LOGIN「美味しい……。お蕎麦の香りがすごく強いですね」
春菜は思わず笑顔になる。
「ああ、美味いな。さすが地元だ。天ぷらもサクサクで、山菜の苦味が心地よい」
礼司も天ぷらを塩でいただきながら、満足げに頷いた。
普段は都内の高級レストランやホテルのラウンジで食事をすることが多い彼が、こういう小さな店でリラックスして食事をしている姿は、春菜にとってとても新鮮だった。
「社長も、こういう素朴なお店でお食事されるんですね」
春菜が尋ねると、礼司は蕎麦茶の入った湯呑みを手に取りながら答えた。
「昔は立ち食い蕎麦で食事を済ませることも多かった。会社を立ち上げたばかりの頃は、時間も金もなくて、食事はただのエネルギーと栄養素の補給としか考えていなかったからな」
礼司は過去を懐かしむように目を細めた。
「システムを構築し、会社を大きくすることだけにすべてを注いできた。味覚を楽しむ余裕など、当時の私にはなかった」
「そうだったんで
「テーブル3、ポークローストあがったわ。佐藤くん、お願い」「はい! すぐお持ちします」 佐藤がトレイに乗せて、急ぎ足でフロアへ向かう。 ランチタイムの『ハルナズ・キッチン』は、大勢の客で賑わっていた。 カトラリーが皿に当たる音、グラスの氷が揺れる音、客たちの話し声がBGMのように混ざり合っている。「このお肉、すごく柔らかいよ。ソースの酸味が絶妙だ」「リンゴの香りがお肉の脂をさっぱりさせてくれるのね。ご飯が進んじゃうわ」「俺はもう一皿いけそうだ。いやあ、並んだ甲斐があった」「これだけ美味しくて値段は1300円でしょ? もう下手な店の豚肉料理、食べられないよ」 大人たちに混じって、小さな男の子が母親の袖を引いている。「ママー。おにく、もうひとくち、ちょうだい」「あらあら。お子様ランチじゃなくてポークローストを注文すれば良かったわね」 客たちの弾むような声が、小窓越しに耳に届く。(お客様の笑顔が何よりの報酬ね) 春菜は内心でうなずき、次々とオーダーをこなしていった。◇◇ 午後3時を回り、ランチ営業の終了を知らせる木札がエントランスのドアに掛けられた。 忙しかったピークタイムが過ぎ去り、店内には数組の客が残るのみとなる。 春菜はコンロの火を落として、調理台を布巾で拭き上げた。 ふと見るとフロアの奥、窓際のテーブル席に1人の男性客が座っていた。 仕立ての良いライトグレーのスーツを着こなしている。年齢は三十代前半くらいだろうか。髪はきれいに整えられ、背筋を伸ばして食後のエスプレッソを味わっていた。 他の客が席を立ち、彼が最後の1人になる。 男性はゆっくりと立ち上がり、厨房のカウンターへ近づいてきた。「素晴らしい料理でした」 よく通る声で、男性は春菜に言った。「豚肉の脂の甘みと、バルサミコの酸味。リンゴの香りが完璧に調和している。大衆店の枠に収まる味ではありませ
ハルナズ・キッチンの厨房の換気扇が、今日も低い唸り声を上げている。 ステンレスの調理台には、タブレット端末から出力されたオーダーの伝票がずらりと並んでいた。『テーブル3、ポークロースト2名様。テーブル5、オムライスとポークロースト1名様ずつオーダーです』 AIの合成音声が、次々と注文を読み上げる。 新作のポークローストを中心に、今日も店は盛況だ。 しばらく前にネクサス・灰谷の攻撃を受けてダウンしたAIシステムだったが、今は復帰している。 徐々にバージョンアップを重ねて、さらに性能がアップした。 春菜は思う。(本当、AIは便利ね。この調子ならうちの店での実験はもうすぐ終わって、本格リリースになるんじゃないかしら) そうなれば、今のように礼司と頻繁な行き来は消えてしまうかもしれない。 ――春菜の胸に小さな痛みが走った。 共にチームとして、礼司と背中合わせで戦ってきた。 礼司は春菜にとって恩人であり、信頼できるチームメイトであり……密かに心を寄せる相手でもある。 仕事上のつながりが薄れた後、2人の関係がどのようなものになるのか。 今の春菜には想像ができない。 痛みを無理に振り払うように、春菜は顔を上げた。「木崎くん、オムライスの卵お願い。田中くんはサラダのドレッシングを回して」「了解です!」「はい、すぐやります」 春菜は額の汗を手の甲でぬぐい、フライパンを火にかけた。 秋の新作『信州ポークのロースト・リンゴとバルサミコソース』は、大ヒットメニューとなっていた。 フライパンの中でオリーブオイルが細かな泡を立てる。 厚切りの豚肉を滑り込ませると、ジュワッという甲高い音が厨房に響いた。 表面が白く色を変え、きつね色の焼き目がつく。トングで裏返せば、甘い脂の香りが立ち上った。「ソースのベース、仕上がってます」 木崎から小鍋を受け取る。バルサミコ酢とすりおろしたクッキングアップル、
「美味しい……。お蕎麦の香りがすごく強いですね」 春菜は思わず笑顔になる。「ああ、美味いな。さすが地元だ。天ぷらもサクサクで、山菜の苦味が心地よい」 礼司も天ぷらを塩でいただきながら、満足げに頷いた。 普段は都内の高級レストランやホテルのラウンジで食事をすることが多い彼が、こういう小さな店でリラックスして食事をしている姿は、春菜にとってとても新鮮だった。「社長も、こういう素朴なお店でお食事されるんですね」 春菜が尋ねると、礼司は蕎麦茶の入った湯呑みを手に取りながら答えた。「昔は立ち食い蕎麦で食事を済ませることも多かった。会社を立ち上げたばかりの頃は、時間も金もなくて、食事はただのエネルギーと栄養素の補給としか考えていなかったからな」 礼司は過去を懐かしむように目を細めた。「システムを構築し、会社を大きくすることだけにすべてを注いできた。味覚を楽しむ余裕など、当時の私にはなかった」「そうだったんですか……。今の社長からは想像できないです」「君に出会ってから、ずいぶんと変わったよ」 礼司は湯呑みを置き、春菜を静かに見つめた。「君の作る料理を食べ、君が料理に向き合う姿勢を見るうちに、食事というものが持つ本当の価値に気づかされた。誰かを笑顔にしたいという思いが込められた料理は、人の心を動かす力がある」 彼の言葉には、飾り気のない本心が込められていた。 春菜は顔がわずかに熱くなるのを感じた。「社長……」「今日の君を見ていて、改めてそう思った。データで抽出した最適解よりも、君が自分の足と舌で探した答えの方が、遥かに価値がある。君が新メニューを完成させるのが、今から楽しみで仕方ない」 礼司の瞳は優しく、深い信頼の色に満ちている。 春菜は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、しっかりと頷いた。「はい。今日見つけた最高の食材で、社長もお客様も、みんなが驚くような秋の新作を作ってみせま
春菜は生産者1人ひとりと向き合い、彼らのこだわりや苦労に耳を傾け、自らの料理の構想を熱心に語った。 生産者たちも春菜の情熱に打たれ、笑顔で取引を約束してくれた。「ありがとうございました。これからよろしくお願いいたします」「ええ、こちらこそ。料理の完成を楽しみにしていますよ」 最後の視察を終えてレンタカーに戻った時、太陽はすでに西の山に沈みかけていた。 見上げた空は、薄紫色から深い群青色へと美しいグラデーションを描いている。 遠くの稜線近くを、渡り鳥の群れが飛んでいくのが見えた。「社長、今日は一日中運転していただいて、本当にありがとうございました。おかげで、最高の食材を見つけることができました」 助手席でシートベルトを締めながら、春菜が心からの感謝を伝える。 礼司はエンジンをかけ、ゆっくりと車を発進させた。「いや、私にとっても非常に有意義な時間だった。生産の現場をこの目で見て、君の食材選びの基準を知ることができた」 礼司は前方の道をまっすぐに見据えながら言葉を続けた。「私はこれまで、食材の仕入れはデータに基づく効率性がすべてだと考えていた。しかし、君と生産者たちのやり取りを見て考えが変わった。数字では測れない情熱と信頼があった」「情熱と信頼、ですか」「ああ。君が彼らのこだわりを理解し、彼らもまた君の料理人としての姿勢を認めた。あの結びつきこそが、極上の料理を生み出す源泉なのだと理解したよ」 礼司の率直な言葉に、春菜は照れくさそうに微笑んだ。「お互いに顔を合わせて話すことで、食材への愛情が料理に伝わる気がするんです。農家さんが一生懸命育ててくれた命ですから、最高の一皿にしてお客様に届けたいって、強く思えるんです」「君らしいな」 礼司の口元が優しい笑みの形に変わる。 車内には、心地よい疲労感と満ち足りた静寂が流れていた。「腹が空いたな。どこかで夕食を食べてから宿に向かおう」「そうですね。長野に来たんですから、美味しいお蕎麦でもどうですか?」
「分かりました。そこまで言われるなら、ブラムリーの木へ案内しましょう」 佐々木に案内された畑の奥には、緑色の大きな実をつけたブラムリーの木が並んでいた。 佐々木が一つもぎ取り、ナイフで切り分けて春菜に渡す。 春菜は一口かじり、目を閉じて味と香りを確かめた。 まず最初に、強烈な酸味が口いっぱいに広がった。その奥から青リンゴ特有の爽やかな香りが鼻に抜ける。 彼女の脳裏にはっきりと、理想の味が立ち上がった。 このリンゴであれば、肉の旨味と甘さとをしっかりと引き立てることができる。そう確信する。「……これです。私が探していたのは、この酸味と香りです」 春菜が顔を輝かせると、佐々木も嬉しそうに笑った。「気に入ってもらえてよかった。あんたみたいに熱心な料理人さんに使ってもらえるなら、リンゴも本望ってもんだ。東京の店まで、一番いい状態のものを送らせてもらいますよ」「ありがとうございます! よろしくお願いします」 春菜は深く頭を下げた。 礼司は手元のタブレットに佐々木農園のデータを入力しながら、生産者と料理人の間に生まれる信頼関係を肌で感じていた。◇◇ 午後からは、リンゴ畑から少し車を走らせた山間部にある、養豚場とキノコ農家を順番に視察した。 養豚場では、広々とした豚舎でのびのびと育てられている信州ポークの飼育環境を見学した。 豚小屋というと不潔なイメージがあるが、ここはごく清潔だ。生産者の豚に対する愛情が感じられた。 飼料に地元のリンゴを混ぜることで、肉質が柔らかく脂にほのかな甘みが出るという。 生産者は肉の塊も持ってきてくれた。「脂の融点が低くて、さらりと口溶けがいいのが特徴なんです」 生産者の説明を聞きながら、春菜は肉の断面の色やサシの入り具合を真剣な目で確認していく。「この肩ロースの部位を、厚切りで使いたいです。加熱しても固くならず、ソースの味をしっかり受け止めてくれるはずですから」
「ようこそ、遠いところからよくおいでくだすったね」 出迎えてくれたのは、日焼けした顔に人懐っこい笑顔を浮かべる中年の男性だった。農園の主人である佐々木だ。 アポは取ってあるので、話は早い。「初めまして、佐伯です。今日はお忙しいところお時間をいただき、ありがとうございます」 春菜が深く頭を下げると、佐々木は照れくさそうに手を振った。「いやいや、うちのリンゴを料理に使いたいって若い人がわざわざ東京から来てくれるんだから、大歓迎ですよ。さあ、畑を案内しましょう」 佐々木の後について、春菜と礼司はリンゴ畑の中を歩き始めた。 枝には真っ赤なリンゴや、鮮やかな青リンゴが重そうに実っている。「佐々木さん、こちらではどのような品種を育てていらっしゃるんですか?」 春菜は木に近づき、リンゴの表面をそっと撫でた。「今はふじ、シナノスイート、秋映あたりがメインですね。どれも甘くて蜜がたっぷり入ってますよ」 佐々木が誇らしげに言うと、春菜は足元の土の感触を確かめるようにしゃがみ込んだ。「土がとてもふかふかですね。水はけも良さそうです」「お、よく分かりますね。うちは化学肥料を極力減らして、有機質の堆肥にこだわってるんですよ」 春菜は立ち上がり、真剣な表情で佐々木に向き直った。「佐々木さん。実は私、生食用の甘いリンゴではなくて、酸味と香りが際立つクッキングアップルを探しているんです。例えば、紅玉やブラムリーといった品種は作っていらっしゃいませんか?」 その言葉に、佐々木の目がわずかに見開かれた。「ブラムリーを探しているんですか? あれは酸っぱくて生じゃ食べられないから、使い道が限られる。それで作る農家が減ってしまってね。うちでも端の方で少しだけ育てていますが……」「ぜひ、そのブラムリーを見せていただけますか。私が作りたい豚肉のローストのソースには、豚の脂の甘みを引き立てるための、強い酸味と加熱した時の豊かな香りが必要なんです」 春菜の言葉には、料理に対する一切の妥協を許
レストラン『一ノ瀬』の定休日の朝。 客席から離れた厨房は、稼働中の騒がしさが嘘のように音がない空間となっていた。 換気扇も火口も眠っている中、春菜はスペースの隅にある小さな事務デスクで大きく伸びをした。 手元のノートには、新しいコースのスペシャリテに関するレシピがびっしりと書き込まれている。 旬の食材をどう組み合わせるか、火入れの温度は何度が最適か。 頭の中で何度も試作と修正を繰り返し、徹夜での作業がようやく完成したのだ。 紙コップのコーヒーは冷めきってしまっていたが、春菜はそれを飲み干した。 徹夜の集中作業で凝り固まった首と肩を、ゆっくりと回す。「ん、右手が痛いなあ」
ここ数ヶ月、春菜は連日睡眠時間3時間で働いていた。 営業中の厨房を仕切りながら、営業時間外は新メニューの開発や食材の選定、原価計算の事務作業に追われている。 婚約者でありオーナーシェフである一ノ瀬翔太(いちのせ・しょうた)は、経営やメディア対応で忙しく、厨房実務はほとんど春菜に任せきりだった。 彼が厨房に立つのは、雑誌の取材用の写真撮影の時くらいだ。(まあ、私が店を守るって決めたんだし。翔太には経営に専念してもらわないと) このレストラン『一ノ瀬』をオープンするにあたり、春菜は両親亡き後の実家を担保に入れた。多額の融資の連帯保証人になっている。 誰よりも大切な婚約者のため、店を
高級レストラン『一ノ瀬』のディナータイムは、いつも通りの賑わいを見せている。 そんな中、厨房はまさに戦場と化していた。 換気扇が回る低い音が響く中、四基のコンロからは青い炎が絶え間なく上がる。 フライパンの中で油が弾ける音が絶えず鳴り響いていた。「前菜、3番テーブルと5番テーブル、同時にアップして!」 佐伯春菜(さえき・はるな)はテキパキとした動作で、部下たちに指示を飛ばしていた。「はい、すぐに出せます!」「メインの肉、火入れはあと1分。ソースの仕上げ急いでください。付け合わせの野菜は上がってる?」「上がってます! アスパラガスのソテー、少し色がついちゃいましたけど大丈夫で
アスファルトの地面に靴音が響く。 婚約者として愛し合っていたはずの翔太と、親友だったはずの梨沙。 2人の裏切りは信じたくなかった。 でももう、信じざるを得ない。 ここまではっきりと悪意をぶつけられては、疑う余地がなかった。◇ その後も、ツテを頼って数軒のレストランやビストロを回った。 結果はすべて同じだった。 面会すら断られる店もあった。 巧妙に捏造された横領の悪評は、想像以上に早く業界に浸透していたので







