Masuk***病室を出ると。廊下の空気が。少しだけ冷たく感じた。綾香は。一度だけ壁際へ寄り。深く息を吐いた。緊張していた。思っていた以上に。けれど。怖くなって。動けなくなったわけではない。看護師の違和感を聞き。患者を診て。必要な報告をした。分からない手順は確認した。担当医へも。状況をまとめて伝えられた。完璧ではない。それでも。ちゃんと。医師として動けていた。「白松先生」先ほどの看護師に呼ばれる。「はい」「ありがとうございます」突然そう言われ。綾香は目を瞬いた。「何がですか」「最初に来てくださった時」看護師が。病室の方を見る。「患者さん、かなり不安そうだったので」「先生がずっと声をかけてくださって」「安心されていたと思います」綾香は。何も言えず。一度だけ病室の扉を見た。自分が。何か特別なことをしたとは思わない。でも。患者にとっては。医師が近くにいること。今何をしているのかを。言葉にしてもらえること。それだけでも。違うのかもしれない。「それなら」綾香は小さく答えた。「よかったです」看護師が頷く。そこへ。別のスタッフが。早足で近づいてきた。「外科の先生」「来てくださるそうです」担当医が。時計を見る。「どなたですか」尋ねると。スタッフは。手元のメモを確認した。「郁人先生です」聞き慣れない名前だった。名字ではなく。名前で呼ばれている。それだけで。少しだけ違和感があった。「郁人先生?」綾香が聞き返す。看護師が頷く。「月に何度か来てくださる先生です」「外の病院の方ですけど」少しだけ声を落とす。「すごく早いです」何が。とは聞かなかった。判断も。手術も。動きも。きっと。すべてを含めて言っているのだろう。担当医も。少しだけ表情を緩めた。「それなら安心ですね」その一言で。周囲の空気が。ほんの少し変わった。名前を聞いただけで。安心される医師。どんな人なのだろう。そう考えた瞬間。自分でも。少しだけ驚いた。数十分前まで。余裕などなかった。今は。患者の状態を見ながらも。次に来る人のことを。考えられるくらいには。落ち着きを取り戻している。「白松先生」担当医が言う。「来られたら」「経過を説明してもらえ
「患者さんの状態が」看護師の声は。必要以上に大きくはなかった。けれど。昼間とは違う緊張が含まれていた。綾香は。歩きながら続きを聞いた。先ほどまで会話ができていた患者が。急に強い痛みを訴え。顔色も悪くなっている。血圧も。少しずつ下がっている。「担当の先生には?」「連絡しています」「今、別の対応に入っていて」「分かりました」綾香は。足を速めた。廊下の窓は。夜の色へ変わっている。外の街には。まだたくさんの明かりが見えた。けれど。病棟の中は。昼間よりも静かだった。人が少ない。だからこそ。何かが起きた時の音が。はっきりと聞こえる。病室へ入る。ベッドの上で。患者が身体を小さく丸めていた。額には。細かい汗が浮かんでいる。「白松です」声をかける。患者が。ゆっくりと目を開けた。「痛いですか」「……はい」短い返事。昼間に見た時とは。明らかに違う。綾香は。患者の表情と。呼吸の速さを確認した。看護師が。直前までの変化を伝える。綾香は。一つずつ聞いた。痛みが始まった時間。場所。強さ。吐き気。意識の変化。答えを急がない。けれど。止まらない。必要なことだけを。順番に確認する。頭の奥では。いくつかの可能性が浮かんでいた。久しぶりの夜間勤務。何年ぶりかの急変対応。それでも。患者の前へ立った瞬間。怖さだけを考えている余裕はなかった。今。目の前にいる人が。昼間とは違う。その変化を。見落とさないこと。まず。それだけに集中する。「追加で確認をお願いします」看護師へ伝える。自分でも。必要な診察を進める。患者の身体へ触れた時。一か所だけ。強く反応が出た。「ここが一番痛いですか」患者が。小さく頷く。綾香は。もう一度。表情を見る。怖い。そう言葉にしなくても。患者が不安を感じていることは分かった。「今、原因を確認しています」綾香は。落ち着いて伝えた。「一人にはしませんから」患者の目が。少しだけこちらを向く。綾香は。看護師へ視線を移した。「担当の先生へ」「今の状態と」「私が確認した所見を伝えてください」「はい」「画像も」言いかけて。一度止まる。この病院で。夜間にどの順番で動くのか。まだ。完全には身について
「大丈夫」「待った?」「少しだけ」「帰ってもよかったのに」「会うって決めたでしょう」そう答えると。隼人くんの表情が。少しだけ柔らかくなった。「うん」「会いたかったから」私も。会いたかった。その一言を。すぐに返せるようになった。「私も」それだけで。短い時間でも。来てよかったと思えた。店の閉店まで。一時間もなかった。隼人くんは。クリニックの候補地を見たことを話した。私は。病院で少しずつ任されることが増えたと伝えた。詳しい説明はしなかった。隼人くんも。細かな経営の話まではしなかった。ただ。互いの日常が。以前とは違う速さで動いていることだけは。よく分かった。「疲れてる?」隼人くんに聞かれる。「少し」「顔に出てる」「隼人くんも」「俺はいつもこんな感じ」「違う」言うと。隼人くんが少し笑った。「ちゃんと見てるね」「見るって決めたから」以前。院長室で言った言葉。隼人くんは。それを覚えていたらしい。テーブルの上で。指先が少し動く。触れそうで。触れない場所。私から。少しだけ手を伸ばした。指先が。隼人くんの手に触れる。ほんの短い間。それだけ。隼人くんは。少し驚いたように私を見た。それから。手のひらを返し。指先を包んだ。以前なら。それだけで。もっと長く触れていたかった。今も。離れたくはない。でも。翌朝も早い。隼人くんも。まだ仕事が残っている。閉店を知らせる音楽が流れる。指が。ゆっくり離れた。「次」隼人くんが言う。「いつ会える?」二人で。スマホのカレンダーを開いた。私の病院勤務。隼人くんの診療。物件の打ち合わせ。プロジェクト。どちらかが空いている日は。もう一方に予定がある。画面を動かしても。簡単には見つからない。「来週は」私が言いかける。「オンコールあるでしょう」隼人くんが先に言った。「覚えてたの?」「最初の日だから」「うん」勤務表へ書かれていた。最初のオンコール。病院へ戻ってから。まだ数週間しか経っていない。完全に一人で対応するわけではない。それでも。その日が近づくほど。少しずつ緊張していた。「終わった次の日は?」「たぶん、寝てる」「じゃあ寝て」隼人くんは。すぐに言った。「会いた
病院へ戻ってから。朝の時間が変わった。目覚ましが鳴るのは。クリニックへ行っていた頃より、少し早い。まだ薄暗い部屋で起き上がり。カーテンを開ける。窓の外には。朝の光が届く前の街がある。以前なら。ゆっくりお湯を沸かし。簡単な朝食を取ってから。クリニックへ向かっていた。今は。時計を気にしながら髪をまとめ。前日のうちに用意した服へ着替える。バッグへ。職員証。メモ帳。飲み物。必要なものを入れて。家を出る。駅へ向かう道で。何度も同じ人とすれ違うようになった。犬を散歩させる男性。コンビニの前でコーヒーを飲む人。眠そうな顔で駅へ向かう学生。同じ時刻に。同じ道を歩く人たち。そこへ。私も混ざるようになった。電車へ乗り。病院の最寄り駅で降りる。改札を出た瞬間から。頭の中が切り替わる。今日診る患者。前日の申し送り。確認しなければならないこと。病院の中では。時間が早く進んだ。気づけば昼を過ぎ。座ったと思えば。すぐに立ち上がる。最初の数日は。知らないことばかりだった。人の名前。院内の決まり。書類の場所。誰へ何を確認するのか。以前なら。もっと早く動けた。そう思う瞬間もあった。けれど。そのたびに。分からないことを聞いた。確認してから動いた。前の自分へ戻ろうとするのではなく。今の病院で。今の自分が働けるようになる。それだけを考えた。少しずつ。声をかけてくれる人が増えた。「白松先生」廊下で呼ばれる。最初は。反応が遅れることもあった。自分の名前だと気づくまで。ほんの少し時間がかかった。でも。何度も呼ばれるうちに。自然に振り返れるようになった。自分の席には。確認を頼まれた書類が置かれるようになった。患者の家族から。名前を覚えてもらうことも増えた。勤務表の中にある。【白松】という文字も。少しずつ。見慣れたものへ変わっていった。病院へ戻ったのだと。一番強く感じるのは。白衣を着た時ではなかった。誰かに。仕事を任された時だった。***帰宅する時間も。以前より遅くなった。部屋へ着く頃には。外はもう暗い。玄関で靴を脱ぐと。そのまま動きたくなくなる日もあった。以前は。帰宅してから。夕食を作ることもあった。今は。冷蔵庫へ入れておいた
***午前中は。指導担当の医師について。病棟を回った。一人目の患者。二人目の患者。手術を控えている人。退院調整が必要な人。治療方針を。家族へ説明しなければならない人。カルテを開き。検査結果を見る。既往歴を確認する。一つずつなら。理解できる。でも。患者の背景。家族の希望。看護師が感じている変化。薬剤師からの提案。リハビリの進み方。複数の情報が重なると。病院の診療が。一人の医師だけでは成立しないことを。改めて思い知らされる。「白松先生」看護師に呼ばれる。反射的に顔を上げる。「はい」「三〇七号室の患者さん」「朝から食事量が落ちていて」「昨日より少し反応も鈍い気がします」担当医が。別の患者の対応へ入っている。綾香は。一瞬だけ迷った。自分で診ていいのか。誰へ確認するべきか。その間にも。看護師は続きを待っている。「分かりました」答える。「一緒に確認してもらえますか」分かったふりをせず。看護師へ同行を頼む。病室へ入る。患者へ声をかけ。反応を見る。体温。血圧。呼吸。朝の検査結果。大きな変化はない。けれど。看護師が感じた違和感を。ただの印象として流したくなかった。「昨日と比べて」「具体的に、どの辺りが違いますか」尋ねる。看護師は。朝の会話。身体を起こした時の様子。食事へ手を伸ばさなかったことを。順に話した。綾香は。もう一度患者を見る。念のため。追加で確認したいことが浮かぶ。けれど。この病院で。どこまで自分の判断で進めていいのか。まだ分からない。「担当の先生に」「今の状態と」「追加で確認したいことを相談します」そう伝えると。看護師が頷いた。スタッフルームへ戻り。担当医へ報告する。要点をまとめて。余計なことを足さず。自分が気になった点も伝える。担当医は。少し考え。追加の確認を指示した。「ありがとうございます」綾香が言うと。医師は。カルテを見たまま答えた。「こういうのは」「看護師さんの違和感が当たることも多いので」「拾ってくれて助かりました」大きな判断をしたわけではない。命を救ったわけでもない。それでも。病棟の中で。自分の役割が。一つだけあった気がした。***昼を過ぎる頃には。足が重くなって
*** 病院へ戻る日が、ついに現実になった。クローゼットの前で。白いブラウスと。落ち着いた色のパンツを選ぶ。白衣は。病院で用意されている。バッグの中には。職員証の申請書類。印鑑。メモ帳。使い慣れたペン。必要だと言われたものを。昨夜。何度も確認した。髪をまとめ。鏡を見る。クリニックへ初めて出勤した日も。同じように。自分の顔を確かめた。あの日の私は。本当に患者を診られるのか。白衣を着る資格があるのか。そればかりを考えていた。今日は。少し違う。外来へ戻れた。患者の前へ座ることも。医師として判断することも。もう一度できるようになった。それでも。病院へ戻るのは。やはり別のことだった。知っている場所へ。元通りに戻るわけではない。何年も離れていた時間を持ったまま。今の自分で。もう一度。中へ入る。玄関を出る。朝の空気は。思っていたより冷たかった。通勤する人の流れへ入り。駅へ向かう。電車の中には。眠そうな顔をした会社員。制服姿の学生。白いスニーカーを履いた看護師らしい女性。それぞれが。自分の一日へ向かっている。窓へ映る自分を見る。以前。大学病院へ通っていた頃も。こうして。朝の電車へ乗っていた。夜勤明けの人とすれ違い。今日の担当患者を考えながら。病院へ向かった。その頃の自分が。遠く感じる。けれど。まったく知らない人にも思えなかった。あの頃の私がいたから。今。もう一度ここへ向かえる。電車が。病院の最寄り駅へ着く。人の流れに押されるように。ホームへ降りる。改札を出ると。病院へ続く道には。すでに多くの人が歩いていた。患者。家族。職員証を下げた医療従事者。救急車の音が。遠くから近づいてくる。建物の前で。一度だけ足を止める。何度も見学で来た病院。それでも今日は。入口が少し違って見えた。ここへ。働く人間として入る。綾香は。小さく息を吸い。自動扉をくぐった。***職員用の入口で手続きを済ませ。真新しい職員証を受け取る。写真の横に。自分の名前。【白松綾香】その下に。医師。と記されている。ただの文字。それなのに。指で触れたくなるほど。重く感じた。「綾香」声をかけられ。顔を上げる。真帆が。白衣姿でこ
「……それ」綾瀬先生の視線が、スマホに落ちた。そして。少しだけ、眉が寄る。「旦那さんですか?」反射的に、スマホを伏せた。「……違います」ほとんど条件反射だった。見られたくなかった。惨めな自分を。既婚者なのに。全然、大事にされていない現実を。家に帰るかどうかを、愛人の都合で決められる妻。そんなもの。第三者に見せられるほど、強くない。数秒だけ。静かな空気。ちょっと変な空気になる。そして。綾瀬先生が、少し困ったように笑った。「いや、それはちょっと無理あるよね」みかが横から吹き出す。「先生、正解です」身を乗り出して言う。「しかも超最低なんですよ、この人の旦
「返信しなよ、このタイミングだし」みかが、にやにやしながらスマホを指差した。「いや、無理でしょ」即答した。「なんて返すのよ、そもそも」「普通に、“どうしました?”でいいじゃん」「え、でもそんな感じの距離じゃないし」言いながら、スマホの画面を見る。【綾瀬隼人】『こんばんは。 この前の学会ぶりです。 急だけど、今少し話せたりする?』おかしい。なんで、このタイミングなんだろう。学会で少し話しただけの相手だ。連絡先だって、半ば強引に交換された。『現場戻りたくなった時のため』そう言って、名刺を渡されて。ついでみたいにメッセージアプリまで聞かれた。断るほどの理由もなく
青山駅前のカフェは、平日の夜なのに妙に混んでいた。窓際の席で、大きく手を振る女がいる。派手な金髪ボブだからこそ、いつもすぐに見つけられる。「綾香、こっち」香山みか。高校1年からの付き合いで。大学も違ったし、就職後はお互い忙しくなった。それでも。私が唯一、本音を言える相手だった。席に着いた瞬間。疲れ果てた表情が滲み出ていたのだろうか。みかの表情が固まる。「……え、待って」眉を寄せる。そして、急に顔が険しくなった。「本当にどうしたの、その顔」私は苦笑いした。「そんなにひどい?」「ひどすぎるレベル。大学のときに元カレに振られた次の日みたい」その言葉に、なぜか笑ってしま
6月10日。4回目の結婚記念日。そして——私が、あと1年で離婚しよう。そう、決めた日。本当なら、こんな日になるはずじゃなかった。少なくとも、4年前の私はそう思っていた。その日の午後6時にちょうどなった。さっきから、時計が次の針に進むのを見つめては。帰ってこない夫への諦めが募り。ため息が溢れた。私東郷綾香(とうごうあやか)はテーブルの上にまだ湯気の立つ料理を並べる。壁の時計をもう見たくなかった。さっきから、穴が開くほど見つめている。夫である東郷優(とうごうゆう)の帰宅予定は、7時だったはず。もう、1時間前なのに。連絡は、全く取れずにいた。まだ、遅くない。——期待なんて







