LOGIN春菜は生産者1人ひとりと向き合い、彼らのこだわりや苦労に耳を傾け、自らの料理の構想を熱心に語った。
生産者たちも春菜の情熱に打たれ、笑顔で取引を約束してくれた。「ありがとうございました。これからよろしくお願いいたします」
「ええ、こちらこそ。料理の完成を楽しみにしていますよ」
最後の視察を終えてレンタカーに戻った時、太陽はすでに西の山に沈みかけていた。
見上げた空は、薄紫色から深い群青色へと美しいグラデーションを描いている。
遠くの稜線近くを、渡り鳥の群れが飛んでいくのが見えた。「社長、今日は一日中運転していただいて、本当にありがとうございました。おかげで、最高の食材を見つけることができました」
助手席でシートベルトを締めながら、春菜が心からの感謝を伝える。
礼司はエンジンをかけ、ゆっくりと車を発進させた。「いや、私にとっても非常に有意義な時間だった。生産の現場をこの目で見て、君の食材選びの基準を知ることができた」
礼
やがて悠斗は、少しだけ寂しそうに目を細めた。 ふう、と細く息を吐く。 いつも自信たっぷりで優雅な態度を崩さない彼としては珍しい、ひどく残念そうな未練のある表情だった。 ほんの刹那、悠斗は春菜に向かって手を伸ばしかける。 けれど次の瞬間には、いつもの上品で爽やかな微笑みを唇に浮かべていた。「……そうか。君らしい答えだ。そこまで清々しく振られてしまっては、僕も引き下がるしかないね」 悠斗は軽く肩をすくめて、優しい声で言った。「僕が用意した額縁には、君という絵画は収まりきらなかったというわけだ。いや、君を額縁に収めようとしたのが間違いだったのか。――御堂社長が羨ましいよ」「悠斗さん……」「でも、君の料理に惚れ込んだ気持ちに嘘はない。これからは1人のファンとして、良き友人として、ハルナズ・キッチンを応援させてもらうよ。美味しいポークローストを食べに、また店に行ってもいいかな?」「はい、もちろんです! いつでもお待ちしています」 春菜が笑顔でうなずくと、悠斗は満足そうに目を細めた。「ありがとう、春菜さん。君と仕事ができて、本当に楽しかったよ。それじゃあ、僕はこれで失礼する。風邪を引かないうちに、中に入るんだよ」 悠斗は春菜に軽く手を振ると、背を向けてテラスの出入り口へと歩いていった。 そのガラス扉の前で、ちょうど中から出てこようとしていた人影と鉢合わせる。 御堂礼司だった。 悠斗は足を止めて、礼司の肩をポンと軽く叩いた。「僕の負けだよ、御堂社長。……彼女を泣かせたら、今度こそ本気で奪いに行くから、覚悟しておきたまえ」 それだけ言い残して、悠斗は優雅な足取りで屋内へと去っていった。◇◇ 残された礼司は早足に春菜の元へと歩み寄ってきた。 革靴が石畳を叩く音が、いつもよりせわしなく響く。 春菜の前に立った礼司は、眉間に深い
休日にスマートウォッチのGPSで居場所を追跡されたり、食事の咀嚼回数を数えられたりして、やりすぎだと呆れたこともあった。 VIPラウンジで「彼女は我が社のシステムのパーツだ」と言われた時は、悲しくてたまらなかった。 だが、あの日の夜。 誰もいなくなった冷たい厨房にやってきた礼司は、春菜が作った熱々のオニオングラタンスープを、火傷しそうになりながら食べてくれた。『君の料理の根底にあるのは、食べる者を笑顔にする温かさだ。私は、その温かさに救われた』 普段は理屈ばかり並べ立てる彼が、言葉を探しながら自分の弱さと本心を打ち明けてくれたのだ。 礼司は春菜に、豪華な舞台を用意しようとはしなかった。 その代わり、春菜の身長に合わせて調理台の高さを数センチ調整し、手首が疲れないように重心を計算した赤い柄のペティナイフを特注してくれた。 今日のトラブルでも、彼は自分のパソコンを持ち込んで防壁を築き、空路で食材を届けるために必死にキーボードを叩いていた。 彼はいつだって、春菜が自分の足で立っている。 春菜が自分の腕で料理を作れるように、すぐ隣で環境を整えて支えてくれる。(ああ、そうなんだわ。私はもう、とっくに答えを決めていたのね) 迷いがすっと消えていく。 自分が誰の隣に立ちたいのか。誰に一番、自分の作った料理を食べてほしいのか。 心の底から温かい確信が湧き上がり、春菜の背中をそっと押した。 春菜は手元のマグカップを近くの丸テーブルに置くと、顔を上げて悠斗を見つめた。「連城副社長……いえ、悠斗さん。今まで私を高く評価して、たくさんの素晴らしい景色を見せてくださって、本当にありがとうございました」 春菜は一度深く頭を下げてから、顔を上げた。「ですが、総料理長のお話も、悠斗さんのお気持ちも、お受けすることはできません」「…………」 悠斗の瞳がわずかに揺れる。それでも彼は口を挟まず、春菜の次の言葉を待った。
「VIPのアレルギー対応にシステムの停止、さらには食材の盗難。どれか1つでも起きれば、普通の料理人ならパニックになっていただろう。それを君は、手書きのメモと即興のレシピで見事に乗り切ってみせた」「私1人の力ではありません。悠斗さんがすぐにお肉を手配してくださって、ホテルの皆さんが支えてくれたからです」「それでも、あの場の中心で諦めずに火を扱い続けたのは君だ」 悠斗は手すりから離れ、春菜の正面に向き直った。 街灯と室内の明かりが、彼の整った横顔を照らし出している。「春菜さん。試食会の日に伝えた僕の言葉を、覚えているかな」「……はい」「連城ホテルの総料理長として、この最高の舞台に立ってほしい。そして1人の女性として僕の隣にいてほしい。この気持ちは、今日の君を見てさらに強くなったよ。そろそろ、君の答えを聞かせてくれないか」 穏やかだが熱のこもった声だった。 春菜は白いマグカップをそっと握って、視線をカップの中の琥珀色の液体へと落とした。 悠斗の申し出は料理人としてこれ以上ないほど名誉で、眩しいものだ。 彼は出会った最初から大衆店のシェフである春菜を見下さず、1人のプロフェッショナルとして対等に扱ってくれた。 プライベートファームの豊かな土で育った野菜を見せてくれた。 レセプションで評論家に絡まれた時も、洗浄機が止まった時も、洗練された話術で春菜の料理を守り抜いてくれた。 彼のスマートな優しさと誠実さには、感謝してもしきれないほどの恩がある。 けれど、と春菜は自分の胸の奥を見つめた。 悠斗が用意してくれる「コストを気にせず、世界最高の食材で芸術品を作る厨房」を思い浮かべた時、春菜の心に真っ先に浮かんでくるのは、まったく別の風景だった。 下町の商店街にある『みやこ食堂』や、大衆酒場の『赤狸』。それから、自分の店である『ハルナズ・キッチン』の厨房。 換気扇が回る音。フライパンで焦げる醤油やバターの匂い。「美味しかったよ、ごちそうさま」と笑顔で千円札を置い
実家を奪われ、身に覚えのない借金を背負わされて『一ノ瀬』を追い出されたあの日から、ずっと心のどこかに暗い影が付きまとっていた。 またいつ邪魔をされるか分からないという不安が、ようやく完全に消え去ったのだ。(誰かの足を引っ張ったり、傷つけたりするために知識や労力を使うなんて、とても悲しいこと。でも、これで本当に全部終わったのね) 足元の床を踏みしめる感覚が、いつもよりもしっかりとしているように感じられた。 明日からは本当の意味で誰も脅かされることなく、純粋に美味しい料理を作ることだけに向き合える。「御堂社長、本当にありがとうございました」 春菜が頭を下げると、礼司はかすかに口元を緩めてうなずいた。 すると、厨房の入り口にいたホールマネージャーが春菜に声をかけた。「佐伯シェフ。連城副社長が、最上階のテラスでお待ちです。本日のフェアの成功を祝して、少しお話をされたいとのことですが」「連城副社長が……分かりました。着替えたらすぐに向かいます」 春菜が答えると、隣にいた礼司の眉がピクリと動いた。 彼は何か言いたそうに口を開きかけたが、周囲にホテルのスタッフたちがいるのを見て、そのまま唇を引き結んだ。◇◇ 春菜はスタッフルームでコックコートを脱ぎ、私服の白いブラウスとスカートに着替えた。 その上からベージュのトレンチコートを羽織り、エレベーターで最上階へと向かう。 案内された屋外テラスに足を踏み入れると、秋の澄んだ冷たい夜風が頬を撫でた。 テラスの床にはきれいに磨かれた石畳が敷き詰められており、周囲は黒い鉄製の手すりで囲まれている。 手すりの向こう側には、宝石箱をひっくり返したような東京の夜景がどこまでも広がっていた。 道路を走る車の赤いテールランプが、光の川のように流れている。「お疲れ様、春菜さん。寒い中、呼び出してしまってごめんね」 手すりの近くに立っていた連城悠斗が、振り返って柔和な笑みを浮かべた。
それとほぼ同じ時刻。 都内の雑居ビルの一角にあるワンルームマンションでは、灰谷圭がパソコンのモニターをにらみつけていた。 部屋の中には、食べかけのコンビニ弁当の容器や空き缶が散乱し、酸っぱい油の臭いがこもっている。 黒い画面の上には、連城ホテルのネットワークから遮断されたことを示すエラーメッセージが並んでいた。「くそっ、御堂め。私の仕掛けたマルウェアの通信経路を、逆にたどってきているだと……!」 灰谷の額から、大粒の汗が流れ落ちる。 キーボードを叩く指先が何度もタイプミスを繰り返した。(まずい。このままでは、この部屋のIPアドレスと物理的な位置が特定される。データを消去して逃げなければ) 灰谷はデスクの下にあるサーバー機器の電源コードを引き抜こうと、腰を浮かせた。 その瞬間。 ドンドン! と、玄関ドアが激しく叩かれた。「警察だ!開けなさい!」「……っ!」 灰谷の呼吸が浅くなる。 彼が返事をするよりも早く、鍵の開く金属音がして、玄関の扉が外側から勢いよく押し開けられた。 スーツ姿のサイバー犯罪対策課の捜査員たちが、狭い部屋へと次々になだれ込んでくる。「灰谷圭だな。不正アクセス禁止法違反、および電子計算機損壊等業務妨害の容疑で逮捕状が出ている!」「パソコンから手を離せ! 証拠隠滅は許さん!」 捜査員の1人が灰谷の腕をつかみ、デスクから引き剥がした。「待て、触るな! 私はネクサスの創業者だぞ! こんな扱いが許されると――」「御堂ホールディングスから、お前が仕掛けた不正プログラムの解析データと逆探知の通信記録がすべて提出されている。言い逃れはできないぞ」 手錠の冷たい金属が、灰谷の両手首に食い込んだ。 カチャリという乾いた音が、散らかった部屋に虚しく響く。 別の捜査員たちが手際よくパソコンやハードディスクを押収していく中、灰谷は力なくうなだれ、そのまま部屋の外へと引き立てら
同じ頃、ホテルの地下にある通用口にて。 裸電球の薄暗い明かりが照らす通路には、湿ったコンクリートと消毒液の混ざった匂いが立ち込めていた。 清掃員の作業着を着た一ノ瀬翔太と九条梨沙が、周囲をうかがいながら出口の鉄扉へと歩み寄っていく。 翔太の額には脂汗が浮き、作業着の襟元は汗で黒ずんでいた。 梨沙も帽子を目深にかぶり、苛立たしげに靴音を鳴らしている。「ちょっと、翔太。注文システムのタブレットを止めたのに、なんでフェアが普通に終わってるのよ。羊肉も届いたって聞こえたわ。灰谷のやつ、絶対に潰せるって言ってたじゃない」 梨沙が低い声で噛みつくように言った。「俺が知るかよ! どこからか代わりの肉を運び込んだって話だ。とにかく、ここに長居するのは危険だ。警備員が巡回してくる前にずらかるぞ」「もう、こんな薄汚い作業着を着てゴミ袋を運ぶなんて、あたしがやる仕事じゃないんだから! 早く帰ってシャワーを浴びたいのに」 ぶつぶつと文句を言いながら、翔太が通用口の重い鉄扉のノブに手をかけた。 力を込めて扉を押し開ける。 外の冷たい夜風が吹き込んできたのと同時。 扉の向こう側から複数の硬い足音が近づいてきた。 暗い路地に、赤いパトランプの光がぐるぐると回っている。「え……?」 梨沙が足を止めた。 通用口の外には制服姿の警察官が数人と、ホテルの保安要員たちが横一列になって立ち塞がっていた。 その中央から、ダークネイビーのスーツを着た御堂礼司が歩み出てくる。「そこまでだ。夜分遅くにご苦労だったな」 礼司の冷ややかな声がコンクリートの壁にこだました。 翔太は顔をひきつらせ、一歩後ろへ下がった。「な、なんだよ。俺たちは清掃の仕事を終えて帰るところだぞ」「清掃員が、なぜ特別食材庫の鍵を開けて仔羊肉を持ち出しているのかな」 礼司が片手に持ったタブレット端末の画面を、2人の目の前に向けた。 明るい液晶画面には、バックヤードの
アスファルトの地面に靴音が響く。 婚約者として愛し合っていたはずの翔太と、親友だったはずの梨沙。 2人の裏切りは信じたくなかった。 でももう、信じざるを得ない。 ここまではっきりと悪意をぶつけられては、疑う余地がなかった。◇ その後も、ツテを頼って数軒のレストランやビストロを回った。 結果はすべて同じだった。 面会すら断られる店もあった。 巧妙に捏造された横領の悪評は、想像以上に早く業界に浸透していたので
彼らが奪えたのは、レシピと店と資金だけだ。 春菜は自分の手のひらを見つめた。 長年の調理を続けた手は、荒れてしまっている。 これこそが春菜の勲章だ。食材の最適な火入れを見極める感覚や、味を構築する舌の記憶は、誰にも奪えない。 たとえレシピが翔太の手に渡っても、料理とは繊細なもの。 その日の食材の鮮度や天候、気温にも影響を受ける。 春菜だからこそあの味が出せた。 部下のスタッフや翔太では、レシピを使いこなせるかどうか。 技術は絶対の財産だ。それさえあれば、どこでだってやり直せる。
レストラン『一ノ瀬』の裏口から放り出されて、春菜は冷たい雨の中を歩いていた。 薄手の上着は雨水を吸って重くなり、肌に張り付いて体温を奪っていく。 濡れた前髪から滴る水滴を拭いもせず、翔太と同居していたタワーマンションのエントランスに辿り着いた。(もう翔太とは暮らせない。荷物を引き上げないと) 電子キーを持って、自動ドアを通り抜けようとする。 ――ビーッ。 すると、愛想のないエラー音が鳴った。何度か試すが、赤いランプが点滅するだけだ。 ふと視線を横にやると、ガラス張りの掲示板に見慣
翔太が一歩前に出る。「君はもう十分に働いた。これ以上は役立たずなんだよ。俺は梨沙さんと結婚して、九条不動産の資本でこの店をもっと大きくする。ほら、君だってこのレストランが大きくなれば嬉しいだろう?」 悪びれる様子もなく告げる翔太に、春菜は言葉を失った。 必死で厨房を回してきた。新しいメニューの開発も、休んだことはなかった。 文字通り寝る間も惜しんで働いてきた日々が、「役立たず」という言葉に塗りつぶされていく。「ちょっと待って、この店は……私が実家を担保にしたお金で、建てたものでしょう」 ようやく絞り出した春菜の言葉を無視して、翔太はデスクの上にあったノートに手を伸ばした。「待







