LOGINむしろ紗耶には感謝したいくらいだ。彼女が倒れなければ、征司もあれほど派手にドアを壊して出ていくことはなかっただろう。そうなれば自分は、あの息の詰まるような部屋で、彼と一晩を共に過ごす羽目になっていた。これでよかった。森宮家の人間にどう思われようと、今の澪は気にしない。征司は今夜、紗耶のことで忙しくなるだろう。ここから二人の家までは近いため、澪は自分で車を運転して帰った。その夜は夢を見ることもなく、ぐっすりと眠った。それから二日間、澪は征司と顔を合わせることはなかった。連絡を取ることもなければ、互いの動向を耳にすることもない。あの夜、二人の間にあった遠回しな言い争いも、すべて錯覚だったかのようだ。森宮家の本邸で起きた「流産騒ぎ」さえ、最初からなかったことのようになっている。何もかもが表面上は穏やかだ。澪には抱えている仕事が山ほどある。それに瑞穂メディカルの運営も加わり、両方に目を配らなければならない。瑞穂メディカルについても、折を見て業務の進捗を確認していた。ある時、宮坂常務からこんな報告を受けた。「社長、白石さんのチームにまた新しいメンバーが加わりました。新機能を追加したそうで、単なる受診案内にとどまらず、手術室にも導入し、大型手術を補助できるロボットにしたいと。それを実現するには、これまで以上の全面的なバックアップが必要になるかと……」澪は肝心な点を聞き逃さなかった。「彼女、直接あなたに話を持ってきたの?」宮坂常務も、澪が何を気にしているのかは分かっている。今の澪と紗耶の関係は限界まで張り詰めた糸のようなものだ。それが切れた時、真っ先に巻き添えを食うのは、二人の間に挟まれた自分たち部下なのだ。「はい……白石さんからは、私の決裁でそのまま通してほしいと言われました」実は、厄介なのはそれだけではない。紗耶はすでに、何度も宮坂のもとへ直接足を運んでいた。彼女のプロジェクトは今、重要な段階に入っている。単なる資金援助だけでは足りず、瑞穂メディカルの持つ人脈や提携先をフル活用し、全面的にサポートする必要がある。その体制を整えるには、会社側にも相応の時間と労力がかかり、最終的にトップである澪の承認が不可欠なのだ。それでも紗耶は一度も澪を通そうとしなかった。まるで、澪という上司が
もうそんなことまで考えている余裕は、澪にはなかった。ドアには外から鍵がかけられている。このまま征司と二人きりで、一晩中ここに閉じ込められるのだけは絶対に御免だ。澪はドアへ歩み寄り、ノブを回してみたが、やはり開かない。苛立ちは募るばかりだった。まるで征司への貢ぎ物として差し出されたかのようで、美佐子からひどく軽んじられているように感じている。ところが背後にいる征司は、澪が何をしているのかなど気にも留めていないようだ。彼女がここから出たがっていようが、無理やり二人きりにされるのを嫌がっていようが、彼にはどうでもいいらしい。征司は洗面所の入り口に立ち、スマホを取り出して画面を見つめている。ほどなくして着信音が響き、彼が電話に出る。部屋の中が静まり返っているため、電話口の健太の声は、澪の耳にもはっきりと届いた。「社長、白石さんが徹夜で新製品のテストに立ち会っていたのですが、先ほど倒れまして……」その言葉が澪の耳に届いた次の瞬間、背後から征司が近づいてきた。ドアノブを握っている澪の手に、彼の温かな手が重なり、そのままノブを押し下げた。開けないことを確かめると、征司は目を伏せて澪を見た。「少し離れてくれ」澪は何をするつもりなのか分からない。それでも言われたとおりに後ろに下がると、征司はそばのラックに立てかけてあるバットを手に取り、冷たい目で無表情のまま、容赦なくドアノブへ振り下ろした。激しい音とともに、鍵が壊れた。少しのためらいもなかった。ドアが開くと、征司は部屋を出る前に澪を振り返った。「運転手に送らせる」それだけ言い残し、征司は一度も振り返ることなく立ち去り、夜の闇の中へと消えていった。澪は壊されたドアを見つめた。自分が出ようとしていた時には見向きもしなかったのに、紗耶に何かあったと分かった途端、彼は家のドアを壊してでも駆けつける勢いで飛び出していった。紗耶だけは特別なのだと、その態度が何よりも雄弁に物語っていた。これだけの騒ぎになれば、離れにいる者たちにも当然伝わる。ほどなくして美佐子がやってきた。征司に壊されたドアを見るなり、頭痛を堪えるように顔をしかめたが、それでも体裁上、澪を慰めずにはいられないらしい。「今回のことは征司が悪いわ。澪、つらい思いをしたわね」
征司はライターの金属製のふたを閉じ、もう一度澪を見た。その口調に感情の起伏はない。「わざわざ俺に隠す必要はない。お前が何をしようと、俺は止めない」その言葉は、澪の胸に深く突き刺さった。まるで、すべては澪の一方的な被害妄想であり、一人で勝手に悲劇のヒロインを演じていただけだ、と言われたようだ。中絶の話をしても、征司の中にわずかな憐れみや後悔すら生まれないことくらい、澪には分かっている。澪も、彼から何かしらの愛情を引き出したくて話したわけではない。ただ、自分が目を覚ますのがあまりにも遅すぎたと、改めて思い知らされた。長い間、自分自身にどれほど理不尽な苦しみを強いてきたことか。もっと早く、いっそ最初から、征司とは別の道を歩むべきだったのだ。「一つはっきりさせておくわ。あなたが止めようが止めまいが、私には何の関係もない。私が決めたことに、あなたは最初から口出しする権利なんてないのよ」澪もまた、二人の間の境界線を明確に引いた。一瞬で、空気がさらに張りつめたものへと変わった。表面上は静かに言葉を交わしているが、実際には互いの急所を的確に狙い、相手を逃がすつもりなど毛頭ない。征司は普段、気品をまとい、他人との間には常に一定の距離を置いている。だが本当は、誰よりも容赦のないことを言う男だ。「自分の体を傷つけると決めたのなら、俺が代わりに痛みを引き受けられる義理はない」澪はその意味が分かる。あからさまな皮肉ではない。だが、強気で何でもできるような顔をしておきながら、結局傷つけているのは自分自身ではないかと、彼女の愚かさを嘲笑っているのだ。征司はいつも、不意に人のもっとも痛い場所を突いてくる。今夜のように、二人がここまで真正面からぶつかるのは珍しい。言い返しては、また言い返す。互いに一歩も引かない。これまで澪がどれほど噛み付いても、征司はまともに取り合おうとはしなかった。だから澪は中絶の話をしても、二人の間ではこれまでどおり、何事もなく過ぎていくのだと思っていた。激しく言い争うわけではない。それでも澪には、征司がまったく何も感じていないわけではないと分かった。ただ、この男が何を考えているのかは、あまりにも分かりにくい。だが、今の澪には、彼が何を思っていようが知ったことではない。だから
征司が澪をずっと遠ざけてきたことは、家族の誰もが知っている。これほど冷え切った態度のままで、どうやって澪に子供を産む気を起こさせるつもりなのか。優しい言葉の一つでもかければ、澪はまた昔のように彼に尽くすかもしれないというのに。征司は澪のことには触れずに尋ねた。「降圧剤、飲みましたか」美佐子は、征司が話をそらしたのだと分かっていて、あっさり手を振った。「もういいわ。あなたに言っても無駄ね」そのやり取りを見て、澪も改めて思い知った。征司は本当に、自分の身に何が起きようと彼には無関係だと思っているのだ。その後、二人は一言も言葉を交わさなかった。普段よりもさらに深い溝ができたようだった。妻がかつて流産したという事実を知らされても、彼は心配することも、気遣う素振りすら見せない。だが澪はもう、そんな些細なことを気にしていない。ただ、今日のこの危機を無事に乗り切れるかどうか、それだけが重要だと思っている。食事の後、美佐子はまたしても二人の意向を無視し、ここに泊まるよう命じた。かつて二人が使っていた寝室に押し込みながら、もっともらしい顔で言った。「せっかくなんだから」美佐子が自ら二人を部屋まで送り届ける。澪は先に中に入り、背後から美佐子が声を潜めて征司に耳打ちするのが聞こえた。「澪は今、心が弱っている時期なんだから、今夜はちゃんと優しくしてあげなさい。ひょっとしたら、うまくいくかもしれないでしょう」そして、寝室の重い扉がパタンと閉ざされた。静まり返った部屋には、二人の微かな呼吸音だけが落ちている。この部屋は、澪にも見覚えがある。昔、二人がここで過ごしたこともある。澪はソファに腰を下ろした。ただ黙って時間が過ぎるのを待ち、夜が明けたら帰るつもりだ。澪が腰を下ろしたソファの向かい、畳の間には征司が腰を下ろしていた。不意に顔を上げると、征司の冷たく深い瞳と視線が絡んだ。彼はじっと澪を見つめている。その目に何があるのか、澪には読み取れない。いくら澪に関心がないとはいえ、彼も形ばかりの言葉くらいはかけるだろうと思っていた。「なぜ俺に言わなかった」「子どもとは縁がなかったんだな」――そんな、うわべだけの慰めを。「子どもは、なぜ駄目になった」長い沈黙の末、征司は
澪は征司の視線を避けなかった。言い終えたその瞬間、彼の指先が真っ白になるほど、ライターを強く握りしめるのが見えた。澪の言うことが、彼にとってよほど信じがたいものなのだろう。その瞳の奥が一瞬縮まった。可笑しい。あの血も涙もない征司でも、こんな風に心を揺さぶられ、自分のことで感情を波立たせることがあるのだ。もっとも、その動揺が何を意味しているのか、澪には分からない。「あなたたちに子どもがいるって、どういうこと?」美佐子は、澪の肩を押さえている手にさらに力を込めた。征司は何も言わない。だが、彼も澪からの答えを待っているのだ。澪は、ふっと自嘲気味に笑った。別に痛くも痒くもないとでもいうような顔で、寿美子にそのまま脈を診せた。「子どもは、いました。でも……流したんです。征司には黙っていました」一瞬、室内の空気が再び凍りついたようだ。妻でありながら、夫にそんな重大な事実を知らせていなかった。そこには、夫婦関係の破綻を示す皮肉としか言いようのない響きがある。「いつなの?妊娠してたなら、どうしてすぐに知らせなかったの!それに、流産と出産を経験したのとでは訳が違うでしょう?」美佐子は怒りと焦りをあらわにした。あのとき澪がすぐに報告していれば、家族がきちんと世話をし、子どもを守れるかもしれないと思っているのだ。この言い訳だけでは簡単に信じてもらえないことは、澪自身よく分かっている。彼女は落ち着いた顔のまま、もう征司のほうを見ることはなかった。それでも、征司がずっと自分を見つめていることは肌で感じている。「寿美子先生ならご存じでしょう。流産であっても、女性の体は深く傷つきます。脈の表れ方も、出産を経験した者とさほど変わらないと医学書で読みました。私は当時、きちんと体を休めなかったので、なおさらです」寿美子は頷いた。「そのとおり。和漢医学の視点からもその説明は筋が通っている。ただ、あなたは消耗があまりにひどい。あのときは不意の流産だったの?それとも、自分の意思で中絶をしたのかしら」その問いは、また別の意味で、この場の空気を変えた。澪は答えなかった。玲衣を産んだとき、澪は大量出血を起こした。母子ともに極めて危険な状態で、一時は命すら危ぶまれたほどだ。「もう終わったことですから、今さら蒸
寿美子のひと言は、静かな空気を一瞬でひっくり返した。征司の黒い瞳が、瞬く間に澪を射抜いた。その場の空気が、一瞬にして凍りついたようだ。澪の背筋を冷たい汗が伝い落ち、不意に全身の産毛が逆立った。まさか、こんなことになるとは思ってもみなかった。先ほど寿美子が手首に触れたとき、その指先があまりにも的確に脈を探っていることには気づいた。しかし危険を察したときには、もう遅かったのだ。美佐子も顔色を変え、訝しげに問い返した。「そんなはずはないわ。どうしてそう思われたの?」その隙に、澪はさっと手を引き抜いた。強く握りしめた指先は、芯まで冷え切っている。何より恐ろしいのは、征司がずっと澪から目を離さないことだ。その視線はまるで鋭い刃物のようで、澪が必死に築き上げてきた防壁など、いとも容易く切り裂いてしまう。心の奥底に隠し続けてきた秘密まで、すべて見透かされそうだ。澪は、どう息をすればいいのかさえ分からなくなりそうだ。必死に表情を取り繕い、寿美子へと視線を向けた。寿美子は不思議そうに澪を見つめ、上から下まで視線を走らせた。「脈は嘘をつかない。こういうところに和漢医学の奥深さが出るの。出産を経験したことのない女性とは、明らかに脈の打ち方が異なる。ただ、今はこの脈がかなり分かりにくくなってる。出産してから、もうだいぶ時間が経っているようだね」澪は、今日こんな展開になるとは思っていなかった。美佐子はいつだって、澪の急所を正確に突いてくる。征司の顔からは一切の感情が読み取れない。ただ、その視線を浴びているだけで、澪は無数の針で背中を刺されているような錯覚に陥った。やがて、征司は澄んだ目で寿美子を見据えた。「何かの見立て違いじゃないんですか」寿美子は不満そうに言った。「私、何十年も患者を診てきたんだよ。脈を取るくらいで、見誤るほど衰えてはいない」その場の空気が、さらに重く張り詰めた。美佐子はふいに澪へ鋭い目を向け、どこか戸惑いと疑念を交じらせた声で言った。「もう一度、ちゃんと診ていただいたら? 澪と征司は結婚して七年になるのに、子どもがいないのは紛れもない事実なんだから」そう言って、美佐子は改めて二人に向き直った。「寿美子先生はね、長年潮見地方で名を馳せてこられた名医なの。今日は特別に、
そばにいる征司の友人、佐伯蓮(さえき れん)も笑いながら口を挟んだ。「ほんとだ。何、その顔。ずいぶん機嫌悪そうじゃん」彰人は席に着くと、向かいに座る紗耶をちらりと見た。紗耶はいつも通り落ち着いていて、彼らとの距離の取り方も心得ている。振る舞いにも隙がなく、人としても申し分ない。それなのに、澪は陰であんなふうに彼女を悪く言っているのだ。「さっき下で誰を見たと思う?澪だ」それを聞いても、征司の表情は少しも変わらなかった。冷ややかに整った顔に感情はなく、テーブルに置いた指先で、気のないように軽く卓を叩いている。妻である澪のことなど、まるで興味がないようだ。紗耶は彰
征司は紗耶のものをこの家へ運び込むことを許した。それは、森宮家の妻である澪がどれほど惨めに敗れたのかを、家中の者に見せつけるのと同じだ。離婚するつもりでいるとはいえ、澪はまだ征司の妻だった。征司がどれほど急いで紗耶を表に出したがっていようと、離婚も成立していないうちから、自分がここまで踏みにじられる筋合いはない。澪は作業員たちを静かに見渡し、運び込まれた家具を一つずつ指さして言った。「どれも高いものですよね。全部譲りますよ。中古で売っても、いい値段になると思いますから。お手数ですが、外へ運び出してください」作業員たちは、ただ雇われて来ただけの人間だ。そんなうまい話を聞か
澪と征司の結婚生活は、最初からうまくいかなかった。征司はほとんど家に帰らなかった。夫婦の営みも、月に二度あれば多いほうで、普段の会話などなおさらない。結婚して一年が過ぎる頃、征司はA国の支社へ赴任することになった。森宮家の実権を少しずつ握るための重要な基盤となるものだそうだ。征司がA国へ出発する前の日の夜、接待で酔った彼は、初めてその晩だけ避妊しなかった。あの夜の征司は、まるで別人のようだった。彼はひどく酔っていて、相手が誰かも分からなかった。普段のように自分を律する余裕もない様子で、歯止めが利かないほど激しかった。征司が出国して二か月ほど経った頃、澪は自分が妊
若い看護師ははっと口をつぐみ、気まずそうな顔をした。まさか澪が、夫の弱みをあんなに平然と口にするとは思わなかったのだ。けれど同時に、それは本当なのだろうとも思った。そうでなければ、結婚して七年も経つのに子供がいないなんて、どう考えてもおかしい。そのせいで、彼女の澪を見る目にはさらに同情が増した。澪は、本当の理由までは口にしなかった。征司は最初から澪との間に子供を持つつもりなどない。結婚した最初の夜、彼は氷のように冷めた声で、澪にこう告げた。「仕事が忙しい。子供のことまで考える余裕はないし、持つつもりもない。だから、期待するな。相談しようとしても無駄だ」あの頃