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王城の客間に通されたリリウスは、じっと壁に目を据えていた。簡素な木椅子に腰掛け、両手は膝の上で揃えられている。拘束はされていなかった。けれど、それ以上に重い「空気」が、彼の動きを縛っていた。──逃げることは許されない。それは、部屋に入った瞬間から突きつけられた「空気」だった。扉の外には護衛兵が控え、廊下の先には王太子直属の諜報部の者らが配されている。リリウスは再び、王都の中心で「閉じ込められた」のだった。「……ご苦労だったな」開かれた扉の奥、現れたのはレオン・アルヴァレス。飾り気のない白の軍服のまま、ゆっくりと歩み寄ってくる。その手には、何故か一輪の白い百合。「お前がここに戻ると信じていた」「……信じていた?」リリウスは冷ややかに言い返した。胸の奥に、乾いた笑いが込み上げる。「雪の中でのことはお忘れですか?」「雪の中?」レオンは微笑を浮かべたまま、軽く首を傾ける。「どういう話だっただろうか?」「……あなたが“捨てた”んです。僕を、番だと呼びながら、雪の中にね。たった一度も見ようとしなかった」レオンの微笑がわずかに歪む。「違う。あれは……術式だ。惑わされたんだ。お前も、俺も」「惑わされた」リリウスが目をわずかに見開き繰り返す。そして小さく笑った後にレオンがそうしたように、首を傾げた。「あれがあなたの意思ではなかった。……便利ですね。すべてを“魔術”のせいにすれば、何もかも帳消しになると思ってる」「リリウス」レオンの声が低くなる。「お前は戻ってきた。今さらここから出られると思うな。お前は王命によりここへ戻された。すでにクラウディアの使節団が到着している。彼らに“番”が不在と知られれば、取り交わした協定は白紙だ」リリウスの眉が動く。クラウディアの使節団。自分の想定がここまで合っていたことに、内心声を出して笑いたいぐらいだった。そしてカイルの言葉──“あいつらは、お前をまた“道具”として扱うかもしれない”も見事に合っている。「……じゃあ、僕は“契約書のハンコ”みたいなものですね」「違う。“象徴”だ。お前は我が家門の誇り、未来そのものだ」「なら、せめて誇りらしく扱ってくれればよかった」その言葉に、レオンの目の色が変わる。彼の手が伸び、リリウスの腕を掴んだ。「……お前は俺のものだ。他の誰にも触れさせない」
まだ夜が明けきらぬ薄明の空の下、リリウスはひとりカイルの部屋の前に立っていた。軍服の襟を正し、窓から差し込む冷たい空気に、そっと目を細める。荷物は小さな鞄ひとつだけ。必要最低限の衣類、数枚の書類、そして抑制剤。“また戻るんだ、あの場所へ”心の奥に、わずかにざわつく何かを感じた。だが今の彼には、それに呑まれるほどの脆さはなかった。扉が静かに開く。「……もう、行くのか」低く、よく通る声。カイルだった。軍装はそのままに、だが胸元のボタンだけが外れている。昨夜、眠らずにいたのだとわかる。「……はい。先に、お礼を言っておこうと思って」リリウスがそう言うと、カイルは何も言わず、ただゆっくりと歩み寄ってきた。そして、腕を伸ばす。「……っ」驚いた声も出せぬまま、リリウスはその胸に引き寄せられた。広く、温かく、しっかりとした腕だった。それは保護ではない。庇護でも、命令でもない。ただ、彼を“人”として包もうとする、等しい者としての抱擁だった。「気をつけろ。……あいつらは、お前をまた“道具”として扱うかもしれない」囁くように耳元で紡がれた声が、皮膚の奥まで染み入る。そのとき、カイルはわずかに顔を伏せ――リリウスの首筋、うなじへと鼻先を寄せた。「……?」リリウスが反射的に体を強張らせたとき、カイルは静かに、そこへ呼気を吹きかけた。それはまるで、匂い付けのような動きだった。αがΩに対して本能的に行う、所有の意思表示。意味をなすものではないのに、リリウスの心に小さな衝撃が走る。部屋の外で、ディランが足を止めた。扉の隙間から覗いた彼の眉がぴくりと動く。(……やってるな。完全に意図的じゃない。けど無意識なら、それはそれで問題だ)軍人として数多のαの動きを見てきた彼には、その行動の意味が明白だった。支配でも、所有でもなく――縄張り本能に近い感情の現れ。「……はぁ」小さくつぶやき、ディランはノックもせず踵を返す。一方、リリウスは抱かれたまま、少し遅れてその意味に気づいた。「……それ、意味は……」「知ってる。意味はない。だが……しておきたかった」そう答えたカイルの声は低く、どこまでも穏やかだった。「……お前が帰ってきたら……話したいことがある」「……話したいこと……?」「そうだ。だから、必ずここに帰ってこい」リリウスの胸
午前の陽射しが、ようやく医療棟にも差し込みはじめたころ。リリウスは椅子に腰掛けたまま、黙って窓の外を眺めていた。外の景色はどこまでも穏やかで、風に揺れる木々の音が静けさに溶けていた。けれどその静けさの中で、彼の心は凪いでいなかった。心の奥にわずかな安堵はある。けれど、それで終わるわけではない。そんなとき、控えめなノックが響く。「……失礼します」入ってきたのはディラン。手には、封蝋の押された一通の手紙。王都の紋章が浮き彫りにされていた。視線を落としただけで、リリウスの指先に、自然と力がこもった。「王太子殿下からの直筆です。召喚状に近い内容かと」黙って受け取り、封を切る。便箋に並んだ文字は丁寧だが、その行間に滲むのは一方的な支配欲と、支離滅裂な情だ。“リリウス=アルヴァレスそなたは正式な番であり、王城への帰還を命じる。先日の件は誤解と判断する。今ならば、全てを許そう。君の場所は、まだここにある。”「……許す、って。捨てたくせに、どの口で言うんだろうね」呆れにも似た笑みが、リリウスの唇を歪めた。「“誤解”で済むと思ってる時点で、あの人は何もわかってない。僕は何もしていない。僕を手放したのは、あっちなのに。今さら“戻ってこい”なんて、都合が良すぎる」手紙がくしゃりと音を立てて潰れる。「まるで、“他の男に懐いた所有物が逃げ出した”かのような書き方だな」低く落ちたカイルの声には、怒りと嘲りが滲んでいた。「これがアルヴァレス王家のやり方か。身勝手も、甚だしい」「そうですね。笑い話にもなりません。恐らく……クラウディアから打診が入ったのだと思います」一拍置いて、リリウスは続けた。「僕、戻ります」その言葉に、ディランが息を呑む。「……!」カイルは一瞬だけ目を細めたが、驚きの色は見せなかった。ただ静かに、その言葉の真意を待った。「自分の意志で、です。リリウス=クラウディアとして、ね。あの人に返さないといけない言葉があります。“あれは番の契りなんかじゃなかった”って。“あなたに選ばれたかったわけじゃない”って」目は迷いなく、まっすぐだった。あのときの震える声も、揺れる視線も、そこにはもうなかった。「逃げたままじゃ、何も終わらない。……だから、僕の言葉で、終わらせに行く」静かに告げたその決意が、空気を変えた。「……なら
朝の診察を終え、リリウスは一人、静かな室内にいた。カーテン越しに差し込む光は淡く、窓辺で揺れる木の葉が時折影を落とす。彼の指先は、自分の腕に刻まれた文様へと触れていた。その痕は確かにある。だが、まるでそれが“偽物”だと告げるように、冷たかった。(あれが本当に、契りの証なら……どうしてこんなに、孤独だったんだろう)カイルに触れられたときの感覚が、心に残っている。熱を持っていた体が、逆に穏やかさに包まれたこと。理屈では説明できない、けれど確かに“拒絶ではない”と体が示した反応。扉がノックされる。「……どうぞ」入ってきたのは、思った通りの人影だった。カイル。リリウスの目が自然と彼を追う。それだけで、胸の奥に温度が生まれた。「……体調はどうだ」「落ち着いてます。……昨日より、ずっと」少しだけ間があって、カイルは近くの椅子に腰を下ろした。医療記録の束を無造作に置き、視線をリリウスに戻す。「お前の文様。調べさせてもらってもいいか」リリウスは驚いたように目を瞬かせたが、やがて頷いた。「……僕も、知りたいです。真実を」袖をまくり、腕を差し出す。その動作ひとつひとつが、これまでの自分を手放すようだった。カイルが慎重に、彼の腕に触れる。その目に浮かぶのは、冷静と、そして深い怒り。「この術式は……完全なものじゃない。継続の痕跡が不自然に薄い。定着より、印象付けに近い構造だ」「つまり……偽物?」「おそらくは、疑似契り。術でしか繋がっていない関係だ」リリウスの心臓が、大きく跳ねた。それは、恐れよりも安堵に近かった。「じゃあ……僕は、自由なんですか」その問いに、カイルは即答しなかった。代わりに手を離し、彼の目をまっすぐに見つめた。「肉体的には、な。しかし――お前の心はどうだ」リリウスは言葉を詰まらせる。何を望んでいたのか、自分でもはっきりとは分からない。「……レオンに、愛されたいと思ってたんです。誰かに認められることで、自分の価値を証明したかった」その声は震えていた。だが、それは弱さではなく、自分自身への告白だった。「でも、レオンに触れられるのは……怖かった。拒絶しかなかった。あの契りで得たものは、空虚だけだった」「……お前は、ただ隣に立ってくれる誰かが欲しかっただけだ」カイルの言葉は、まるで答え合わせのようだ
朝靄がゆるやかに晴れゆく頃、医療棟の廊下を誰かの足音が打った。窓辺に流れる風はまだ冷たく、季節がようやく変わりつつあることを告げていた。室内では、リリウスがベッドの上に身を起こし、膝の上で手を組んでいた。熱は収まっていたが、その名残のように皮膚がじんわりと敏感なままだ。ただ、それ以上に――胸の奥に残る温もりの感覚が消えなかった。(……まだ、残ってる)あのとき、うなじに触れた指先。そこに走った感覚は、拒絶ではなかった。不快でも、恐怖でもない。むしろ、安堵に似たやわらかな揺れ。今まで誰にも向けたことのない感覚だった。「おはようございます」静かに入ってきたのはディランだった。副官としての立場より、少しだけ友人に近い空気を纏っている。「朝の診察、来てますよ。医者は外で待機中です。総帥からは“あまり話を広げるな”とのお達しですけど……」「ありがとう。気遣わせて、ごめんなさい」「君こそ……大丈夫ですか」言いながら、ディランは視線を外した。心配はしている。それはリリウスにも伝わった。だが、それ以上を詮索しない優しさが、今はありがたかった。「ディラン殿。……質問、してもいいですか」「なんでしょう?」リリウスは一瞬だけ視線を伏せ、それから顔を上げた。「“疑似契り”って、知っていますか?」ディランの表情が、わずかに固まる。「どこで……それを」「昨日、カイル様と話していて。……ふと、思ったんです。僕とレオンの間に起きたことって、本当に“番の契り”だったのかって」その言葉に、ディランはしばらく口をつぐみ、それから小さくため息をついた。「存在はします。正式には“代替術式”って呼ばれてる。……相性の悪い番同士、あるいは番でない者同士を、強制的に繋ぐためのもの」「強制的に……」「ええ。見た目は同じ文様が出るし、魔術的な束縛もある。けど、本物の“番”じゃない。主従に近い一方通行の支配関係にすぎないんです」言い終えたディランの声は、どこか怒りと憐れみが入り混じっていた。「君、もしかして……それを」リリウスは首を振った。いや、振るしかなかった。「……わからない。ただ……あの夜、薬を飲まされて、気づいたら腕に印があって。それきりレオンから何もなかった。……ずっと、変だと思ってたんです」沈黙が落ちた。ディランはゆっくりと深呼吸して、慎重
空はまだ朝に染まりきらず、窓辺に残る薄闇が室内を静かに包んでいた。リリウスはぼんやりと、指先に残るぬくもりを見つめていた。重ねられていたカイルの手。そこにあった確かな温度が、胸の奥にじんわりと残っている。泣いてしまったことを、少しだけ後悔していた。けれど、それ以上に、自分を責める気力もなかった。「……もう、大丈夫です」囁くような声に、カイルは静かに頷いた。リリウスはゆっくりと身を起こし、枕元の水差しに手を伸ばす。渇いた喉に冷たい水が染み渡っていく。カップを置いたとき、ふと視線を感じて顔を上げる。カイルが、じっとこちらを見ていた。「……僕、馬鹿みたいですね」唇にかすかな笑みを浮かべたが、それはどこか自嘲めいていた。その表情を見て、カイルは一度だけ目を伏せる。「いや。お前のせいじゃない。むしろ──そう思わせた側が異常なんだ」静かな声だった。だがその中には、怒りに似た熱がにじんでいた。「もし本当に、王太子と番なら……昨夜のような反応は起きない。お前の体があれだけ穏やかだったのは、おかしい」カイルは、言葉を選びながら続けた。「普通、番ったΩは、他のαの存在だけでも本能が反応する。敵意か、拒絶か……それが自然なはずだ」けれど、リリウスは──「お前は、俺のそばで落ち着いていた。苦しむどころか、むしろ……」言いかけた言葉を飲み込むように、彼は視線をそらした。沈黙が落ちる。その静けさの中で、リリウスの口が、そっと動いた。「……番では、ない……のかも。僕は、あの人と……」言葉にして初めて、それが“真実”として確かな形を持った。胸の奥に鈍く刺さっていた何かが、静かに外れていく。「恋しいなんて、思わなかった……ただ、怖かっただけ。あの国も、彼も」リリウスが絞り出すように吐き出した瞬間、カイルがゆっくりと顔を上げた。「──試してみるか」リリウスは目を見開いた。驚きと戸惑い、そしてほんのわずかな期待。自分でも気づかないうちに、何かが変わっていた。一瞬だけ、迷いが喉元に引っかかる。けれど、それでも──頷いた。「……え?」「もし、本当に“番い”じゃないのなら──理屈の上では、別のαに反応することもありえる」「……それって」カイルは言葉を遮らず、淡々と続けた。「試すだけだ。何かを強いるつもりはない。俺が、お前に触れたら