「そういえば黒瀬さん、料亭藤並の件、ご存知ですよね」
湯浅は、何気ない会話の延長線上のように、その言葉を投げた。
声色は変えなかった。けれど、その言葉には確実に重みがあった。黒瀬の手が一瞬だけ止まる。
グラスを持つ指が、かすかに宙に浮きかけたが、すぐに持ち直した。ウイスキーの表面がわずかに揺れる。だが黒瀬は、グラスを唇に運びながら、ごく自然な調子で答えた。「さあ、何の話かな。俺は経理じゃないからね」
氷がカランと鳴った。
笑いながら言うその声に、わずかな硬さが混じる。「経理じゃなくても、黒瀬さんなら耳に入ってるでしょう」
湯浅は穏やかに返す。
グラスを指先でなぞる動作は止めず、目だけを黒瀬の顔に据えた。その視線は、黒瀬の呼吸の乱れを確かめるようだった。黒瀬のこめかみに、一筋だけ汗が浮かんでいる。
バーの空調は適温だ。にもかかわらず、その汗は不自然だった。黒瀬は笑みを崩さず、唇の端を上げようとした。だが、ほんのわずかに、その端が下がった。「まあ、噂話くらいはな」
黒瀬は言葉を継いだ。
だが、声のトーンが一段階低くなっている。湯浅は、その変化を見逃さなかった。「帳簿の動き、変ですよね。料亭の名義も」
「へえ。湯浅、お前、どこまで知ってるんだ?」
黒瀬は笑いながら言った。
だが、その目の奥には冷たいものがあった。視線がわずかに揺れ、バーの入り口の方向をちらりと見た。逃げ道を確認する癖。それがまた出た。「知ってるっていうより、見えてきたって感じです」
湯浅は肩の力を抜いたまま言った。
笑顔は崩さず、声も柔らかい。だが、その中身は完全に攻めに回っていた。「社長の資産管理。黒瀬さん、直接関わってますよね」
「俺はただの部長だ」
黒瀬は即答した。
けれど、その即答こそが湯浅にとっては答えだった。「ただの部長が、資産
夜の静けさが、鷲尾の事務所を包んでいた。時計の針はすでに深夜一時を過ぎている。外は雨上がりの湿気で、ガラス窓が少し曇っていた。ビル街のネオンが滲み、街の灯りは遠くでぼんやりと揺れている。湯浅はデスクの上に広げられた資料に目を落とした。料亭藤並の名義変更書類、裏帳簿のコピー、そして秘密裏に進められた融資契約書。どれもが、美沙子の「支配」の証拠だった。紙の上に並んだ文字や数字は、ただの記号ではなく、誰かの人生を握るものだ。「これで決まりか」湯浅は低く呟いた。その声は、感情を押し殺していた。決まり切った問いだったが、確認せずにはいられなかった。鷲尾は椅子に深く背を預け、指で書類の端をトントンと叩いた。ネクタイは外され、シャツの第一ボタンも緩められている。だが、目だけは緩まなかった。「いや、決めるのは黒瀬だろ」鷲尾は淡々と答えた。勝敗は紙の上で決まるものではない。最後の一駒を動かすのは、まだ黒瀬の意志だった。湯浅は眉間にわずかなしわを寄せた。グラスを手に取ると、氷がカランと鳴る。指先が微かに湿っている。けれど、その感触を意識しないふりをした。「…俺が詰めるよ。あいつ、もう半分落ちてる」湯浅はグラスをテーブルに戻し、資料を指先でなぞった。数字の羅列。帳簿の細かな明細。そのすべてが、藤並の自由を奪うために使われたものだ。それを逆手に取って、今度は美沙子を追い詰める。その構図に、わずかな胸の痛みを感じた。だが、それも押し殺した。「お前さ」鷲尾がぽつりと言った。「ほんと冷たいな。昔はもうちょい人間味あっただろ」湯浅は視線を上げた。鷲尾の顔を見たが、すぐに目を逸らした。ため息のような笑いが、喉の奥から漏れた。「俺は、蓮を守りたいだけだ」その言葉は本心だった。
バーのカウンターに、低くジャズが流れていた。夜はすでに深く、他の客もまばらだった。黒瀬は琥珀色のウイスキーをグラスに揺らしながら、無言で氷を見つめている。その横に、湯浅が静かに座った。一言も声をかけず、ただ隣の席に腰を下ろす。バーテンダーが湯浅に目を向けたが、湯浅は軽く首を振った。飲むつもりはなかった。黒瀬が視線を向ける。目の奥に疲労と苛立ちが滲んでいた。それでも、声は崩れない。「わざわざ、こんなところまで呼び出してくれて」湯浅は微かに笑みを浮かべた。だが、目は笑っていなかった。「黒瀬さん、正直申し上げます。このままだと、ご自身も危ないですよ」氷がカランと鳴る。黒瀬はグラスを揺らしたまま、視線を外さない。「……私に、社長を裏切れと?」「裏切れとは申しません」湯浅の声は静かだった。抑揚をつけず、淡々と。けれど、その言葉は黒瀬の胸の奥に食い込む。「生き残る道を考えていただきたいだけです」「そんな生き方、あんたはしてきたのか?」黒瀬の唇がわずかに歪む。嘲りと苦笑が混ざった声だった。「…私は、守りたい人がいるだけです」湯浅の返答は、それ以上でもそれ以下でもなかった。その言葉に嘘はなかった。だが、黒瀬にとってはそれが一番の脅威だった。「守りたい人のためなら、他人を切り捨てるか」黒瀬は目を伏せ、グラスを口に運んだ。酒が喉を通る音が微かに聞こえた。「…ご判断は、黒瀬さんにお任せします」湯浅は視線を逸らさなかった。グラスを持つ黒瀬の手が、ほんの僅かに震えているのを見逃さない。「裏帳簿は、まだお持ちですよね」黒瀬はグラスをテーブルに置いた。氷がコツンとガラスに当たる。「…&hel
窓の外には、雨上がりの街が静かに広がっていた。夜の湿度がガラス越しに染み込んでくるようで、書斎の空気は重たかった。湯浅は、デスクの上に置かれたグラスを軽く揺らした。氷がカランと音を立てる。その小さな音だけが、静まり返った部屋に響いた。「お前、これ本当に裁判で勝てるのか」湯浅はグラスの縁に唇を寄せながら、鷲尾に目を向けた。グラスの中身はほとんど減っていない。酒を飲むためではなく、ただ手持ち無沙汰を紛らわせる道具のように握っているだけだった。鷲尾はソファに深く腰を沈めたまま、資料の束を指でトントンと整えた。ネクタイを緩め、上着はすでに脱いでいる。だが、目だけは緩んでいなかった。いつものように、冷静で、どこか飄々とした弁護士の顔だ。「勝てるよ。黒瀬が証言すればな」鷲尾の声は淡々としていた。すでに何件もの訴訟を勝ち抜いてきた男の口調だった。だが、その確信の裏に「ただし条件付きだ」という影が見える。「…あいつ、動くと思うか」湯浅はグラスをテーブルに戻した。指先が微かに汗ばんでいるのを自覚する。だが、その感覚を無視して、もう一度氷を揺らした。またカランと音がした。「五分五分だな。でも、動かすのはお前の仕事だろ」鷲尾は笑わなかった。ただ、目だけが湯浅を見据えていた。学生時代から変わらない目だった。冷静で、でも内心は全部見透かしているような、あの目だ。「…分かってるよ」湯浅は視線を落とした。デスクの上には、料亭藤並の名義変更書類のコピー。裏帳簿のデータもある。それを手繰るように指でなぞった。「黒瀬は…」口に出しかけて、湯浅は言葉を止めた。藤並の顔が頭をよぎる。ベッドで眠るあの穏やかな横顔が、ふと脳裏に浮かんだ。だが、それをすぐに押し殺す。今は「私情
身体の奥から、じわじわと熱が引いていくのを感じながら、藤並は湯浅の腕の中で呼吸を整えていた。行為が終わっても、湯浅の腕は解かれなかった。汗ばんだ肌が重なり、互いの呼吸が、まだ微かに乱れたまま繋がっている。窓の外は、もう完全に朝だった。春の光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。柔らかな光が、部屋の中を淡く照らしていた。湯浅が、藤並の額にそっと唇を落とした。その動きは、行為の延長でもなく、欲望の名残でもなかった。ただ、そこに触れたかったから触れる。その気持ちが、肌から伝わってきた。「好きだ」湯浅が、喉の奥で呟いた。低く、静かな声だった。命令でも、誓いでもなく、ただそこにある言葉だった。藤並は目を閉じたまま、その言葉を受け止めた。胸の奥が、少しだけ疼く。でも、それは痛みではなかった。「壊れたままでいい。でも、もう俺は壊れない」心の中で、静かにそう思った。過去の傷が消えるわけじゃない。美沙子の記憶も、先輩との夜も、全部消えるわけじゃない。身体の奥には、まだその痕跡が残っている。けれど、それでもいいと思えた。壊れたままの自分を、もう嫌だと思わなくていい。抱かれることに怯えていた自分も、好きになってはいけないと縛られていた自分も、全部ひっくるめて、ここにいる。湯浅の呼吸が、耳の奥で静かに重なる。胸の中にあるものが、ゆっくりと溶けていくような感覚だった。「蓮」湯浅が、もう一度名前を呼んだ。その声は、どこまでも優しかった。藤並は、何も言わなかった。ただ、腕を回して湯浅の背中を抱きしめた。それが、答えだった。部屋の中に、朝の光が満ちていく。外からは、車の音も、人の気配も少しずつ聞こえ始めていた。でも、この部屋の中は、まだ静かだった。ふたりは何も言わず、ただ肌を重ねたまま、じっと抱き合っていた。
藤並の胸の奥が、ずっと軋んでいた。身体は湯浅の中で繋がっているのに、心の奥底ではまだ、どこかで怯えていた。「愛されていいのか」その問いが、ずっと胸を締めつけている。欲しいと願ってしまえば、きっとまた壊れる。そんな恐怖が、どうしても消えなかった。湯浅の手は、背中をそっと撫でていた。指先が、肩甲骨のあたりをゆっくりと往復する。その手のひらが、怖くなかった。押しつけられることも、縛られることもない。ただ、触れたいと思ってくれているだけの温度だった。「…好きになるな」過去の声が、耳の奥で蘇る。先輩のあの夜、タバコの煙の中で聞いたあの言葉。「蓮、好きになるなよ。遊びだからな」あのとき、笑って「分かってますよ」と返した自分がいる。でも、目は笑っていなかった。身体の奥が、冷たく凍っていったあの夜。あの瞬間から、誰かを好きになることは、自分を壊すことだと思い込んでいた。けれど、今。湯浅の腕の中で、身体の奥から違う感覚が湧き上がってきている。「好きになっても、壊れないかもしれない」そんなことを考えている自分が、信じられなかった。湯浅が、藤並の額に唇を落とす。その唇は、微かに震えていた。湯浅もまた、同じように怯えているのだと分かる。「壊さずに抱きたい」と思ってくれていることが、肌から伝わってくる。藤並は、唇をかすかに開いた。喉の奥で、何かがつかえていた。声を出すことが怖かった。「愛してる」と言ってしまえば、すべてが崩れる気がした。でも、それを言わなければ、きっと一生このままだ。湯浅が、また背中を撫でた。その手のひらが、静かに「大丈夫だ」と言ってくれている気がした。その優しさに、胸が締めつけられた。「…俺も」藤並は、喉の奥からかすれた声を絞り出した。湯浅の胸に顔を埋めたまま、言葉を続
湯浅の指先が、藤並の首筋をゆっくりとなぞる。その動きには、急き立てるような力も、欲望の押しつけもなかった。ただ、触れたいという気持ちだけが、静かに伝わってくる。藤並は、目を閉じたまま、その指先の感触を受け入れていた。肌と肌が重なることが、こんなにも穏やかなものだとは知らなかった。これまでの夜は、命令と支配のための時間だった。与えられる快感は、どこかで自分を切り離して受け止めていた。商品としての身体。快楽は相手のためのもので、自分のものではなかった。けれど今、湯浅の手が背中を撫で、唇が首筋に触れたとき、身体は「自分から求めている」と理解していた。身体が自然に反応する。湯浅の肩に手を伸ばす自分がいる。それは、命令された動きではなかった。藤並は、湯浅の胸に額を押しつけた。息を吐き出すと、胸の奥がふっと緩む。震えていた指先が、湯浅の腕に絡まる。自分から、触れている。自分から、求めている。それが、怖くなかった。湯浅が、そっと藤並の太腿を撫でる。その動きは優しく、焦らすようなものでもない。ただ、ここにいることを確かめるような手つきだった。「蓮」湯浅が名前を呼んだ。その声は低く、喉の奥から漏れるようだった。藤並は、唇を震わせながら、その声に応えた。「…はい」声は小さかったが、はっきりと返事をした。湯浅はそのまま、ゆっくりと藤並の身体を押し倒した。背中がシーツに触れる。冷たくもなく、嫌悪もなかった。むしろ、そこに落ちていくことが、安心だった。湯浅が唇を重ねる。額に、頬に、唇に、静かに触れていく。藤並は目を閉じたまま、湯浅の手を握った。その手は、強くもなく、弱すぎもせず、ただ温かかった。脚を開くことに、もう抵抗はなかった。それは「されること」ではなく、「自分から開く」という動作だった。