LOGIN『ハルナズ・キッチン』のグランドオープンから1週間が過ぎた。
午後3時を回り、ランチタイムの嵐が去った後のアイドルタイムに入る。厨房ではディナーに向けた仕込みが始まっていた。
春菜は寸胴鍋の前に立ち、特製デミグラスソースのアクをすくっている。
牛骨と赤ワインが煮詰まった、深く甘い香りが周囲に漂う。隣の調理台では、木崎が包丁を握っていた。
トントントンというリズミカルな音が途切れることなく響き、まな板の上の玉ねぎが均一なみじん切りに変わっていく。木崎は手元から視線を外さずに、口を開いた。
「それにしても、春菜さんが洋食店のオーナーとは驚きました。俺の知る春菜さんは、フレンチ一筋だったので」
切り終えた玉ねぎをボウルに移しながら、木崎が言う。
「フレンチの店じゃなく洋食屋にしたのは、何か理由があるんですか?」
春菜はアク取りのおたまを置いて、振り返った。
木崎たちの合流により、厨房のオペレーションは劇的に
春菜は小さく息を吐き、視線を上げた。大型の業務用冷蔵庫を見つめる。 中には、本日の10人分のコース料理のために仕入れた高級食材が眠っている。 美しいサシの入った和牛のブロック肉や、氷の上に並べられたオマール海老。産地直送の新鮮な夏野菜たち。 明日と明後日の分も、すでに業者が配送の準備を進めているはずだ。 システム上はロスとして計上されるが、それはそのまま店の大赤字を意味する。「どうしますか、春菜さん。食材の金額、かなりの額になりますよ。警察に相談しますか?」 木崎が不安そうな声で尋ねる。「警察への相談は後回しでいいわ。相手は使い捨てのアドレスと電話番号よ。今すぐどうにかできる問題じゃない」 春菜は冷蔵庫の取っ手に手をかけた。 冷たい金属の感触が、思考をクリアにしていく。「それよりも、今はこの目の前にある問題に対処する方が先よ」 扉を開けると、冷気が足元に流れ出してきた。 綺麗に下処理された和牛のブロック肉を取り出し、ステンレスの調理台の上に置く。(この子たちを腐らせるわけにはいかない。農家の人たちや漁師さんが、一生懸命育てて獲ってくれた命なんだから) 食材を前にして、春菜の頭の中で計算が高速で回転し始めた。(必ず美味しい料理に変えてあげなければ。そして、店に来てくれたお客様を笑顔にしなければ。それが私の仕事)「木崎くん、田中くん」 春菜は振り返り、スタッフたちに声をかけた。「この10人分の高級食材を使って、特製のテイクアウト弁当を作るわ。お昼の営業が終わったら、すぐに仕込みにかかってちょうだい」「テイクアウトのお弁当ですか? でも、こんな高級食材で弁当を作ったら、価格が……」「価格は下げるわ。原価ギリギリで構わない。目的は利益を出すことじゃなく、食材を無駄にしないことよ」 春菜はタブレット端末を引き寄せて、即席のレシピを書き出し始めた。「和牛は薄切りにして、甘辛いソースでサッと焼き上げる。オマール
予約の時間は、すでに過ぎつつあった。もうじき15分になる。 テーブルにはグラスが並べられ、お冷の氷が溶けて水滴を落としていた。(あとはお客様が来店したら、料理を始めるだけなのに……) 春菜がタブレット端末を確認しようとした矢先、無機質な電子音が鳴った。『予約番号1024、10名様の無断キャンセルが確定しました。連絡先との通信はエラーとなります。食材のロスをシステムに計上します』 AIの音声が厨房に響いた。 春菜は手を止めて、画面を見つめた。「無断キャンセル……? 10名様の予約が?」 木崎が隣からタブレットの画面を覗き込んだ。「電話してみましょう。何かの事情で遅れているだけかもしれない」 しかしスマホを耳に当てた彼は、すぐに首を横に振った。「電話は存在しない番号になっています」 ホールから戻った佐藤も口を出した。「確かめましたが、メールアドレスも送信エラーで返ってきていますね」「そんな。じゃあ、最初から来るつもりのない予約だったの?」 田中が信じられないという顔で言った。「外にはあんなにお客様が並んでくれているのに。ひどいですよ」 春菜はタブレットの画面をスクロールさせた。「木崎くん。明日と明後日の団体予約の情報を出してみて」「はい……。あ、春菜さん。これを見てください」 木崎が指差した画面には、水曜日と木曜日の予約情報が表示されていた。「名前は違いますが、メールアドレスの文字列が不自然です。意味のない英数字の羅列になっています」「これは、偶然じゃないわね。明らかに嫌がらせよ」 春菜はエプロンのポケットから手を出し、調理台の縁を掴んだ。指先がわずかに冷たくなるのを感じる。 事前予約システムが裏目に出てしまった。(こんなアナログな方法で、システムの死角を突いてくるなんて)「嫌がらせ
梨沙は自分のスマートフォンを翔太の顔の前に突き出した。 画面には、写真付きのSNSの投稿が表示されている。『ハルナズ・キッチン、今日も大行列! ハンバーグが絶品すぎる』『何を食べても美味しい。お値段もお手頃だし、絶対にまた行く』『厨房が見えるんだけど、スタッフの連携が完璧。料理長の女性がかっこいい』 写真には、真新しい厨房で指示を出す春菜と、その後ろで働く木崎たちの姿がはっきりと写っていた。「あいつ……!? よりによって、俺の店からスタッフを引き抜いたのか!」 翔太の顔が歪んだ。「やり口が陰湿よね。借金を押し付けられた腹いせに決まってるわ! おかげでこっちは大赤字よ。このままじゃ、店を畳む羽目になるわね」 梨沙は不快そうに舌打ちをした。「ふざけるな。俺がこんなに苦労しているのに、あいつばかりが良い思いをするなんて許せない!」 翔太はスマホの画面を覗き込み、憎悪に目をギラつかせた。「そうね。私も同じ気持ちよ」 梨沙はスマートフォンの画面を見つめたまま、ふと口角を上げた。「ハルナズ・キッチンって、AIを使った完全自動の予約システムを入れているらしいわ。何でも御堂ホールディングス肝いりの事業で、試験店なんだとか。便利みたいだけど、融通が利かない部分もあるんじゃない?」「どういう意味だ?」「相手のシステムに、大量の予約を入れてやるのよ。架空の名前でね」 梨沙の提案に、翔太は目を見開いた。「無断キャンセルを狙うのか。でも、すぐにバレるんじゃないか?」「適当なフリーのメールアドレスと、でたらめな電話番号を使えばいいのよ。AIは予約が入れば、それに合わせて食材を自動で発注するはずだわ」「……なるほど。当日誰も来なければ、仕入れた高い食材が全部ゴミになるわけだ。売上も立たないし、大損害だな」 翔太の顔に暗い笑みが浮かんだ。 2人はスタッフルームのパソコンを立ち上げると、架空のアカウ
「よし。みんな、来週は少し気合を入れて仕込みをするからね。せっかくの大口のお客様だもの、最高の料理を出さないと」「了解です!」 スタッフたちが元気よく返事をする。 厨房の中は歓迎の空気に包まれ、彼らの顔にはやりがいのある仕事への期待が浮かんでいた。「それにしても3日連続で10人とはすごいね」 木崎と田中が話している。「それだけこの店の評判が高いんでしょう。10人規模となると、お祝いごとかイベントかもしれない」 彼らの話を聞きながら、春菜も内心で頷いた。(こんなに早く団体のお客さんがついてくれるなんて。毎日頑張って料理を作ってきた甲斐があったわ) 春菜は冷房の風を頬に受けながら、ディナー用の仕込みへ思考を切り替えた。◇◇ 同時刻、レストラン『一ノ瀬』の厨房では、淀んだ空気が漂っていた。 床のタイルには油汚れがこびりつき、シンクには洗い物の皿が山積みにされている。 客席も薄汚れた様子で、人はほとんど入っていなかった。 かつての華やかな高級店の面影は、もはや見る影もない。「おい! このソース、焦げ臭いぞ。ちゃんと火加減を見ていたのか」 翔太が声を荒げる。フライパンを調理台に乱暴に置いた。 ガチャン! 耳触りな音が鳴る。「すみません……。でも、他のオーダーが重なっていて、手が回らなくて」 新人のアルバイトが申し訳なさそうに頭を下げた。「うるさい、言い訳をするな。言われた通りに動けないなら帰れ」「…………」 アルバイトのスタッフは口を閉ざし、逃げるように洗い場へ向かった。 木崎たち熟練のスタッフがごっそりと辞めて以来、一ノ瀬の厨房は崩壊状態にあった。 人手不足を補うために経験の浅いスタッフを急遽雇い入れたが、翔太の求めるスピードには全くついていけない。
『ハルナズ・キッチン』の厨房には、朝から活気に満ちた熱がこもっている。 換気扇が低く連続的な音を立てて、ステンレスの調理台は磨き上げられて銀色の光を反射していた。 春菜は白いコックコートの袖をまくり、玉ねぎのみじん切りを炒めている。 フライパンの中でバターが溶け、甘く香ばしい匂いが厨房の空気に混ざり合った。「田中くん。そっちのポタージュの火加減、少し落として。底が焦げ付かないように木べらでしっかり混ぜてね」「はい、分かりました」 調理補助の田中が手際よく火力を調整した。「木崎くん。お肉の下処理はどこまで進んだ?」「豚ロースの筋切りは終わりました。今はハンバーグ用の合い挽き肉をこねているところです」 木崎は大きなステンレスボウルに向かい、手早く肉の空気を抜いている。 以前の店からの付き合いである彼らが合流して以来、厨房のオペレーションは嘘のようにスムーズになった。 春菜が細かく指示を出さなくても、彼らは次に必要な工程を予測して動いてくれる。 おかげで少し前に、御堂ホールディングスから借りた人材は本社へ戻すことができた。 彼らの本業はあくまでシステムエンジニア。いつまでもホール業をやってもらうわけにはいかない。 もっとも、本社へ戻ると決まった際のスタッフたちは、「もうハルナズ・キッチンのまかないが食べられなくなるのか……」とガッカリしていたが。 と。 春菜が炒め終えた玉ねぎをバットに移そうとしたとき、壁面に設置されたタブレット端末から電子音が鳴った。『新規の予約を受信しました。カレンダー情報を更新します』 AIの合成音声が短く告げる。 春菜は手をタオルで拭き、画面を指先でなぞった。「あら……」「どうしました、春菜さん?」 木崎が手を止めて顔を上げる。「大口の団体予約が入ったのよ。来週の火曜日から3日間連続で、ランチタイムに10名様」「10名様の3連続ですか。オ
礼司は銀色のフォークを手に取り、まずはラタトゥイユを口に運ぶ。 目を細め、ゆっくりと咀嚼した。「……野菜の甘みが際立っている。トマトの酸味が強すぎず、それぞれの野菜の食感がきちんと残っているな。オリーブオイルの香りもいい」「今の季節の野菜は水分が多いので、炒める段階でしっかりと火を入れて旨味を凝縮させました。旬の野菜ならではの味わいですね。こちらは期間限定メニューにする予定です」 次に礼司はナイフで鴨肉を切り分けた。 バルサミコのソースをたっぷりと絡め、口に入れる。 喉仏が動き、料理が胃の腑に落ちていくのが分かった。「皮目は香ばしく、肉はしっとりとしている。酸味のあるソースが、鴨の脂の重さを消している。ラタトゥイユとの相性も計算されているな」 礼司はフォークを置き、口元をナプキンで拭った。 彼の冷たい顔立ちがわずかに緩み、満足げな表情が浮かんでいる。「見事だ。どちらも新作として申し分ない」「ありがとうございます。木崎くんたちにも手伝ってもらって、より効率的に仕込みができるようになりました」 春菜がそう言うと、礼司はちらりと木崎たちを一瞥した。「……そうか。彼らの働きぶりにも期待しよう」 木崎たちは小さく息を吐き出し、安堵の表情を見せた。(なんだかんだ言って、ちゃんと認めてくれるんだから。遠回しな言い方ばかりだけど) 春菜はそろそろ、礼司の冷たい表情の下に隠された素顔に気づき始めている。 彼の優しさは分かりにくい時もあるけれど、いつも彼女を包んでくれるのだ。 春菜は空になった皿を下げる。 礼司は立ち上がり、上着のボタンを留めた。「では、私は会社に戻る。何か問題があれば、すぐに連絡するように」「はい。わざわざお越しいただき、ありがとうございました」 礼司は入り口へ向かって歩き出し、ドアのノブに手をかけたところで一度だけ振り返った。「無理はするなよ」
彼らが奪えたのは、レシピと店と資金だけだ。 春菜は自分の手のひらを見つめた。 長年の調理を続けた手は、荒れてしまっている。 これこそが春菜の勲章だ。食材の最適な火入れを見極める感覚や、味を構築する舌の記憶は、誰にも奪えない。 たとえレシピが翔太の手に渡っても、料理とは繊細なもの。 その日の食材の鮮度や天候、気温にも影響を受ける。 春菜だからこそあの味が出せた。 部下のスタッフや翔太では、レシピを使いこなせるかどうか。 技術は絶対の財産だ。それさえあれば、どこでだってやり直せる。
レストラン『一ノ瀬』の裏口から放り出されて、春菜は冷たい雨の中を歩いていた。 薄手の上着は雨水を吸って重くなり、肌に張り付いて体温を奪っていく。 濡れた前髪から滴る水滴を拭いもせず、翔太と同居していたタワーマンションのエントランスに辿り着いた。(もう翔太とは暮らせない。荷物を引き上げないと) 電子キーを持って、自動ドアを通り抜けようとする。 ――ビーッ。 すると、愛想のないエラー音が鳴った。何度か試すが、赤いランプが点滅するだけだ。 ふと視線を横にやると、ガラス張りの掲示板に見慣
翔太が一歩前に出る。「君はもう十分に働いた。これ以上は役立たずなんだよ。俺は梨沙さんと結婚して、九条不動産の資本でこの店をもっと大きくする。ほら、君だってこのレストランが大きくなれば嬉しいだろう?」 悪びれる様子もなく告げる翔太に、春菜は言葉を失った。 必死で厨房を回してきた。新しいメニューの開発も、休んだことはなかった。 文字通り寝る間も惜しんで働いてきた日々が、「役立たず」という言葉に塗りつぶされていく。「ちょっと待って、この店は……私が実家を担保にしたお金で、建てたものでしょう」 ようやく絞り出した春菜の言葉を無視して、翔太はデスクの上にあったノートに手を伸ばした。「待
レストラン『一ノ瀬』の定休日の朝。 客席から離れた厨房は、稼働中の騒がしさが嘘のように音がない空間となっていた。 換気扇も火口も眠っている中、春菜はスペースの隅にある小さな事務デスクで大きく伸びをした。 手元のノートには、新しいコースのスペシャリテに関するレシピがびっしりと書き込まれている。 旬の食材をどう組み合わせるか、火入れの温度は何度が最適か。 頭の中で何度も試作と修正を繰り返し、徹夜での作業がようやく完成したのだ。 紙コップのコーヒーは冷めきってしまっていたが、春菜はそれを飲み干した。 徹夜の集中作業で凝り固まった首と肩を、ゆっくりと回す。「ん、右手が痛いなあ」







