LOGIN「……大樹、待って。一階へ下りる前に、図書室に寄りたい。」 階段の踊り場で、僕は大樹のシャツの袖を掴んで引き止めた。暗闇の中、大樹が怪訝そうに眉を寄せるのがわかる。 「図書室?」 「調理室の物資が新しすぎたのが気になるんだ。 ここがもし、僕の知ってる脱出ホラーと同じ構造なら、管理者の意図がどこかに残ってるはずなんだよ。 図書室なら、この場所の成り立ち……攻略本みたいなものがあるかもしれない。」 僕の必死な目つきに、大樹は短く鼻から息を抜いた。 「……分かった。 お前の勘に賭ける。スポーツマンはデータに弱いからな、分析は任せた。」 僕たちは音を殺し、一歩ずつ慎重に階段を下りた。 一段踏みしめるたびに床がミシィと、微かな悲鳴を上げる。 たどり着いた図書室の扉のガラス窓から中を覗き込むと、そこは外の腐敗した廊下とは対照的に、寒気がするほど整然としていた。 扉に手をかけ、そっと押し開ける。 ギィ。と静寂を切り裂く微かな軋みが、心臓を直接掴まれたように響いた。幸い、あの忌まわしい大鎌を引きずる音は聞こえてこない。 中に入ると、空気の密度が一段と重くなった気がした。 棚の本を一目見て、僕の確信は深まる。 背表紙は古びたデザインを装っているが、鼻をつくのは数十年経った古書の埃臭さではなく、刷り上がったばかりのインクの生臭い匂いだ。 「ここは廃校なんかじゃない……『廃校に見せかけた飼育箱』だ。」 棚の奥から抜き取った一冊の分厚い日誌。 背表紙には『特別管理記録・第二期』と無機質なフォントで記されていた。 ページをめくった瞬間、視界が真っ赤に染まるような錯覚に陥る。 《“被験者二十一名、脱落。大鎌による処理を確認。損壊部位:頭部、腹部。清掃完了”》 《“三名の生徒、保健室にて待機。翌朝、全員消失。処理班へ引き継ぎ”》 文字の羅列が、僕らの命を単なる「消費期限付きのデータ」として扱っている。 「ユーリ、こっちもだ……!これ、実況記録かよ……っ!」 大樹が震える手で持ってきたノートには、過去の犠牲者たちの断末魔が評価とともに綴られていた。 《“女子生徒二人、三階廊下で逃走。十秒後に捕縛。頭部損壊。絶望顔の評価:特上”》 ……山寺さんも、川村もさんも。あんなに必死に生きたいと願って、無
血と内臓の匂いを全身に纏ったまま、僕はふらつく足で調理室へ向かった。唐辛子の補充もしないといけない。 唐辛子の瓶を握りしめる手は死人のように冷たく、脂汗で濡れている。視界の端には、まだ床一面を赤黒く汚した山寺さんの無惨な残骸と、虚空を睨んだまま転がった川村の頭部が、脳内に焼き付いた呪いのように離れなかった。 「……大樹……。」 調理室の更に奥にある準備室の重い扉を震える指で押し開けると、闇の中から大樹が弾かれたように立ち上がった。 「ユーリ!お前、生きてたのか……!」 駆け寄ってきた大樹の表情は、心底ホッとしたものだった。だが、僕の唇は自分でも制御できないほどに震え、言葉が形をなさない。 「……僕のせいだ……。僕があいつを怒らせたから……。」 「は?何言ってんだよ……。」 「さっき、廊下で……山寺さんと、川村が……。僕が、唐辛子なんて投げて余計に殺人鬼を刺激したから……! あいつ、狂ったみたいになって八つ当たりで二人を……っ!」 震える声で、見てしまった惨劇を絞り出す。 肉を断つ音、床にぶちまけられた温かい腸。自分たちの代わりに解体された同級生たちの最期。 この前まで普通の日常を過ごしていた。 山寺さんは、昨日「今度の日曜、有栖も誘うから一緒にカラオケ行こうよ!」って、僕にまで声をかけてくれた。川村さんだって、数学の宿題を写させてくれって、あんなに情けない顔で笑っていたのに。 あんなに鮮やかだった彼らの未来が、今はもう、殺人鬼に残虐に殺され、赤黒い肉の塊でしかない。 名前も、声も、思い出も。すべてが解体されて、ただのゴミみたいに廊下にぶちまけられたんだ。 僕は堪え切れず、喉の奥から嗚咽が漏れた。 大樹は目を見開き、次の瞬間、唇を血が滲むほど強く噛みしめた。 大樹も知っているのだ。 山寺さんが文化祭で一生懸命ダンスの練習をしていたことも、川村さんが部活の帰りに「腹減
廊下を駆け抜ける。 月明かりの射さない闇の中で、僕と大樹の足音だけが異様に響き渡っていた。 いや。違う。 背後からも確かに、逃れようのない死の音が追ってきている。 壁を耳障りにこする金属音。地を割るような重苦しい足音。 巨躯が愉悦に肩を揺らし、大鎌を引きずりながら迫る音だ。 「はっ、はっ……大樹……どっちに逃げる!?」 「いいかユーリ、二手に分かれるぞ! 俺は野球部で鍛えてるから俺が囮になって引きつける!お前はその隙に逃げろ!!」 大樹は叫び、僕を突き飛ばすようにして反対の階段へと駆け出そうとした。 だがその瞬間、殺人鬼の呪詛のような数え声が重なった。 「……はぁぁーち、きゅうぅぅぅ……。」 長く引き延ばされた粘りつく声が、廊下中に反響する。すぐ後ろにいるはずなのに、まるで耳元で直接囁かれているように感じる。 「じゅうぅぅぅ……。」 刹那。 背後で空気が裂ける轟音がした。 大鎌の刃が壁ごと床を叩き割り、砕け散ったコンクリートの礫が背中に突き刺さる。 「っくそっ! 行け、ユーリ、走れッ!!!」 大樹が必死に囮となって逆方向に走る。 だが…その時、僕は心臓が凍りつくような事実に気づいた。 赤い瞳は、足の速い大樹には目もくれず、明確な殺意を持って、足の遅い僕だけを執拗に追っている。 「なんで……!? なんで大樹を追わないんだ……!」 喉が焼けるほど叫びたいのに、肺が酸素を拒絶して声が出ない。 殺人鬼は捕まえやすい方から確実に狩りに来ている。効率的に、一匹ずつ、絶望を刈り取るために…….大樹が導き出した囮作戦という甘い期待を、殺人鬼は無言の足取りで踏みにじった。 図書室へ行けば勝てる?本棚を盾にする? そんな数秒前の論理的な思考は、
調理室を後にした僕たちは、影を潜めるようにして一階へ降りた。 大樹は時折、背後の闇を睨みつけながら、消え入りそうな小声で言う。 「包帯とか消毒液とか、あった方がいいんじゃないか? 傷口に菌が入ったらまずい。」 その声音は努めて落ち着いていたが、握りしめた拳の震えまでは隠せていない。 剥き出しの焦りが、暗がりにじんでいた。 だが、その冷静さに、僕は少しだけ救われる。 調理室で武器としての唐辛子は確保できたが、医療品はまだだ。いつあの巨大な鎌が僕たちの肌を裂き、肉を削ぐか分からない。 ここで次を失えば、もう終わりだ。 保健室。 白い扉を押し開けると、冷たく淀んだ空気と共に、かすかな消毒液の匂いが鼻を刺した。 棚には薬瓶がと並び、包帯も新品同様に積み上げられている。指先で棚の端をなぞってみたが、埃ひとつ見当たらない。 数分前まで血生臭い調理室にいた僕たちにとって、そこはあまりにも清潔で、そして…異質だった。 廃校のはずなのに、まるで誰かが、今この瞬間も主としてここを管理しているかのようだ。 「……ありすぎだろ、これ。」 「うん……まるで誰かが、僕たちが来るのを待っていたみたいだ。」 拭いきれない違和感が胸をかすめる。 「……やっぱり、おかしいよ。」 僕は自分の制服の袖口を見つめた。 「パジャマで寝ていたはずの僕たちが、気づけばこの制服を着せられていた。そして、この保健室だけが、クリーニングしたてのシーツのように不自然に清潔だ。 ……まるで行き届いた管理をされているみたいじゃないか。」 掃除の行き届いた棚の白さが、僕には病院の無機質な壁ではなく、食肉加工場の衛生管理のように見えて、背筋がヒヤッとした。 それでも僕は、ロッカーから見つけた鞄に、調理室で手に入れた唐辛子の粉、棚の包帯、消毒液を詰め込んだ。 その間も大樹は、何かを追い求めるようにベッドの下を探っていた。 「おい、ユーリ。ここ……地下に繋がってるっぽいぞ。」 彼が窓際のベッドを力任せにずらすと、床板の下に隠し扉が現れた。 鈍く光る冷たい金属の錠。 僕はそれに手をかけ、引き上げようとしたが、錠は肉に食い込む歯のように固く噛み合い、びくともしない。 重い沈黙が室内に流れ、諦めかけた、その時だった
「おーい、ユーリ!帰りにゲーセン寄ろーぜ!」 廊下の向こうから、鼓膜を震わせるような大声が飛んでくる。声の主は山口大樹。 短く刈り込まれた茶髪に制服のシャツをはち切れんばかりに押し上げる分厚い胸板、野球部で鍛え上げられたその体格は、教室という狭い場所ではどこか窮屈そうに見えていた。 「今日も?テスト近いから勉強しないとまずいんじゃないかな……。」 口ではそう答えながらも、僕は苦笑していた。 僕の名前は雨宮優里。みんなは僕のことをユーリと呼ぶ。 高校二年生、十七歳。黒髪の天然パーマに丸メガネ、平均的な身長はあるけれど、線が細く華奢なせいで、大樹と並ぶといつも頼りなく陰に見えてしまう。 そんな日常の風景の中に、彼女はいた。 「ユーリ、何か思い詰めてるみたいだけど、大丈夫?」 ふわりと、蜂蜜と花が混じったような甘い香りが揺らいだ。そして柔らかな声が僕を呼び止めた。 振り返ると、そこには市松人形のようなストレートヘアの漆黒の髪の少女。頬のラインで丁寧に切り揃えられたそのサイドヘアが僕の顔を覗き込んだ拍子に顔の輪郭から離れゆらゆらしている。 その古風な髪型に添えられた小さな桜の形のヘアピンが、控えめな光を反射していた。 彼女の名は、桜田有栖。 彼女が僕を覗き込み、小首を傾げた瞬間のこと、窓からの午後の日差しがその瞳に差し込む。 普段は柔らかな桜色に見えるその瞳が、光の角度によって、吸い込まれるような深い紫色へと色を変える。その神秘的な色彩の変化に、僕はいつも、自分が異世界に迷い込んでしまったかのような錯覚を覚える。 彼女は僕の机に、蜂蜜入りのお茶をそっと置く。 「……ありがとう!」 眩しすぎる笑顔。彼女は誰にでも優しい。大樹と仲が良く、……でも、大樹は以前「俺が好きなのは保健室の先生だ」なんて笑っていたっけ。 その言葉を聞いたとき僕は心底安堵した。 有栖が置いたお茶のペットボトルを僕は握りしめる。 彼女と目が合うたび、僕の心臓は場違いなほど騒がしく跳ねて、丸メガネがずり落ちそうになるのを必死に抑えなければならない。 クラスの誰もが彼女を慕っているけど、僕にとって彼女はそれ以上の意味を持っている。灰色に見える日常生活の中で、有栖だけが唯一鮮やかな色彩を持ってそこにいたから。「……本当に可愛いな