「決めましたわ。火をつけるのは、除夜の鐘が鳴るその瞬間ですよ」 紀野晴海(きの はるみ)は携帯を握りしめ、落ち着いた声でそう告げた。 電話の向こうで、相手は信じられないといった口調で念を押した。 「失礼ですが、本当にこのような重要な祝日に、そこまで過激な手段で『偽装死依頼』を実行なさるおつもりですか? 当社には、もっと穏やかで安全なプランも多数ご用意しておりますが……」 「結構です。これでいいの」晴海は言った。
Lihat lebih banyak彼女が振り返ると、そこには見慣れた瞳があった。時風は彼女をそっと抱き寄せて訊ねた。「大丈夫か?遅くなってごめん、辛い思いをさせたな」晴海は驚きと喜びの入り混じった表情で尋ねた。「どうしてあなたがここに……?」「警察と一緒に来たんだ」時風は答えた。「君が連れ去られたと知ってから、ずっと探していた。手掛かりを得た瞬間、すぐに通報したんだ」彼女は何かを思い出したように問い返した。「あなたは……大丈夫なの?辰見があなたに……」時風は遮るように言った。「心配するな。大したことはない、ちゃんと片付けた」「時風……ありがとう……」晴海は緊張の糸が一気に切れたように、そのまま意識を手放した。再び目覚めた時には、すでに一週間が経っていた。最初に耳に入ったのは——「辰見が死んだ」驚愕する晴海に、時風はこの数日の出来事を語って聞かせた。辰見は逮捕後、過失致死の容疑で起訴されたが、鑑定の結果、精神異常が判明した。弁護士はこれを理由に無罪を主張し、辰見はついに釈放された。だが、裁判所を出て車に乗ろうとしたそのとき——一人の老人が突如現れ、何の前触れもなく刃物を取り出し、辰見を何十回も刺した。彼は急遽病院に運ばれたが、急所を貫かれ大量出血したことで、命を落としたのだった。話を終えた時風は、静かに問いかけた。「誰が犯人だと思う?」晴海は首を横に振った。「誰なの……?」時風はため息交じりに答えた。「椎橋淑絵の母親」晴海はしばし沈黙し、やがて呟くように言った。「因果応報、ってやつね」帰り際、時風は自分の上着を脱いで彼女の肩にかけ、優しく声をかけた。「ゆっくり休んで。無理に何も考えなくていい」退院の日、それは奇しくも辰見の葬儀の日だった。晴海は彼に最後の別れを告げるため、参列した。空には静かに小雨が降っていた。時風は傘をさして、黙って彼女のそばに立っていた。人々が次第に去っていき、晴海は一人、墓前へと歩み寄り、一束の菊花を静かに置いた。そのとき彼女の心を満たしていたのは、哀しみでも憎しみでもなかった。すべてが終わったという安堵と、ようやく自由になれたという静かな開放感だった。帰り道、二人は並んで歩いた。アパートの前にたどり着いたそのとき、不意に空が
辰見は顔色一つ変えず、「会わない」と言い捨てた。だが、部下はさらに耳元で何かを囁いた。一瞬沈黙した後、彼は「書斎に通せ」と命じた。それから晴海に視線を向ける。「晴海、一緒に来てくれる?僕の覚悟を、見せたいんだ」晴海はきっぱりと拒んだ。だが辰見は全く動じることなく、強引に彼女を伴って書斎へと向かった。書斎の扉を開けると、そこには長らく姿を見せていなかった淑絵の姿があった。以前の豊満で華やかな姿は見る影もなく、痩せこけて顔色は青ざめ、頬は落ち込み、まるで病人のようだった。視線が交錯し、淑絵は一瞬だけ戸惑ったような顔を見せた。すぐに辰見に視線を向け、懇願する。「良社長……どうしてもあなたしか頼れなかったの。数千万なんてあなたにははした金でしょ?私には命をつなぐお金なのよ。お願い、昔の仲を思い出して……」「黙れ」辰見は冷たく言い放った。「一銭たりともやらない。これは僕と晴海の共有財産だ。君なんかに渡すものか。今日君に会ったのは、晴海の目の前で、僕と君がとっくに終わってるって示すためだけだ」淑絵は突然、晴海にしがみついた。「紀野さん……ごめんなさい、ごめんなさい!あなたのご主人を誘惑したのは私が悪かった、私が全部間違ってた!だからお願い……助けて……手術代がないと、本当に死んでしまうの!」彼女が晴海にすがりつくと、辰見は怒りのあまり彼女を床に突き飛ばし、すぐに警備員を呼びつけた。だがその瞬間、淑絵の目に怒りの炎が灯る。地面から素早く跳ね起きたかと思うと、不意を突いて晴海の首元に腕を回した。ポケットから折り畳みのフルーツナイフを取り出し、刃先を晴海の喉元に突きつけた。「辰見、あんたが憎い!あんたのせいで息子が死んだ!今になっても見捨てる気!?いいわ、だったら、あんたの嫁も一緒に地獄へ連れて行ってやる!」刃が肌をかすめ、赤い血が首筋を伝って流れる。辰見の顔から血の気が引いた。「やめろ!晴海を離せ!金が欲しいんだろ!?出すよ、何億でも出す!」だが淑絵の目にはもう狂気しかなかった。「金なんてもういらない!この女の命で償ってもらうわ!」その時、外から警笛の音が鳴り響き、彼女がわずかに気を取られた隙を突いて、辰見が飛びかかった。ナイフを奪い取ろうともみ合ううちに、激しい音と共に誰か
再び目を覚ましたとき、目に映ったのは見覚えのある天井だった。一瞬、晴海は自分が幻覚を見ているのかと思った。この天井のデザインは、かつて辰見と共に暮らしていた家の主寝室そのものだった。家が火事で焼ける前のあの部屋だ。それとすぐに気づけたのは、その家の内装は辰見と二人で一から作り上げたもので、細部に至るまで二人の好みが反映されていたからだった。独特なデザインで、一度見たら忘れられない。全身がぞくりと震え、晴海は勢いよく身を起こした。部屋を見回せば見回すほど、恐怖が胸にせり上がる。この部屋は、あの頃の主寝室をほぼ完璧に再現したもので、唯一の違いは、窓がすべて塞がれ、分厚いカーテンまで引かれていたことだった。「ギイ」と音を立ててドアが開き、辰見が水の入ったグラスを手に入ってきた。「目が覚めたか。さあ、水を飲めよ」その口調は穏やかで、まるで何事もなかったかのようだ。晴海は咄嗟に後ずさりし、警戒心を露わにした。「来ないで!」だが、F国での彼とは違い、今回は彼女の言葉に従おうとはしなかった。ゆっくりと歩み寄り、水のグラスを晴海の口元に差し出し、再び言う。「水を飲め」一見いつも通りの辰見。しかし、長年一緒にいた彼だからこそ、晴海にはすぐにわかった。彼の精神状態が正常ではないと。彼を刺激しないように、晴海は必死に自分を落ち着かせ、彼の手から少しだけ水を飲んだ。彼女が素直に従ったのを見て、辰見は嬉しそうに微笑んだ。晴海はその隙を突いて尋ねる。「ここはどこ?あなたが私を連れてきたの?」辰見は頷いた。「そうだ。どうして他の男の家に住ませておける?君の見張りを買収するのにかなり手間がかかったけど、やっと君をここに連れてこられた」彼は彼女を見つめながら、切なそうに言った。「晴海、君がそばにいないと、体の芯から苦しくて、死んでしまいそうだった」そう言うと、彼は彼女の手を取り、強引に立たせて家の中を案内し始めた。「別荘が焼けたあと、僕はその廃墟の上に、前とまったく同じようにこの家を再現したんだ。君がいなかった百数十日、僕はこのベッドで、君の写真を抱きながら、君が隣で寝ている姿を思い描いていた」寒気が走るような言葉だったが、辰見はそれに気づく様子もなく、さらに続けた。「晴海、気に入って
一方その頃、辰見は甘奈が救出されたという知らせを受けるや否や、すぐに晴海の位置を特定させた。婚姻登記機関に駆けつけたとき、二人はすでに結婚証明書を手にして外に出てきたところだった。彼を見つけた時風は、冷ややかに口元を歪めた。「あれっ、奇遇だね。良社長もF国にいらっしゃったんだか。まさか俺とすみれの新婚を祝福しに来てくれたんだか?」「西、園、寺……!」辰見は顔中に怒りを滲ませ、歯を食いしばって拳を振り上げた。その拳が時風の顔に届く寸前、晴海が一歩前に出て彼の前に立ち塞がった。辰見は動きを無理やり止め、かすれた声で懇願する。「晴海……あいつのそばに立たないでくれ……お願いだ、そんなふうにされると、僕は……つらい……こっちへ来て、僕のところに戻ってきてくれ」彼は手を伸ばし、彼女の手を取ろうとした。だが時風が彼女を庇うように後ろに隠し、無表情で彼の手を払いのけた。「何度も言ってるだろう。俺の妻は松本すみれ、F国出身の女性だ。良社長はどうしていつも人違いを?」辰見は彼の言葉を無視して、ただひたすら晴海を見つめた。その視線を受けながら、彼女も時風の言葉に乗るように言った。「そうです。良社長、あなたは人違いをしているようですね。見てのとおり、私はもう夫と婚姻登録を済ませました。これ以上、つきまとわないでください」最後の望みが潰え、晴海が二度と戻ってこないと悟ったその瞬間、辰見の顔色が急に暗くなった。彼の視線は時風へと移る。「時風……君の家族が、何も知らずに君が外国で勝手に誰かと結婚したと知ったら……どんな反応をすると思う?」時風は、まるでその問いを想定していたかのように淡々と答えた。「出発する前に家族にはちゃんと話してある。みんな俺を応援してくれたよ。だから良社長が心配する必要はないぜ」「そうか」辰見は冷笑しながら言った。「西園寺社長の『家族』には、病床に伏している西園寺当主も含まれてるんですか?」その言葉に、時風の表情が一瞬にして硬直した。辰見は陰湿に笑っている。端正な顔立ちがどこか歪んでいるようだった。「もし西園寺当主が、君が娶った外国人の正体が、良家がすでに死亡宣告を下した元の嫁だと知ったら……どう思うだろうな?」彼の言葉が終わるか終わらないかのうちに、時風の携帯がけたたましく鳴り始
「放して」晴海は言った。「放さないよ」辰見は抱きしめる力をさらに強めた。「半年だよ、君が僕の前から消えて半年……ずっとこれが幻なんじゃないかって怖かった。手を離したら、君がまたいなくなるんじゃないかって。知ってる?この数ヶ月、目を閉じれば君が炎に包まれるあの光景ばかりが浮かんで、気が狂いそうだった。晴海、君は本当にひどいよ。どうしてそんな方法で僕を罰しようと思ったんだ」「自惚れないで。私はあなたを罰するつもりなんかない。ただ、離れたかっただけ。二度とあなたに会いたくなかった」その言葉が辰見の心を完全に打ち砕いた。「晴海、僕が悪かった、本当に悪かったんだ……君のいない人生なんて考えられない。もうあの女たちとはきっぱり終わったんだ。だからお願いだ、もう一度だけ、チャンスをくれないか」晴海の怒りがついに爆発した。「辰見、あんた人の言葉が理解できないの?何度言えばわかるの、私たちは絶対に無理なの!」彼女は辰見の腕をつかんで、思いきり噛みついた。血の味が口いっぱいに広がり、ようやく彼は痛みで手を離した。噛み跡を見て、彼は苦笑いした。「いいんだ、怒ってるんだよね。気がすむまでぶつけていい。君が僕の顔を見たくないなら、外で待つよ」そう言うと、本当に玄関の扉を開けて出ていった。ドアアイに覗くと、辰見は玄関の階段に座っていた。晴海は大きく深呼吸して心を落ち着かせ、時風に今の状況を知らせるメッセージを送った。返信はすぐに届いた。空虚な慰めなど一切なく、具体的な解決策が並べられていた。甘奈の安否を確認中で、見つかり次第知らせること。国内の用事が済んだらすぐに駆けつけるという内容だった。それを見て、晴海は心底ほっとした。スマホの画面を消し、疲れきった身体をベッドにもたれさせた。気づけばそのまま眠ってしまっていた。夜半、目を覚ますと、辰見が隣で彼女を抱きしめていた。彼女は即座に蹴りを入れ、彼をベッドから叩き落とした。「ドン」という音とともに彼は床に落ち、目を覚ました。無言で起き上がり、埃を払うと、何も言わずに彼女を一瞥し、追い出される前に自ら部屋を出て行った。そして、静かにドアを閉めた。彼はいなくなったが、晴海はもう眠ることができなかった。震える手で長らく封を切っていなかった抗うつ薬の
時風の提案に、晴海はすぐには頷かなかった。ただ「少し考えさせてください」とだけ言った。時風は無理強いすることもなく、「少なくともホテルにいる間は安心していい。ここなら、俺が君の安全を保証できる。辰見に付け入る隙は与えない」と言い残した。数日後、晴海はその言葉に甘えてホテルで静かに過ごしていたが、唯一一度だけ外出したその時、まさかの事態が起きた。ホテル近くの路地で、辰見に待ち伏せされてしまったのだ。男はほとんど哀願するように「一緒に国へ帰ろう」と懇願してきたが、晴海は一言も発せず、まるで彼がそこにいないかのように振る舞った。数時間にわたり睨み合いが続いた末、異変に気づいた時風が人を連れて現れ、ようやく事態を収拾した。その場を去る辰見の目に浮かんでいた、諦めきれない悔しさ。それが逆に恐ろしくて、晴海はとうとう時風の提案を受け入れることにした。その後、時風の手配で彼が所有する別荘に移り、辰見に居場所を知られることもなく、ようやく心安らかな日々が戻った。そして二人は、晴海の現国籍であるF国で婚姻届を出すことを約束した。だが、空港に着いたばかりの時風に、祖母が重篤で危篤状態にあるとの連絡が入り、彼は急遽ひとりで帰国せざるを得なくなった。出発前、時風は真剣に言った。「何かあったらすぐ俺に連絡して。ひとりで抱え込んだり、遠慮したりしないでくれ。いいな?」晴海はその優しさに少し戸惑いながらも、ぎこちなく答えた。「分かった。そっちも気をつけて」時風を見送った後、晴海は新しく借りたアパートへ一人向かった。彼女は「偽装死」してこの地に身を隠し、既に一軒の不動産を購入していたが、北欧まで追ってきた辰見への警戒心から、F国に戻る前に時風に頼み、別名義で新たに物件を借りていた。疲労困憊で部屋に入り、荷物を置いた瞬間、何かがおかしいと感じた。部屋のドアを開けようとしたが、すでに遅かった。キッチンからスリッパ姿の男が現れ、静かにうなずいた。「おかえり、晴海。ほら、まずはご飯にしよう」晴海の背筋が凍りつき、鳥肌が立った。「辰見、頭がおかしいの!?どうやってここを突き止めたか知らないけど、ここは私の家よ。出て行って!!」男はまるで聞こえなかったかのように、同じ言葉を繰り返した。「ご飯にしよう、晴海」晴海は取り乱
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