تسجيل الدخول消されたテレビの画面が、真っ黒な闇となって私たちを映し出している。
嵐のようなフラッシュと怒号が消え、リビングには耳が痛くなるほどの静寂が戻った。
「……何も、具体的には言わなかったですね」
神崎さんが、困惑したように呟いた。
「証拠も出さず、ただ疑惑があると。つまり──」
「椿の狙いは段階的だ」
氷室様の声が、低く響いた。
「一度に全てを暴露せず、メディアの注目を持続させる。世間に『疑惑という名の飢え』を与え、俺たちが反論する言葉さえ『言い訳』として処理される土壌を作っているんだ」
「なるほど……」
神崎さんが、息を呑んだ。
椿さんは、今日の記者会見で種を蒔いた。世間の注目を集め、期待を高めた。そして、近日中に全てを刈り取るつもりなんだ。
「明日の午後2時、予定通り氷室グループ本社で記者会見を開く」
氷室様の声が、断固としていた。
「椿が次の手
2月12日。午前6時30分。結局、私はあのあと数時間しか眠れなかった。カーテンを開けると、朝日が昇り始めている。今日、記者会見の日。胸に手を当て、深呼吸をする。大丈夫。蓮さんが、一緒にいてくれるから。私は、ベッドから起き上がった。鏡の前に立つと、そこには決意に満ちた表情の自分がいた。昨夜、蓮さんと想いを伝え合った。もう、迷わない。私は、蓮さんを愛している。蓮さんも、同じように私を愛してくれているから……それだけで、十分。世間がどう言おうと、私は彼のそばにいる。その時、スマホが鳴った。メッセージの通知。恐る恐る見ると、SNSのニュース通知だった。『拡散中:氷室蓮の婚約者は借金まみれの元家政婦。純愛を装った「売名行為」の全貌とは?』椿さんの昨日の会見を受けて、ネット上では私の過去が歪められていた。「……っ」私がどう思われようと、構わない。けれど、蓮さんまでもが『女に騙された愚かな経営者』として嘲笑されている。「違う……蓮さんは、そんな人じゃない!」私は、思わずスマホを握りしめた。自分のことなら耐えられる。けれど、私のために全てを賭けてくれている彼を、汚されることだけは許せなかった。私は、スマホを勢いよくテーブルに置いた。部屋を出てリビングに行くと、蓮さんが既にいた。彼も、同じニュースを見ていたようだ。「咲希……」蓮さんが、心配そうに私に目を向ける。私は、蓮さんのそばに歩み寄った。「蓮さん……」声が震えた。情けない。昨夜あれほど決意したのに、現実の悪意の前では心が揺らいでしまう。「蓮さん、私たち……こんなに叩かれて、本当に戦えるんでしょうか」
はじめは、壊れ物に触れるような慎重な口づけ。けれど次の瞬間、氷室様の腕が私の背中に回り、強引に身体を引き寄せられた。「……っ」キスが深くなる。驚きに開いた唇の隙間から、彼の熱い体温が、切実な吐息が、容赦なく流れ込んでくる。これまでずっと、この温もりを求めていたのだと、魂が震えるような感覚に陥った。ずっと届かないと思っていた、彼からの情熱。それが今、私の全身を甘く溶かしていく。独りよがりな恋ではないのだという確信が、痛みを感じるほどの喜びとなって胸の奥で弾けた。氷室様の手が、私の髪にそっと触れる。指先が耳の後ろをなぞり、うなじへと滑り落ちる官能的な感触に、背筋がゾクリと震えた。私も本能のまま、氷室様の背中に手を回し、シャツの生地を掴んだ。氷室様の体温が、私を包み込む。心臓の音が、二人分聞こえるような気がした。氷室様の唇が、ほんの少しだけ離れた。「咲希……」吐息混じりに、私の名前を呼ぶ。その声は、甘く、切なく、愛おしさに満ちていた。「氷室……様」かすれた声で応えると、彼は耐えかねたように瞳を細め、再び唇を重ねてきた。今度は、さらに深く。互いの息遣いが絡み合い、舌先が触れ合うたびに、頭の芯が真っ白に痺れていく。氷室様の指先が、私の背中をゆっくりとなぞった。薄い衣服越しに伝わるその軌跡が、まるで火をつけるように熱い。私の身体が、自然と氷室様に預けられていく。氷室様もそれを受け止めるように、壊さんばかりの力で私を抱きしめた。やがて、ゆっくりと唇が離れた。「……はぁ……」甘い吐息が、唇から漏れる。目を開けると、氷室様が優しく微笑んでいる。その瞳には、深い愛情と──まだ冷めやらぬ熱が宿っていた。氷室様がこつんと、額を合わせる。
「咲希……」「契約だったはずなのに、いつの間にか本気になっていました。最初は、確かにお金のためでした。だけど……」私は、氷室様を真っ直ぐ見つめた。「今は違います。お金なんて、どうでもいい。私は、氷室様のそばにいたい。ただ……それだけです」まつ毛に雫が溜まっていく。「たとえ、一円ももらえなくても。たとえ、世間から非難されても……私は──」そこまで言った瞬間、氷室様が私を抱きしめた。「……っ」突然のことに、息が止まる。氷室様の腕が、私を強く抱きしめる。その腕には、壊れ物を守るような切実さと、誰にも渡さないという独占欲が込められていた。密着した胸元から、彼の速い鼓動がドクドクと伝わってくる。「……っ、氷室様……」彼のサンダルウッドの香りが、私を包み込む。このまま時が止まればいいと思うほど、彼の体温は熱く心地よかった。「咲希……」氷室様の声が、耳元で響く。その声は、わずかに震えている。「ありがとう」小さな声だけれど、深い感情が込められていた。「俺も……君を愛している」その言葉に、涙が止まらなくなった。氷室様も、私と同じ気持ちだったんだ。ずっと、暗闇の中を一人で歩いているような心地だった。「契約」という名前の鎖に縛られ、本心を隠し、いつか来る終わりの日に怯えていた毎日。けれど今、彼の腕の中で、その鎖が音を立てて解けていくのが分かった。「咲希」氷室様が、私の名前を呼ぶ。「何度も君を失うかもしれないと思った。契約が終われば、君は自由になって、俺のそばを去るんじゃないかと」氷室様の声が、かすかに揺れる。「
2月12日、午前2時。ベッドの中で何度寝返りを打っても、眠りは訪れなかった。夜10時に神崎さんが帰り、氷室様と原稿の最終確認を終えてから、もう4時間が経つ。朝が来たら、世界中のメディアの前で真実を語る。世間が、私たちをどう見るのか……そう思うと怖い。でも、それ以上に──氷室様の本当の気持ちが分からないことのほうが、私を不安にさせていた。私は彼を愛しているけれど、氷室様は?契約が終わったら、私はどうなるんだろう。私は、たまらずベッドを抜け出した。◇リビングに行くと、灯りがついていた。恐る恐る中を覗くと──氷室様が、ソファに座っていた。夜景を眺めたまま、じっと。「氷室様……」私が声をかけると、氷室様は振り返った。「咲希……まだ、起きていたのか」「はい。眠れなくて」「俺もだ」氷室様は、少しだけ苦笑した。私は、氷室様の隣に腰をおろした。二人で、ガラス越しに広がる夜景を眺める。東京の夜景が、静かに広がっていた。無数の光が瞬いているが、その光はどこか遠く、冷たく感じられる。「明日……」私が口を開くと、氷室様も同時に口を開いた。「明日……」二人、顔を見合わせて、小さく笑った。「先にどうぞ」氷室様が、優しく言った。「いえ、氷室様から」「そうか」氷室様は、少しの間考えてから、ゆっくりと口を開いた。「明日、全てが変わるだろう」その声が、静かだった。「真実を語れば、契約は終わる。君は……自由になれる」自由──。その言葉が、胸に刺さった。「もう、俺のそばにいる理由はなくなる」氷室様の声が、少しだけ寂しそうに聞こえた。「氷室様……」「咲希」氷室様が、私を見た。その瞳には、複雑な感情が揺れて
消されたテレビの画面が、真っ黒な闇となって私たちを映し出している。嵐のようなフラッシュと怒号が消え、リビングには耳が痛くなるほどの静寂が戻った。「……何も、具体的には言わなかったですね」神崎さんが、困惑したように呟いた。「証拠も出さず、ただ疑惑があると。つまり──」「椿の狙いは段階的だ」氷室様の声が、低く響いた。「一度に全てを暴露せず、メディアの注目を持続させる。世間に『疑惑という名の飢え』を与え、俺たちが反論する言葉さえ『言い訳』として処理される土壌を作っているんだ」「なるほど……」神崎さんが、息を呑んだ。椿さんは、今日の記者会見で種を蒔いた。世間の注目を集め、期待を高めた。そして、近日中に全てを刈り取るつもりなんだ。「明日の午後2時、予定通り氷室グループ本社で記者会見を開く」氷室様の声が、断固としていた。「椿が次の手を打つ前に、こちらから真実を語る」「かしこまりました」神崎さんは、すぐにスマホを取り出した。氷室様は、ガラス越しに広がる東京の街並みへ視線を向けた。その背中が、孤独に見える。「氷室様……」私が声をかけると、氷室様は振り返った。「咲希、怖いか?」その問いに、私は正直に答えた。「はい。すごく怖いです」氷室様は私の元に来て、両肩に手を置いた。「でも、逃げません」私は、氷室様を真っ直ぐ見つめた。「明日、真実を語ります。氷室様と一緒に」氷室様の目に、驚きが浮かんだ。そして、柔らかな表情を浮かべた。「ありがとう」小さな声だけど、その声には深い感謝が込められていた。冬の空が、少しずつ暗く曇り始めていた。明日──私たちは、世界に向かって真実を語る。世間がどう反応するかは、分からない。非難され
『本日は、お集まりいただきありがとうございます』椿さんの声が、リビングに響く。落ち着いていて、まるでこれから起こることを完全にコントロールしているかのような口調だった。『私、立花椿は、氷室グループ社長、氷室蓮氏の婚約について、重大な疑惑があることを発表いたします』その瞬間、記者たちが一斉にメモを取り始めた。私の呼吸が、止まった。氷室様の手が、私の手を握り潰さんばかりに力を込める。来る──椿さんの攻撃が今、始まる。『氷室蓮氏は、来る2月14日に婚約を正式発表すると宣言されました』椿さんは、カメラを真っ直ぐ見据えている。『しかし──この婚約には、看過できない疑惑が存在します』椿さんの声が、一段と鋭くなった。記者たちが、身を乗り出す。『婚約者とされる森川咲希さんは、元々氷室蓮氏の家政婦として雇われていました』フラッシュが一斉に焚かれた。私は、息を呑む。指先が氷のように冷たくなり、足元から崩れ落ちそうな感覚に襲われた。もう、隠せない。椿さんは、全てを知っている。テレビの中の椿さんの微笑みが、死神の鎌のように見えて──。『二人の関係は、雇用主と従業員。そこから、突然の婚約──』椿さんは、一拍置いた。その間が、恐ろしく長く感じられる。『これは、何らかの契約に基づいたものではないでしょうか』「それはつまり、契約結婚ですか!?」「証拠はあるんですか!?」記者たちの声が、飛び交う。しかし、椿さんは何も答えなかった。ただ、唇の端を持ち上げている。記者たちの混乱を、楽しんでいるかのように。『詳細については、近日中に全てを明らかにいたします』その言葉に、リビングの空気が凍りついた。「近日中……だって?」神崎さんが、信じられないというように呟いた。「今日、すべてを暴露するんじゃないのか!?これでは世間は、答え合わせを待ち望む観客になっ
「……気にするな。ちょっと、不手際があっただけだ」氷室様は気まずそうに顔を背けた。もしかして、このおかゆを作ってくれるときに?普段、何億円という契約書にサインをするその指が、私のために慣れない包丁を握り、鍋を火にかけ、傷ついたなんて。その事実が、胸の奥をぎゅーっと締め付けた。「冷めないうちに、早く食べろ」有無を言わさぬ声だけれど、優しい。まさか、食べさせてもらえるなんて。私は恥ずかしさと熱で顔が真っ赤になるのを感じたが、逆らえず口を少し開けた。
1月1日、元日。年が明け、新年が始まった。私は朝早くから、キッチンに立っていた。おせち料理を用意するためだ。昨日から少しずつ準備していた、黒豆、数の子、田作り、紅白なます、伊達巻。それらを一つ一つ、丁寧にお重に詰めていく。実家でのお正月は、いつも忙しかった。旅館に泊まっているお客様のために、母と一緒におせちを作った。あの頃を思い出しながら、私は残りの料理を続けた。10時を過ぎた頃、氷室様がキッチンに現れた。黒いセーターに、グレーのパンツ。
【蓮side】咲希が眠った。穏やかな寝息が聞こえる。俺は椅子に座ったまま、彼女を見ていた。頬が少し赤い。熱で、火照っているのだろう。額にかかる髪を、そっと払う。柔らかい。驚くほど、柔らかい。今朝、彼女がリビングに現れなかった時、胸が冷たくなった。何かあったのか、どこかへ行ったのか。こんなふうに、誰かのことで不安になったのはいつぶりだろう。部屋のベッドで苦しそうに眠る咲希を見つけ、彼女の額に触れた瞬間、俺は焦った。医者を呼ぶことすら忘れて、パニックになった。俺は近所の薬局に走り、慣れない手つきでスマホを見ながら、おかゆを作った。米の研ぎ方すら怪しく、火加減を間違えて鍋を吹
12月下旬。年の瀬が近づき、東京の空は厚い雲に覆われていた。冷たい雨が降り続き、街全体が灰色に染まっている。寒い。本当に、寒い。私は、ベッドの中で体を丸めていた。喉が、針で刺されるように痛い。頭痛が、脈打つように響く。昨日の夜から体調がおかしかった。でも、大丈夫だと思っていた。一晩眠れば、治る。そう信じていた。それなのに――朝になっても、体は動かなかった。◇いつもなら、6時には起きる。朝食の準備をして、氷室様を待つ。それが、私の日課だった。でも、今日は起きられな







