LOGIN瞼の裏が、じりじりと焦げ付くように熱い。 知らないはずの景色が、熱に浮かされた意識の暗闇で、閃光のように激しく明滅していた。 燃え盛る城、天を覆い尽くす黒い翼、そして空から降り注ぐ無数の漆黒の羽根。誰かの、胸を掻きむしるような悲痛な叫び声が、現実の音を遮断して耳の奥で木霊している。 ああ、知っている。これは、私がこの世の何よりも愛してやまないBLゲーム『Fallen Covenant』の、最も胸を締め付けられる悲劇のシーンだ。 そうだ。私は魔王なんかじゃない。私は、この物語の登場人物ですらない、ただの観測者。いつだって安全な場所から、神の視点から、彼らの過酷な運命を見守ることしかできなかったはずなのに……。 ハッとして、まるで溶けた鉛を塗りたくられたかのように重い瞼を、ありったけの力でこじ開けた。 ぐにゃり、と視界が歪む。見慣れたはずの自室の天井が、まるで水面のように不気味に揺らめいていた。喉がカラカラに渇いて、息を吸い込むたびにガラスの破片が突き刺さるような痛みが走る。 その朦朧とした視界の、すぐ間近に、誰かの顔が映り込んでいることに気づいた。 私の顔を、静かに、心配そうに覗き込んでいる。 光を吸い込むような、艶のあるサラサラの黒髪。その隙間から覗く、嵐の前の湖面のように静まり返った灰色の瞳。熱に浮かされた私の肌とは対照的な、血の気を感じさせないほど透き通るように白い肌。 その、現実感を失わせるほど人間離れした美しい姿が、私の魂に深く、深く刻み込まれた最愛のキャラクターの姿と、ぴたりと重なった。 追放された天使、アーク。 神に背き、魔王ジークフリートにその魂と身体を捧げた、哀れで、気高くて、そしてどうしようもなく美しい私の最推し。 いつもどこか世界を拒絶するような悲しみをその瞳に湛え、誰にも心を開かず、ただ一人、主君であるジークフリートだけをその灰色の瞳に映している、健気で愚かな天使。 目の前にいるのは、氷室奏。わかってる。熱で機能不全に陥った脳の、片隅に残った冷静な回路が必死に警鐘を鳴らしている。わかっているのに、心が、魂が、言うこと
どうやって自分のアパートまで辿り着いたのか、記憶はひどく曖昧だ。 医務室で意識を取り戻したものの、熱は一向に下がる気配を見せず、身体はぐったりとベッドに沈んだまま。結局、見かねた乃亜がタクシーを呼んでくれて、私を家まで送り返してくれることになった。 そこまでは、よかったのだ。 問題は、乃亜が「あんたたち、原因作ったんだから一人くらい責任持って手伝いなさいよ」と釘を刺したことだった。その一言が、新たな戦争の火種となった。「当然、俺が行く」「いや、僕が送る」「俺が付き添います!」 三者三様の、しかし決して譲らないという固い意志のこもった声。結局、誰か一人に絞ることなどできるはずもなく、乃亜は早々に交渉を諦めた。「……もう知らない。全員で来れば」と吐き捨てた親友の顔は、般若のように見えた。 そんなわけで、タクシーの後部座席で、私は三人のイケメンにサンドイッチにされるという、状況さえ違えば天国のような地獄を味わうことになった。右隣の天王寺先輩から感じる高い体温と、仄かに香る上品なコロン。左隣の氷室くんの、触れているわけでもないのに伝わってくる、ひんやりとした静謐な空気。そして、助手席から何度も振り返って「先輩、大丈夫ですか!?」と心配そうに声をかけてくる七瀬くん。 熱で朦朧とする頭で、私はぼんやりと思う。 乙女ゲームなら、ここはスチルが発生する重要イベントのはずだ。ヒロインが熱に倒れ、誰か一人のヒーローが献身的に看病し、二人の距離がぐっと縮まる……。 なのに、どうして私の現実は、三人の男たちの無言の圧力が渦巻く、息苦しい空間になっているんだろう。◇ アパートに着くと、鍵を開けた乃亜が呆れたように言った。「はい、あんたたち、さっさと必要なもの買っておいで。栞の看病に必要なもの。誰が一番役に立つか、ここで決めなさいよ」 その言葉は、まるで闘牛士が赤い布を振ったかのようだった。三人は一瞬顔を見合わせ、火花を散らすと三者三様の方向へと駆け出していった。 数分後。私の狭いワンルームに、三人の騎士がそれぞれの武器を手に帰還した
目の前が、ぐにゃりと歪んだ。さっきまで見ていた大学の廊下のありふれた景色が、水に落とした絵の具のように滲んで溶けていく。「……あれ?」 おかしい。なんだか自分の身体が自分のものではないみたいに、ふわふわと浮いている感覚。周りの学生たちの声がやけに遠い。すぐ隣を通り過ぎていくはずの雑談も、分厚いガラスを一枚隔てた向こう側から聞こえてくるようだ。 ――ヤバい。 そう思った瞬間、足から力が抜けた。視界が急速に暗転していく。最後に聞こえたのは、誰かの短い悲鳴と、自分の名前を呼ぶ親友の切羽詰まった声だった。◇「――だから! 俺が付き添うって言ってるだろ!」「……どうして君である必要がある。最も長く彼女の側にいたのは僕だ」「はぁ!? 一番心配してるのは俺なんですけど! 先輩たちは黙っててください!」 誰かの声がする。 低く、苛立ちを隠そうともしない声。 静かだが、有無を言わせない強い意志を感じさせる声。 少し高く、焦りと必死さが滲んでいる声。 頭に響くその声が、ひどく不快だ。まるで質の悪いスピーカーで三つの曲を同時に流されているみたいだ。今はただ、この身体を包む柔らかいシーツの感触と、消毒液の微かな匂いだけに意識を委ねていたかった。 私が廊下で倒れたらしいという事実を、まだ夢うつつの中でしか認識できていない。 乃亜からの連絡を受けた天王寺先輩が講義を抜け出して駆けつけ、ほぼ同時に、図書館で私を探していたらしい氷室くんも異変を察知して現れた。そして、たまたま大学に来ていた七瀬くんが、騒ぎを聞きつけて飛んできたのだという。 ――そんな都合のいいこと、ある? まるで、出来の悪い乙女ゲームの強制イベントみたいだ。もちろん、そんなことになっているとは、意識の途切れた私には知る由もなかったけれど。 三人が医務室に殺到したのは、ほぼ同時だったらしい。白いカーテンで仕切られた簡素なベッドで眠る私の姿を認めた瞬間、彼らの間に走った緊張感は、火花が散るようだったと、後から乃亜が呆れ顔で教えてくれた。
世界が、ぼんやりと霞んで見える。 意識と現実の境界線が曖昧で、まるで水の中にいるみたいに、耳に届くすべての音がくぐもって聞こえた。 原因は、分かっている。睡眠不足だ。 グループ課題のレポート作成、カフェの新人教育(という名の陽翔くんの恋の応援)、そして、何よりも優先すべき、我が魂の結晶である同人誌原稿の締切。この三つが、私の貧弱なキャパシティの上で、無慈悲なデッドライン・ダンスを踊っていた。「……ジーク……アーク……待ってて、今、最高の、シチュエーションを……うへへ……」 大学の講義中も、私は机に突っ伏し、意識の半分を『Fallen Covenant』の世界に飛ばしていた。時折、自分の口から漏れる不気味な笑い声で我に返るが、数分もすれば、また強烈な睡魔と妄想の波に飲み込まれていく。 周りの学生が、私を「いよいよヤバい奴」という目で見ているのは知っていた。だが、どうでもいい。私には、成し遂げなければならない使命があるのだから。 そんな、ゾンビのようにキャンパスを徘徊していたある日の放課後。グループ課題の簡単な打ち合わせを終え、よろよろと席を立とうとした私を、天王寺先輩が呼び止めた。「月詠さん。ちょっと、いいかな」「ひゃい!?あ、あの、なんでしょうか、先輩!」 突然の王子様の声に、私の脳が無理やり再起動する。ぼやけた視界に、相変わらずキラキラとした、完璧な笑顔が映った。彼は、少しだけ困ったように眉を下げると、すっと一本の小さな瓶を差し出してきた。 金色の、高級そうなラベルが貼られた、栄養ドリンクだった。「……これ。最近、すごく顔色悪いみたいだから。無理、してない?」 心配そうに、私の顔を覗き込む、甘い声。 私の心臓が、きゅっと奇妙な音を立てた。いかん、いかん。これは、私への優しさではない。 私の脳内BLフィルターが、ガコン、と音を立てて作動する。
しぃん、と静まり返った図書館。ここは、私の聖域の一つだ。普段なら、この古い紙の匂いと、ページをめくる微かな音だけに包まれて、心ゆくまで妄想(という名の創作活動)に没頭できる場所。 だけど、今日だけは事情が違った。 私の左右には、この静寂とはあまりにも不釣り合いな、二つの輝かしいオーラが存在している。右に、学園の太陽・天王寺先輩。左に、氷の騎士・氷室くん。 私たちは、あの地獄の(私にとっては天国だった)グループ課題のための資料を探しに、こうして連れ立って図書館に来ていた。 乃亜には「乙女ゲーの主人公になってる自覚持て」と本気でキレられたけれど、彼女は何もわかっていない。私が今感じているこの高揚感は、決して恋愛のそれではない。これは、公式から「推しカプの共同作業」という、最大手の供給を与えられた、一介の腐女子としての歓喜なのだ。「コミュニケーション論の棚は、あっちだね」 天王寺先輩が、私にも聞こえるように、少しだけ声を潜めて囁く。その低く甘い声が、静かな空間でやけに響いて、耳がくすぐったい。いやいや、違う。これは私への配慮ではなく、その隣の氷室くんへ「こっちだよ」と伝えるための優しさだ。「……ああ」 氷室くんが短く応じる。ああ、尊い。会話が成立している。 私は、二人の崇高な空間を邪魔しないよう、カニ歩きのように横移動しながら、必死に背表紙を追う。あのファミレスでの一件以来、二人の間には(私の脳内では)確かな絆が芽生え始めていた。私がやるべきことは、二人が次のステップに進むための、触媒(カタリスト)になることだけ。「あ、あれかも」 私が探していたのは、社会心理学の権威が書いた、分厚い専門書。それは、運悪く書架の一番上の棚に鎮座していた。 私は自分の身長を呪った。150cmちょっとの私では、どう頑張っても手が届かない。「うぅ……」 ぴょんぴょんと、その場で軽くジャンプしてみるが、指先がかすりもしない。近くに脚立(きゃたつ)も見当たらない。 どうしよう。二人に頼む?いや、だめだ。今、二人は二人で、何か目に見えないオーラ(たぶん恋の駆け引き)を交換している最中。私が「取ってください」なんて言ったら、その神聖な儀式を妨害してしまう。 私はもう一度、ぐっと背伸びをした。かかとを限界まで上げ、腕を、これ以上ないというくらい伸ばす。指先が、あと、ほん
そうして私たちが流れ着いたのは、大学の門を出てすぐの、ごく普通のファミリーレストランだった。ガヤガヤとした店内の雰囲気は、先ほどのカフェテリアとはまた違う騒がしさがある。 席に着くなり、天王寺先輩は「さて」と楽しそうにメニューを広げた。「俺、お腹空いちゃったな。月詠さんは?あ、そうだ、ドリンクバー頼むよね?」「は、はい!もちろんです!」「じゃあ、俺、先になんか取ってくるよ。何がいい?」 彼が、私に天使の笑顔を向ける。違う、先輩!あなたが聞くべきは、私じゃなくて!「わ、私は後で……!そ、それより、氷室くんは!氷室くんは何が飲みたい気分ですか!?」 私が、必死の形相でパスを出す。 すると、氷室くんは私と天王寺先輩の顔を交互に一度だけ見ると、静かに、しかしはっきりと立ち上がった。「……僕が行こう」「え?」「君は、座ってていい」 そう言って、彼は私の分のコップまで手に取ろうとする。 その瞬間、それまで笑顔だった天王寺先輩の空気が、すっと変わった。「いや、いいよ氷室くん。俺が行くって言ったんだから。君こそ座ってて」「……君は、テーマの骨子をまとめておいてくれ。飲み物は、僕がやる」「その必要はないよ。俺がやるから」「……僕が、やると言っている」 ばち、ばち、ばち。 テーブルを挟んで、私の目の前で、見えない火花が激しく散っている。二人の視線が、ドリンクバーのコップを巡って、鋭く交差する。 始まったわ、二人の痴話喧嘩!「(氷室くんに格好いいところを見せたいから)俺が飲み物を持ってくる!」「(天王寺先輩の手を煩わせたくないから)いや、僕がやる!」という、お互いへのアピール合戦! 私への親切を口実にした、高度なイチャイチャ……! 尊い……!尊すぎる……!ファミレスのど真ん中で、こんな神々しいやり取りを見られるなんて……! だが、このままでは、二人の戦いが終わらない。そして、私は、二人の共同作業を、何よりも見たいのだ。「あ、あの!」 私は、意を決して、二人の間に割って入った。「せっかくですし、お二人で、行ってきてはいかがでしょうか!?私は、ここで、おとなしく、二人の愛の巣(テーブル)を守っておりますので!」 私の完璧な提案に、二人はぴたりと動きを止めた。そして、同時に私を見ると、何とも言えない、複雑な表情を浮かべる。「……月詠さ