Se connecter彼らは春菜の料理をすっかり平らげて、食後のコーヒーを飲みながら店内を見回した。
「それにしても、不思議な店だな。注文を取りに来る店員もいねえし、料理を運んでくる兄ちゃんたちも、なんだか機械みたいに動きが揃ってる」
重雄の言葉に、春菜はカウンターから身を乗り出した。
「このお店、AIシステムが全部管理しているんです。注文から決済、食材の在庫管理や自動発注まで。ホールの人たちは、AIの指示に従って動いているんですよ」
(機械みたいに動きが揃っているのは、彼らが御堂ホールディングスのエンジニアだからかもね)
春菜は内心で付け加えた。
「AI? なんかよくわかんねえが、便利な世の中になったもんだなぁ」
宮本が腕を組んで頷く。
「まあ俺は、スマホでさえわかんねえけどな!」
「あはは、確かに」
みんな笑った。
真壁はコーヒーカップを置き、春菜を真っ直ぐに見た。
「時代は変わるものだね。技術が進歩し、システムが店を管
アイドルタイム(休憩時間)の厨房で、春菜はスマートフォンの画面をタップした。 耳に当てたスピーカーの向こうから、短いコールの後に低い声が響く。「御堂だ」「お疲れ様です、御堂社長。佐伯です。お忙しいところ申し訳ありません。今お電話大丈夫ですか?」「構わない。そちらの状況はどうだ」 春菜はコンロの火を落とした。換気扇の音が遠ざかるのを確認してから本題に入る。「実は、人員の増強についてご報告とご相談があります」 彼女は木崎たち元『一ノ瀬』のスタッフが厨房にやってきた経緯と、彼らを即座に雇い入れたいという意向を伝えた。「彼らは即戦力です。現在の限界に近いオペレーションを劇的に改善できます。人件費はかかりますが、客単価と回転率の向上による売上増加分で、短期間で相殺できる計算です。ホールが回るようになれば、御堂ホールディングスから借りている人手もお返しできるかと」 スマートフォンを持つ指先にわずかに力が入る。 勝手に採用を決めてしまった形になったため、出資者としてどう判断されるか気になったのだ。 電話口の向こうで、衣擦れの音がした。礼司が腕を組んだようだ。「雇用の件は許可する。現場の判断を尊重しよう。だが」 礼司の声色が、少しだけトーンを下げる。「一ノ瀬という店は、例の元婚約者の店だろう。その店のスタッフたちを雇って問題ないのか?」 春菜は首をかしげた。「ええと……? 先ほどご説明した通り、コスト面であれば全く心配は――」「そうではない」 礼司の鋭い声が、春菜の言葉をさえぎった。「彼らを見ることで、君が過去の苦しい記憶を思い出すのではないかと聞いているんだ」 春菜は思わず絶句した。(御堂社長、そんなことまで心配してくれるなんて……) コストや実務の計算ばかり先行していた自分に対し、彼はこちらの心情を気遣ってくれている。 その事実に、春菜は胸がじんわりと温かくなる
彼らは春菜の料理をすっかり平らげて、食後のコーヒーを飲みながら店内を見回した。「それにしても、不思議な店だな。注文を取りに来る店員もいねえし、料理を運んでくる兄ちゃんたちも、なんだか機械みたいに動きが揃ってる」 重雄の言葉に、春菜はカウンターから身を乗り出した。「このお店、AIシステムが全部管理しているんです。注文から決済、食材の在庫管理や自動発注まで。ホールの人たちは、AIの指示に従って動いているんですよ」(機械みたいに動きが揃っているのは、彼らが御堂ホールディングスのエンジニアだからかもね) 春菜は内心で付け加えた。「AI? なんかよくわかんねえが、便利な世の中になったもんだなぁ」 宮本が腕を組んで頷く。「まあ俺は、スマホでさえわかんねえけどな!」「あはは、確かに」 みんな笑った。 真壁はコーヒーカップを置き、春菜を真っ直ぐに見た。「時代は変わるものだね。技術が進歩し、システムが店を管理するようになる。……だが料理の根本は変わっていない。鍋を火にかけ、素材の味を引き出し、食べる人間を喜ばせようとする意志。それはAIには作れないものだ」 真壁の言葉が、春菜の胸の奥にストンと落ちた。「その意志がある限り、君の料理は必ず客を呼ぶ。自信を持って続けてくれ」「はい……! ありがとうございます」 この人たちはいつも温かい。春菜は目が潤むのを感じた。 彼らは立ち上がり、帰り支度を始めた。「ごちそうさん。また美味い飯、食いに来るからね。もちろん今度は金を払って」「今度はうちのお客さんにも宣伝しておくよ」 宮本と芳江が笑顔で手を振る。「体には気をつけるんだぞ。無理しすぎるなよ」 重雄がぶっきらぼうな優しさを見せて、真壁が短く頷いた。「いい店だね。また来るよ」 ガラスのドアが閉まり、4人の背中が遠ざかっていく。 春菜はその後ろ
『テーブル4、ポークカツレツ、マカロニグラタン、ハンバーグセット、ビーフシチュー。生ビール1つ』 もうすっかり聞き慣れたAIの合成音声が響く。 春菜は木崎たちが完璧に下ごしらえしてくれた食材を手に取って、次々と火にかけていく。 宮本のハンバーグは、肉汁を逃さないように表面をカリッと焼き上げ、オーブンで中までふっくらと火を通す。 重雄のポークカツレツは、目の粗い生パン粉をしっかりとまぶし、170度の油でキツネ色になるまで揚げる。 芳江のマカロニグラタンは、濃厚なベシャメルソースにたっぷりのチーズを乗せ、表面に香ばしい焦げ目をつける。 真壁のビーフシチューは、牛バラ肉を赤ワインと香味野菜で3日間煮込んだ自信作だ。 春菜は出来上がった料理を配膳カウンターに並べた。「お待たせしました」 補助スタッフがトレイに乗せてテーブルへ運ぶ。 宮本が目の前に置かれたハンバーグを見下ろした。「こりゃあ、すげえ匂いだ」 ナイフを入れると、閉じ込められていた肉汁が滝のようにあふれ出した。 デミグラスソースと混ざり合い、鉄板の上でジュージューと音を立てる。 宮本が一口大に切った肉を口に運んだ。「……うまい! 肉の味が濃いのに、全然しつこくない。そこらの定食屋で出るハンバーグとは、次元が違うな」「そりゃまあ、春菜ちゃんのハンバーグだもの。うちの看板メニューにもあるのよ。あれ、今でも一番人気で」 芳江が嬉しそうに言った。「宮本さんのところの、あの家庭的な味も大好きですよ」 春菜が厨房の小窓から声をかけると、宮本は照れくさそうに頭を掻いた。 重雄は生ビールをあおり、ポークカツレツにかぶりついた。「サクサクだ。油っこくなくて、豚肉の甘みがしっかりしてる。こりゃあ、いくらでも酒が飲めるな」「お父さん、昼間っから飲みすぎないでよ。今日も店があるんだから」 芳江がたしなめながら、マカロニグラタンを木製のスプーンですくう。
(そうだわ。お世話になったあの人たちに、私のお店を見てもらいたい。いつか店ができたら招待すると、約束したのだし) みやこ食堂の宮本。 居酒屋赤狸の重雄と芳江。 ビストロ・シエルの真壁。 あの苦しい時期、彼らが拾ってくれなければ、春菜は料理を続けることすらできなかったかもしれない。「木崎くん。明日のアイドルタイム、少し厨房を任せてもいい? お世話になった人たちを招待したいの」「もちろんです。仕込みは俺たちで完璧に終わらせておきますよ」 頼もしい返事をもらい、春菜は恩人たちへ連絡を取るべく、エプロンのポケットからスマートフォンを取り出した。◇ 翌日の午後3時。『ハルナズ・キッチン』のフロアは貸し切り状態になっていた。 ガラス張りのエントランスのドアが開いて、4人の男女が連れ立って入ってくる。「いらっしゃい。皆さん、来てくれてありがとう!」 春菜は厨房からフロアへ出て、彼らを笑顔で出迎えた。 みやこ食堂の店主・宮本が、店内をぐるりと見渡す。「おお、立派な店じゃないか。すごいね、春菜ちゃん」「本当に。ピカピカで、おしゃれな内装だねえ」 赤狸の女将・芳江が感心したように壁の木目調パネルを撫でた。その横で、夫の重雄が腕を組んで深く頷いている。 真壁はノーネクタイのシャツとジャケットという出で立ちだ。「不躾ですまないが、厨房を見てもいいだろうか?」「ええ、どうぞ」 彼は鋭い視線で厨房の設備を観察した。「最新式のスチームコンベクションオーブンに、IHのフライヤーか。排気ダクトの配置も計算されているね。素晴らしい設備だ」「真壁さん、相変わらず見る場所がプロですね」 春菜は笑って、彼らを中央の広いテーブル席へと案内した。「ご注文は、そこのタブレット端末からお願いします。今日は私が全部ごちそうするから、好きなものを頼んでくださいね」
『ハルナズ・キッチン』のグランドオープンから1週間が過ぎた。 午後3時を回り、ランチタイムの嵐が去った後のアイドルタイムに入る。 厨房ではディナーに向けた仕込みが始まっていた。 春菜は寸胴鍋の前に立ち、特製デミグラスソースのアクをすくっている。 牛骨と赤ワインが煮詰まった、深く甘い香りが周囲に漂う。 隣の調理台では、木崎が包丁を握っていた。 トントントンというリズミカルな音が途切れることなく響き、まな板の上の玉ねぎが均一なみじん切りに変わっていく。 木崎は手元から視線を外さずに、口を開いた。「それにしても、春菜さんが洋食店のオーナーとは驚きました。俺の知る春菜さんは、フレンチ一筋だったので」 切り終えた玉ねぎをボウルに移しながら、木崎が言う。「フレンチの店じゃなく洋食屋にしたのは、何か理由があるんですか?」 春菜はアク取りのおたまを置いて、振り返った。 木崎たちの合流により、厨房のオペレーションは劇的に改善していた。 彼らは春菜の意図を汲み取り、指示を出す前に的確な下ごしらえを終えてくれる。 スーシェフも、調理補助も、ホールも。誰もが熟練の人材だ。 この調子であれば、御堂ホールディングスから借りている若手スタッフを返してやれる日も近いかもしれない。(やっぱり、腕のいい料理人が一緒にいてくれるのは助かるわ。精神的な余裕が全然違う) 春菜は木崎らに向けて、にっこりと微笑んだ。「ええ。『一ノ瀬』を追い出されてから、色々な店で修行をし直したの」 春菜はボウルに入った玉ねぎを指差した。「定食屋、居酒屋、ビストロ。どの店の店主もみんないい人で、行き場のない私によくしてくれた。そのお店はどれも親しみやすい価格で、お客さんとの距離を大事にしていた」 木崎は手を休め、春菜の言葉に耳を傾ける。「高級フレンチの非日常感も素晴らしいと思う。高級食材をふんだんに使って、料理の技を思いっきり振るうのもね。でも、私はお世話になったあの店のように、日常の中でふらりと
現在のギリギリのオペレーション状況を考えれば、木崎たちにはすぐにでも厨房に入ってもらいたい。 一から教育する必要のない彼らが加われば、仕込みのスピードも料理の提供速度も格段に上がる。 料理の質だってもっと追求していけるだろう。 だが、この店は春菜個人のものではない。 出資者である御堂礼司の存在がある。(採用の決定権は私に任されているけれど、これだけの人数の人件費というコストが発生する以上、出資者である御堂社長への報告と承認は不可欠だわ) 春菜は頭の中で素早く計算を走らせた。 木崎たちを雇うことによる人件費の増加額。 それに対して、現在のワンオペ体制で発生している機会損失の額。 仕込み時間が足りずに予約数を制限した場合の売上低下リスク。 彼らは即戦力であるため、採用後のトレーニング期間に発生するコストはゼロだ。 客単価と回転率を高く維持するためには、彼らを雇う投資は完全にペイする。(社長には具体的な数値データとともに事後報告書を提出すれば、必ず納得させられるはずよ。市場論理と利益の最大化を証明してみせる) 彼らの力は今日からでも貸して欲しい。切実にそう思う。 面接や細かな事務手続きは後回しにし、春菜は即座に彼らを迎え入れることを決断した。「顔を上げて、木崎くん。みんなも」 春菜が声をかけると、彼らはゆっくりと頭を上げた。「私の方こそ、是非お願いしたいわ。今のこの店には、あなたたちの力が必要なの。ただし、ここは以前の店とは違う。AIのシステムを使った新しいオペレーションに慣れてもらう必要があるわ」「はい。料理のためなら、どんなことでも覚えます」 木崎が力強く頷く。「ありがとう。それじゃあ、さっそく今日のディナーの仕込みからお願いしていい?」 春菜の言葉に、木崎たちは安堵とやる気の入り混じった表情を見せた。 田中の顔には明らかな喜びの色が浮かんでいる。「ありがとうございます、春菜さん!」 佐藤も照れくさそうに笑う。
彼らが奪えたのは、レシピと店と資金だけだ。 春菜は自分の手のひらを見つめた。 長年の調理を続けた手は、荒れてしまっている。 これこそが春菜の勲章だ。食材の最適な火入れを見極める感覚や、味を構築する舌の記憶は、誰にも奪えない。 たとえレシピが翔太の手に渡っても、料理とは繊細なもの。 その日の食材の鮮度や天候、気温にも影響を受ける。 春菜だからこそあの味が出せた。 部下のスタッフや翔太では、レシピを使いこなせるかどうか。 技術は絶対の財産だ。それさえあれば、どこでだってやり直せる。
レストラン『一ノ瀬』の裏口から放り出されて、春菜は冷たい雨の中を歩いていた。 薄手の上着は雨水を吸って重くなり、肌に張り付いて体温を奪っていく。 濡れた前髪から滴る水滴を拭いもせず、翔太と同居していたタワーマンションのエントランスに辿り着いた。(もう翔太とは暮らせない。荷物を引き上げないと) 電子キーを持って、自動ドアを通り抜けようとする。 ――ビーッ。 すると、愛想のないエラー音が鳴った。何度か試すが、赤いランプが点滅するだけだ。 ふと視線を横にやると、ガラス張りの掲示板に見慣
翔太が一歩前に出る。「君はもう十分に働いた。これ以上は役立たずなんだよ。俺は梨沙さんと結婚して、九条不動産の資本でこの店をもっと大きくする。ほら、君だってこのレストランが大きくなれば嬉しいだろう?」 悪びれる様子もなく告げる翔太に、春菜は言葉を失った。 必死で厨房を回してきた。新しいメニューの開発も、休んだことはなかった。 文字通り寝る間も惜しんで働いてきた日々が、「役立たず」という言葉に塗りつぶされていく。「ちょっと待って、この店は……私が実家を担保にしたお金で、建てたものでしょう」 ようやく絞り出した春菜の言葉を無視して、翔太はデスクの上にあったノートに手を伸ばした。「待
レストラン『一ノ瀬』の定休日の朝。 客席から離れた厨房は、稼働中の騒がしさが嘘のように音がない空間となっていた。 換気扇も火口も眠っている中、春菜はスペースの隅にある小さな事務デスクで大きく伸びをした。 手元のノートには、新しいコースのスペシャリテに関するレシピがびっしりと書き込まれている。 旬の食材をどう組み合わせるか、火入れの温度は何度が最適か。 頭の中で何度も試作と修正を繰り返し、徹夜での作業がようやく完成したのだ。 紙コップのコーヒーは冷めきってしまっていたが、春菜はそれを飲み干した。 徹夜の集中作業で凝り固まった首と肩を、ゆっくりと回す。「ん、右手が痛いなあ」