暴君陛下、愛しているふりはもう終わりです

暴君陛下、愛しているふりはもう終わりです

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「愛しています、陛下」――それは、生き延びるための嘘だった。 一族を滅ぼした皇帝の寝所で、侍女として正体を隠す公爵令嬢レイラ。復讐を誓い、恋人を演じる彼女を、血の暴君は狂おしいほど求める。 「陛下、愛しているふりはもう終わりです」 彼女が姿を消した日、皇帝の愛は狂気へと変わった。 逃げる令嬢、追う暴君。やがて彼女の足元に跪き、愛を乞うのは――一族を奪った皇帝だった。

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الفصل الأول

1話. 恋人と呼ばれた夜

赤い絨毯に、濃い血の臭いがこびりついていた。

寝殿の空気は氷のように冷たかった。窓格子の隙間から忍び込む冬の風が、蝋燭の炎を危うげに揺らしていた。

レイラは震える手で、銀の洗面器に浸したリネンの布を絞った。冷たい水がぽたぽたと落ちた。

寝台には帝国の皇帝、カリクス・フォン・ルクセンベルクが横たわっていた。兄弟たちの首を刎ねて帝位についた暴君だ。黒髪の下の額は青白く、鎖骨を横切る黒い血管は、蝋燭の明かりでもはっきりと浮かんでいた。

3週間前、正体不明の暗殺者が突き立てた短剣には、古代の呪毒が塗られていた。

侍医たちは、皇帝がいまだに生きていることさえ信じがたい様子だった。毎晩違う解毒剤を持ってきたが、薬を飲ませ、包帯を替えても、寝台の上からは一言の返事もなかった。

リネンを替えても、薬の臭いの奥には血の臭いが残った。レイラは乾いて張りついた布に、もう少し水を垂らした。そのまま剥がせば傷口が開いてしまう。新たに出血した跡を朝の侍医に見つけられれば、真っ先に呼びつけられるのは、一晩中寝殿に詰めていた侍女だ。

清潔な布は洗面器の右側に、汚れた布は足元にまとめた。混ざらないように置くと、ようやく手を動かすだけの場所ができた。燭台も動かしたかったが、皇帝の枕元を越えて手を伸ばす勇気はなかった。不便でも、見えるところを少しずつ拭う。この部屋では、仕事を早く終えることより、何事も起こさないほうが大切だった。

(お願い。今夜も無事にやり過ごせますように)

レイラは唇を噛みしめた。灰色の髪を古びた下女の頭巾にきつく押し込み、息をひそめていた。

エステル公爵家。3年前、謀反の濡れ衣を着せられ、一夜にして滅ぼされた一族。

一族の血が広場を染めた日、17歳だったレイラは、忠実な老従僕の助けを借りて、かろうじて生き延びた。

そして土埃にまみれたまま、皇宮で最も卑しく危険な、寝所付きの最下級侍女として潜り込んだのだ。

灯台下暗しという言葉のとおり、皇帝の寝殿こそ、かつての公爵令嬢の顔を誰も捜さない場所だったから。

生きなくてはならなかった。復讐など考える余裕もなかった。獣のように息をひそめて生き延び、国境の向こうへ逃げる。それだけが、彼女の唯一の生きるすべだった。

国境の向こうでどんな名を名乗るかは、まだ決めていなかった。名前を考えるより先に、この部屋で翌朝を迎えなければならない。レイラは水を含んだ布を手のひらの中で畳んだ。どこまでが傷で、どこからが乾いた血の跡なのか、かすかな蝋燭の明かりでは見分けることさえ難しかった。

皇帝の顔を長く見ないようにしていた。家族を失った日を思い出すと、手に力が入ってしまう。つらい記憶に囚われて乱暴に布を動かせば、生き延びようと耐えてきた日々まで無駄になりかねない。レイラは掛け布の端に視線を落とし、まず指先に残る震えを抑えた。

「……うっ」

レイラは、カリクスの胸にこびりついた赤黒い血膿を、慎重に拭った。

体のあちこちに、戦場を渡り歩いた跡が残っていた。レイラは古い傷痕を避けて布を動かした。新しい傷の縁から、また血がにじんだ。

濡れた布が傷に触れた瞬間、手首の脇で影が動いた。顔を上げる間もなく、銀の洗面器がひっくり返った。血の混じった水が大理石にぶちまけられた。

「かはっ……!」

息を吸うことすらできなかった。鎖よりも頑丈な手がレイラの喉を鷲掴みにし、寝台脇の床へ容赦なく押し倒した。

ドン!

背中に鈍い衝撃が走り、目の前に火花が散った。肺の空気が一度に押し出された。

レイラはようやく目を開いた。3週間閉ざされていた皇帝の目が、すぐ真上から彼女を見下ろしていた。焦点の定まらない赤い目が、彼女の持つ布と顔を交互に見ていた。傷を拭う手を、攻撃だと思ったらしい。

「よもや……朕を害そうとする鼠か」

カリクスの声は、鉄を擦るように低く、乾いていた。

喉を締めつける力が、ますます強くなった。首の骨が砕けそうな激痛に、レイラの足が宙を掻いた。

(死ぬ……こんな、犬死にするなんて……!)

レイラは彼の腕を引っ掻き、身をよじった。爪が皮膚を削っても、喉を掴む力は緩まなかった。視界が暗くなり始めた頃、緩んだリネンの頭巾が脱げた。

灰色の髪が、床の血混じりの水の上に広がった。息を求めて顔を上げたレイラの緑の瞳が、皇帝の赤い瞳とぶつかった。

「……!」

カリクスが息を止めたように見えた。喉を押さえる手から力が抜けた。彼はレイラの顔から目を離さず、信じられないとでもいうように、一度まばたきをした。

「……レイラ?」

金属を擦るような声でその唇からこぼれたのは、皇帝の寝殿では決して呼ばれてはならない名前だった。

レイラは喉を押さえ、激しく咳き込んだ。

喉の奥が焼けるようだった。息を吸うたびに傷ついた場所が疼き、咳を止めようとしても肩が揺れた。つい先ほどまで自分を殺そうとしていた手が、すぐそばにある。後ずさりしたかったが、背中を床から離すことさえつらかった。

皇帝に呼ばれた名は、隠してきた身分のことを考えるより先に、彼女をその場に縫い止めた。平凡な侍女の名前として聞き知っていたのか、それとも失った誰かを呼んだのか、わからなかった。問い返す余裕もない。彼がまた手を伸ばすのを見ると、考えるより先に体が強張った。

「げほっ! ごほっ……!」

彼女が息を整える間もなく、カリクスが床へ身をかがめた。レイラは再び喉をかばおうとしたが、先に彼の腕が背中を包んだ。引き寄せられた胸が傷だらけの体に押しつけられ、痛んだ。

熱い雫が耳元に触れた。涙だった。数えきれない命を奪ってきた男が、彼女の服を握りしめて泣いていた。レイラは顎の下に残る手の痕を意識しながら、次の言葉を待った。

「生きていたのか……レイラ、愛しい人。本当にお前なのか?」

カリクスの荒れた手が灰色の髪をかき分け、震える指先が頬と首筋を確かめるようになぞった。

「夢ではないのだな? 朕を残して……朕を独りにして去らぬと、約束したではないか」

首筋をなぞる手に、レイラの肩が強張った。つい先ほどまで自分を殺そうとしていた男が、今は失うのを恐れるかのようにすがりついていた。

(私を知っているの? いったい誰を見ているの)

焦点の揺らぐ目は、何度も彼女の顔へ戻ってきた。呪毒の後遺症だろうか。彼は記憶の中の誰かと、レイラを取り違えているようだった。

けれど、今この瞬間に「私は罪を負った公爵家の者で、ただの下級侍女にすぎません」と告げたら?

目の前の暴君は、思い違いを否定された屈辱と狂気に駆られ、その場でレイラの首をへし折るに違いなかった。

(生きなくちゃ。何があっても、生きなくちゃ)

彼が聞きたがっている答えを返さなければ。もう一度、あの手が喉にかかる前に。

レイラは震える両腕を持ち上げた。そして、血の臭いと冷や汗にまみれたカリクスの広い背中を、おそるおそる抱きしめた。

とん、とん。

幼い子をあやすように優しく背中を撫でながら、レイラは澄んだ静かな声で囁いた。

「……陛下。私はここにおります」

カリクスの肩が大きく震えた。

レイラは顎を少しずらして息をした。喉の奥を擦る痛みを悟られないよう、次の言葉はさらに柔らかく選んだ。

「泣かないでください。私はどこへも行きません。決して、陛下のおそばを離れません」

離れないという言葉を聞くと、皇帝の呼吸は少しずつ落ち着いていった。レイラは同じ速さで背を撫で続けた。彼の唇から自分の名がこぼれるたび、指先がわずかに止まった。隠すために声をひそめて呼んできた名前を、この男は失ったものを取り戻したかのように呼んだ。

彼が待っていた女は、自分ではないはずだ。それでも答えなければならなかった。背を撫でる手に力がこもる。本当の名で呼ばれているのに、嘘をついている気がした。

彼が力を緩めると、押し潰されていた胸にようやく息が入った。レイラは片手で背を撫で、もう片方の手を床について体を起こした。皇帝の腕がそれについて動いた。どうにか寝台の縁まで移って腰を下ろすと、彼も彼女を抱いたまま寄りかかった。

レイラは首筋に触れようとして、手を止めた。

「少しだけ……腕の力を緩めてください」

彼が顔を上げると、すぐに言葉を継いだ。

「逃げようとしているのではありません。少し、息をしたいのです」

服を掴む手はそのままだったが、腕の間に隙間ができた。レイラはそのぶんだけ身を引いた。痛いと口にするにも、言い訳が必要だった。それでも、息はできた。彼の肩越しに洗面器の位置を確かめ、濡れた裾がこれ以上まとわりつかないよう、膝を少しずらした。

寝殿の扉の外では、皇帝が目覚めたことを、まだ誰も知らなかった。

朝になれば侍医が入ってくる。そのときもこの男は、下女の自分を恋人と呼ぶのだろうか。

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1話. 恋人と呼ばれた夜
赤い絨毯に、濃い血の臭いがこびりついていた。寝殿の空気は氷のように冷たかった。窓格子の隙間から忍び込む冬の風が、蝋燭の炎を危うげに揺らしていた。レイラは震える手で、銀の洗面器に浸したリネンの布を絞った。冷たい水がぽたぽたと落ちた。寝台には帝国の皇帝、カリクス・フォン・ルクセンベルクが横たわっていた。兄弟たちの首を刎ねて帝位についた暴君だ。黒髪の下の額は青白く、鎖骨を横切る黒い血管は、蝋燭の明かりでもはっきりと浮かんでいた。3週間前、正体不明の暗殺者が突き立てた短剣には、古代の呪毒が塗られていた。侍医たちは、皇帝がいまだに生きていることさえ信じがたい様子だった。毎晩違う解毒剤を持ってきたが、薬を飲ませ、包帯を替えても、寝台の上からは一言の返事もなかった。リネンを替えても、薬の臭いの奥には血の臭いが残った。レイラは乾いて張りついた布に、もう少し水を垂らした。そのまま剥がせば傷口が開いてしまう。新たに出血した跡を朝の侍医に見つけられれば、真っ先に呼びつけられるのは、一晩中寝殿に詰めていた侍女だ。清潔な布は洗面器の右側に、汚れた布は足元にまとめた。混ざらないように置くと、ようやく手を動かすだけの場所ができた。燭台も動かしたかったが、皇帝の枕元を越えて手を伸ばす勇気はなかった。不便でも、見えるところを少しずつ拭う。この部屋では、仕事を早く終えることより、何事も起こさないほうが大切だった。(お願い。今夜も無事にやり過ごせますように)レイラは唇を噛みしめた。灰色の髪を古びた下女の頭巾にきつく押し込み、息をひそめていた。エステル公爵家。3年前、謀反の濡れ衣を着せられ、一夜にして滅ぼされた一族。一族の血が広場を染めた日、17歳だったレイラは、忠実な老従僕の助けを借りて、かろうじて生き延びた。そして土埃にまみれたまま、皇宮で最も卑しく危険な、寝所付きの最下級侍女として潜り込んだのだ。灯台下暗しという言葉のとおり、皇帝の寝殿こそ、かつての公爵令嬢の顔を誰も捜さない場所だったから。生きなくてはならなかった。復讐など考える余裕もなかった。獣のように息をひそめて生き延び、国境の向こうへ逃げる。それだけが、彼女の唯一の生きるすべだった。国境の向こうでどんな名を名乗るかは、まだ決めていなかった。名前を考えるより先に、この部屋で翌朝を迎えなければならない。レイラは水を
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2話. 皇帝の指輪
白みがかった明け方の光が、寝殿の高いアーチ窓から流れ込んだ。レイラは一睡もしないまま夜を明かした。少し身じろぎするだけで、抱きしめている男の腕に、ぞっとするほどの力がこもったからだ。カリクスはレイラの腰に腕を回したまま眠っていた。顔の向きが変わるたび、彼女の襟に乾いた血がついた。傷だらけの体から発せられる熱と重みが、肋骨を圧迫していた。(逃げなきゃ。いいえ、今動いたら、ただでは済まない)レイラは乾いた唾を飲み込んだ。下敷きになった腕を少し抜こうとしても、指先が言うことをきかなかった。一晩中同じ姿勢で抱き込まれていたせいで、肩から痺れていた。レイラは目だけを窓へ向けた。朝の光が差していることが、嬉しくもあり、怖くもあった。夜が明ければ、誰かが必ずこの部屋に入ってくる。外にいる者たちは、自分を皇帝の腕から引き離そうとするだろう。そのとき、皇帝はおとなしく手を離すだろうか。レイラは遠くに落ちた下女の頭巾を見て、目をそらした。今さら髪を隠すこともできない。誰が入ってきても、皇帝より先に口を開いてはいけなかった。自分が恋人だという話は、皇帝の口から出なければ信じてもらえないのだから。そのとき、寝殿の外の廊下から、重い靴音が規則正しく響いてきた。コツ、コツ、コツ。「陛下。寝殿の筆頭侍医、ヘルムートでございます。朝の煎じ薬と包帯の交換のため、入室のお許しを願います」静寂を破る老人の声に続き、鎧の触れ合う金属音が鳴った。皇室の近衛兵だ。皇帝が3週間も目覚めない危急の事態であるため、護衛の騎士たちを伴い、強引に扉を開けるつもりだった。ギイィ――。重厚な真鍮の扉が開き、侍医ヘルムートと従者たち、そして銀の甲冑をまとった近衛隊長ヴァレンが踏み込んできた。「陛下のご顔色はいかがで……ひっ!」言い終える前に、老侍医の顎がかくりと落ちた。銀の盆に載せていた薬の椀が床に落ち、けたたましい音を立てて割れた。ガシャン!「へ、陛下……?」近衛隊長ヴァレンは、目玉が飛び出しそうなほど目を見開いた。腰の剣の柄を握る手が、がたがたと震えた。寝台の上には、3週間もの間、死体のように横たわっていた帝国の支配者が、目を見開いて座っていた。しかも、血と土埃に汚れた古いリネンの服を着た、寝所付きの最下級侍女を抱きしめたまま。「貴様ら、よほど首を刎ねられたいらしいな」カ
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3話. 赤い応接室
紺色の絹が素肌に触れ、ひんやりとした。レイラは肩をすくめたが、鏡の向こうで侍女が見ていることに気づき、背筋を伸ばした。コルセットが肋骨を締めつけ、ルビーのチョーカーが首にずっしりとかかっていた。古びた侍女服を脱いでから、まだ数日も経っていないのに、鏡の中には貴婦人が立っていた。たこが残る手と、首を飾る宝石だけが、ちぐはぐに見えた。母が生きていたら、この姿を見て何と言っただろう。思い浮かべた途端に胸が痛み、レイラはドレスの皺を伸ばしていた手を止めた。金糸で薔薇を刺繍した夜会服、雫形のダイヤモンドの耳飾り、そして『鳩の血』と呼ばれる最高級のルビー。首飾りの下には、皇帝の残した手の痕があった。レイラはチョーカーの触れる場所を、そっとさすった。レイラは鏡に映る自分の顔を、冷ややかに見つめた。灰色の髪の下で、緑の瞳があらわになっていた。頭巾さえかぶれたらいいのに。エステルを覚えている者に、この顔を長く見せてはならなかった。(生きなくちゃ)3年前、謀反の濡れ衣を着せられ、一族が惨殺された夜。母はまだ若かったレイラの口を塞ぎ、血に染まった手で押しやった。『生きて……どうか生き延びて。名前を捨てて、生きてちょうだい、レイラ』母に押しやられたおかげで、自分だけが生き延びた。仇を討つなど、まだ口にはできなかった。日々、名を隠して耐えるだけでも、力が足りなかった。それなのに、なぜよりにもよって、あの狂った暴君なのだろう。カリクス・フォン・ルクセンベルク。兄弟たちの首を刎ねて玉座の階段に転がし、貴族たちの血を踏んで帝位についた、帝国の殺戮者。その残酷な皇帝が、呪毒で脳を傷つけられた途端、寝所付きの侍女である自分を初恋の恋人だと思い込み、すがりついてくる。『朕のそばを離れるな。お前がいなくなれば、息もできぬ』その言葉のせいで、着替えに出るだけでも許しを求めなければならなかった。レイラはチョーカーの留め金に触れ、手を下ろした。下賜品を外した理由まで説明したくはなかった。カチャリ。背後で、応接室の扉が乱暴に開いた。そこは寝殿の前にある、専用の応接室だった。皇帝の特別な許可がなければ、誰も足を踏み入れられない場所だ。規律など眼中にないとばかりに、傲慢な足音が大理石の床に響いた。「皇帝陛下の寝殿に、鼠にも劣る女が入り込んだと聞きましたが……本当だったのです
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4話. 記憶にない口づけ
応接室の大理石の床を濡らしていた血の跡は、一晩のうちに跡形もなく拭い去られた。扉を取り替える職人たちまで声を潜めていた。応接室の前を通る侍従たちは、中を見ないようにうつむいた。ヘッセン侯爵家の家臣が手首を砕かれ、引きずり出された一件は、たちまち宮廷貴族たちの間に広まった。もう、レイラの前で卑しい侍女などと口にする者はいなかった。侍女たちは目をそらし、廊下で出くわした侍従たちは話をやめた。レイラは人の退いた道を足早に通り過ぎた。(私を怖がっているわけじゃない。あの人のせいよ)レイラは寝室の扉に鍵をかけ、寝台の柱の下にある隠し穴を開けた。カリクスが毎日のように与える献上品。血の臭いのする手で彼女の髪に挿していた宝石が、そこには詰まっていた。レイラは大きく目立つ装飾品には手をつけなかった。皇室の紋章が刻まれた品など、盗品商ですら引き取れない。代わりに集めたのは、刻印のない最上級の無色ダイヤモンドの裸石を3粒、血の赤よりも淡い色をした小さなルビー、それに帝国中央銀行が発行した無記名金券を10枚だった。金券一枚につき100万リュート。帝国南部の小都市で小さな屋敷と農場を買っても、一生不自由なく暮らせる大金だった。(皇帝の記憶が戻る前に、このお金を持って国境を越えなくちゃ)レイラは薄い革の袋に宝石と金券を押し込んだ。そして古びた侍女服の裾の裏に縫いつけ、しっかりと隠した。針が布を貫くたび、指先に繊維の引っかかる感触が伝わった。レイラは袋が片側に寄らないよう、内側の縫い目に沿って押さえた。表に出たしわを伸ばしては、もう一度折りたたんでみた。ドレスを着ているときと侍女服を着ているときでは、同じ物でも体に触れる位置が違った。宝石をまとめて握ると、かすかにこすれ合う音がした。彼女は袋を手のひらで包み、その音がどこまで聞こえるかを確かめた。どれほどの財産を集めても、門番の前で裾をめくられれば、ただの紙切れと石ころにすぎない。縫い終えると、まず糸の端を内側に隠した。金が用意できたなら、次は逃げ道だった。午後になると、寝所に薬草や香油を納める下級侍従のギレンが、頭を垂れて入ってきた。ギレンは数日前から、敷居の向こうでためらいながら様子をうかがっていた男だった。「……レイラ様、ご用命のラベンダーオイルでございます」レイラは冷ややかな目で扉の外の様子を確かめ
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5話. 真夜中の招待
「温室に何の花が咲いていたか、覚えているか?」カリクスはそう尋ねたあとも手首を放さなかった。レイラが少しひねると、彼の指の関節に力がこもった。彼女は動きを止めた。彼はもう目を閉じて痛みに耐えるだけではなかった。顔をそむけようとしても、視線が追ってきた。「答えてみよ、レイラ」カリクスがゆっくりと上体を傾けた。冷たい血の臭いとともに、猛獣の熱い吐息が頬をかすめた。「なぜ黙っている?」「……陛下」「思い出せぬのか。それとも……」彼の親指が手首の内側を押さえた。レイラは速まる脈を指先で感じ取られるのが怖かった。落ち着いた顔を作ろうとするほど、つかまれた場所でいっそう強く血が脈打った。「温室での夜を忘れたのか?」カリクスの口の端が、冷ややかに歪んで持ち上がった。「あれほど朕にすがっていたお前が、あの夜の花を忘れたはずはあるまい」(試しているの?)レイラは彼の表情に答えを探した。薔薇にせよ百合にせよ、名前を口にした途端、彼の記憶と合っているか待つことになる。けれど、自分は彼と温室で口づけを交わしたことなどなかった。初めての口づけという話自体が罠なら、どの花を選んでも間違いだった。覚えていないと言って逃げることもできない。手首を放さない彼は、答えを求めていた。(逃げ場はない)相手を、引き返せない泥沼に引きずり込まなければ。レイラは震える唇をそっと噛み締めた。そしてカリクスの赤い目を避けず、まっすぐに見返した。澄んだ緑の瞳に、ゆっくりと涙が浮かんだ。先に涙がこぼれるよう、しばし口を閉ざした。カリクスの視線がつかんでいる手首に落ちると、レイラは目を上げた。悔しさのあまり、答えることさえできないように見せなければならなかった。「……花、とおっしゃいましたか?」レイラの声が、乾いてかすれた。カリクスの眉がわずかに動いた。「そうだ。朕とお前がともにいた温室に咲いていた……」「どうして、そのような残酷なことをお尋ねになるのですか?」レイラが言葉を遮った。問いの答えを待っていたカリクスの方が、口を閉ざした。手首を握る力が少し緩んだ。「……何だと?」「陛下にとってあの夜は、たかが花などを眺めていた、美しい思い出として残っているのですか?」涙が一粒、頬を伝った。「あの夜、温室の床を赤く染めていた、あふれるほどの血をお忘れなのですか?
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6話. 生き延びた騎士
ぱさり。燃え残った小さな羊皮紙の切れ端が、レイラの指先で崩れた。(今夜の真夜中、第3密輸水路倉庫)レイラは灰のついた指先を払った。倉庫の場所と約束の時刻を思い返した。脅迫状を消しても、真夜中までに行かなければならないという条件は残った。皇宮の秘密の通路を牛耳る闇市場の商会、『灰色の鴉』。彼らはギレンを通じ、皇帝の恋人が皇宮を離れようとしていることと、金券の枚数を知った。名前まで突き止めているかは、会ってみなければわからなかった。「レイラ様、皇室の宝物庫より届いた下賜品の目録でございます」侍女長が腰をかがめ、金色の羊皮紙の書類を差し出した。寝殿の前庭には、螺鈿細工の箱が60個、ずらりと並んでいた。南海の大粒の黒真珠の首飾り、銀糸で織ったドレス、そして血よりも赤いルビーのティアラ。数日前にヘッセン侯爵家の家臣を踏みにじったカリクスが、今日、正式に専属の愛妾に任じたレイラへ惜しげもなく贈った品々だった。「すべて倉庫へしまっておいて」レイラは目もくれず、低く答えた。その視線は、窓の外の鎧姿の近衛兵たちに向いていた。カリクスは彼女を守ると言って、護衛の騎士を2倍に増やした。警備が交代するときも、誰かが寝殿の扉の前に残っていた。(真夜中には出なければ)レイラは巡回日誌の内容を思い返した。交代時刻、北の回廊から西側の水路へ続く道には、15分の隙があった。その間に回廊を抜けなくてはならない。帰り道は、巡回が通り過ぎてから改めて様子を見る必要があった。窓の外で、鎧のぶつかり合う音がした。レイラは音が遠ざかる方向を目で追った。巡回日誌の隙を知っていることと、実際にその道を歩くことは違った。戻るまでの時間を残さなければならず、途中で見つかっても、来た道を駆け戻るわけにはいかなかった。彼女はソファの布地に爪を押しつけた。約束の倉庫に行けたとしても、相手に金だけ奪われればそれまでだ。しかし脅迫状を受け取った今、行かない場合の危険も同じくらいはっきりしていた。皇帝が政務を終える前に、表情を整えなければ。逃げようとしているのを顔に出したまま、彼を迎えるわけにはいかなかった。そのときだった。どん、どん、どん!寝殿の応接室の真鍮の扉が、荒々しく鳴った。皇帝の黙認すら得ずには近づけない一角に、無遠慮な足音が押し寄せた。「皇太后陛下による、後宮府の監察勅令で
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7話. 寝殿への帰還
床に落ちた刃が動きを止めた。レイラはドアノブを握ったまま、男の顔をうかがった。黒い毛皮のマントからのぞく顎の線は、記憶の中と変わらなかった。左頬の傷痕だけが見覚えのないものだった。手を伸ばせば届く距離にいるのに、うかつには近づけなかった。皇宮の廊下でも、似た後ろ姿を見かけて足を止めたことがあった。そのたびに、振り向いたのは別の顔だった。今度も先に名前を呼んでしまったあとで、人違いだと告げられるのが怖かった。レイラは男が取り落とした短剣に目を落とした。銀の薔薇が刻まれた短剣。その紋様を自分が見抜いたことよりも、彼が自分の声を聞いて刃を手放したという事実のほうが、信じがたかった。3年前、屋敷を覆っていた煙が脳裏によみがえった。『お嬢様、どうか生き延びて、国境をお越しください!』背後から聞こえたその言葉を最後に、レイラは彼の生死を知らずにいた。戻って確かめることもできなかった。長いあいだ思い出すまいとしてきた顔に、今、格子窓からの月明かりが差していた。口の中が渇き、名前がすぐには出てこなかった。レイラはドアノブから手を離し、今度は彼の目を見て呼びかけた。「ケイラン卿」男の体がびくりと震えた。何か言おうと口を開いたが、最初は荒い息が漏れただけだった。ほんのひと言の返事を待つあいだ、レイラは、これまで自分を支え続けてきた逃亡への思いを一瞬忘れた。「そのお声……まさか……」レイラは古いリネンの頭巾を取った。隠れていた灰色の髪が肩へと流れ落ちる。ケイランはその髪と緑の瞳を交互に見つめた。「お……お嬢様……?」彼は膝をついた。床についた手の甲に筋が浮かんだ。顔を上げかけてはまた伏せることを繰り返し、ついにこらえていた嗚咽を漏らした。「本当に……公爵家のお嬢様なのですか? 生きて……生きておいでだったのですか?」レイラは男の顔をじっくりと見つめた。傷痕が走る場所にも、覚えている面影が残っていた。一度名前を呼んだだけで信じてはいけないと思いながらも、ひざまずいた彼の肩を見ていると、長く胸の奥にしまい込んでいた呼び名が口の中によみがえった。皇宮では、誰も自分をお嬢様とは呼ばなかった。その言葉を聞いた瞬間、侍女の頭巾の下に隠してきた顔が、すべてあらわになった気がした。うれしさに声を上げて外へ漏れてはならない。レイラは口を閉じ、先に手を伸ばした。彼の肩に触
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8話. 明日、はめられる足枷
「朕が眠っているあいだ……この夜更けに、一人でどこへ行っていたのだ?」長剣から滴った血が床に広がった。カリクスは壁際に追い詰めたレイラの前をふさいでいた。彼女が顔をそらすと、顎をつかむ手もそちらへ動いた。「答えろ、レイラ」カリクスがつかんだ顎をさらに持ち上げた。「へ、陛下……うっ」「門番にも知られず寝所を抜け出し、闇の中をうろついていたのはなぜだ?」「それは……まずは私の話をお聞きください」「言え! 朕を置いて……よもや朕を捨てて逃げようとしたのか!」「……逃げるなどと、何をおっしゃるのですか?」細かく震えるレイラの唇から、かすれた声がこぼれた。侍女服のスカートの裾の内側には、1,000万リュートの金券が隠してあった。ケイランが身分証を用意し終えるまで、見つかってはならなかった。体を調べられれば、その場で処刑される。カリクスの手に恐ろしいほどの力がこもった。「では、この時刻にどこへ行っていたというのだ!」「陛下のために行ってまいりました!」「何だと? 朕のためだと申すか?」「どうか手を……手をお放しください。息ができません……」「お前の息が詰まることが何だというのだ! 朕は今、全身をずたずたに引き裂かれる思いだというのに!」カリクスは唸り、顎を握る手にいっそう力を込めた。「目覚めたとき、お前の消えた寝殿がどれほど地獄のようだったかわかるか! 朕を欺こうとするな!」「欺いてなどおりません、陛下! どうか私の気持ちをお聞きください!」「気持ちだと? 漆黒の闇に一人で消えることが、お前の本心だというのか!」レイラの目元から澄んだ涙がこぼれ、カリクスの手の甲を濡らした。涙が触れると、カリクスの指がわずかに震えた。レイラはその隙に手を懐へ動かした。裾の金券に触れてはならない。手前に入れておいた薬草袋の紐だけを、指先で探った。その隙を逃さず、レイラは懐から小さな毛織りの袋を取り出し、床へ落とした。するり、ぽとり。袋の口がほどけ、強い薄荷の香りを放つ青い薬草の葉がこぼれ出た。「これは……いったい何だ?」「銀青草です」「銀青草?」「呪術による激しい片頭痛を鎮める、唯一の薬草です」レイラは胸元をかきむしり、激しく咳き込んだ。「ごほっ、ごほっ……皇室の薬材室の奥にしか保管されていない、貴重な薬草なのです」「なぜお前が侍
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9話. 閉ざされた逃走路
白みがかった朝日が、寝殿の赤い絨毯に冷たく差し込んだ。皇室の筆頭金細工師が、震える手でベルベットの箱を開けた。箱の中には、繊細な蔓模様を浮き彫りにした、純金のアンクレットが収まっていた。細く滑らかな金色の輪の内側には、肉眼では判別しがたいほど微細な古代ルーン文字が、びっしりと刻まれていた。皇宮の魔塔による空間追跡魔法と、皇帝の寝殿の結界を連動させた、呪術の足枷だった。「レ、レイラ様……失礼いたします」金細工師は額を床につけて深々と頭を下げ、レイラのスカートの下へ手を伸ばした。金属が足首を囲んだ。カチリと、二重の留め金がかみ合う。レイラがつま先を引くと、輪の内側がくるぶしに触れた。カリクスは寝台のそばでその様子を見守り、微笑んだ。「美しい」カリクスは膝を折り、大きな手のひらでレイラの足首を包み込んだ。「これでよい。もうお前は、朕の許しなく、この寝殿の敷居を一歩たりとも越えられぬ」「陛下……」レイラは唇を震わせ、うつむいた。金細工師の手が退くと、輪の継ぎ目が見えた。上側の蝶番には隙間があり、その横にスプリングピンが隠されていた。(魔法を破らずに、留め金だけを開けられれば)公爵令嬢だったころ、宝石箱や魔道具を分解して遊んだ記憶をたぐった。魔法は輪の内側に刻まれている。レイラはヘアピンを差し込める隙間と、留め具のピンを押し出す方向を、順に目に焼きつけた。蝶番の仕組みを理解することと、今ここで開けることは別だった。目の前では金細工師が平伏し、カリクスの手は足首のあたりを包んでいた。レイラは輪を見つめていた目を先に伏せた。何かを見抜いた顔をしてはならなかった。冷たい輪が動くたび、足首の骨に当たった。彼女はその感触を覚えておこうとした。あとで暗闇の中、手探りで留め金を探すとき、どちらへ回せばいいのか。ほんの短いあいだに、目だけで見極めなければならなかった。皇帝が美しいと言った品を前に、彼女はこれで扉の外へ出られるのかを真っ先に考えた。レイラはうつむき、カリクスの肩に額を埋めた。「陛下にご安心いただけるのなら……私は喜んで、この足枷を受け入れます」従順な女を装った偽りの告白に、カリクスの赤い瞳が優しく和らいだ。「いい子だ、レイラ。望むものは、この世の何であろうと与えよう」そのときだった。寝殿の外の廊下に、切迫して高ぶった皇室の伝令の声
last updateآخر تحديث : 2026-11-03
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10話. 毒入りの祝杯
ぱち、ぱちぱち。暖炉の炎が揺れた。ギレンは体勢を整えてから、ようやく握っていた手を開いた。手のひらには、血のついた羊皮紙の切れ端が貼りついていた。レイラは端が破れないよう、ゆっくりとはがした。[拠点は壊滅しました。差し押さえを免れた補給所の荷車を確保しました。真夜中、西門の干し草補給所の裏路地でお待ちしております。検問を避ける道は、まだ探しているところです。]ケイランの字だった。最後に近づくほど、一画一画が短くなっていた。待ち合わせ場所へ行けば、すぐに国境を越えられるわけではない。それでも、傷ついた彼を一人残してはおけなかった。レイラは羊皮紙を折り、衣服の内側へしまった。「レイラ様、どうか出ていかないでください……!」床にひれ伏した侍従ギレンが、涙まみれですがりついた。「ヘッセン家の連中が、西門一帯にびっしりと私兵を配しています! 外へ出たら、命はありません!」「いいえ」レイラは金貨の袋を取り出し、ギレンに渡した。「ケイラン卿は傷ついたまま待っているの。あの人を置いて、私一人だけ助かろうとは思えない」ギレンが口を開きかけると、彼女は先に言葉を続けた。「宴が始まったら、私は出ていくわ。あなたはこのお金を持って逃げて。ここにこれ以上いたら、あなたまで捕まってしまう」ギレンはそれ以上言葉を継げず、涙をのみながら闇の中へ退いた。レイラは鏡の前へ戻った。星雲絹で仕立てた黒いドレスと、『光の涙』の首飾りが火の光を受けた。スカートの裾の内側には、1,000万リュートの金券とヘアピンが隠してあった。美しく見えるかどうかよりも、支障なく歩けるかが大事だった。彼女は袋が浮かないよう、衣服の内側を押さえた。レイラは鏡の前で体をひねった。大きく広がったスカートが足首を包むと、片側を手でたくし上げた。階段でも、これくらいは持ち上げなければならない。隠してある紙まで一緒に持ち上がって見えないかを確かめ、滑る絹をつかむ位置を変えた。首飾りの重みで、首を回す動作まで遅くなっていた。彼女はその感覚を覚えてから、手を下ろした。宴の席では不自由さを顔に出せない。皇帝が宝石で飾り立てながら期待していた表情を見せなければならなかった。そうしてこそ、彼が自分の様子を見ているあいだも、時計や出入り口を確かめられる。***ドォン! ドォォン!皇宮の上空に、色鮮やかな祝砲が
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