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第2話 偽りの安息

Author: 桜花桜餅
last update publish date: 2026-04-24 18:37:04

 調理室を後にした僕たちは、影を潜めるようにして一階へ降りた。

 大樹は時折、背後の闇を睨みつけながら、消え入りそうな小声で言う。

「包帯とか消毒液とか、あった方がいいんじゃないか? 傷口に菌が入ったらまずい。」

 その声音は努めて落ち着いていたが、握りしめた拳の震えまでは隠せていない。

 剥き出しの焦りが、暗がりにじんでいた。

 だが、その冷静さに、僕は少しだけ救われる。

 調理室で武器としての唐辛子は確保できたが、医療品はまだだ。いつあの巨大な鎌が僕たちの肌を裂き、肉を削ぐか分からない。

 ここで次を失えば、もう終わりだ。

 保健室。

 白い扉を押し開けると、冷たく淀んだ空気と共に、かすかな消毒液の匂いが鼻を刺した。

 棚には薬瓶がと並び、包帯も新品同様に積み上げられている。指先で棚の端をなぞってみたが、埃ひとつ見当たらない。

 数分前まで血生臭い調理室にいた僕たちにとって、そこはあまりにも清潔で、そして…異質だった。

 廃校のはずなのに、まるで誰かが、今この瞬間も主としてここを管理しているかのようだ。

「……ありすぎだろ、これ。」

「うん……まるで誰かが、僕たちが来るのを待っていたみたいだ。」

 拭いきれない違和感が胸をかすめる。

 「……やっぱり、おかしいよ。」

 僕は自分の制服の袖口を見つめた。

「パジャマで寝ていたはずの僕たちが、気づけばこの制服を着せられていた。そして、この保健室だけが、クリーニングしたてのシーツのように不自然に清潔だ。

 ……まるで行き届いた管理をされているみたいじゃないか。」

掃除の行き届いた棚の白さが、僕には病院の無機質な壁ではなく、食肉加工場の衛生管理のように見えて、背筋がヒヤッとした。

 それでも僕は、ロッカーから見つけた鞄に、調理室で手に入れた唐辛子の粉、棚の包帯、消毒液を詰め込んだ。

 その間も大樹は、何かを追い求めるようにベッドの下を探っていた。

「おい、ユーリ。ここ……地下に繋がってるっぽいぞ。」

 彼が窓際のベッドを力任せにずらすと、床板の下に隠し扉が現れた。

 鈍く光る冷たい金属の錠。

 僕はそれに手をかけ、引き上げようとしたが、錠は肉に食い込む歯のように固く噛み合い、びくともしない。

 重い沈黙が室内に流れ、諦めかけた、その時だった。

 ギィィ……。

 背後で、保健室の扉が耳障りな軋みをあげて開いた。

 全身の血が逆流し、心臓が喉までせり上がるような感覚。

 僕は反射的に、鞄の中の唐辛子を、指の関節が白くなるほど強く握りしめた。

 だが、ゆっくりと入ってきたのは、あの赤い瞳の殺人鬼ではなかった。

「……白井先生!?」

 白衣をまとった女性が立っていた。白井明音《しらい あかね》先生。僕たちの学校の保健医だ。

 いつも生徒を優しく見守ってくれた穏やかな顔立ち。

 ……けれど何かがおかしい。僕たちと同じく急に連れてこられたにしては、この埃っぽい廃校には不釣り合いなほど白衣の折り目が綺麗であった。

 そして今の彼女のその笑みの奥に、底知れない疲労と何かに対する怯えが黒く滲んでいた。

  照明のない部屋で、彼女の白衣だけが幽霊のように白く浮き上がっている。

「大樹君に……ユーリ君……よかった……生きていたのね。」

 その声を聞いた瞬間、張り詰めていた胸の奥がわずかにほどけていくのを感じた。

 だが同時に、理由の分からない不気味な違和感が背筋を走った。なぜ、先生はここにいる?

 なぜ、こんなに平然と……まるで安全が保証されているかのように振る舞えるんだ?

「先生、この部屋に隠れていれば……本当に安全なんですか?」

 まるで、今さっきクリーニングから戻ってきたばかりのような陽だまりの匂いにこの清潔さ………普通なら、今の現状を考えればそれはおかしい。

 本来、この異常な空間において清潔であることは生存していることよりも不自然だ。

 僕が問いかけると、先生は力なく、それでも必死に自分を洗脳するように頷いた。

「ええ……ここは安全。そう……生徒の日誌に、そう書いてあったの。だから、私はここから出ないわ。」

 その言葉は祈りというより、呪詛に似ていた。

 自分自身に強い暗示をかけるように、先生は虚空を見つめている。

「先生……その白衣、汚れ一つないんですね」

 僕の問いに、先生はピクリと肩を揺らしたが、彼女の視線は、僕たちを通路のように通り抜け、背後の闇の1点に釘付けになっていた。

 先生は無意識なのか、何もない空中に向かって、まるで見えない子供の頭を撫でるような手つきをした。

 その指先は小刻みに震えており、僕は気づく。先生の爪の間には乾いた黒い何かがこびりついていることに……僕はあえて何も言わなかった。

 僕は先生の言葉を裏付けるものを探し、無意識に机へと歩み寄った。引き出しを薄く開けたその奥に、古びたノートの切れ端が押し込まれているのを見つける。

 指先でそれを取り出すと、滲んだ文字が震えるように並んでいた。

「保健室に籠っていた3人は翌朝居なくなっていた。」と。

 肺の空気がすべて引き抜かれたかのように息が詰まる。指先が急速に体温を失っていく。

 ……ああ、そうか。この場所は安全地帯じゃない。

ここは、獲物が逃げ出す気力を失うまで、一時的に閉じ込めておくための「|檻《ケージ》」なんだ。

 それは、先生が信じている安全を根底から覆す死の宣告だった。

 真実を告げようと口を開きかけたが、先生の、今にも崩れそうな微笑みを見て喉を閉ざした。

 希望という名の毒に縋っている人間にこの「結果」を突きつけるのは、…あまりに酷だ。

 僕はその紙を誰にも見られないよう掌の中で握りつぶし、大樹と視線を合わせた。

「……ユーリ、行こう。」

 大樹が僕の袖を引く。

 その声はこの部屋に漂う正体不明の死の気配を察知し、悲鳴を上げかけていた。

「先生も……気をつけて。」

「ええ。二人とも……必ず、生き延びるのよ。」

 その言葉は祈りであり、同時に自分を置き去りにする僕たちへの懺悔のようにも聞こえた。

 保健室を出る瞬間、僕は最後にもう一度だけ振り返った。

 暗い室内で、一点を見つめたまま微笑む先生の姿。

 優しいのに、あまりに儚い。それは、出荷を待つ家畜が、直前に見せる安らかな夢のような笑みだった。

 扉が閉じたあとも目の瞼に焼き付いたその残像は、闇の中でしばらく消えなかった。

 廊下は不気味なほど静まり返っていた。

 あまりの静寂に自分の耳の鼓膜が脈打つ音がドクドクと不快に響く。窓から差し込む赤い月明かりは、床に散らばったガラス片を照らし、まるで固まりかけ血のように赤黒く沈んでいた。

 僕は鞄の底で唐辛子を詰めた小瓶を、指の形が変わるほど強く握りしめた。

 大樹は数歩前を行きながら強迫観念に駆られたように何度も、何度も、背後を振り返る。

「……ユーリ、大丈夫か?」

「うん……大丈夫。とにかく図書室に行こう。」

 僕は丸メガネを指で押し上げ、走りながら思考を限界まで加速させた。

 力では勝てない。

 ならば知恵という凶器を調達し、環境を味方につけるしかない。図書室なら、天井まで届く古い本棚が迷路のように入り組んでいる。

 あの大男の巨躯と、あの理不尽な長さの大鎌を振るうスペースを物理的に殺せるはずだ。

 それに、この狂った学校の正体を暴くための記録もあそこにあるはずだ。

 脱出ゲームの鉄則だ。

 …「敵の物理的な強みを、自らの土俵で弱みに変えろ」。

「あそこなら奴の鎌を封じられる。それに、逆転するためのヒントが必ず。」

 僕がその解決方法を口にし、絶望の中に一本の光を見出そうとした、その刹那だった。

 ドガァァァァァン!!!!!と思考を物理的に叩き潰すような、凄まじい衝撃音が校舎を貫いた。

 衝撃波が鼓膜を突き破らんばかりに震わせ、足元の床板が激しく跳ね上がる。

 肺に吸い込んだ空気は一瞬でコンクリートの粉塵に取って代わり、喉を焼くような痛みが走った。

「な、なんだ……っ!?」

 振り返った瞬間、視界を覆う白い煙の向こうに、僕は死神の真の姿を見た。

 隣の教室1-Aの壁が、内側から爆発したように粉々に砕け散っていた。

 厚いコンクリートの塊がまるで紙屑のように廊下へ降り注ぎ、瓦礫の山を築いている。

 そして、その立ち込める粉塵の中から、ゆっくりと本物の絶望が滲み出してきた。

 背丈は二メートルを超える。漆黒の軍服。

 その肩には、人間の胴体など一振りで両断するであろう、巨大で、無慈避で、あまりにも醜悪な大鎌が、主を誇るように担がれていた。

 闇の奥で、二つの血のような赤い光が輝く。

 殺戮という娯楽を、心底から愉しもうとする怪物の瞳だ。

「……おいおい……テメェら。

 そんな御大層な知恵とやらで、この俺から逃げられると思ってんのかぁ……?」

 殺人鬼は瓦礫の山を土足で踏み荒らし、下卑た笑いを漏らす。殺人鬼の声は地鳴りのように低く、内臓を直接掴み上げて揺さぶる。

 その一言だけで、僕の血液は指先から一気に凍りつき、心臓が物理的に握りつぶされたような錯覚に陥った。

「クハハハハッ!いい顔だなぁ、ガキども。恐怖で脳みそが沸いて、声も出ねぇか?

 …殺す前にそれを見るのが、最高にゾクゾクすんだよォ!!!」

 大樹が反射的に僕の腕を掴んだ。

 その手は、悲鳴を上げるように激しく震えている。

「ユーリ……走れ、走れッッ!!!」

「オイオイ逃げんなよ、クソガキ。楽しい鬼ごっこの始まりだ。

十秒だ。十秒だけ数えてやるよ。

 その間にせいぜい足掻け。

 逃げ切れるっていう幻想に縋り付いて、這いずり回ってみせろよォ!!」

 殺人鬼は担いでいた大鎌を、廊下の壁へ叩きつけた。

 ガリガリとコンクリートを削る不快な音が響き、血を吸いすぎて黒ずんだ刃が月光の下で凶悪に光った。

「……いーち……。」

 地の底から響くようなカウント。

 殺人鬼にとって、この十秒は慈悲じゃない。獲物が絶望し、心臓が破裂するほど逃げ惑う姿を鑑賞するためのお遊びの時間だ。

「にぃー……。」

 殺人鬼の足音は聞こえない。

 だが、背後に立つその気配の熱量だけで、背中が焼けつくように熱い。

 振り返れば最後、そこには鎌を構えた死神がいる。

「さぁーん……。」

 僕と大樹は魂を振り絞るようにして同時に駆け出した。

 全速力で踏み出す足音が暴力的に反響し、耳の奥を突き刺す。一歩でも遅れれば、次の瞬間には背中から真っ二つにされる。

 それだけが、この世界の唯一の真実だった。

 振り返るな。振り返れば心が死ぬ。

 ただ、背後から数える声だけが、僕たちの首筋に冷たい舌を這わせるように追いかけてくる。

「しぃー……っ」

 殺人鬼の吐息が、廊下の空気を伝って僕の耳元で弾けた気がした。

 「ごぉぉぉぉ……!」

 不自然に引き伸ばされたその音。

 あえて次を言わないことで、僕たちの生存本能に最悪の想像力を働かせ、自ら絶望の淵へと飛び込ませようとしていており、その一音一音が、僕の生への執着を錆びたナイフでゆっくりと削ぎ落としていく。

 逃げられない。

 奴は僕たちが絶望し恐怖に溺れ、心が完全に壊れ果てるその瞬間を待っているんだ。

 その氷のような冷たい確信が、僕の思考を……そして世界を、真っ白な恐怖で塗りつぶしていく。

「ろぉぉぉぉ……くぅ……。」

 殺人鬼の声が、校舎の壁に反響し、どこから聞こえてくるのか判別できなくなる。

 まるで、校舎そのものが僕たちを嘲笑い、カウントダウンを刻んでいるかのような錯覚。

 逃げている僕の背中に、冷たい視線が突き刺さる。それは物理的な重みを持って、僕の肺を圧迫し、足運びを鈍らせてしまう。

(止まるな。考えろ。止まれば、あの巨大な刃で僕たちは殺される!!)

「なななぁぁぁ……っ!」

 殺人鬼の声が、愉悦で裏返った。

 殺人鬼は、僕たちが角を曲がる瞬間の絶望に歪んだ横顔を想像して、喉を鳴らしているのだ。

 その下卑た欲望が、風に乗って僕の首筋を撫でた。

 走りながら、僕は自分の口角が微かに吊り上がっていることに気づき、驚いてしまう。

 (ああ、これだ。これだよ。画面の中じゃ味わえない、本物の死とのチェイス。

 確かに殺人鬼は怖い、僕は死にたくないと心の中や身体は悲鳴あげている。でも、異常に脳内が静かだ…。

  まるで、……この状況が楽しいみたいな。)

 恐怖で指先は凍りついているのに、ゲーム中毒の僕の脳内は狂ったようにアドレナリンを放出し続けているかのように静かで心の中は怖いのに楽しいという矛盾が生まれていたのだった。

 殺人鬼に殺される前に、僕自身の狂気に飲み込まれてしまうのではないか。逃げ惑う大樹の背中を見ながら、僕は自分の内側に広がる、底なしの真っ黒な穴を覗き込んでいた。

 そして僕は、鏡を見るように、その闇に向かってそっと微笑み返した。

 

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