LOGIN「さっきの先生と連絡してるの?」
優の声は、いつもと少し違っていた。
低い。
でも、冷たいというより。
どこか落ち着かない。
自分でも理由がわからないまま、言葉だけが出てきたような声だった。
私は反射的にスマホを伏せそうになって。
……止めた。
どうして隠すんだろう。
別に、何も悪いことはしていない。
「うん」
できるだけ普通に返す。
「復職の条件を送ってくれたみたい」
一瞬。
優の表情が止まった。
「……条件?」
視線が、私のスマホへ落ちる。
「そんな早く決める話?」
私は静かに息を吸った。
「早いかどうかはわからないけど」
少し間を置く。
「半年後には終わるんだし、働かないと生活できないから」
言った瞬間。
部屋の空気が、少し重くなった。
優が黙る。
その沈黙の中で、廊下の向こうからテレビの音が薄く聞こえた。
リビングには、咲子がいる。
この家には、夫の愛人が当然のようにいる。
その状態で、私は離婚後の生活費の話をしている。
あまりにも奇妙で。
あまりにも生々しかった。
優が、少しだけ困惑した声で言う。
「……そんな困ってる?」
意味がわからなかった。
困ってる。
その言葉が、妙に遠く聞こえる。
四年間、私は仕事を辞めて。
生活基盤を手放して。
優の都合に合わせて、この家にいた。
その間、咲子はずっと優の隣にいて。
私は、妻という名前だけを持っていた。
でも。
もう怒る気力はなかった。
今さらこの人に説明しても、たぶん全部は届かない。
「準備は必要でしょ」
静かな声で返す。
「このままだと、半年後には離婚するんだから」
優が何か言いかける。
その時だった。
ノックもなく、扉が開いた。
「優〜、綾香さんの部屋?」
咲子だった。
優のシャツを着ている。
袖が長くて、指先だけが少し見えている。
裸足。
髪は少し乱れていて、眠そうな顔。
でも、その姿はあまりにも自然だった。
まるで、ここが自分の家みたいに。
「あ、綾香さんまだ起きてたんだ」
悪気のない顔。
そして当然みたいに、優の腕に触れる。
「ねえ、早く一緒寝よう?」
空気が止まる。
私は何も言わなかった。
言えなかった。
妻の部屋で。
夫の愛人が。
夫に向かって、早く一緒に寝ようと言う。
その異常さに、もう驚けなくなっている自分が、一番嫌だった。
でも。
その瞬間。
優が動かなかった。
咲子の手を振り払うわけではない。
でも、応えることもしない。
ただ、少しだけ迷う顔をした。
初めて見る表情だった。
「……話が終わってから行く」
低い声。
「戻ってて」
咲子が目を瞬く。
「え?」
優は少しだけ視線を逸らす。
そして、もう一度言った。
「二人にして」
数秒。
変な沈黙が落ちた。
咲子は笑った。
でも、その笑顔は少しだけ薄い。
「なにそれ」
軽い声。
「仕事の話?」
優は答えない。
咲子の視線が、私と優の間をゆっくり移動する。
そして、私の手元のスマホに一瞬だけ落ちた。
「……ふうん」
小さな声。
それから、いつものように笑う。
「わかった。待ってるね」
そう言って、扉を閉めた。
静寂。
でも、咲子の気配はまだ廊下に残っている気がした。
この家のどこにいても、私は一人になれない。
優が、ぽつりと言う。
「……その仕事」
少し間。
「本当に受けるの?」
私は小さく頷いた。
今度は、ちゃんと。
「うん」
「本気で考えてる」
「早く、復帰したい」
言った瞬間。
少しだけ胸が震えた。
初めて、自分の人生の話をした気がした。
優の都合でも。
咲子の存在でも。
契約結婚の期限でもなく。
私が、私としてどう生きるかの話。
優は黙っていた。
長い沈黙。
そして。
「……そっか」
それだけ言った。
でも、その声はいつもの無関心とは少し違った。
何かを理解したいのに、まだ言葉にできない。
そんな響きだった。
その時。
スマホが震えた。
【綾瀬隼人】
条件、ざっくりだから無理に返事しなくていいよ。
ただ、東郷先生みたいな人は他にも声かかると思うから、早めに動いた方がいい。
数秒後。
【綾瀬隼人】
ちゃんと現場戻れる人だと思ってる。
画面を見たまま、指先が止まる。
ちゃんと現場戻れる。
その言葉が、思ったより深く入ってきた。
私がずっと不安だったこと。
もう戻れないかもしれないと思っていたこと。
そこを、まっすぐ言われた気がした。
思わず、少しだけ口元が緩む。
その瞬間。
優の視線が止まった。
「……その先生とは」
低い声。
「ちゃんと話すんだね」
時間が、少し止まった。
責める言い方ではなかった。
でも。
その一言には、優自身も気づいていないような棘があった。
私は顔を上げる。
優は私ではなく、スマホを見ていた。
ドアの向こうから、咲子の声がした。
「優、まだ?」
甘えるような声。
この家の空気が、また少し歪む。
私はスマホを伏せた。
今度は、隠すためではなく。
自分の言葉で返すために。
「止めないで」
静かに言った。
優が顔を上げる。
「仕事のこと」
少し息を吸う。
「私、ちゃんと考えたい」
その瞬間。
優の表情が、少しだけ変わった。
でも。
何も言わなかった。
言えないみたいだった。
「……俺といる時」少し間。優が、言葉を探すみたいに視線を落とした。「そんな顔、してた?」部屋が静かになる。キッチンの時計の音だけが、妙に大きく聞こえた。私はすぐに答えられなかった。スマホを握ったまま、視線を落とす。そんな顔。——笑ってた顔。さっき。綾瀬先生の前で。気づけば何度も笑っていた。無理してじゃなく。空気を悪くしないためでもなく。ただ、自然に。それが。少しだけ、怖かった。「……どうだろう」ぽつりと零れる。優の視線が、こちらへ向く気配がした。私はマグカップの横に置かれたケーキの箱を見る。私が好きだった店。忘れてたと思っていた。でも。覚えていたらしい。——今さら。その感情と。少しだけ嬉しかった感情が、胸の中でぶつかる。だから余計に苦しい。「少なくとも」少し間を空ける。「最近は、してなかったかも」優の指先が、テーブルの端で止まる。何かを言いかけて。でも、口を閉じる。私は続けた。声は驚くほど静かだった。怒っているわけじゃない。責めたいわけでもない。ただ。少し疲れていた。「楽しいとか」「安心するとか」目線を少し窓の外へ逃がす。夜の街がぼやけて見えた。「そういう感覚、結構前に忘れてた」優が動かない。返事もない。ただ。何かを飲み込むみたいに、小さく喉が動いた。視線だけが、こちらに残る。その沈黙が、少し長い。気まずいはずなのに。不思議と、前みたいに怖くない。たぶん。私はもう。優の機嫌を伺わなくなっていた。「……綾香」名前を呼ばれる。少し低い声。でも。その続きが出てこない。珍しい。言葉に詰まる優なんて。ずっと、完璧な人だったのに。その時。ふっと思い出した。さっき。クリニックの前で。強くなってきたね綾瀬先生がそう言って、少し笑った顔。その瞬間だけ。肩の力が抜けた気がした。ああ。私。ちゃんと戻ろうとしてるんだ。壊れたままじゃなく。自分の人生へ。その時だった。スマホが震える。画面が明るくなる。【綾瀬隼人】あ、そうだ。土曜、研修説明のあと少し時間ある?近くでご飯でも。あと、普通に顔見たい。指先が止まる。……顔見たい。少しだけ、胸の奥がくすぐったくなる。でも。同時に思い出す。——土曜。優との予定。父親
玄関を開けた瞬間。リビングの灯りが、まだついていた。時計を見る。22時12分。少し遅くなった。でも。普段なら。もう誰も起きていない時間。そう思っていた。なのに。「……おかえり」低い声。顔を上げる。そして。思わず、止まった。——優がいた。一人で。リビングに。珍しく、テレビもついていない。ソファでもない。キッチンカウンターに寄りかかって。スマホを見ていた。でも。私を見ると、少しだけ視線を逸らす。なんだろう。……待ってたみたい。その考えに。自分で驚く。そんなわけない。優が?「……起きてたんだ」短く返す。優は少しだけ黙って。「ああ」それだけ。でも。すぐ帰ろうとしない。どこか、落ち着かない顔。その時。ふわっと甘い匂いがした。テーブルを見る。小さなケーキの箱。コンビニじゃない。駅前の、少し高めの店のもの。隣には、マグカップが二つ。……え?思考が少し止まる。「……どうしたの、それ」思わず聞く。優が少しだけ気まずそうな顔をした。「いや」短く言う。「遅そうだったから」少し間。「コーヒーくらい飲むかなって」時間が止まる。コーヒー。ケーキ。私が昔好きだった店。結婚したばかりの頃。一度だけ。仕事帰りに買ってきてくれたことがあった。——“これ好きだったよね”あの時。少しだけ、嬉しかった。でも。それ以来、一度もなかった。四年間。忘れていたと思っていた。なのに。なんで今さら。胸が少しだけざわつく。でも。すぐに冷える。……遅い。本当に。遅すぎる。「……食べてきた」静かに言う。優の動きが少し止まる。「そう」短い返事。でも。少しだけ肩が落ちた気がした。沈黙。変な空気。私はバッグを置く。すると。優がぽつり。「何食べたの?」時間が止まる。……また。そんなこと。今まで聞かれたことなんてなかった。「定食」短く返す。「病院の近くのお店」「ふーん」少し間。「……楽しかった?」また。その質問。でも。前みたいに責める感じじゃない。本当に。様子を探ってるみたいな声。私は少し考える。そして。正直に言った。「……うん」優の指先が少し止まる。「仕事の話、ちゃんとできたし」「久しぶりに、自分のこと考えられ
「ご飯」低い声。「……二人で?」空気が止まった。優の視線が、私の服に落ちる。ネイビーのニット。細めのスカート。少しだけ整えた髪。派手ではない。でも。少しだけ、自分をちゃんと扱いたくて選んだ服だった。「……うん」短く答える。「復職の話もあるし」優は少しだけ黙った。そして。「仕事の話なら、クリニックでよくない?」低い声。静かなのに。少しだけ棘がある。胸の奥がざらつく。「食事しながら話すだけだよ」できるだけ平静に返す。「何か問題ある?」優が少しだけ言葉に詰まる。「……別に」視線が逸れる。そして。ぽつり。「ただ」少し間。「最近、その先生と距離近い気がする」時間が止まる。……距離近い。また、その言葉。私は少しだけ笑ってしまった。乾いた笑い。「そう?」静かな声。「私は、普通に心配してもらってるだけだと思うけど」その瞬間。優の顔が少し止まった。何か言いたそうなのに。言葉にならない顔。でも。結局何も言わない。私はバッグを持つ。「行ってくる」そう言って玄関へ向かった。背後から。少し遅れて声。「……終わったら連絡して」まただ。最近の優。やたら聞いてくる。帰宅時間。予定。誰といるのか。今まで。一度だって気にしたことなかったのに。「余裕あったら」短く返して家を出た。***待ち合わせは、クリニック近くの小さなビストロだった。大通りから少し外れた場所。静かで。あたたかい灯りが漏れる店。店の前に、綾瀬先生が立っていた。長い黒髪を自然に後ろで束ねて。黒のジャケット。白シャツ。病院の時とは少し違う。でも。相変わらず、妙に整っている。「あ、来た」軽く手を上げる。そして。私を見る。少しだけ目を細めた。「今日、雰囲気違うね」心臓が少し跳ねる。「……変ですか?」思わず聞いてしまう。綾瀬先生は少し笑った。「逆」少し間。「似合ってるよ」息が止まる。その言葉は。不思議なくらい自然に胸に落ちた。優みたいに。“評価”じゃない。ただ。ちゃんと見てくれた言葉。「……ありがとうございます」少しだけ、照れる。綾瀬先生は何事もなかったみたいに店の扉を開けた。「じゃあ、仕事モード戻す作戦、始めよっか」その軽さに、少し救われる。***
翌朝は。珍しく、少しだけ目覚めが良かった。ちゃんと眠れた気がする。理由はわかっていた。仕事。復職。怖いのに。不思議と少しだけ前向きになれている。それに——金曜。綾瀬先生との“ご飯”。仕事に戻る前の復帰の相談。ただそれだけ。なのに。少しだけ楽しみな自分がいた。……危ない。そういうの。勘違いしちゃダメ。ただ。久しぶりに、人といて苦しくないだけ。そう言い聞かせながら、支度をする。その時。スマホが震えた。【優】>続けて。>時間が止まる。……え?思わず、画面を見返した。昼?優が?今まで。会食や父親関連の予定が終わったら、じゃあ先帰っててが普通だった。二人で何かするなんて。一度もなかった。しかも。“軽く昼でも行く?”なんて。夫みたいなこと。四年間で初めてだ。少しだけ。胸がざわつく。でも。遅い。本当に、遅すぎる。数秒迷って。短く返す。【綾香】>>送信。数秒後。既読。そして。すぐ返信。【優】>息が止まる。なんだろう。少しだけ、引っかかる。こんなこと。聞かれたことあったっけ。【綾香】>>既読。……止まる。返信が来ない。珍しい。でも、なぜか。少しだけ空気が重い気がした。***昼頃。リビングに降りると。珍しく。優がいた。平日なのに。在宅らしい。ソファでパソコンを開いていた。でも。綾香に気づくと。一瞬だけ手が止まる。「おはよう」低い声。珍しい。優の方から。私は少しだけ戸惑う。「……おはよう」沈黙。コーヒーを淹れる音だけが響く。その時。優がぽつり。「土曜」少し間。「午後、何時から?」振り返る。「え?」優はパソコンを見たまま。でも。少しだけ言いづらそうだった。「研修」「何時まで?」時間が止まる。なんで?そんなこと。聞く人だった?今まで。私の予定なんて。一度だって気にしたことなかったのに。「……夕方くらい?」少し曖昧に答える。すると。優が少しだけ黙った。何か考えてる顔。そして。ぽつり。「……なら」
——空気が止まった。「男できた?」咲子の声は軽かった。冗談みたいに。笑いながら。男という言い方が下品に感じる。でも、彼女はいつもこういう人だ。呆れと諦めで、乾いた笑いすら出ない。でも、彼女の表情から。目だけ少し探るようだった。ソファの向かい側で。優の動きが止まった。「……は?」自然と、出たような。少し動揺をはらんだ声。珍しく、反応が遅い。咲子は肩をすくめた。「だって最近変じゃん」悪気のない顔。むしろ、少し楽しそう。...しかも。女性だけがわかる、勘みたいなものがある。「綾香さん、前より綺麗になったし」「なんか余裕あるし」「最近、よく出かけるし」少し笑いながら。「仕事復帰も。その先生のためだったりして」優は何も言わない。グラスを持ったまま。ただ。少しだけ眉を寄せている。咲子が隣に座る。自然に腕に触れる。いつもなら。本当だったら。優は当たり前みたいに受け入れる。それなのに。今日は。反応が少し遅かった。「でも、よくない?」咲子が明るく言う。「その方が離婚、早そうじゃん」時間が少し止まる。彼女が離婚について言及するなんて。私と優の関係は、本当に。彼女にとって、なんでもないものだと。改めて、気付かされてしまう。「半年待たなくても済むかもよ?」ふふっと笑う。「そしたら、私たち早く結婚できるし」自然な笑顔。いつもの空気。いつもの未来。....今までだったら。優はたぶん、そうだねって流していた。でも、今日は。なぜか、何も言わなかった。沈黙。咲子が少し首を傾げる。「……優?」優が小さく息を吐く。そして。少しだけ、そっけない態度で。「……別に」少し間。「そういう問題じゃない」咲子が止まる。「え?」少し笑う。それでも、笑顔が少しだけ固い。「いや、だって良くない?」「元々その予定じゃん」「綾香さんも、好きな人できたなら幸せじゃない?」当然みたいに言う。悪気はない。だって。私は“契約妻”だから。最初から終わる前提。そういう認識で。優も同じだと思っていた。それなのに。*** 優は黙る。視線だけが落ちる。思い出していた。会食の日。「似合ってる」そう言った時の綾香。あまり嬉しそうじゃなかった顔。今日、綾瀬クリニックで。
空気が、止まった。クリニックの入口。夕方の少し冷たい風。仕事終わりの人たちが行き交うなか。そこに立っていたのは。スーツ姿の優だった。少し疲れた顔。ネクタイを緩めたまま。でも。視線だけが、真っ直ぐこちらを見ていた。「……優?」思わず声が出る。なんで。ここに?優は少しだけ視線を逸らす。「近くで打ち合わせだったから」短い声。でも。どこか硬い。それが嘘だとは思わない。ただ。——タイミングが良すぎる。そんなことを、少し思った。そして。優の視線が。ゆっくり隣へ動く。綾瀬先生。白衣の上に黒シャツ。長い髪を後ろで束ねて。さっきまで普通に笑っていたのに。空気を読んだみたいに、一歩だけ距離を取る。でも。逃げない。「こんにちは」自然な笑顔。「東郷先生、旦那さん迎え?」——迎え。その言葉に。綾香の心が、少し止まる。迎え。そんなこと。今まで一度もなかった。深夜残業。飲み会帰り。熱を出した日。全部、一人だった。なのに。今。優がここにいる。優は少しだけ黙る。それから。「……まあ」曖昧に返した。肯定でも否定でもない。でも。その目だけが。綾香と綾瀬先生の間を、静かに見ている。そして。ぽつり。「楽しそうだったね」時間が、止まる。綾香の呼吸が少し止まる。さっきの。“楽しみにしてます”聞いていた?あの空気。見ていた?少しだけ。気まずさが走る。でも。綾瀬先生が空気を変えるみたいに言った。「東郷先生、かなり頑張ってますよ」さらっと。自然に。でも、どこか守るような声。「まだ仕事始めてないのに、理解も早いし」少し笑う。「思ったより無理するタイプなんで、こっちが気にして見てるくらいです」その言い方が。不思議と自然だった。“俺が守ってる”じゃない。でも。ちゃんと味方の位置にいる。優の眉が、少しだけ動く。「……そうですか」低い声。静かだけど。少しだけ温度が低い。そして。視線が綾香へ戻る。「帰るよ」短い言葉。でも。いつもより少しだけ硬い。綾香は少し迷って。小さく頷いた。「……お疲れさまでした」綾瀬先生を見る。すると。少しだけ目を細めて。「金曜、無理そうならちゃんと言って」低い声。でも。少し笑う。「確認係なんで」思