تسجيل الدخول「私たち、いい大人でしょ?あなたが気にしない、私も気にしないってことで、この話はおしまい。これからも今までどおり、仕事ではいいパートナー、プライベートではいい友達。それでいいよね?」仁哉は、恥ずかしがっているくせに必死で平静を装う奈緒を見つめた。胸の奥が、ふっと軽くなる。なるほど……散々遠回りして、あんな突拍子もないことまで言い出したのは、結局、自分が気に病んでいないか心配していたのだ。このことが原因で気まずくなり、自分から距離を置かれてしまうことを恐れていたようだ。強気で豪快に見えて、その実、驚くほど人の気持ちに敏感な女性だ。「わかった」仁哉は唇を結んだ。ふっと気持ちも軽くなり、目の奥には柔らかな笑みが滲む。「気にしてないし、変に考えてもいないよ。だって奈緒さんの言うとおり、あれはどうしようもない状況だったから」一拍置いてから、仁哉は熱のこもった眼差しで奈緒を見つめ、少しばかり冗談を混ぜてこう言った。「ただし、男は遊び相手で十分っていう考えには賛成できないな。世の中ろくでもない男も多いから、下手な相手を選んだら、結局傷つくのは君だからね」奈緒がぱちぱちと瞬きをする。「じゃあ、どうしろっていうの?一生男なしで生きろって?」仁哉が低く笑った。落ち着いた、耳に心地よい声。「こうしよう。離婚したあと、どうしても男遊びをしてみたい。でも変な男に引っかかるのは嫌だっていうなら……」仁哉は自分を指差した。その目は冗談めいているようでいて、不思議なほど真っすぐだった。「僕をお試し相手にすればいい。僕なら素性も分かってるし、変な過去もない……何より絶対安全だからね」奈緒の瞳が大きく見開かれた。瞳を揺らし、繕っていた余裕が完全に崩れ去った。頬はたちまち真っ赤に染まり、耳まで熱くなっていく。仁哉とこんなにも砕けたプライベートな会話をするのは、これが初めてだった。そもそも自分があんな話をしたのは、仁哉に余計な負担を感じてほしくなかったから。だからわざと「私は全然気にしてない」と見せつけるように、男なんて遊びで十分だとまで言ってみせたのに、まさか仁哉のほうが一枚上手だったとは……奈緒の突拍子もない発言を笑うどころか、冗談とも本気ともつかない調子で乗ってきたのだ。完全に不意を突かれた奈緒は、しどろもどろになる。
奈緒は少し言葉を切り、最後にこう締めくくった。「本当に大切なのは、嵐が来たとき、迷わず相手のために傘を差し出してくれるかどうか。背を向けて立ち去って、たった一人で嵐の中に置き去りにするような人じゃない」仁哉の胸が、ぎゅっと締めつけられた。水の入ったコップを持つ指先に、無意識に力がこもる。「……」奈緒の目に、再び涙が浮かんだ。あまりにも痛く、苦い経験の末にたどり着いた答えだった。「本当の責任感って、お金をどれだけ与えてくれるとか、心を満たしてくれるとか、そういうことじゃないと思うの。家に帰ったとき、その人が本当に妻と子どもの支えになれるか。いざというとき、迷わず妻を一番に選べるか。損得を天秤にかけてあれこれ迷うんじゃなくて……大切な人のために、迷わず動けるかどうかってこと」奈緒は顔を上げ、仁哉を見つめた。その瞳には、隠しきれない傷が滲んでいる。「最初はね……私も充のことが大好きだったし、尊敬もしてたの。この人なら私を守ってくれる、どんな嵐が来ても、私の盾になってくれるってそう信じてた。でも、黎を産んでようやく分かった。あの人は私を嵐から守ってくれる人なんかじゃなくて、あの人自身が、私の人生で一番大きな嵐だったんだって。私がつらいのは、充を失うからでも、あの人との恋が終わるからでもない。ただ……私が信じてた『愛』ってものを、全部あの人に壊されたことが、つらいの」奈緒は鼻をすすり、頬を伝っていた涙を乱暴に拭った。その仕草とともに、今にも崩れそうだった表情が少しずつ消えていく。代わりに宿ったのは、これまでにない強さだった。「だからもう決めた。これから先の人生、恋だの愛だのなんて二度と信じない」仁哉の目がわずかに揺れた。「そこまで決めつけなくてもいいんじゃないか。いつか本当に合う相手と出会ったら……」「合う相手?」奈緒はまるで冗談でも聞いたように、乾いた笑いをこぼした。ベッドの背にもたれながら、どこか吹っ切れた顔をする。「充との離婚手続きが終わったら、家族を連れて3人で静かに暮らす」そこで一度言葉を切ると、奈緒は仁哉へ意味ありげな視線を向けた。「それに……こっちが本気になったところで大切にしてもらえないなら、もう愛なんて信じるお人好しになる必要もないでしょ?それに、蛍が前に言ってたの。男は
自分の身体がおかしいと気づいたあの瞬間、奈緒は最後に残った理性で、あの状態の自分を託すなら、充ではなく仁哉を選んだ。それは、意識が途切れる寸前の奈緒自身が下した選択だった。だから、奈緒には仁哉を責めるつもりなど微塵もない。あの時の状況はあまりに混沌としていて、どうしようもできなかったのだから。充に連れ去られることへの本能的な拒絶が、奈緒を仁哉の元へ向かわせた。車に乗ったあとのことは、ほとんど記憶に残っていない。だが、自分がどんな状態だったのかくらいは分かる。でも、仁哉だって、巻き込まれただけなのだから、仮に何か行き過ぎたことがあったとしても、奈緒には彼を責める気はなかった。ましてや、充には仁哉を責める資格などない。一体、何が「夫」だ?自分が危険にさらされるたび、いつだって美紀を選んできた男が、今さら夫を名乗るなど、笑わせてくれる。「奈緒、お前……あいつが車の中で何をしたか分かってるのか!?」充は信じられないという顔で声を荒らげた。「お前が朦朧としている隙にその体を弄んだ男だぞ。それを責めるどころか、かばうって?奈緒、感謝する相手を間違えているんじゃないか?あのとき危険を承知でお前を助けに行ったのは……俺だろ!」充は胸を押さえた。刺すような痛みに、体は震え、姿勢を維持することすらままならない。奈緒は冷ややかな笑みを浮かべ、ようやく視線を彼に向けた。妻を愛していると必死に訴えるその姿を見ても、胸が揺らぐことはなく、ただ皮肉としか思わない。「あなたが危険を冒して助けたのは、美紀でしょ?私じゃない」奈緒の唇に嘲るような笑みが浮かんだ。「充。私は最初から、あなたが助けてくれるなんて期待してないし、命懸けで助けてもらおうとも思ってない。だって、私たちはもうとっくに終わってるから。残ってるのは、離婚届を提出することだけ」奈緒は深呼吸をし、残る力を振り絞って病室のドアを指さした。「出て行って。あなたの顔を見るのも嫌なの」充は諦めきれず、目を赤く充血させて叫んだ。「俺はお前の夫だ!ここにいる権利がある!奈緒、お前……どうして俺にだけそんなに残酷になれるんだ?ほかの男にはいくらでも優しくできるくせに、どうして俺にだけ?」「夫?」奈緒は乾いた笑い声を漏らした。「妻が命の危険にさらされるたび、いつも
廊下の青白い照明が、充の顔を照らしていた。ただでさえ血の気を失っているその顔は、今にも嵐が来そうなほど険しく曇り、ぞっとするほどの迫力を放っている。仁哉は深く息を吸い、胸の奥に込み上げる苛立ちを押し殺すと、冷ややかにその視線を受け止めた。「なんだ?」充は答えず、仁哉の目前まで詰め寄った。互いの息遣いさえ感じられるほどの距離。「お前……奈緒に何をした?」声はひどく掠れている。つい先ほど意識を取り戻したばかりなのだろう。顔色も悪く、身体にもまだ力が戻りきっていない。仁哉は鼻で笑った。その目には隠しようもない皮肉が浮かんでいる。「充、それは美紀に聞くべきだと思うぞ。奈緒さんが連れ去られ、薬まで盛られた。心当たりがあるんじゃないのか?」「俺が聞いてるのは、お前が奈緒に何をしたかってことだ!」充は声を荒らげ、額に青筋を浮かべて仁哉の襟首を掴んだ。「車の中で……二人で何をしてたんだ?どこまでやった?答えろ!」先ほど目にした車内の光景を思い出した途端、充の目が再び血走った。あの光景が焼き印のように脳裏へ刻み込まれ、どうしても離れない。仁哉は、完全に我を失っている充を見て、呆れるしかなかった。彼は充の手を淡々と払いのけ、説き伏せるように言い放った。「奈緒さんが薬で理性を失ってたから、僕は一刻も早く病院へ連れていこうとしたのに、それを君が外から邪魔したんだろ?僕は最初から最後まで、奈緒さんにやましいことは何ひとつしてない。ただ……」仁哉が言い終わる前に、充が遮った。「俺はこの目で見た!奈緒がお前の膝の上に跨って、唇を重ねていたところをな!何もなかったっていうなら、どうして窓を開けなかった?どうしてドアを開けなかったんだよ!お前は……奈緒が正気じゃないのをいいことに……仁哉の顔から、すっと表情が消えた。あまりにも話が通じない。「薬で意識を失って、目の前にいる僕に必死ですがった。それだけの話だ。そんなことも理解できないのか?充、勝手な妄想はいい加減にしろ。そんな無駄な話に付き合ってる暇はないんだ。全ては奈緒さんが目を覚ましてから、本人が判断すること。今は奈緒さんを休ませたいから出ていってくれ」真司もまた、厳しい眼差しで充を牽制する。「青木社長、お引き取りください」仁哉と真司のまるで自分
額には青筋が浮かび、汗と埃にまみれた姿は、ひどく狼狽し、狂気すら感じさせる。だが車内の二人は、まるで外界から切り離された世界にいるかのようだった。奈緒は理性を失い、全身を熱く焦がす衝動に襲われていた。無意識のうちに襟元を引っ張り、少しでも身体を楽にしようとする。指がシャツの一番上のボタンにかかり、そのまま強く引いた。プツンッ――ボタンが弾け飛び、白い肌とすっきりした鎖骨が覗く。「駄目だ……奈緒さん。しっかりして」仁哉の声は低く、ほとんど掠れていた。こんなふうに激しく迫られた経験など、仁哉にはもちろんない。しかも相手は薬で自分を見失っている奈緒だ。唇を押し離してもすぐに手が絡みつき、両腕を封じても足が腰に巻きついてくる……仁哉は汗だくになり、息を切らしながら、ただひたすら奈緒を落ち着かせようとしていた。閉め切られた車内には熱気がこもり、窓ガラスが次第に白く曇っていく。その外では、充がまだ車に体当たりを続けていた。身体はとっくに痛みの感覚すら失っている。この車ごと焼き払ってしまいたい――という衝動に駆られた瞬間だった。曇った窓ガラスに、細い手が触れた。くっきりと手形が残る。そしてその直後、その手に重なるように、大きな手が添えられた。まるで映画のワンシーンのように。ガンッ……充の世界は、音を立てて崩れ落ちた。窓ガラスに重なって残る二つの手形を見つめながら、胸の奥で何かが粉々に砕けていくのが分かった。真司がボディガードたちを引き連れ駆けつけたときには、充は心臓の負担に耐えかね、その場に力なく倒れ込んでいた。ほどなくして、パトカーと救急車のサイレンがけたたましく響き渡る。充と美紀は、相次いで救急車へ運び込まれた。車が解錠され、降りてきた仁哉と奈緒は、まるで水をかぶったように汗びっしょりだった。髪まで濡れ、全身に汗がまとわりついている。仁哉の首元には、いくつもの赤い跡が残っていた。そして彼のシャツは奈緒の肩に掛けられ、その身体をすっぽりと覆い隠している。仁哉が救急隊員に手短に事情を説明すると、奈緒もすぐさま担架に乗せられ、そのまま救急車で病院へ搬送されていった。真司と仁哉も、急いであとを追う。病院ではすぐに鎮静剤が投与され、点滴による処置も行われると、ほどなくして、奈緒はよう
仁哉はためらうことなく、奈緒を抱き上げた。すぐに車に運び込み、ロックをかける。発進しようとしたその時、狂ったように追いかけてきた充がドアを激しく叩き、開けろと叫んでいた。だが、その頃には奈緒の身体に回った薬が完全に効き始めていた。まるで血管の中に、煮えたぎる溶岩を流し込まれたように、全身が焼けるように熱い。肌は異様なほど敏感になり、服が擦れるわずかな刺激にさえ耐えられず、苦しそうに身をよじる。「あ……っ、熱い……」あまりの苦しさに、声は泣き声まじりになっていた。普段の奈緒からは想像もつかないほど、甘くか細い声。両腕が意志に反して仁哉の首へ伸びる。そのままセンターコンソールを乗り越え、仁哉の膝の上へ跨るようにして、身体ごとしがみついた。狭い車内では、仁哉も簡単に引き離すことができない。奈緒は少しでも冷たさを求めるように、仁哉のひんやりとしたシャツの襟元へ頬を擦り寄せた。熱に浮かされたまま顔を寄せ、少しでも身体の火照りを鎮めようとする。仁哉は驚きに目を見開いた。呼吸が一気に乱れる。一刻も早くこの場を離れ、奈緒を病院へ連れて行かなければならない。なのに、よりによってこんなときに、充が車の前に立ちはだかり、仁哉が奈緒を連れていくのを必死に阻もうとしている。車内には、薬に翻弄され、すでに理性を失いかけている妻。車外には、嫉妬に我を忘れて暴れ回る夫。ドラマ以上にひどい修羅場が、今まさに仁哉の目の前で起きていた。仁哉はたまらず何度もクラクションを鳴らした。「奈緒さん、頼むから動かないで。運転できない。僕の声が聞こえる?もう少しだけ我慢して。すぐ病院へ連れていくから」仁哉の声は張り詰めていた。クラクションを鳴らして充をどかそうとしながら、もう片方では、動き回る奈緒の腰を必死に支える。「ねえ……欲しいの……」薬が完全に回った奈緒に、まともな判断力など残っていなかった。意識は熱に浮かされ、何も考えられないほど朦朧としている。潤んだ目で顔を上げ、赤く火照った唇をわずかに開く。その指先が仁哉の喉元をなぞり――次の瞬間、シャツの襟を掴んで引いた。熱い吐息が、仁哉の顎にかかる。今の奈緒には、目の前にいる男が誰なのかさえ分かっていなかった。分かっているのは、この苦しさの中で唯一すがることのできる存
パーティー会場のなか。奈緒は、充から目を離さずにいた。彼は上機嫌な様子で、グラスを片手に美紀を連れて、各テーブルに挨拶回りしている。「仁哉は今、大事な仕事で海外なんだ。戻ってくるのに1年はかかりそうだから、今日は、彼の代わりに、俺が皆の相手をするよ。それに美紀は産後でまだ本調子じゃないし、お酒とかは控えた方がいいだろうから、彼女の分も、俺が飲むよ」……一方、それを聞いた奈緒は、口にしたオレンジジュースが、やけに冷たく、苦く感じた。そして、その冷たさは胸の奥まで、染み渡っていくようだ。二人は長年一緒に仕事をしてきたが、どんな付き合いの場でも、充は彼女のことを酒豪だと言って
「充、今日で赤ちゃんが産まれてから1ヶ月経つの。私たちを迎えに来てくれない?」青木奈緒(あおき なお)は、おくるみに包まれた娘を抱きながら、期待を押し殺した落ち着いた声で言った。しかし電話の向こう、夫の青木充(あおき みつる)は感情の起伏がなく、平坦な声で言った。「すまない、急に予定が入った。運転手にお前たちを迎えに行かせるよ」出産も、産後の大事な時期も、充はずっと仕事で忙しいと言ってそばにいなかった。今日は赤ちゃんと一緒に産後ケアの施設から帰る、記念すべき日なのに、やっぱり彼は来てくれない。奈緒は切なくなったが、それでもこぼれ落ちそうになる涙を必死にこらえた。「…
一方、荒れ果てたリビングを眺めながら、充は力なくソファに腰掛け、タバコに火をつけ、胸が締め付けられるように苦しかった。「井上、俺は奈緒に優しくしてこなかったかな?あそこまで怒ることないだろう?」恵は、床を掃きながら、そっと声をかけた。「旦那様は奥様にとてもよくしてらっしゃいますよ。ご結婚されてから5年、お二人が言い争うのを見たことがありません。ですが、子供を産んだ後の女性は気持ちが不安定になりやすいんです。産後うつにもなりやすいですし、旦那様の支えがもっと必要なんですよ」充は眉をひそめた。「産後うつだって言うのか?でも、他の女は子供を産んだって、こんなに変わったりしない。今
それから、蛍は奈緒が傷つくのを心配して、充から返信ひとつないことは、結局言い出せなかった。そして、奈緒が退院するまで、充は結局、姿を見せなかった。退院後、二人は黎と香織を連れて、碧瀾郷へと引っ越した。そこは、奈緒が半年前に入手した、リノベーション済みのマンションの一室だった。蛍の家はその真向かいの部屋で、隣同士に住むのは大学時代からの二人の夢だったのだ。だから半年前、蛍の向かいの部屋が売りに出されたと聞いて、奈緒は迷わず購入した。部屋には家具や家電が揃っていたが、まだどこか殺風景だった。蛍はすぐに自分の家から布団やポットなどの日用品を運んできた。奈緒は買い物リストを







