわ。その子が嘘をついているのよ」「母さん、いい加減に認めなさい。私も指輪が部屋の引き出しから出てきたのを見たわ」「紫苑……」溺愛していた
いつの間にか部屋へ来ていた淳子は、紫苑と由利を見て眉をひそめた。勝手に自分の部屋に入られているのだから、誰だっていい気はしないだろう。しかし、由利の指輪を盗んだのは淳子だった。つまり、先に悪いことをしていたのは淳子のほうということだ。そんな彼女には、由利や紫苑を責める資格はない。「母さん……」「何をしているかって聞いてるのよ!」淳子は由利に向かって大股で歩き出した。昔から彼女を見ている由利にはわかる。彼女は今、相当頭にきている。(ど、どうしよう……)固まっていた由利の前に咄嗟に立ちはだかったのは、紫苑だった。「――母さん、やめて。姉さんに手を出さないで」「紫苑……」紫苑を間に挟んだおかげか、淳子の険しかった表情は僅かに元に戻った。しかし、状況が状況であるため、淳子は紫苑にも厳しい目を向けた。「紫苑、どきなさい。今あなたに用はないのよ」淳子が紫苑に冷たくしているところを、由利は初めて見た。しかし、紫苑は動じることなく冷静に言葉を返した。「母さん、それは変だわ。私だって母さんの部屋に勝手に入ったじゃない。それなのに、どうして姉さんだけを責めようとするの?」「……」淳子は言い返すこともできないのか、黙り込んだ。その隙をチャンスだと思い、由利は指輪の件を問い質した。「母さん、この指輪が母さんの部屋の引き出しにあったんだけど、どういうこと?」「なッ……どうしてそれを……」由利が手に持っていた指輪の箱は、つい数日前淳子が彼女の部屋からこっそり盗み出したものだった。淳子は由利の持つ大きなダイヤモンドの指輪に嫉妬し、指輪を盗むという暴挙に出たのだ。「母さん、答えてちょうだい。どうして私の指輪を、母さんが持っているの?」「……」由利の詰問に、淳子は口を噤んだ。罪から逃れようと、言い訳を必死で考えているのかもしれない。しかし、現物があるこの状況でそんなものは通用しない。「否定すらしないのね。ということは、指輪を盗んだのは母さんってことで間違いはなさそうね」「由利……」諦めがついたのか、淳子はガックリと項垂れた。そして、突然床にへたり込んだかと思うと、顔を手で覆って泣き始めた。「か、母さん……?」由利はそんな母親の姿を、困惑したように見下ろしていた。悪いことをしたのはそっちなのに、なぜあなたが泣くのか。由利だけではなく、紫苑も彼女を
由利は紫苑の提案で、邸内のある部屋へと向かった。しばらく紫苑の背中を追って歩いていた由利は、ある一室の前で立ち止まった。「ここは……母さんの部屋?」「ええ、姉さん。ここになら、もしかすると指輪があるかもしれないわ」紫苑は確信しているかのような様子でそう口にした。彼女は母親の部屋の扉を、黙ったまま見つめていた。「母さんが私の指輪を盗んだってこと?」「ええ、私じゃないなら……母さん以外にはあり得ないでしょう?」「そ、それはそうだけど……」男である碧斗や父が女性ものの指輪を盗むとは思えないし、紫苑以外であればたしかに母親しか考えられなかった。それでも、血の繋がった母親を疑うというのは何だか気が引けた。「勝手に入っていいの?」「ちょうど母さんは出かけてるし……入るなら今のうちしかないわよ、姉さん」どうする?と、紫苑は由利に入る気があるかを尋ねた。紫苑からしたら、指輪があろうがなかろうがどちらでもいいだろう。それでも姉の由利のために、心当たりのある場所を探そうとしてくれているのだ。紫苑の気遣いに、由利は困惑していた。自分のために彼女がここまで動いてくれたことは、今までに一度もなかったのではないだろうか。「いえ……入るわ。もしかすると、本当に指輪があるかもしれないし」「賢明な判断だわ。行きましょう、姉さん」紫苑はどこからか手に入れた鍵を使い、母親の部屋の扉を開けた。母の淳子は留守の間は必ず部屋に鍵をかけている。そのため、由利も紫苑も彼女がいない間に部屋に入ったことはなかった。「……案外何もないのね」何か秘密があるのではないかと疑っていたが、中は昔見たときと変わらず殺風景なままだった。「母さんはミニマリストだからね。物を部屋に置くことが好きではないのよ」紫苑は部屋の扉をそっと閉めた。由利は久しぶりに入る母親の自室を見回していた。(この部屋のどこかに指輪があるだなんて……信じたくないわ)もしも淳子が犯人だったとしたら、自分は彼女に対して何て言うのが正解なのだろうか。ボーッとする由利を、紫苑が手を叩いて正気に戻した。「さぁ、姉さん。母さんがいつ帰ってくるかわからないわ。早めに探して部屋を出ましょう」「ええ、そうね……」由利と紫苑は部屋の中で捜索を開始した。一人では時間がかかるだろうと思っていたため、彼女が手伝ってくれるのはありがた
それから数日を夏目家で過ごした由利は、ある問題に直面していた。「おかしいわね……どこに閉まったかしら……?」彼女は部屋の中であるものを探し回っていた。引き出しの中だけでなく、ベッドの下までを確認するが、どこにも見当たらない。(どうして急になくなってしまったんだろう……)由利が探していたのは、まさに数日前薄井夫人からプレゼントされた指輪だった。ベッド横の上から二番目の引き出しにきちんと保管しておいたはずが、いつの間にか箱ごとなくなっていたのである。「どうしよう……せっかくお義母さんがくれたっていうのに……」由利の目から涙が溢れそうになった。実の親よりも優しい夫人がくれたものをなくしてしまうだなんて、情けない。由利は自室だけではなく、他の部屋も探し始めた。「――ねぇ、紫苑。私の指輪知らない?」リビングでくつろいでいた紫苑に、由利は尋ねた。紫苑はきょとんとした顔をしながら、首を横に振った。「知らないわ。姉さんったら、もしかしてなくしたの?」「…………気付いたら、なくなっていたの」「……まぁ、そんな」あの指輪がどれくらいの価値があるのか、紫苑ですら見ればわかる。由利は絶句した様子の紫苑の表情を、じっと観察した。(紫苑……あなた、盗んでないでしょうね……?)血の繋がった妹を疑いたくはなかったが、彼女ならやりかねない。紫苑に疑いの目を向ける由利に、彼女はある提案をした。「……そうね、姉さんの部屋はいつもきちんと整理整頓されているし……姉さんがそんなに大切なものをなくすとは思えないわ」「……紫苑?」突然何を言い出すのか。困惑した様子の由利の耳元で、紫苑は囁いた。「――つまり、指輪を誰かが盗んだということで間違いなさそうだわ。あなたもそう思ってたから私に聞いたんでしょう?姉さん」「……」紫苑の赤い口紅が、自然と弧を描いた。どうやら紫苑は、最初から由利の考えを知っていたようだった。由利の心臓がうるさいくらいに高鳴った。しかし、紫苑はそんな姉を心外だと責めることもせず、身体を離した。「でも残念ね。私じゃないわ、指輪を盗んだの。そんなに疑わしいなら、部屋を調べてくれたっていいのよ?」「紫苑……私はそんなことしないわ」由利はゆっくりと首を横に振った。表情を見るに、嘘をついているようにはとても見えなかったからだ。それに、紫苑はハイブランドの
実に二度目の回帰、三度目の生だった。前世と同じ、結婚一年目のあの日に戻ってきたようだった。彼女はそのことに困惑したが、二度目だったせいか、今回は落ち着いて行動することができた。紫苑が亡くなり、碧斗が死んだことにより彼女は回帰した。それは前世と同じだった。ここから推測できることは一つだけ。それは、碧斗の死が彼女の回帰に繋がっているということだ。――碧斗が亡くなったことをきっかけに、私は巻き戻ってきた。なら、碧斗が死ななければ、二度と回帰することはないのではないか。由利がそのような結論に至るまで、そう時間はかからなかった。そのためには紫苑が死なないようにする必要があった。彼女がいなくな
由利は時間が止まったかのように固まり、そのまま動かなくなった。信じられないというような目で妹の紫苑を見つめた。碧斗の子を妊娠?あなたは一体何を言っているの?私の妊娠を祝福していた裏で、ずっとそのことを隠していたの?由利の体が小刻みに震え始める。私はずっと二人に裏切られていたというのか。紫苑はそんな由利を見て、申し訳なさそうに眉を下げた。「ごめんなさい、姉さん……」由利は黙ったまま何も言えなかった。その一言で済むような事態ではないからだ。子供ができたということは、当然体の関係があったわけで。姉の旦那と平然と関係を持つだけではなく、子供まで作ったのか。紫苑が碧斗と不倫していたことを、由
目が覚めると、由利は病院の一室にいた。「無事だったんですね、よかったです」「あなた……」ベッドに横たわる由利の顔を、夏目家のメイドが心配そうに覗き込んだ。また巻き戻ってきたのではないかと思ったが、どうやらそうではないようだ。由利は自身の安否など気にも留めず、メイドに尋ねた。「お腹の子は……」「……」その問いに、メイドは痛々しそうに視線を逸らした。由利は彼女の反応で全てを悟った。――あぁ、流産してしまったんだ。奇跡のように私の元へやって来てくれた子は、産まれることもなく亡くなってしまったのね。悲しくて、悔しくて、やりきれない気持ちになった。由利は病室内を見渡した。流産したと
それから碧斗は、毎日のように紫苑のいた病室で泣き続けた。彼女がいなくなり、火葬されたあともずっと。仕事も手に付かなくなるほど毎日のように大声で泣き、隙あらば彼女の痕跡を探した。彼女が生前着ていた服を抱きしめ、服が濡れるまで泣いた。もちろん両親も深い悲しみに暮れていたが、それでも彼の絶望は異常ともいえるほどだった。この世の全てを失ったかのように、真っ暗な部屋で酒を浴びるように飲み続けた。彼女のいない世界なんて、意味がないのだろう。由利はそんな彼をただ見ていることしかできなかった。姉妹ではあるが、紫苑に似ているところなんてほとんどない由利に、彼女の代わりなんて到底務まらないからだ。そして







