LOGIN「はじめまして。滝川桜と申します」鹿威し《ししおどし》の特徴的な音にビクッとしてしまう。……深く頭を下げた桜の隣には、龍之介、そして麗香がいる。「……家政婦か」「はい。うちのゴタゴタに巻き込んでしまったお嬢さんです。今外へ出すのは危険なんで、うちで働きながら時がすぎるのを待つことに」龍之介が説明したのを合図に、麗香が桜に頭を上げるよう小声で伝えた。テーブルのない広い和室。龍之介や蔵之介によく似た男性が、腕を組んでこちらを見ている。切れ長の鋭い目、高い鼻……年齢相応の渋みまで加わって、桜はこんなに美しい中年男性を見るのは初めてだと思っていた。「桜さん、と言ったか」「は、はい」「うちがどんな家業かはご存知か」桜はコクンとうなずきながら答える。「存じております。……今回、私の父親もご迷惑をかけておりまして」「そうか。私の信条として、外の世界の方はうちにはあまり関わらない方がいいとしてきた。……だが、何やら事情がありそうだな」そこへ、シャッと襖を開ける音。「組長、ただいま戻りました」背後から聞こえる声は、蔵之介だ。「この子のことは、俺に任せてください。屋敷にいる間も、晴れてここを出てからも」視線を落とした目の端に、龍之介と麗香の指先が映る。2人とも、ギュッと拳を作った。「いいだろう。……ただ、」組長は蔵之介に返事をして、改めて桜に目をやる。「君は、とても似てるなぁ。……百合さんに」龍之介、蔵之介、そして麗香に順に視線を送り、組長は立ち上がった。襖を開けると、そこに女性がいる。それは初めてこの屋敷に来た時会った、龍之介と蔵之介の母、そして組長の妻だ。目が合って、頭を下げる桜に会釈を返し、組長の後を追っていく。「……ったく、なんなんだろうな、この部屋の硬い空気は。緊張しかしねぇわ」蔵之介はその場にあぐらをかいて座り、龍之介は反対に立ち上がった。「あの、蔵之介さん……しばらくお世話になります。よろしくお願いします」正座のまま蔵之介に向き直り、頭を下げた。「うん。わからないことは俺に聞いて。……ほら、この2人は結婚式の準備で忙しいから!」「……はい、ありがとうございます」隣にいた麗香も立ち上がり、龍之介の隣に行く。……が、龍之介が動かない。「なに、寄り添っちゃって。……先に行けばいいじゃん」「蔵之介も早く出ろ。こ
「……何もかもを、捨てられたらいいな」リビングを掃除していた桜を自分の部屋に入れ、改めて抱きしめる龍之介。「でも……皆さん困りますよね。龍之介さんがいなくなったら」「皆さん……か、」ふふ…っと笑う龍之介に、少しだけ抗議したくなって見上げれば、優しい視線にとらわれて、動けなくなる。「2年で、何とかする」「……2年」「志田川組の強化と独立をさせて、麗香と離婚する。……西龍会若頭は、蔵之介に譲る」こういった組織を抜けるのは、決して容易いことではないと聞いたことがある。それは……映画やドラマだけの話なのだろうか。「待てるか?」甘い視線に、わずかな不安が宿るのがわかった。……強さと美しさを兼ね備えた龍之介のような人が、自分をそんな目で見るなんて、改めて信じられないと思う。「待ってます。……ずっと、龍之介さんだけを思って生きます」真剣に伝えたのに、フッと軽く吹き出すなんて……ちょっと意地悪が過ぎるような気がした。「笑ってごめん。可愛くてな」頬に指先を這わせ、優しくなでる龍之介。「俺は……お前しか抱かないから」「でも……」「お前以外無理だろうし、その気になれるはずがない。だからお前も、俺以外に触れさせるな」本当にそんなことが可能なのだろうか。正直なところ、いくら形式的な結婚だとしても、子供を望まれることは十分考えられる。麗香が、というより組織が、跡継ぎを望んだとしたら……そこまで考えて、胸が激しく痛んだ。……嫌だ。龍之介がほかの女性に触れるなんて、絶対に耐えられない。自分から龍之介の胸に飛び込み、広い背中に腕をまわす。ありったけの力を込めて、しがみつくように抱きしめた。気持ちを理解してくれたのか、抱きつく桜を包み込むように腕のなかに閉じ込める龍之介。「本当は、お前を家政婦として働かせたくねぇよ。だが志田川組も出入りするようになって、全員に役割が必要なんだ」自分のような若い女が、役割も持たずに屋敷をうろついていれば……龍之介や蔵之介との関係を想像させてしまうということだろう。「わかってます、大丈夫。……何もしないでお金をもらうようなこと、私にはできないので」「あぁ。桜らしいな」「頑張って、この屋敷を綺麗にしますね」ビー玉のような瞳で見上げる桜の頭をクシャと撫で、髪に、おでこに……キスを落とす龍之介。やがて貪るように桜の唇を
「……意外と女らしい部屋でしょ?」龍之介の部屋に帰った桜を訪ね、麗香は自分の部屋に彼女を招いた。「意外と、っていうわけじゃないですけど、女性らしい落ち着いた部屋ですね」おしゃれな家具と観葉植物、見たことのある絵画が壁を飾っていて、上手にベッドを隠している配置は素敵だと思った。この部屋でもお茶の用意ができるようで、麗香は香り高い紅茶を淹れてくれた。「どうだった?齋藤専務は」「あ……落ち着いた大人の方で、あの…私みたいな人の手助けをするボランティアをしているって言ってました」知ってるはずの情報を改めて伝えてしまった……麗香は嫌な顔ひとつせず、優しくうなずいてくれる。「桜ちゃんは、しばらくここで働いたらいいと思う。……龍之介は自分の専属家政婦とかバカなこと言ってたけど、そうじゃなくて、屋敷の家政婦として」「……はい、ありがとうございます」美紀に借りたお金を奪われて、返金しなくてはならない。だから仕事をしてお金を得る必要があった。けれど外に働きに行くことは、龍之介や麗香だけではなく、西龍会に迷惑をかけることになりかねないと……さっき自覚したばかりだ。「わかってくれて嬉しい」それとね……と、紅茶をひとくち飲んで、麗香が続ける。「結婚式の日取りを、決めることになったの。私……龍之介と結婚する」「……はい」「愛があるわけじゃないよ。お互いの組のため。……っていうか、どっちかって言うと志田川組が助けてもらうためかもしれない。だから私は、龍之介と結婚する必要があるの」蔵之介のことを口に出すことは出来なかった。こういう決断をしたということは、必然的に諦めたということだから。「それからこれは……桜ちゃんにしか言わないけど」迷いを含んだ言い方に、桜の伏せた瞳が上がる。「龍之介は、計画的に私との結婚を終わらせるつもりでいる」「それは……計画的離婚のことですか?」「そう。龍之介は、2年かけて離婚するって言ってる。でもね、結婚したら……親が出てくるのよ。うちの父親、志田川組の組長が、娘婿になった西龍会の若頭を離すかどうか……」少しずつ、取り巻く環境に手足をとらわれる龍之介が見える気がした。「だから、離婚がそううまくいくかは、約束してあげられない」……返事はできなかった。それは仕方のないことで、自分に何かできるわけではないとあきらめるしかないのに
麗香に言われて出かけた桜が屋敷に戻ってきたようだ。……遠目に俺を見て、立ち尽くしている。「帰りは夜になる」すれ違いざま声をかけると、弾かれたように、通り過ぎる俺を振り返る桜。…優しい視線を感じる。…しばらくして、今度は俺が振り返った。白いワンピースの裾を揺らし、薄茶色のロングヘアをなびかせて歩く桜を、俺は花を愛でるような気持ちで見つめた。……齋藤という松白屋の専務と会ってきたのだろう。麗香にそう言われたときは、ただの嫉妬が心に渦巻いた。まるでガキと一緒だ。「ちゃんと、話をしよう。龍之介」桜が出ていって、麗香に腕を掴まれた。まだ、桜との未来を諦めてはいなかった。この時は……まだ。「親に、式の日取りを決めろって言われてる」「蔵之介を諦めて……組のために俺と結婚するって決めたのか」「うん。決めた」……深いため息を漏らす俺に、麗香がこれ以上ない本音を打ち明けた。「やっぱり似てるから。蔵之介の面影を乗せて、龍之介を見てる。多分それで私…結婚生活やっていける」「俺は桜以外、抱けねぇぞ」本音に本音をぶつければ、麗香は諦めたような笑みを浮かべた。「適当に欲望を発散する手助けをしてくれたらいいわ」「そんなこと…ごめんだな」「…ひど」本気で言っているわけではないことはわかったが、俺がどこまで譲歩するか確認している気がした。「計画的離婚についてはどうだ?式を挙げて1年後までに志田川の組織を変えるつもりだ。うちの後ろ盾がなくてもやっていけるようにする」「…うちの組長がどう言うか…」「組織を強くして、文句なんかねぇだろ」タバコに火をつけ、唇の端で咥えながら続けた。「志田川組を独立させたら、さらに1年後までに、俺たちは離婚」「晴れて、桜ちゃんのもとに行けるってわけ?」「うちの組織と組員、蔵之介の力があれば可能な計画だ。お前に話をつけたら、うちの組長に伝えようと思っている」自分の質問に答えない俺を見上げ、意味深に笑う麗香。「……桜ちゃんを離さないつもり?」「どうしてそんなことを聞く?」「あの子のためにならないからよ」…それは何度も頭をよぎったことだった。離してやるのが桜のためで、自分のような極道のそばに置くことは、静かな幸せから遠ざけることだと…十分すぎるほどわかっている。過去……百合にも同じことをした。結果あいつは病気になり、
「家庭環境に恵まれず、進学を断念したり夢を諦める若者の支援をしています」「そう…なんですか。あの、麗香さんとは……?」「松白屋のお客さまです。そのお付き合いで担当者が何度か櫻川へ行ってまして、あなたの美しさに魅了されたようです」意外な話の流れに、頬を染める桜。「いえ、私なんてまったくの素人で…お恥ずかしいです」「担当者が麗香さんにあなたの話を聞いて…私に伝えてきました。それで、あなたを指名して櫻川へ行ったのですが…」担当者は、齋藤がボランティア活動をしていると知る、数少ない人物だったそうだ。桜はちょこんと頭を下げる。「すみません。私は櫻川に出なくなったあとでしたね…」齋藤は緊張をほぐすように笑った。「桜さんに支援が必要な時は、ぜひ連絡をしてください。私は社会的立場もあり、決して怪しいものではありませんから」「…はい」ありがとうございます…なんて言っていいのか。桜の迷いに寄り添うように、齋藤は明るく言った。「さぁ、冷めないうちにコーヒーとケーキをどうぞ」齋藤は、押し付けがましさがなく、終始落ち着いた紳士で、育ちの良さを感じさせる人という印象。そんな彼との間に不思議な縁があることがわかったのは、コーヒーを飲み終えた頃のこと。「櫻川の前は、どんな仕事をなさってたんですか?」「室井酒店というお店で働かせてもらってました」「……室井?」ふと考え込み、齋藤は愉快そうに言った。「もしかしたらオーナーは、室井昭仁…ですかね?」「え、昭仁さんをご存知なんですか?」「はい。大学の同期で、今も連絡を取り合ってますよ」携帯に収められた写真を何枚か見せてくれた。それはよく知る昭仁に間違いない。「恋人ができたって言ってたなぁ…」…美紀ちゃんのことだ。なんだかとても嬉しくなった。「一緒に働いていた女の子のことです。美紀ちゃんと言って、とても優しい人で…」「…そう!それならぜひ今度、4人で食事でもしましょう!」「はい、ぜひ!」2人に会えるとしたら、こんなに嬉しいことはない。坂上や父親が雲隠れしている今、1人で出かける事も2人に会う事も危険かもしれないが……。齋藤と別れ、屋敷に向かう。出てきた時と同じ裏門に近づくと、中にいた男性が桜に気づき、門を開けてくれた。「和哉さん、ありがとうございます」「おかえりなさいまし…桜さん」「あ
「どうしてお前が勝手に決める……?」「櫻川を私に任せるって言ったのは龍之介でしょ?せっかく大企業の御曹司と接点ができたのに、これをビジネスに変えなくてどうするのよ」「その御曹司とやらに、どうしても桜を会わせると言うなら、俺も同席する」「だめよ」2人のやり取りをハラハラする思いで見守る桜。…龍之介さんにこんな風に意見ができるのは、麗香さんと…蔵之介さんくらいだろう。「龍之介が出ていったら、櫻川は西龍会と繋がってるって思われるわ。あの店は、もう私のものよ?西龍会とも志田川とも一線を引いた……私の店なの」そこまで言われ、さすがの龍之介も黙った。「確かに経営は譲った。それぞれの組がバックにあるなんて知られちゃあ、うまくないわな」こちらに視線をよこす龍之介に気づき、桜も隣にいる龍之介を見た。……どことなく悲しそうに見えるのは、気のせいだろうか。「桜ちゃん、裏の門から出て…大通りにある『川北珈琲』って店に行ってくれる?そこで齋藤専務が待ってるから」「はい…わかりました」そう答えたものの、そんな大企業の偉い人が、自分にどんな話があるというのだろう。「齋藤専務…すごくいい人よ。…とは言っても、坂上の裏の顔を見抜けなかったんだから、信用できないか…」裏門まで送ってくれた麗香が、桜の肩に手をかけながら自嘲気味に笑う。桜も曖昧に笑顔を返して、門を出ようとした時…「桜ちゃんは、もっと外の世界を知った方がいい」「……え?」「龍之介のことが好きな気持ちはわかる。……でも、あいつと一緒にいるってことは、わかるでしょ?普通の幸せから遠ざかることなんだよ?」もしかしたら、麗香さんは。「2人の邪魔をするつもりはない。でも龍之介は……最終的に私に任せて」「それは……どういう意味ですか?」「もう1人、支えてくれる人を作っておくの。龍之介と別れたあとに、支えてくれる……男を」返事を待たず、行きなさい…と、そっと背中を押された。若い衆の1人が飛んできて、門を開け、通してくれた。振り返った麗香の顔は…決して意地悪なわけではない。多分今の自分と同じような表情。どうしようもなく悲しくて、どこか諦めがまじって……さっき龍之介さんも、同じような表情をしていたっけ。喉の奥に涙のかたまりを秘めながら、桜は言われた通り大通りに出た。川北珈琲というカフェは、すぐに見つかっ
「…ふぅ……………」「…ちょっと待ってため息?桜ちゃん、どうかしたの?」平日、昼下がりの室井酒店。窓から差し込む太陽の光が、夏のそれを思わせるようになり、昭仁がクーラーのスイッチを入れにやって来た。「え?ため息なんて…つきました?」「…どうかしたの?」母屋で食事を済ませた美紀がやってきて、昭仁と桜を見比べる。「いや…桜ちゃんが大きなため息をついたから、美紀さんがきっと心配するだろうなぁって…」「あ、それは…心配すると思います…よ?」向かい合い、うふふ、あはは…と恥ずかしそうに笑う2人。間を取り持った気分になり、桜も笑顔を添えた。…以前、麗香さんを交えて集まった女子会で聞い
「…ちょっと待ってください。蔵之介さんの子供を身籠ったって…」「龍之介は自分の子供だと思ってるだろが…俺の子供だ。間違いない」「…百合さんは、龍之介さんを裏切ってたんですか?」「龍之介が若頭になって忙しくなって…俺が百合の様子を見に行くことが多くなった。…百合は寂しさから俺に身を任せるようになって、やがて妊娠を告げられた。龍之介に全部話して、半殺しの目に遭ったとしても、百合を連れて組を出て一緒になろうと思った。…なのに」なのに、病気になってしまった…「突然の出血で、子供には…かわいそうなことをした。病院に付き添ったのは、俺だ」「そんな…龍之介さんは、とても百合さんを愛してたのに…
「く…蔵之介さん?」真っ暗な中で抱きしめられ…いったいどうしたのかと、その胸を押した。「…俺は、また諦めなきゃいけないのかよ」「諦めるって…」「百合は俺のものにならなかった。好きだったのに…何もかもを捨ててもいいと思うほど、好きな女だった」押し返してもビクともしない力で、桜を抱きしめ、離さない蔵之介。「…ねぇ桜ちゃん、俺のものになってくれない?悪いようにはしない。いや、世界イチ幸せにする」「蔵之介さん…酔ってる」さっき飲んでいた酒の量を思い出す。やがて、抱きしめる蔵之介の腕の力が弱まった。真っ暗で見えなくても…蔵之介の唇が近づいてくるのがわかる。その瞬間、全身の力が抜け…桜
「美味しいです。このパン…」「それはバインミーってベトナムの食べ物よ!…桜ちゃん、パン系が好きなの?」「あ、でもこっちのチャーハンも!」「それはナシゴレン…だよね?龍之介!蔵之介!?」出されたものを次々に口に運ぶ桜と、料理の説明をする麗香。龍之介と蔵之介は、ひたすら酒を飲んでいる。さりげなく、にらみ合いながら。「あぁ、ナシゴレンだ」「確かに、バインミーだ」「あのさ、2人とも私たちに失礼だし桜ちゃんに嫌われるよ?」麗香が目をつり上げて、2人を交互に睨む。桜はさすがに満腹で…状況の打開を試みてくれた麗香をありがたく思う。「…あの、何か難しい話があったんですか?誘われるまま来ちゃ