ANMELDEN応接室の大理石の床を濡らしていた血の跡は、一晩のうちに跡形もなく拭い去られた。
扉を取り替える職人たちまで声を潜めていた。応接室の前を通る侍従たちは、中を見ないようにうつむいた。
ヘッセン侯爵家の家臣が手首を砕かれ、引きずり出された一件は、たちまち宮廷貴族たちの間に広まった。
もう、レイラの前で卑しい侍女などと口にする者はいなかった。侍女たちは目をそらし、廊下で出くわした侍従たちは話をやめた。レイラは人の退いた道を足早に通り過ぎた。
(私を怖がっているわけじゃない。あの人のせいよ)
レイラは寝室の扉に鍵をかけ、寝台の柱の下にある隠し穴を開けた。
カリクスが毎日のように与える献上品。血の臭いのする手で彼女の髪に挿していた宝石が、そこには詰まっていた。
レイラは大きく目立つ装飾品には手をつけなかった。皇室の紋章が刻まれた品など、盗品商ですら引き取れない。
代わりに集めたのは、刻印のない最上級の無色ダイヤモンドの裸石を3粒、血の赤よりも淡い色をした小さなルビー、それに帝国中央銀行が発行した無記名金券を10枚だった。
金券一枚につき100万リュート。帝国南部の小都市で小さな屋敷と農場を買っても、一生不自由なく暮らせる大金だった。
(皇帝の記憶が戻る前に、このお金を持って国境を越えなくちゃ)
レイラは薄い革の袋に宝石と金券を押し込んだ。そして古びた侍女服の裾の裏に縫いつけ、しっかりと隠した。
針が布を貫くたび、指先に繊維の引っかかる感触が伝わった。レイラは袋が片側に寄らないよう、内側の縫い目に沿って押さえた。表に出たしわを伸ばしては、もう一度折りたたんでみた。ドレスを着ているときと侍女服を着ているときでは、同じ物でも体に触れる位置が違った。
宝石をまとめて握ると、かすかにこすれ合う音がした。彼女は袋を手のひらで包み、その音がどこまで聞こえるかを確かめた。どれほどの財産を集めても、門番の前で裾をめくられれば、ただの紙切れと石ころにすぎない。縫い終えると、まず糸の端を内側に隠した。
金が用意できたなら、次は逃げ道だった。
午後になると、寝所に薬草や香油を納める下級侍従のギレンが、頭を垂れて入ってきた。
ギレンは数日前から、敷居の向こうでためらいながら様子をうかがっていた男だった。
「……レイラ様、ご用命のラベンダーオイルでございます」
レイラは冷ややかな目で扉の外の様子を確かめると、ギレンの手のひらに重みのある金貨5枚を握らせた。
ギレンの目が見開かれた。
「レ、レイラ様? これは……」
「先月から都の郊外にある闘犬場で、多額の賭けの借金を抱えていることは知っているわ」
レイラは扉のそばに立ち、声を落とした。侍女として働いていたころ、彼と一緒に薬材の包みを運んだことがあった。帳簿に記された重さに満たない荷。補給所の外まで訪ねてきた闘犬場の使い。どれもギレンにとっては忘れたいことだった。
「皇室の物資台帳を書き換えて、薬材を横流ししていたことも知っているわ。近衛隊に知られれば、今晩には皇宮の城壁につるされるでしょうね」
ギレンの顔が土気色に変わった。床に膝をつき、両手を合わせて懇願した。
「お助けください、レイラ様! どうか命だけは……!」
「生きたいなら、私の言うとおりにして」
レイラは冷たい手つきでギレンの顎を持ち上げた。
「薬材を売るときは『灰色の鴉』を通したわね? そこに伝言を届けて」
「そ、それは……」
「南部自由都市連合へ渡れる、完璧な偽造身分証を2枚。それに国境の検問所を無事に通れる馬車の便を用意するよう伝えなさい」
レイラは金貨の入った袋をもう一つ投げてやった。
「両替の手数料は15%以上は払わないと釘を刺して。余計なことをしたり、皇宮の警備隊に密告したりしようなんて考えないことね。あなたが口を開くより先に、陛下の剣がその首を落とすわ」
「承知いたしました! 命に代えても用意いたします!」
ギレンは今にも取り落としそうな金貨を握り締めたまま、這うように退がった。
ギレンが出ていったその場で、足音が遠ざかるまで待った。レイラは金貨を渡した手をドレスの上に下ろした。彼が怯えたことは確かだったが、恐怖だけで人の口を封じておけるかはわからなかった。自分より恐ろしい相手に出会えば、あの男は同じ顔で別の誰かの前に膝をつくだろう。
それでも、言ったことを取り消すわけにはいかなかった。寝殿の中におとなしく座っていれば、皇帝の記憶が戻る日を待つだけだ。彼女はギレンに求めたものを一つずつ思い返した。身分証と馬車。その二つが手に入るまでは、彼の動向に気を配らなければならない。
レイラは空になった金貨の袋を折りたたんで隠した。ギレンが返事を持ち帰るのを待つ間も、警備の交代時刻は自分で確かめる必要があった。
その夜。
強い風が窓を叩いていた。
政務を終えたカリクスが、充血した目で寝所を見回した。
「……レイラ」
その声は獣のうめきのように湿っていた。
カリクスは剣を床に投げ捨て、寝台のそばに座っていたレイラへと、よろめきながら近づいた。
激しい頭痛と呪毒の反動が、彼を苛んでいた。全身から発する熱は、肌が焼けそうなほどだった。
どさり。
帝国の支配者が膝をついた。
彼は幼子のようにレイラの膝に顔を埋め、荒い息をついた。
「頭が……割れそうだ」
大きな体がかすかに震えていた。レイラの薄いスカートを握り締める指の関節は、真っ白になっていた。
「血の臭いが消えぬ。目を閉じると……虐殺された者たちの悲鳴が耳をつんざく」
レイラは膝に触れる彼の頭を見下ろした。冷や汗に濡れたうなじが露わになっていた。知らず、手が簪へ伸びた。
今、引き抜いて刺せば、仇を討てるだろうか。もう少しかがむだけで届く距離だった。
レイラは簪から手を離した。膝の上の男のまつげは濡れていた。あの顔にも涙が流れるのだと思った途端、母の最期の顔が重なった。哀れに思った一瞬を見咎められでもしたように、指先が縮こまった。
今ここで刺しても、この寝殿から生きては出られない。レイラはそう繰り返し自分に言い聞かせ、乱れた黒髪を撫でつけた。カリクスはその手に導かれるように、さらに膝へ身を預けた。剣を振るっていた男の重みをそっくり委ねられると、簪を握ったときよりも手を離しがたくなった。
「しー……大丈夫です、陛下」
耳元に届くレイラの優しい声に、痙攣するように震えていたカリクスの肩が、ゆっくりと静まっていった。
「今、この部屋にはほかに誰もいません。私の声だけを聞いてください。まずはゆっくり息をして」
カリクスは彼女の手のひらに頬をすり寄せ、長く息を吐いた。
「……お前だけが、朕の安らぎだ。レイラ」
危うい平穏が訪れたかに見えた。
膝の上に伝わる呼吸が、さっきより長くなった。レイラは額に落ちた髪をもう一度かき上げてやり、ふと自分の手を見た。慰めるふりはもう終わったはずなのに、手がもう一度動いていた。彼女は髪の上で指先を止めた。明日手配しなければならない馬車のことを考えようとしても、膝に触れる吐息が幾度も計算を狂わせた。
彼女が手を引こうとした瞬間、カリクスがその手首をつかんだ。
「あっ……!」
不意に力がこもり、指がしびれた。レイラは悲鳴をのみ込み、つかまれた腕を少しだけ彼の手の方へ差し出した。無理に引き抜こうとして、余計に痛めることだけは避けたかった。それでも、握る力は緩まなかった。
膝に顔を埋めていたカリクスが、ゆっくりと顔を上げた。さっきまで痛みに閉じていた目が、彼女をまっすぐに見ていた。レイラは髪を撫でていたもう一方の手まで止めた。何が変わったのかわからなかった。急にどこかが痛んだのか、それとも自分に何かを見いだしたのか。先に尋ねて疑いを招くのが怖くて、彼の言葉を待った。
「……へ、陛下?」
カリクスは答えなかった。レイラは放されない手首を見下ろしてから、彼と目を合わせた。
「レイラ」
「……はい、陛下」
「ふと思い出したのだが」
カリクスの親指が、震えるレイラの手首の内側、その脈をそっと押さえた。どく、どくと狂ったように跳ねる鼓動が、そのまま彼の指先へ伝わった。
彼の赤い唇の端が、奇妙に歪んで持ち上がった。
「初めて口づけを交わした、あの夜のことだ」
空気が凍りついた。
「温室に何の花が咲いていたか、覚えているか?」
どくん。
レイラは開きかけた唇を閉じた。まずは驚きを顔から消さなければ。
温室? 初めての口づけ?
そんな記憶は、初めから存在しなかった。彼女はカリクスと温室で口づけたことなどなかった。
本物の恋人との記憶の断片なのか。それとも、嘘つきを見抜くための残酷な罠なのか。
たった一つの答えに命がかかる、絶体絶命の沈黙の中。カリクスの赤い目が、執拗に彼女の瞳を射抜いていた。
「その石に血を落とせ」暴君の冷たい剣先が、レイラの白い指先をじりじりと押した。数百人の貴族たちは息さえできず、壇上を見つめていた。「なぜためらう、妖婦め!」ガラスの破片の間で血まみれになった皇太后が叫んだ。「偽物だとばれるのが怖くて震えている姿を見ろ!」「黙れ」カリクスは剣を握る手に力を込めた。皇太后は退かず、貴族たちへ鑑別石を掲げて見せた。「本物の公女なら、一滴で済むことをなぜできない!」「血を見せろ! そうすれば認めよう!」仮面の向こうから誰かが叫んだ。レイラは声のした方を見た。少し前、勅令に従うとひざまずいた者たちの席だった。皇帝の脅しが止むと、彼らは再び条件をつけ始めた。レイラはカリクスへ顎を上げた。「陛下は、私の潔白を証明なさりたいのですか?」「そうだ」「指を切れば、私の話も聞いてくださいますか?」「まずは奴らの疑いを鎮めればよい」「陛下ご自身に残る疑いは?」カリクスは唇を閉ざした。レイラは震える手を隠さなかった。石が反応することはわかっている。その光を見た後も、自分の命を握る者が何と答えるかを知りたかった。「私がなぜこの宮殿へ入ったのかも、いずれお尋ねになるでしょう。そのときは皇太后ではなく、私の話を聞いてください」彼は剣を収めなかった。レイラは答えを待つ視線を伏せた。レイラは冷ややかに口元を持ち上げた。「喜んで血を捧げます。陛下、最後まで見届けてください」「レイラ……」「ご覧ください。私の
黄金のシャンデリアの下、仮面をつけた帝国貴族数百人が並んでいた。仮面の奥で光る眼差しは、薄氷のように冷たい。「今夜、あの女にエステルの領地を渡すそうだな」「すでに勅令が出た。返還名簿に署名するよう使者が来たぞ」「命令に従うことと、血筋を認めることは別だ。寝所付きの侍女を皇后にまで据えるとはな」「声を落とせ。騎兵隊に聞かれるぞ」黒狼騎兵隊が近づくと、仮面の奥の囁きは途切れた。返さねばならない土地と、迫る国婚について話していた貴族たちは、入口へ体を向けた。プオオオッ!皇室の黄金のラッパが、広間を切り裂くように鳴り響いた。「帝国の太陽にしてルクセンベルクの支配者、カリクス・フォン・ルクセンベルク皇帝陛下。そしてエステル公爵位の全権継承者、レイラ・エステル公女殿下のご入場です!」侍従長の声とともに、重厚な黄金の扉が大きく開いた。カリクスはレイラの腰を荒々しく抱き寄せたまま、玉座の壇上へ上がった。シャリン!カリクスは剣の柄を軽く叩き、貴族たちを見下ろした。「聞け、帝国の貴族ども」カリクスの低く乾いた声が、貴族たちの息の根を締めつけた。「今夜、エステル家の名誉を侮辱する者は、この場で即刻斬首し、柱に吊るす」「……」「異議のある者は、今すぐ前へ出ろ」誰一人、前へ出る者はいなかった。「いないのなら、公女の言葉に耳を傾けよ」レイラはゆっくり一歩前へ出た。仮面の下からのぞく翡翠色の瞳
「昨夜、誰と密談していた?」レイラは息を止めた。カリクスの問いは、先ほどヴァレンに下した命令よりも前の夜へ向けられていた。袖の中の水晶玉が手首に触れた。彼が腕を緩めて正面へ回ると、レイラは主催権の札が置かれた机に手をついた。彼と目を合わせるには顔を上げなければならなかった。「……陛下」「答えろ、レイラ」カリクスは抜いた剣で、足元の大理石を軽く叩いた。「夜に通信を交わした相手は誰だ?」「舞踏会の安全を確認するために連絡した相手です」「朕のための者か?」カリクスの目元が残酷に歪んだ。「よくも朕の寝室で、見知らぬ男と念話を交わしておきながら、朕のためだと言い繕うのか?」「言い繕ってなどおりません」レイラはためらわずカリクスへ一歩近づいた。「明日の夜に開かれる血の仮面舞踏会、その安全を確認していたのです」「舞踏会の安全だと?」「エステル家に仕えていた旧臣たちを通じて、皇都郊外の不穏な勢力の動きを調べていました」「不穏な勢力とは誰のことだ?」「皇太后の残党とヘッセン家の陰謀が、皇宮の内部へ入り込んでいるという情報を得ました」「皇太后の残党が、よくも朕の宮殿を狙うものだ」「奴らは陛下のお体を害し、政変を起こす機会をうかがっています」「ならば朕の騎兵隊に知らせればよかった」「ですからヴァレン卿を呼びました。本隊を動かせば気づかれるので、別動隊だけを出してほしいと頼んだのです」カリクスは机の上の札を見た。レイラは彼の視線を追い、手を少し動かした。「陛下が舞踏会の警備についても尋ねろとおっしゃったではありませんか。お任せいただいた仕事を確認しただけです」「それで朕より先に命令を下したのか?」「今、ご報告しています。ヴァレン卿が戻ったら、私が聞いた情報が正しかったかどうかも確認してください」「本当に……それがお前の本心なのか?」「私が持ち込んだ情報から確かめてください」レイラはひざまずいた。彼のズボンの裾をつかむ代わりに、指輪が見えるよう両手を膝の上に置いた。「ヴァレン卿が隠れ家を捜索しています。何を見つけて戻るのかまで聞いても、遅くはありません」レイラは掌の汗を衣服に押しつけて拭いた。膝の上の指輪を見る彼の視線が、剣へ戻らないことを願いながら待った。スッ。長剣が鞘へ収まった。カリクスはレイラを一息に立ち上がらせた。
『公女様! 今すぐ脱出なさらなければなりません!』水晶玉の向こうから聞こえるバロンの声は、かすかに震えていた。「鑑別石が皇太后側へ渡ったのは確かなのですか?」『宝物庫から消えたことまでは確認しました。奴らは明日の夜、舞踏会へ持ち込むつもりです』レイラは眠るカリクスの肩を見下ろした。石に血を落とすことは怖くない。その光を見た後、彼が何を尋ねるかが怖かった。「血統が確認されれば、仇の娘がなぜ恋人のふりをしたのかと問われるでしょうね」『石は公女様のお心まで証明してはくれません。その問いを皇太后に先に口にさせてはなりません』「それなら、鑑別石を取り戻すだけでは終わりませんね」『そのとおりです! 明日の夜では遅すぎます! 今夜、黒狼騎兵隊の目を逃れて脱出なさらなければ!』「逃げることはできません、バロン卿」『公女様! 命が危ういのです!』「私の人差し指にはめられた指輪をお忘れですか?」レイラは赤黒い黒曜石の指輪を見下ろした。「私を監視する兵がついています。皇宮を出る前に追いつかれるでしょう」『ですが舞踏会では、公女様が説明する前に皇太后が復讐の話を持ち出すはずです!』「それなら、会場へ届く前に奪えばいいのです」『奪うとは? 暗殺隊をどうやって止めるおつもりですか!』「鑑別石の移送経路はわかっていますか?」『西部郊外の廃れた風車小屋へ向かっているとの情報を得ました!』「皇太后宮の秘密の隠れ家ですね」『はい! 奴らはそこへ鑑別石を隠し、舞踏会当日に持ち込む計画です!』「それなら、まだ皇宮の外縁を離れていないでしょう」『しかし、我が一族の残党だけでは、影の鴉の精鋭を突破するのは困難です!』「私たちが直接突破する必要はありません」『え? それはどういう意味ですか?』「カリクスが私に握らせた剣を使うのです」レイラの視線が、脇卓の上に置かれた主催権の札へ向いた。『血の仮面舞踏会』の最高主催権を示す札。そして人差し指の黒曜石の指輪。「帝国で最も獰猛な猟犬たちを放つのです」『まさか……皇帝の親衛隊を動かすおつもりですか?』「舞踏会を任されたのですから、警備について尋ねることはできます。それに、この指輪で兵を呼びます」『近衛隊長ヴァレンが素直に従うでしょうか?』「彼が確認しなければならないことを、先に提示します」『公女様、どう
カリクスは壁から剣を引き抜き、刃を返した。切っ先がヴァレンの首筋をかすめると、彼はレイラから一歩退いた。「死にたいようだな、ヴァレン」「へ、陛下……!」ヴァレンの顔から血の気が引いた。「よくも朕の恋人をつかみ、体を調べようとしたな?」「も、申し訳ございません! 私はただ、侍医室の周辺をうろつく者を……!」「それが貴様の舌を動かす理由になると思うのか?」「お助けください! 国法に従い、非常警戒令を遂行していただけです!」「朕の言葉こそが国法であり、朕の恋人の歩みこそが法度だ」カリクスは長剣の切っ先で、ヴァレンの額をじりじりと押した。「誰が貴様にそんな権限を与えた? ヘッセンの残党か、それとも地下牢の皇太后か?」「違います! ただ皇室の安泰のため、忠誠を尽くしただけです!」「袖に手をかけようとしたのか。次は貴様の腕が先に斬り落とされるぞ」ヴァレンは額を床につけた。レイラは彼の首筋から流れた血を見た。皇帝は自分を守るために剣を振るっていたが、忘却草が見つからなかったという安堵まで無視することはできなかった。「朕の恋人が薬を求めたら、侍医へ伝えろ。貴様の判断で引き止めるな」カリクスはレイラの肩を抱き、乱暴に胸元へ引き寄せた。「行くぞ、レイラ。こんな虫けらどもと一緒にいる場所ではない」「……はい、陛下」レイラは息を潜め、カリクスに導かれて歩き出した。***深夜、皇帝の寝殿。重い黄金の扉が閉まると、カリクスはレイラを寝台の上へそっと座らせた。「手が氷のように冷たい。なぜこんなに冷えている?」カリクスはレイラの両手を自分の手で包み、息を吹きかけた。「寝殿へ戻る途中、風が冷たかったのです」「ヴァレンのせいで、まだ驚いているのか?」「……陛下」「なぜ朕に知らせず、一人で侍医室へ向かった?」「それは……」「朕の頭痛のために薬湯を取りに行ったのではないのか?」「……え?」レイラは呆然と目を瞬いた。カリクスは薄く微笑み、レイラの頬を撫でた。「侍医室の侍従が言っていた。お前は朕の呪毒を和らげる鎮痛薬を探していたそうだな」「あ……」「次からは侍従に言え。薬室まで下りる必要はない」「自分の手で用意したかったのです」レイラは彼の手に捕らわれた自分の手を見下ろした。今日も薬室へ入った理由を先に選んでくれたのはカリクスだった。
「北部要塞の反乱軍残党3,000人を、全員さらし首にしろ」黄金の謁見の間に響き渡る、冷酷な勅命。玉座にもたれたカリクスは、冷たい目で軍団長たちを見下ろした。「降伏を願い出た者どもの命乞いに来たのか、軍団長?」「陛下、北部の貴族300家が武器を捨て、慈悲を求めております!」「慈悲?」カリクスの唇が残酷に歪んだ。「反逆者に与える慈悲などない」「陛下、彼らを皆斬り捨てれば、北部国境の防壁を支える領主たちが……!」「黙れ! 朕の意に背く者は、その場で斬首せよと命じたはずだ」「どうかご再考ください、陛下!」「投降した者も例外ではない。首謀者の首は城壁に掲げ、加担した貴族の領地はすべて没収し、皇室直轄領に編入しろ」「御意! 皇帝陛下の命をお受けいたします!」赤いマントをまとった軍団長たちが、一斉に床へ額を打ちつけた。帳の後ろにいたレイラは、人差し指の黒曜石の指輪に触れた。昨夜、自分の名を呼びながらすがりついていた男が、今は投降者たちの命を奪えと命じている。その間に別人になったわけではないはずだった。侍医が告げた精製完了まで、あと2日。レイラは床に頭を垂れる軍団長たちを見た。薬を遅らせようとして発覚すれば、自分だけでなく調合室の者たちにも、あの命令が下されるかもしれない。何に手を出しても他人の命に触れてしまうことが、もどかしかった。***正午を過ぎ、政務が一段落した頃。レイラは領地の書類を確認すると告げて寝殿を出た。侍医室へ道を変えてからは、皇帝の頭痛に使う茶を求めに来たと言った。扉を守る衛兵は、人差し指の黒曜石の指輪を確かめて道を開けた。指輪は、すべての質問まで防いでくれるわけではなかった。背後で出入りの時刻を記録する音がした。レイラは聞こえないふりをして地下の調合室へ下りた。侍医たちが薬材を取りに席を外した隙に、青銅の薬釜のそばにある調合日誌を開いた。・第一段階の調合:浄化草の抽出液、完了。・第二段階の調合:氷霊水の蒸留、完了。・最終段階:2日後に精製完了予定。(2日後に精製完了……)レイラの心臓が激しく打った。そのとき、調合室の奥にある秘密の薬材搬入通路から、かすかな金属音が響いた。トン、トントン、トン。一族の暗号だった。レイラは息を潜め、薬材倉庫の角へ近づいた。みすぼらしい薬草商の服を着た男が、荒い息をつきながら







