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「おーい、ユーリ!帰りにゲーセン寄ろーぜ!」
廊下の向こうから、鼓膜を震わせるような大声が飛んでくる。声の主は山口大樹。短く刈り込まれた茶髪に制服のシャツをはち切れんばかりに押し上げる分厚い胸板、野球部で鍛え上げられたその体格は、教室という狭い場所ではどこか窮屈そうに見えていた。
「今日も?テスト近いから勉強しないとまずいんじゃないかな……。」 口ではそう答えながらも、僕は苦笑していた。 僕の名前は雨宮優里。みんなは僕のことをユーリと呼ぶ。高校二年生、十七歳。黒髪の天然パーマに丸メガネ、平均的な身長はあるけれど、線が細く華奢なせいで、大樹と並ぶといつも頼りなく陰に見えてしまう。
そんな日常の風景の中に、彼女はいた。 「ユーリ、何か思い詰めてるみたいだけど、大丈夫?」 ふわりと、蜂蜜と花が混じったような甘い香りが揺らいだ。そして柔らかな声が僕を呼び止めた。振り返ると、そこには市松人形のようなストレートヘアの漆黒の髪の少女。頬のラインで丁寧に切り揃えられたそのサイドヘアが僕の顔を覗き込んだ拍子に顔の輪郭から離れゆらゆらしている。
その古風な髪型に添えられた小さな桜の形のヘアピンが、控えめな光を反射していた。
彼女の名は、桜田有栖。
彼女が僕を覗き込み、小首を傾げた瞬間のこと、窓からの午後の日差しがその瞳に差し込む。
普段は柔らかな桜色に見えるその瞳が、光の角度によって、吸い込まれるような深い紫色へと色を変える。その神秘的な色彩の変化に、僕はいつも、自分が異世界に迷い込んでしまったかのような錯覚を覚える。彼女は僕の机に、蜂蜜入りのお茶をそっと置く。
「……ありがとう!」 眩しすぎる笑顔。彼女は誰にでも優しい。大樹と仲が良く、……でも、大樹は以前「俺が好きなのは保健室の先生だ」なんて笑っていたっけ。その言葉を聞いたとき僕は心底安堵した。
有栖が置いたお茶のペットボトルを僕は握りしめる。
彼女と目が合うたび、僕の心臓は場違いなほど騒がしく跳ねて、丸メガネがずり落ちそうになるのを必死に抑えなければならない。
クラスの誰もが彼女を慕っているけど、僕にとって彼女はそれ以上の意味を持っている。灰色に見える日常生活の中で、有栖だけが唯一鮮やかな色彩を持ってそこにいたから。
「……本当に可愛いな。」心の中でだけ僕はそう呟く。口に出す勇気なんて1ミリも持っていない。僕のような、大樹の影のような存在に好意持たれても嫌なだけだろう。
学校の休み時間、周りが最近の流行りの話で盛り上がる中で、僕はただスマホの画面に没頭する。
難しいギミックを解き明かし、閉ざされた部屋から一筋の正解を掴み取る。それだけが、答えのない現実リアルを忘れさせてくれる唯一の救いだった。
いつしか僕は、どんな理不尽な重たいストーリー設定のゲームでも最短ルートで攻略せずにはいられない、脱出ゲーム中毒になっていた。ごくたまに、画面の向こう側の制作者と、殺し合っているような感覚になることがあるがきっと気のせいだ。
大樹とも一緒にゲームやることあるが大樹は考えることが苦手ですぐに離脱していく。
その日の夜。
僕はいつものように脱出ゲームをクリアし、深い眠りへと落ちていった。画面の中の複雑なギミックを解いている間だけは、クラスの喧騒や、自分自身の居場所のなさを忘れられ、攻略サイトの隅に刻まれた自分のハンドルネームを眺めて、ほんの少しだけ自尊心を埋める。
それが日常と呼ばれる側の、最後の一端になるとも知らずに。
世界はそこから、音を立てて変質を始めた。 意識の境界線で、部屋に置いてあったホワイトムスクの芳香剤の香りが鉄の錆と濡れたコンクリートのような生臭い臭いへと書き換えられていった。背中のマットレスは冷たく硬い木材の質感へ。耳元では、古い木造校舎が風に煽られるような軋み音が響き始めた。
一、二、三……。 暗闇の向こうから聞こえる、誰かが数を数えるような低い囁き。 「はっ……!!」 肺に冷たい空気が流れ込み、僕は弾かれたように上半身を起こした。 そこは、見知らぬ学校の教室だった。3-C。
「……なに、これ、……悪い冗談?夢にしては、質感がリアルすぎる。」
窓の外は光を拒絶した完全な無の闇。街の騒音も、風の音すらも聞こえない。時計の針は二時四十四分で死んでいる。
数え切れないほどの脱出ゲームをクリアしてきた僕の直感が、警鐘を鳴らしている。
「……っ、なんだ、これ。」
自分の身体を見下ろした瞬間、心臓が跳ね上がった。 僕は先程自分の部屋でパジャマに着替えてベッドに入ったはずだ。だというのに、今僕が身に纏っているのは、埃ひとつ付いていない…まるで新品同様の自分の学校の制服だった。いつも着ている黒いパーカーまで…。 まるで、誰かが僕をこのステージに立たせるために、眠っている間にわざわざ着替えさせたかのような……。気味が悪すぎて僕は背筋を伸ばすが、ここは理由を考えていい場所じゃない。最速で順応しなければ待っているのは死のみ。
僕は、せり上がる吐気を飲み込み、足音を立てずに移動を始めた。掃除用具入れで校舎の地図を見つけ、三階から二階へ。一段踏みしめるごとに、古い木材が骨を砕くような音を立てる。 踊り場を曲がった先で、僕は怯える大きな背中を見つけた。 「大樹……!」 「ユーリ……!ユーリなのか……っ!」 振り返った大樹の顔は死人のように青白いものだった。着崩した制服のワイシャツは汗と埃で汚れ、自慢の短髪の茶髪は恐怖で逆立っているように見えてしまう。
グラウンドでは誰よりも頼もしかったはずの野球部のエースが、今はただの震える一人の少年としてそこに立っていた。「……無事だったんだな。ああ、よかった……。お前、まだ会ってなかったのか。
この学校には、殺人鬼がいるんだ。さっき、俺の目の前で……女子高生が、大鎌で斬り裂かれて……っ。」 その言葉は、絶望に濡れていた。 「……肉が裂ける嫌な音がして……あの子、叫ぶ間もなかった。一瞬で、床が血の海になって……。」 「……殺人鬼、ね。」 僕は努めて柔らかい声で返したが、心臓は驚くほど静かだった。けれど、言葉とは裏腹に膝の震えがどうしても止まらない。頭では震えても意味が無いと理解しているのに、生存本能が僕の理性を裏切るのだ。
僕は無理矢理、その震えを抑え込むように強く膝を殴る。鈍い痛みが走るが、恐怖は麻痺してくれない。
彼の話をまとめると、敵は大樹の体格を余裕で超える軍服の男。黒髪で、瞳は血のように赤い。身の丈ほどの大鎌を振るい、三階から飛び降りても無傷。 そしてなぜか、必ず10秒数えてから追いかけてくる。 「……なんだかゲームみたいだね。」自分でも驚くほど冷めた言葉が漏れてしまい、僕はつい可笑しくて笑ってしまう。
知恵という武器を振るおうとする脳と、ただ逃げ出したいと悲鳴を上げる肉体。
その歪なズレが、僕を内側から引き裂こうとしていた。
丸メガネの奥で、思考が急速に冷静になっていく。まるでドッキリの番組みたいだと…。大樹の顔から血の気が引いていくのを見て、僕は自分の内側に欠落した何かを感じてしまう。親友がこれほど怯えているのに、僕の脳内はそれをただの攻略対象としか認識出来ていなかった。
この冷静な、冷酷なまでの客観性がいつしか親友である大樹だけにとどまらず、僕自身さえも切り捨ててしまうのではないか。………そんな形のない恐怖が背筋を撫でた。
「……ユーリ、笑ってるのかよ?目くらましなんて、あんな化け物に効くのか?」 「……うん、効くと思うよ。 大樹、あいつは人間離れしてるけど、呼吸も発声もしてる。 つまり、僕たちと同じように粘膜があるってことだ」 僕はどうやって敵の巨体の動きを止めるかを淡々と説明した。目の前の惨劇をステージのイベントとして処理する自分に、微かな違和感を覚えながら。
「軍服の男と僕たち並べるなら、僕たちの目線はちょうど奴の顔の高さに来る。全力で粉末を浴びせれば、避けられない。 ……脱出ゲームの鉄則なんだよ。『正面から勝てない敵には、生理的な弱点を突く』。これしかないんだよ、大樹。」大樹は、呆然としたまま僕の丸メガネの奥を覗き込む。
僕は彼の手を、指先が白くなるほど強く握りしめる。自分の掌の冷たさを、彼に悟られないように。
「……お前、エグいこと考えるな。でも、それしかねぇか。行こう、調理室だ。」 二人は影を重ねるようにして歩き出した。 調理室に忍び込み、棚の奥から乾燥した唐辛子の袋を見つける。指先に触れるカサカサとした感触。安堵した、その瞬間だった。 ドンッ。と、心臓の鼓動を強制的に停止させるような、腹の底を突き上げる重低音が響いた。 それは足音という概念を超えていた。まるで巨大な鉄槌が、校舎の背骨を直接叩き折っているかのような、暴力的で破滅的な振動。 「……ひっ!」 大樹の喉から、ひきつった悲鳴が漏れる。 続いて聞こえてきたのは、耳の鼓膜を不快に逆撫でするギリっ…ギリっ…という金属音。重厚な大鎌の切っ先が、コンクリートの床を無慈悲に削り、火花を散らしながら近づいてくる音だ。 「来るぞ! 隠れるんだ!」 僕は硬直する大樹の腕を強引に引き、大型の掃除用ロッカーへと滑り込んだ。 二人の体温が狭い鉄の箱の中で混ざり合い、大樹の荒い呼吸が僕の耳元を熱く叩く。僕は丸メガネを指先で押し上げ、ロッカーの扉にある細い通気口へと目を凝らした。 ギィィ……ッ。 調理室の扉が、断末魔のような悲鳴を上げてゆっくりと開かれる。 そこには、廊下のわずかな闇すらも吸い込むような、巨大な絶望が立っていた。 大樹を余裕で超える岩のような巨躯。 闇を煮詰め、漆黒に染め上げたような軍服を纏い、その肩幅は扉の枠を圧迫せんばかりに広い。黒髪の短髪は光を一切反射せず、不気味なほどの静止を保っている。 そして…何よりも僕を戦慄させたのは、その瞳だった。 暗闇の中で、二つの深紅がぎらりと光を放った。 それは血を、あるいは地獄の業火を想起させる、どす黒く澄んだ赤。その視線が室内の闇を舐めるように動くたび、空気が物理的な重さを増し、肌がじりじりと焼けるような殺気が伝わってくる。
「クク……クハハハッ!」 肺の底から絞り出されるような、低く濁った笑い声。 男は肩に担いだ、身の丈ほどもある大鎌をゆっくりと下ろした。刃にはまだ、先ほど刈り取った獲物の生々しい肉の欠片がこびりつき、床にポタポタと赤いシミを作っていく。 「どこに隠れやがったァ? 小虫ども……! 逃げても無駄だぜェ……出てこいよォッ!」 ガシャァァァンッ!! 男が軽く腕を振るっただけで、頑丈なステンレスの調理台が紙細工のようにパキりと割れ、火花を散らしながら壁際まで吹き飛んだ。耳を裂く金属音が響き渡り、ロッカーの鉄板が衝撃波に震えた。
大樹が、ガタガタと歯の根を鳴らして震え始めた。彼の身体が、恐怖のあまり縮み上がっているのが分かる。 僕は震える手で唐辛子の袋を握り直し、隣の大樹の手をそっと、しかし強く握りしめた。 「まだだ、動くな」と、音のない言葉で、僕は必死に彼を繋ぎ止める。 殺人鬼は、僕たちの入っているロッカーの目の前でぴたりと足を止めた。 わずか数センチ、薄い鉄板一枚を隔てた向こう側に、その死神がいる。ロッカーの隙間から漏れ出すその気配は、熱を帯びた暴力そのものだった。そして、通気口から漏れ出す男の吐息は、獣のような熱を帯びていた。
だが、その深紅の瞳が僕の丸メガネを捉えたかと思った瞬間、男は不気味に鼻を鳴らした。 「……クク、今日は逃がしてやるよ。すぐに、もっといい鳴き声を聞かせてくれるんだろ……?」 愉悦に歪んだ微笑。男は未練など微塵も感じさせない足取りで背を向けると、再び壁に当たる大鎌の刃と地獄の調べを響かせながら、調理室を去っていった。
遠ざかる足音が完全に消え、校舎が再び重苦しい静寂に包まれるまで、僕たちは呼吸をすることさえ忘れていた。 「……っはぁ、はぁ……死ぬかと思った……」 大樹がロッカーの扉を押し開き、床に崩れ落ちる。汗で茶髪が額に張り付き、その顔はもはや生者のそれではない。 「クソッ……なんなんだよ、あれ……人間じゃねぇよ、あんなの……!」 僕はただ、静かに立ち上がり、ずれた丸メガネを直した。 あの殺人鬼は、僕たちがここにいると確信していた。気づかないはずがない。 彼は、僕たちの絶望が熟すのを待っているようだ。猫が死に際まで鼠を弄ぶように、僕たちはより残酷な収穫の時まで生かされたのだと本能的に悟ってしまう。
「……行こう、大樹。立ち止まったら、次こそ刈り取られる」 僕は柔らかい声で促したが、その内側では、かつてないほど冷静な思考が渦巻いている。 丸メガネの奥で瞳孔が細く開き、僕は暗闇の先にある死神を欺くための解決方法を、静かに、そして確実に描き始めていた。有栖は旧理科準備室から体育館の奥へ、奥へと逃げ込むうちに、背後から聞こえていた仲間の叫びは、まるで海底にに沈んだかのように遠のいていった。 かつて歓声が響いたはずの巨大な空間は、今や濃密な死臭と、喉を刺すような冷気だけが支配する底なしの檻のようだった。 有栖は、自分が完全に独りになったことをいやでも悟ってしまう。 体育館の床が、一歩踏み出すたびにギィ……ッと悲鳴のような音を上げる。広い体育館の闇の中で、有栖の存在はあまりにも小さく、無力であった。 その音は高い天井に跳ね返り、まるで何百人もの透明な観客が、有栖自身の死を待ちわびて息を殺しているかのような錯覚を呼び起こした。 「……ッ、はぁ……はぁ……っ!」 自分の荒い呼吸音が、拡声器で流されているみたいにうるさく思える有栖。まるで、追いかけてくる大鎌の引きずる音は、序盤の廊下で聞いていた時よりもずっと重く、有栖の心に不快な振動となって足裏から伝わってきた。 肺が焼けそうだ。吸い込む空気が刃のように肺を削り、足の感覚はとうに麻痺していた。それでも立ち止まることは許されない。立ち止まれば、その瞬間に背後の死が迫ってきてしまうから。 背後で、床の木材を削り取る大鎌の音と、ギリ……ギリ……と、神経を逆撫でする嫌な音が響く。 有栖の視界は、激しい呼吸のせいで白く霞んでいる。 肺が酸素を求めて呼吸するたびに、喉の奥で鉄の味が広がった。彼女にとってこの数分間は、永遠という名の地獄を走らされているのと同じことだったのだ。 そして、地を這う愉快そうな笑い声が、耳元で囁くように届いた。 「へっ……やっと俺と二人きりになれたな。有栖」 ぞくり、と背筋に冷たい氷を流し込まれたような感覚が走る。仲間がいないことをあえて口にしたその声には、逃れられない運命を慈しむような、狂おしい感情がこもっていた。 「怖ぇだろ?でも安心しろよ……俺はな、すぐには殺さねぇ」 大鎌が床をえぐり、暗闇の中に火花が散る。その一瞬の光に、殺人鬼の歪んだ笑みが浮かび上がった。 「お前がどれだけ必死で走るか……どこまで逃げようとすんのか……それを見届けるまで、この舞台は終わらせねぇからよ」 殺人鬼はわざと追いつかず、獲物が絶望を育てるための猶予を与えている。有栖が必死に足を動かすほど、その後ろを死の影
林を抜けた瞬間、僕らの目の前に広がったのは、古びた校舎の別棟だった。使われていない倉庫のような建物で、窓ガラスは割れ、壁には枯れ果てた蔦が不気味に絡みついている。 「……ここなら、隠れられるかもしれない」 大樹が短く言い、僕らは肺を焼くような息を切らしながらその暗闇へ飛び込んだ。内部は埃っぽく、腐食した床がところどころ抜けている。美緒は有栖をそっと床に降ろし、僕らは荒い呼吸を整えた。 「……はぁ……やっと……」 美緒の声が震えて膝を突き、荒い呼吸を繰り返す美緒の横で、僕は自分の心臓が、故障した機械のように不規則に激しく、胸の内側を叩いているのを感じていた。 すると、有栖はかすかに顔を上げ、僕を見つめてそっと唇を開いた。 「……まだ……来る……」 その言葉に僕たちは背筋が凍る。 「時間を稼ぐしかない。奴が来る前に、出口を探そう」 大樹が扉に背を預け、低く構える。僕は周囲を見回し、埃をかぶった棚の間に一冊の新しいノートが落ちているのを見つけた。 拾い上げると、黒く塗りつぶされた名前の欄と、異様なほど精密な地図が描かれている。 拾い上げたノートは、異様に新しく、不気味さを放っている。そこに記された地図は、まるで建築主が設計図を自慢するかのような細かく描かれていた。 ページを進めると、カサリという紙の音がこの静まり返った倉庫では爆音のように響いた。 名前を塗りつぶした黒いインクの塊が、そこだけページを侵食している癌細胞のように見えて、僕は指先に嫌な冷たさを覚えた。 (これはヒントじゃない。……恐らくわざと運営から解答を押し付けられているんだ。) 自分の心の声が、他人のもののように冷たく響く。 僕たちは助かろうとしているんじゃない。運営が用意した最短ルートを、なぞらされているだけなんだ。と考えてしまう。 「これ……さっきの体育館のルートと同じ……でも続きがある!」 美緒が覗き込み、顔を青ざめさせる。赤い線で描かれたルートは、この倉庫からさらに北へ、まるで僕らを意図的に導いているようだった。 「……誰が、なんのために……」 「……迎えに行くって……書いてあった」 有栖の小さな囁きに答えるように建物全体が低く軋んだ。外から、重い金属を引きずる音が近づいてくる。 ギリっ……、ギリっ……と床
巨大な石造りの棺桶のような体育館の中、僕たちは足元の感覚だけを頼りに、一歩ずつ死への道を歩んでいた。 床に点々と続く、どす黒く変色した血痕。それはまるで、何者かが僕たちを冥界へと誘うためにあえて残した、不吉な道標のようだった。 倒れた椅子や、無残に引き裂かれた跳び箱の残骸を縫うように進むたび、乾いた木の葉を踏むような不快な音が静寂を削り取っていく。 「……ここ、何か手掛かりがあるかもしれない。」 大樹が地を這うような低い声で呟いた。彼の視線の先には、壁に叩きつけられたような血の手形と、そのすぐ側に落ちている、一枚の古びた紙片があった。 美緒は僕の腕を折れそうなほど強く握りしめ、肩を小刻みに震わせながら、暗闇の奥に潜む何かを怯えた瞳で探っている。 ズ……ズズ……。遠く、舞台の袖か、あるいは天井の上か。 重い何かを引きずるような、あるいは刃物が床を舐めるような微かな音が、体育館の高い天井に反響して降り注ぐ。 僕の胸が、心臓を直接鷲掴みされたかのように締め付けられるように苦しくなった。この暗闇のどこかで、まだ死が呼吸をしている。その確かな気配が、皮膚を突き刺すような悪寒となって全身を駆け抜けた。 「慎重に行こう。殺人鬼の耳は、僕たちの心臓の音さえ拾おうとしている。」 大樹の硬い声に我に返り、僕たちは進み始めた。 床に落ちた衣服の切れ端、砕け散ったパイプ椅子の欠片……。それらはすべて、かつてここで起きた惨劇の、無言の断片だった。 体育館の最奥。光さえも届かない濃厚な闇の中、僕たちは奇妙なものを見つけた。 床一面に、雪のように散らばる破られた新聞の切れ端や、引き裂かれた手帳のページ。それらはどれも黒いインクで塗りつぶされていた。 「……これは……。」 美緒が指差した先。そこには、一つの単語だけを残して完全に塗りつぶされた、週刊誌の切り抜きがあった。 ≪ 凶悪無差別殺人鬼 ―― ■■■■ ≫ その文字列を目にした瞬間、肺の奥が焼けるような圧迫感に襲われた。黒塗りの下に隠された名前が、今もなおこの空間に呪いとして漂っているかのような…。 大樹がその紙片を指でなぞり、苦々しく吐き捨てる。 「血痕とこの紙の端がセットになって配置されてる……。まるで、誰かが俺たちを正しい死に場所へ導いて
長い廊下を抜け、ついに体育館の重厚な扉が目の前に現れた。 もはや外の光は一滴も届かず、巨大な扉は、墓石のように冷たく鈍い光を反射している。 その向こう側から、キィ……キィ……という、わずかな金属音が響いてくる。 大鎌の鋭利な刃先が、ゆっくりと床を撫で回す音だ。 「……ついに、戻ってきてしまったな。」 大樹の声が、初めて弱々しく震えた。僕も美緒も、声にならない声を飲み込み、ただ深くうなずくことしかできない。 扉をそっと、数ミリだけ開くと、体育館の内部は底知れぬ暗闇に支配されていた。 その空間の中央。赤い瞳が、僕たちが来るのを予期していたかのように、ぎらりと光り、こちらを見据えていた。 殺人鬼は、大鎌を杖のように突き、苛立ちを隠しきれずに獣のような足取りで歩き回っていた。 「……あぁ? 何だ、まだくたばってなかったのか。チッ……どこまでも運が良いというか、小癪に頭が回るガキどもだぜ。」 その声には、底なしの怒りと、獲物をいたぶる愉悦が混じり合っていて、聞くだけで五臓六腑が凍りつく。 美緒が、呼吸を忘れたように小さく息を吐き、僕の腕を握る手に力を込めた。 「……ユーリくん、どうすれば……」 僕は答えを探すが、心臓はドクドクと脈が早くなり思考は真っ白に霧散していく。 殺人鬼は、ゆっくりと、そして優雅にさえ見える所作で大鎌を振り上げた。 その一挙手一投足が、僕たちの反応を愉しむための残虐な誘いのように見える。 「……今だ、走れっ!!」 大樹が僕たちの肩を力任せに押し、合図を送る。 僕たちは死の影に飛び込むように、一斉に体育館の暗がりへと滑り込んだ。 その瞬間、殺人鬼の狂った咆哮が体育館の隅々にまで反響した。 「どこへ消えた……!? チッ……俺を舐めるのも大概にしろよ、あの女もろとも、細切れにしてやるッ!!」 赤い瞳が暗闇を鋭く切り裂き、僕たちが潜んだわずかな影を暴き出そうと、血に飢えた視線を走らせる。 逃げる、ただそれだけが唯一の生存戦略だった。体育館はあまりにも広く、隠れる場所はあまりに脆い。 だが、この極限の恐怖の渦中で、僕たちは確かに、明日を掴み取るための決死の一歩を踏み出したのだ。 床に散らばる、かつての犠牲者のものと思われる血痕を踏まぬよう、
肺に突き刺さるような土の匂いと、腐朽した木材の湿り気が立ち込める通路。 僕たちは、ただ生き延びるためだけに、獣のように四つん這いになって闇を這い進んだ。 背後で遠ざかる殺人鬼の笑い声が、地底を伝う振動となって鼓膜を震わせるたび、腕に抱えた美緒がすすり泣く。 「……もういや……もう、ここから出して……」 消え入りそうなその声に、僕は自分自身に言い聞かせるように必死で説得するように耳の良い殺人鬼に聞こえないように囁く。 「大丈夫だ、美緒ちゃん。絶対に……絶対に出口を見つけてみせるから……!」 先頭を進む大樹が、泥にまみれた手で壁をまさぐりながら、狂ったように出口を探す。やがて彼の指先が、鈍い音を立てて硬い金属に触れた。 「ここだ……何かあるぞ。」 彼が力任せに古びた木板を押し上げると、ぎいぃぃ……と地獄の蓋が開くような嫌な音が響く。 その隙間から、淀んだ地下の空気とは対照的な、刃物のように鋭く冷たい外気が流れ込む。 辿り着いたのは、図書館裏の打ち捨てられた資材置き場のようなスペースだった。 月光に照らされて白く浮かび上がるのは、カビに侵食され、巨大な墓標のように積み上がった古い書籍の山。 そして、誰かが使っていたであろう古いオイルランプが不気味に転がっている。 壁際には、まるで奈落へと通じているかのように闇が続く細い階段が口を開けていた。 「……舞台の下が、こんな場所に繋がっていたなんてな……。」 大樹が眉をひそめ、刺すような警戒心を周囲に張り巡らせる。 背後からは、まだ殺人鬼の獣じみた怒声が、体育館の反響を伴って遠く、低く響いていた。だが、ここに出られたのは、死神が獲物を見失ったわずかな空白の時間に過ぎない。 僕は美緒の震える肩を抱き寄せ、有栖を一人、あの地獄に置いてきてしまったという、心臓を抉られるような自責の念を必死に押し殺す。 「……進むしかない。どんな先が待っていても、彼女が繋いでくれたこの命を、ここで終わらせるわけにはいかないんだ。」 僕たちは互いに血の気の引いた顔を見合わせ、地下へと続く未知の階段を見下ろした。 その暗闇の奥底からは、風の鳴る音とは明らかに違う、何者かが苦痛に悶えるような、かすかな呻き声がじわじわと、せり上がってきていていた。 薄暗く、埃が雪の
せり上がった暗幕の奥、光さえ届かぬ闇から、床板をきしませる重い足音が響き渡った。 ドン……ドン……ドン……。それは心臓の鼓動を外側から無理やり同期させるような、不吉なリズム。 広い体育館の空間で増幅され、鼓膜を震えさせた。 やがて、舞台の中央に血のような赤い光がぽつりと灯った。逆光に照らされ、ゆらゆらと陽炎のように揺れる巨大な影………大鎌。 身の丈を超えるほどの凶器、鈍い銀光を放ちながら、舞台の床を擦って火花を散らす。 ギギ……ギィィン……と、鉄と木が削り合うその音は、黒板を爪で立てる音よりも不快で、美緒は歯をガタガタと震わせる。 幕の闇の中から、爛々と輝く二つの赤い瞳が僕らを射抜く。 それはもはや人間の瞳ではない。獲物の急所を品定めする飢えた獣の瞳だ。その粘りつくような視線が僕ら三人を舐め回し、逃げ道をじわじわと、物理的な質量を持って奪っていく。 「……来た、のか……」 大樹が喉の奥で唸るように絞り出したその次の瞬間、殺人鬼は咆哮とともに大鎌を頭上高く振り上げ、高さのある舞台から、迷いなく飛び降りた。 ドォォォンッ!!凄まじい衝撃に床が波打ち、蓄積した埃が視界を真っ白に染め上げる。 僕は反射的に、恐怖で硬直した有栖と美緒を背中に隠すように庇った。けれど、埃の霧の向こう側で、赤い瞳はすでに僕らの死を完璧に確定させるかのように舐めるように僕たちを見た。 「チッ……やっぱりここへ逃げ込んだか。クソガキの分際で、頭が回るじゃねぇか、テメェら!」 鼓膜を震わせる怒声。それと同時に、大鎌の刃が空気を裂く凄まじい風切り音を立てて横に振るわれた。 ガガァァンッ!!僕らのわずか数センチ横、頑丈な床板がまるで紙細工のように容易く引き裂かれ、鋭い木の破片が|礫《つぶて》となって僕らの頬を掠める。 飛び散る木片、耳をつんざく破壊音。 僕らはあまりの圧力に呼吸を忘れ、ただ本能のままに後ずさるしかなかった。 「今度は……容赦しねぇぞ。一人残らず、その喉笛を掻っ切ってやる!」 血の池のような赤い瞳が、確実に僕らの終焉を見据えていた。 殺人鬼が力任せに大鎌を引き抜くと、抉られた床の裂け目からさらなる木片が舞い上がり、体育館全体が、殺人鬼の殺意に当てられて激しく揺れているような錯覚に陥る。
体育館へと続く大扉の前。逃げ場を断たれた行き止まりの廊下で、死神がその巨大な鎌を頭上高く振り上げた、その瞬間。 「っ……!」 横にいた有栖が、僕の腕を振り払って前に出た。 彼女がポケットから取り出したのは、小さな銀色の音叉だった。 音楽室の隠し扉の不気味な隠し通路を、死に物狂いで彷徨っていた時に瓦礫の山に半ば埋もれていたのを彼女がいつの間にか密かに拾い上げていたものだ。 有栖はそれを、渾身の力で叩きつけた。 キィィィンッ……!!鼓膜を直接針で刺し貫くよう
視聴覚室での凄惨な記録に精神を削られた僕たちは、死臭を振り払うように廊下を突き進んだ。 大樹の顔は土気色に沈み、有栖は放心したように僕の袖を掴んでいる。彼女の瞳は、焦点を失ったガラス玉のように虚空を彷徨い、重いショックで意識の半分がどこか遠くへ置き去りにされているようだった。 「……もう、休んでる暇はねぇ。」 大樹が、自分に言い聞かせるように枯れた声を絞り出した。 「次は音楽室だ。まだちゃんと見てないところ…。」 有栖は、壊れた人形のように力なく頷くだけだった。
廊下を駆け抜ける。 月明かりの射さない闇の中で、僕と大樹の足音だけが異様に響き渡っていた。 いや。違う。 背後からも確かに、逃れようのない死の音が追ってきている。 壁を耳障りにこする金属音。地を割るような重苦しい足音。 巨躯が愉悦に肩を揺らし、大鎌を引きずりながら迫る音だ。 「はっ、はっ……大樹……どっちに逃げる!?」 「いいかユーリ、二手に分かれるぞ! 俺は野球部で鍛えてるから俺が囮になって引きつける!お前はその隙に逃げ
調理室を後にした僕たちは、影を潜めるようにして一階へ降りた。 大樹は時折、背後の闇を睨みつけながら、消え入りそうな小声で言う。 「包帯とか消毒液とか、あった方がいいんじゃないか? 傷口に菌が入ったらまずい。」 その声音は努めて落ち着いていたが、握りしめた拳の震えまでは隠せていない。 剥き出しの焦りが、暗がりにじんでいた。 だが、その冷静さに、僕は少しだけ救われる。 調理室で武器としての唐辛子は確保できたが、医療品はまだだ。いつあの巨大な鎌が僕たちの肌を裂き、肉を削ぐか分からない。 ここで次を失えば、もう終わりだ。 保健室。 白い扉を押し開けると、