LOGIN「奏、まずは家に戻って風呂に入り、服を替えてこい」剛は奏の白いシャツにこびりついた血を見て言った。「今日は一日中動き回っていたんだ。風呂に入ってゆっくり休め。真帆は手術が終わってもしばらくは目を覚まさない。明日の朝また来ればいい」奏は無駄な言葉を一切挟まず、椅子から立ち上がると大股で病院を後にした。その背中が視界から消えると同時に、剛の顔には濃い陰が落ちた。今日は真帆の誕生日だった。にもかかわらず、奏は祝いの場であるヨットの上で、とわこと抱き合っていた。あの男の行動は、真帆を軽んじただけではない。高橋家そのものを侮辱したに等しい。剛は奏が外で女遊びをすることまでは止めるつもりはなかった。だが今日のような大事な日でさえ、高橋家の面子を一切考えなかったことが、剛の怒りを燃え上がらせた。まさか高橋家は奏なしでは成り立たないとでも思っているのか。剛は奥歯をきしませ、怒りはじりじりと燃え広がっていった。大貴は愚かで、扱いづらい。だが少なくとも「裏切る」心配はない。奏は有能だ。それは確かに有難い。だが有能な者は同時に、最も恐ろしい存在でもある。剛にとって、より危険なのは奏の方だ。タバコを二本吸い終えたあと、剛は携帯を取り上げ、大貴に電話をかけた。「今からお前に、汚名返上のチャンスをやる」大貴は自宅で一人酒を飲んでいたが、その言葉を聞いてすぐにボトルを置いた。「父さん、俺は何をすればいい」「俺が頼むことは、少し危険だ。だが成功させれば、高橋家の中核は外には渡さない。意味は分かるな」剛が差し出した餌に、大貴の目に一瞬で血が通った。「父さん、今回は必ずやり遂げる!」日本。午前十時。一郎は仕事に出かけ、桜はゲストルームから出てきた。彼女は今、一郎の子を身ごもっているため、一郎は何一つさせようとしない。食事は家政婦が作り、掃除も洗濯も家政婦が行う。桜はただ食べて休むだけの生活だった。退屈ではあるが、食べる物に困っていたあの日々に比べれば、今はとても穏やかだった。将来に対する恐怖で胸を締めつけられることもなくなった。部屋から出てきた桜へ、家政婦はすぐに朝食を持ってきた。「桜さん、一郎さんが出かけてから出てこられるんですね」家政婦は微笑んだ。「うん」桜は朝食を覗き込む。だがこんがり焼けた焼き肉
その頃、剛も意識を取り戻していた。状況を知った剛は激怒し、手がつけられないほどだった。真帆は左の肩甲骨に弾が当たり、すでに近くの病院で摘出手術を受けている。大貴と奏は手術室の外で、手術が終わるのを待っていた。大貴はもちろん、今回の銃撃を自分が指示したものだなんて認めるはずがない。しかし剛は何を言っても聞く耳を持たなかった。剛は人前も気にせず、大貴の頬を思い切り叩きつけた。「いっそ俺を殺せばよかっただろ。殺してしまえば相続もお前のもんだ。そっちの方が手っ取り早いんじゃないのか」剛の顔は青ざめていた。「父さん!」大貴の頬には指の跡がくっきり残っていた。「本当に俺じゃないんだ!それに、どうして俺が父さんを傷つけられる。俺はそんな化け物じゃない!」大貴が最後まで否定したため、剛は再び手を振り上げた。奏はその手をとめ、穏やかだが冷たい声で言う。「彼が違うと言っているのなら、これ以上怒っても仕方ありません」剛は肩を震わせながら手を引き、息子を鋭く睨みつけた。「もし本気で人を始末するなら、もう少し頭を使え。お前は目立ちすぎなんだよ。救いようのないバカが。なぜ俺が奏に手伝わせているか考えたことはあるか。お前には後を任せられない。お前に高橋家を渡したら半年ももたないぞ」大貴は歯を噛みしめ、全身が強張り、不満も屈辱も隠せなかった。「裏で何と言われているか知ってるか。お前は間抜けだってよ」剛は拳を握りしめ、大声で怒鳴った。「本当にどうしようもねえ出来損ないだ!さっさと消えろ!」剛が怒鳴り終えると、大貴は怒りに任せてその場を去った。剛は荒く息を吐き、奏の方を見る。「俺の不注意だった。まさかこんなに焦ってお前に手を出すとは思わなかった」奏は長椅子に腰を下ろし、落ち着いた声で言う。「彼は自分の内面を隠すのが苦手なんです」「だからお前を側に置いたんだ。俺が動かないと言ったのは冗談じゃない」剛は奏の隣に座り直した。「俺には子供が四人いる。大貴と真帆以外に、もう二人息子がいた。だが二人とも敵に殺された」奏は淡々と言う。「真帆は賢いです」「そうだ。小さい頃から厳しく育てた。自分の考えを持たせなかった。俺の考え方をそのまま学ばせて、世間知らずの女にならないようにした」剛は娘の話になると、少し表情が柔らいだ。「だがどうやらあい
奏はあのヨットにいる。じゃあママも、そこにいる可能性がある?そう思った瞬間、蓮はすぐスマホを手に取り、とわこの番号を押す。とわこはすぐに電話に出る。「ママ、今どこ?」「ママは今、病院にいるよ」とわこは俊平を一度見てから、優しく言う。「ママの昔の同級生が骨折してね。入院したからお見舞いに来てるの」「そっか」蓮は胸をなで下ろすが、同時に不思議に思う。「どの同級生?」「ママが大学院にいた頃の友達。ちょうどY国に旅行に来て、不運にも怪我しちゃったの」「わかった」蓮は二秒ほど黙り、それから言う。「ママ、もうすぐ新学期なんだ」とわこは胸が締め付けられる。「蓮、ごめんね。ママ、今回は一緒に学校へ行けないの。代わりにマイクに送ってもらってもいい?時間ができたらすぐに会いに行くから」「うん」予想していた答えだったけれど、それでも蓮は胸の奥が少し痛くなった。電話を切ると、蓮はマウスを握り、ニュース画面を閉じ、航空便を検索する。ママが帰れないなら、自分が行けばいい。新学期が始まる前に、ほんの少しでも会いたい。こっそり一人で行くつもりだ。冒険したいわけじゃない。ただ、ここ数日マイクはとても忙しい。ちょうどチケットを購入しようとした瞬間、部屋のドアが急に開いた。マイクの顔がのぞく。「蓮、俺、会社行ってくる。何かあったら電話して」蓮の心臓は一瞬強く跳ねるが、表情は落ち着いたまま。「会社で何かあったの」「ちょっとな。すみれが、どっからかめちゃくちゃ優秀な開発者を引っ張ってきたんだ……あの人、かなり謎でな。ここ数日ずっと経歴を探ってる」マイクはため息をつく。「まあ心配すんな。会社が潰れたとしても、俺がちゃんとお前らを養う」わざと軽い口調でそう言って、マイクは部屋を出ていく。蓮はいま、三千院グループのことを考える余裕はない。頭の中は、とわこの安全のことばかりだ。Y国。とわこと蓮の電話が終わったあと、とわこは三郎へ再度電話をかける。さっきから何度かけても出なかった。忙しいのか、それともわざと出ていないのか。通話ボタンを押したまま、とわこは入口の方を見る。もう一時間近く経っている。本来なら救急車はもう着いているはず。もしかして、運ばれる病院がここじゃない?不安が胸を締めつける。そのとき、三
とわこは頭の中で素早く言葉を拾い上げた。バイロン海、ヨット、銃撃事件。今日の真帆の誕生日パーティーは、まさにバイロン海のヨットで行われている。つまり医者の言った銃撃事件は、真帆のパーティーで起きたものに違いない。とわこはすぐに医者を追いかけたが、少し遅かった。二人の医者はエレベーターに入り、扉はすぐに閉まった。俊平が彼女に追いつく。「とわこ、何をそんなに焦ってる」「さっき彼らが銃撃事件って言ってたの、聞こえたでしょ」彼女の頬は上気し、呼吸は乱れていた。「奏が危ないかもしれない」「つまり銃撃事件は真帆のパーティーで起きたってことか?」俊平は彼女の腕をそっと掴んだ。「まず落ち着け。奏の番号は持ってるか?かけてみたらどうだ」「番号はある。でも彼が出るとは限らない」彼女は眉を寄せ、スマホを取り出し、奏へ電話をかける。思った通り、電話は繋がらなかった。「焦るなよ。さっき医者たちは現場へ向かっただろ。いずれ負傷者がこの病院へ運ばれてくるはずだ。ここで待とう。向こうへ向かったとしても、ちょうど救急車と入れ違いになるかもしれない」俊平は彼女と一緒に救急外来へ向かう。もし負傷者が運ばれて来るなら、救急通路に現れる。二人は救急の待合スペースに腰を下ろした。とわこの身体は張り詰め、大脳は高速で動いていた。今日あのヨットで、三郎のボディーガードが帰る前に、彼女に一緒に降りるかと聞いてきた。あの時はボディーガードの意図が分からず、変だと思っていた。だが今思えば、あのボディーガードはすでに危険を察していたのだろう。それで彼女を連れて行こうとした。なのに彼女は気付かなかった。もしヨットに危険があると知っていたら、絶対に奏を連れて離れていた。そして、ホテルに戻った後、三郎から電話がかかってきた。彼は何度もいつ帰国するのかを聞いてきた。それもまた証拠だ。もしこちらに危険がなければ、三郎がわざわざ優しく「帰って来い」と言うはずがない。とわこの目から急に涙がこぼれた。俊平は驚いたように瞬きをする。「とわこ、奏が怪我したとは限らないだろ。なんで泣くんだ。この国は銃規制が緩いし、銃撃事件なんてそう珍しいもんじゃない」とわこは涙を拭い、声を震わせた。「今日の昼、私はもうあのヨットから戻ってきてたの。自分で戻ったんじゃない。
この人もこの人のボディーガードも、話し方がなんだか変で、とわこは頭が痛くなる。「いまメイクを落としてるところです」とわこは我慢して答える。「メイクを落としたら荷物をまとめるのか」三郎は彼女の荷物にやたらとこだわっているようだ。「どうして荷物のことばかり言うのですか。今日はまとめないですよ」彼女ははっきりと釘を刺す。「こっちに入院してる友だちがいるので、彼が退院したら、一緒に帰ります」三郎は一気に興味をなくした。「今日怒って帰るかと思ったのに。帰らないならもう切るぞ」プツッ。通話は切れた。「意味わかんない」とわこはスマホを置き、独り言のようにつぶやく。「なんで今日中に帰れって言うの。まさか今日何か大きなことでも起きるの?」日本。和夫の遺骨が埋葬されたあと、哲也はすぐにアメリカへ戻った。哲也が去ると、桜はすぐに一郎へ尋ねる。「兄さん、いくら持っていったの?」彼女の兄をよく知っている桜にとって、哲也がお金なしであっさり引き下がるなどありえないことだった。「桜、確かに彼にお金は渡した。でも本当に結婚するかはまだ決まってない。その話は君が子どもを産んでからだ」「私、あなたと結婚するなんて言ってないし。ただ、いくら払ったか知りたいだけ」桜は小声で言う。「もし私がこれからお金を稼げるようになったら、返せるかもしれないし」一郎はその考えに少し驚き、言う。「2000万円」桜は目を見開く。「そんなに?」桜にとって2000万はとても大きな額だ。一郎はどう言えばいいかわからなかった。彼は嘘をついていた。実際に哲也に払ったのは2億円だ。哲也は直美のときと同じ額を要求した。一郎はそれ以上払うわけにもいかず、2億円を出した。しかし2億円と言えば、桜に余計な負担を与える。だから2千万と言った。「みんな、あなたはお金持ちだって言ってる。もしかして2000万なんて、あなたにとっては普通の人が十円を出すぐらいの感覚なの?」桜は彼が黙っているのを見て、勝手に想像を膨らませる。「そうだよね。私のこと好きじゃないのに、高いお金なんて払うわけないよね」一郎の穏やかな心は、彼女の言葉で一気に燃え上がる。「桜、一日でも僕を怒らせないと気が済まないのか」「なんでそんなに怒りっぽいの。ニュースで見たけど、男にも更年期って
奏はとわこに関することを口にしたくなくて、真帆の問いに言い訳して答える気もなかった。だから彼は何も言わなかった。真帆にはまったく追及する勇気がなく、不機嫌な顔を見せることなんてとてもできなかった。彼女は微笑みながら言う。「奏、今日はお父さんの身にあんなことが起きて、本当に不安で仕方なかったの。あなたがそばにいてくれて、本当に救われた」「大丈夫だ。あの人は無事だ」「うん、もう心配はしてないよ。ただね、私、あなたの妻になれたこと、本当に幸運だと思ってるの」……とわこは救助員によって岸に引き上げられたあと、すぐに溺水の応急処置を受ける。胃の中の海水を吐き出したとき、とわこは意識を取り戻した。目の前に停泊しているヨットが、さっき起きたことを鮮明に思い出させる。「お嬢さん、病院にお連れしましょうか」救助員が尋ねる。とわこは反射的に首を横に振る。「だいじょうぶ……」死の縁から生き返ったような感覚が、彼女を一気に覚醒させた。自分は死ねない。まだ子どもがいる。まだそばにいてくれる大切な友人たちがいる。人生には恋人だけじゃない。家族も友達もいる。心の中に広がっていた冷たい絶望が、少しずつ薄れていくと、とわこは勢いよく立ち上がった。今の彼女は全身がボロボロだ。けれど幸い、周りには誰もいない。「お嬢さん、車を呼んできます。ここはタクシーが来ません」と救助員が説明する。とわこはその場に立ち、救助員が運転手を呼びに行くのを待つ。およそ一時間後、彼女は宿泊しているホテルへ送られた。髪も服もすでに乾いている。ただ、服はしわだらけで、髪も乱れ、何よりも化粧は完全に崩れていた。部屋に戻ると、とわこはすぐに洗面所でメイクを落とそうとする。クレンジングをコットンに染み込ませたそのとき、バッグの中からスマホの着信音が鳴った。バッグも一緒に海に落ちたが、幸いスマホはまだ使える。コットンを置き、スマホを取り出す。画面には三郎の名前。彼ももう、奏が自分を海に突き落としたことを聞いたに違いない。とわこは電話を取り、嘲笑される覚悟をした。しかし、三郎は笑わなかった。「もうホテルに戻ったのか」「ええ。言われたものは渡しました。それで任務は終わりです。もう…お世話になることはありません」とわこは自嘲気