تسجيل الدخول「おう。省吾か?朝からすまんな」「いえ、カシラ。何かありましたか?」「ちょっと調べてほしい事があるんや」「承知しました。すぐ事務所に向かいます」錨 省吾 九条組の若頭補佐の一人であり、 京司が組で信頼を寄せる人間の一人だ。彼は決して京の言葉を操らない。自らの出自を語ることもないが、 その声に混じる乾いた風は、ここではないどこか遠い土地を思わせた。 喧騒と怒号が渦巻く九条組という濁流の中で、端正なスーツに身を包み、 細い銀縁眼鏡をかけた省吾の姿は、あまりに場違いな静謐さを保っている。 堅気のサラリーマン然としたその冷徹な佇まいは、 京司の目には、この裏社会に紛れ込んだ正体不明の「異物」として、鮮烈に焼き付いていた。(変わった奴やけど…仕事はできるんやんな)京司は指先の煙草から立ちのぼる紫煙を追うでもなく、 揺らぎの向こう側に省吾を見据えていた。肺に溜めた熱い煙を吐き出すとき、 彼の中の天秤は静かに、そして残酷なほど明確に、省吾という男の器量を量り終えていた。わずか十分。その短時間で、省吾は完璧という名の鎧を完璧に仕上げてきた。 急な呼び出しに焦りはどこにもない。 仕立ての良いスーツの折り目は、彼の意志の強さを象徴するように鋭く、 一点の曇りもない靴が床を静かに叩く。 「カシラ。お待たせしました」「すまんな。朝から呼び出して」「お前に探して欲しい男がおるんや」「ほう…犯罪がらみですか?」 省吾は悟っていた。京司が自分に接触を図る時、 それが単なる迷い人を探すような、平穏な動機であるはずがないことを。 彼が差し出す依頼の裏には、常に抜き差しならない「何か」が 潜んでいる事を。けれどもそれを探る程彼は愚かな男ではなかった。 「何をやった男です?」「まあ…一言で言えば女衒やな」 京司はサランの件を省吾に話した。 「難しそうか?」「カシラのご命令ならどんな手を使っても探し出しますよ。 それに不法就労の女相手専門に裏の風呂に沈める屑の話なら聞いたことがありますね」 「風呂なぁ…」 京司は煙草を燻らせながら苦い顔をした。 「カシラの女…という訳ではなさそうですね」 省吾は若衆の入れたコーヒーに口をつけた。 「そんなわけないやろ」 京司は省吾の言葉を鼻で笑いながら鈴華の事を思い浮かべた。 「---なぁ省吾
翌朝 京司の足は組事務所へと向かっていた。薄暗い事務所のドアを開けると、使い古されたエアコンの稼働音、微かに漂うタバコのヤニ臭さが京司を迎えた。「お疲れ様です!」短く挨拶を投げると、ソファに深く腰掛けていた若衆達が慌てて背筋を伸ばす。京司はそれを手で制し、部屋の奥へと足を向けた。組事務所という場所は、世間がイメージするような怒号が常に飛び交う修羅場ではない。むしろ、停滞した空気の流れる気怠い待合室に近い。壁に掲げられた代々の組指針、神棚の線香の匂い、そして常につけっぱなしのテレビから流れるニュース番組。京司がそこに座っているだけで、事務所の空気はわずかに密度を増す。彼は自分から多くを語らない。ただ、手元の灰皿に吸い殻が積み重なっていくのを眺めながら、時折、誰かが持ってきた書類に目を通したり、電話の応対をする組員の背中を黙って見守ったりしている。「カシラ、お茶淹れ直しますか?」京司は短く「いい」とだけ答え、煙を天井に吐き出した。“カシラ”…組の皆京司のことをそう呼んでいる。若衆たちの口から「カシラ」という呼び名が放たれるたび、京司の脳裏には昨日の鈴華の残像がふいに浮上した。彼女が最初にその名を口にした瞬間のことだ。振り返れば、その呼び名は彼にとって、皮膚の一部も同然だった。組の者たちのみならず、彼を取り巻く世界の住人たちは、敬意や畏怖、あるいは諦念を込めて彼を“カシラ”と定義する。けれど、鈴華だけは違った。他の誰に呼ばれても波立たない心が、彼女の時だけは、まるで清らかな水面に泥を投じられるのを恐れるかのように、頑なに門を閉ざした。なぜ、彼女にだけは「カシラ」であってはならなかったのか。鈴華という存在にだけは、その言葉を向けられることを頑なに拒絶してしまった。喉元まで出かかったその呼び名を遮った時の、自分でも説明のつかない奇妙な疼き。京司は、胸の奥底に澱のように溜まったその「正体不明の感情」を、静かに噛み砕いていた。「…今日は錨は顔出してるか?」「錨補佐は今日はまだです」京司はしばしの沈黙に身を委ね、スマートフォンを取り出すと、滑らかな画面をなぞり、“錨”と名付けられたその番号を呼び出した。
秋の夜長、東山の麓にひっそりと続くなすありの径。観光客の喧騒はとうに引き潮のように消え去っていて、風の声だけが耳に届いてくる。「ご馳走様でした。京料理というものを…初めて知りました」「口に合ったならええんやが。どうやった?」「あまりに美しくて、食べるのがもったいなかったです。ひと口ごとに、心がすうっと綺麗になるような…そんな感じがしました」鈴華の弾むような声音は、あたかも真新しい玩具を手にした子供の無垢を思わせた。その瑞々しい悦びに触れ、京司の目元は慈しむように、ゆるやかに細められた。「気に入ってくれたら、よかったわ。…少し歩こか」朱色に色づき始めた紅葉の葉が、街灯の淡い光を透かして、道に複雑な影を落としている。京司と鈴華の二人の歩幅は、示し合わせたわけでもないのに自然と重なり、乾いた砂利を踏む音だけが、秋の冷ややかな空気の中に規則正しく響いていた。「……もう、すっかり冬の匂いやな」京司は足を止め、漆黒の闇に沈む白川の流れを見つめた。「為せば成る……」「え?」」「“なすありの径”…この径の由来や」「どういう意味なのでしょうか?」異国から来た彼女の知っている言葉の物差しでは、その言の葉に込められた深い意味を測ることはできなかった。「強い意志を持っていればどんなことでも成し遂げられる…そういう意味やな」京司の落ち着いた声は、夜の静寂を乱すことなく、鈴華の心に深く染み渡っていった。鈴華は、わずかに触れそうな距離にある京司の外套の袖を見つめ、自身の胸の鼓動が少しだけ早くなるのを感じていた。「為せば成る…」「とりあえず行動せなあかんってことやな」京司の語る言葉の端々に、鈴華は自身の影を見た。その遠回しな優しさが、冷え切っていた彼女の胸に、静かな熱を灯していく。彼が差し出した無言の庇護に、鈴華は深く、深く包まれていた。「そろそろ戻ろか」頭上を埋め尽くす紅葉の熱から逃れるように、京司と鈴華は“なすありの径”を抜けた。舗装された道に出ると、乾いた風が吹き抜け、先ほどまで二人の肌を包んでいた密やかな秋の気配が、嘘のように遠のいていった。
“お兄ぃ”という、彼女の唇から放たれるにはあまりに不釣り合いな言の葉に、京司は不意を突かれた。その一言が、彼の中に築かれていた彼女の虚像を、瓦解させていった。「あ……」その言葉が唇からこぼれ落ちた瞬間、鈴華の心臓が大きく跳ね上がった。「君、お兄さんおったんかいな」「外では“若頭”と呼ばないといけないんでした」静止画のように固まっていた京司が、その一言に弾かれたように反応した。「どういう事や」その短い問いかけには、困惑と焦燥が綯い交ぜになっていた。「私の兄槇村宏一は六穣会若頭です」鈴華の淡々とした述懐は、静まり返った室内に無機質な足跡を残していく。そのあまりに苛烈な真実に、京司は肺の空気をすべて奪われたかのように絶句した。「そうやったな……。六穣会の若頭は槇村会長のご子息やったな」ようやく絞り出したその独白は、苦い砂を噛むような響きを帯びていた。「お兄さんも香港から来はったんか?」「いえ。兄は日本人です。大阪で槇村の父に拾われたと聞いています」「…拾われた?」「父も兄も私も皆、私達に血縁はありません」「…でも家族です」「そうか…」「お兄ぃ、なんて呼ぶほどに随分慕っとるんやな」「今現在もですが…私が日本に来たばかりの頃、父の槇村は仕事でほとんど大阪にはいませんでした。そんな私の面倒を見てくれたのが兄の宏一です」運ばれてきた盆の上で、透き通った葛切りが春の柔らかな光を撥ね返している。会話を続けながら鈴華は箸先でそれをそっと持ち上げ、黒蜜の海を泳がせた。「…美味しい」口に含んだ瞬間、驚きに目を細める。ひんやりとした滑らかな舌触りのあと、濃厚な蜜の香りが鼻を抜け、体中の緊張がふわりと解けていく。「キラキラして…宝石みたい」「それはよかったわ。甘いもん好きなんやなぁ」甘味を喜ぶ鈴華のあどけない横顔に、京司はふと眼差しを細めた。知れば知るほど奥行きを増す彼女の魅力に翻弄されながらも、ふいに脳裏をよぎる“宏一”の名に、思考が微かに凍りつく。まだ見ぬその兄への想いは、憧憬とも、嫉妬とも、あるいはもっと冷ややかな峻別ともつかぬ、複雑な澱となって彼の胸に沈殿していった。
しとやかな衣擦れの音と共に運ばれてくるのは、涼やかな切子に映える先付。透き通る出汁に浸る車海老の甘みが、舌を優しく撫でる。息を呑む間もなく差し出された漆黒の椀。蓋を撥ねた瞬間に溢れ出したのは、削りたての鰹が放つ、黄金色の薫り。熱を帯びた湯気の中で、澄み渡るような出汁の滋味が、深い余韻となって心に染み渡っていく。どれも鈴華が今までに目にしたこと、無論口にしたこともないような代物ばかりだ。それらを前にして彼女が抱いたのは、好奇心というよりも、自分の世界の狭さを突きつけられたような、静かな戸惑いであった。続いて、皿の絵柄が透けるほど薄く引かれた鯛。 「 まずはそのままで、何もつけんと食べてみぃ」京司が促す。恐る恐る口にすると、淡い甘みの後に、噛むほどに増す力強い旨味に驚きを隠せない様子の鈴華であった。鈴華の横顔に浮かぶ満足げな色を、京司は酒の肴にするかのように愛でた。冷酒が喉を撫でるのと同時に、胸の奥でふつふつと湧き上がるのは、支配にも似た深い安堵。彼女を世界の喧騒から遮断し、その柔らかな表情を独占したいという切実な保護欲が、彼の瞳を熱く湿らせていた。運ばれてきたのは、秋の深まりを感じさせる落ち鮎の塩焼きだった。その錆色の肌に、もうすぐ終わる季節の気配を読み取る。「これが今年の最後の鮎やな」京司は誰にともなく呟き、一気に杯を空にした。喉を通る酒の熱さと、落ち鮎のわずかな苦みが、胸に深く残った出来事を静かに締めくくってくれた。京司は、ふと鈴華の指先に目を奪われた。箸を動かすその仕草は、まるで指先が優雅に踊っているかのように滑らかで、一切の無駄がない。洗練された品格が、卓上の空気を清らかに塗り替えていくようだった。「箸の使い方、上手やなぁ」「日本に来てからテーブルマナーを叩き込まれました。私が無作法だと六穣会が恥をかくのだそうです」鈴華の言葉に、京司の唇から微かな苦笑がこぼれた。「一体誰の吹き込みや?槇村会長か?」「お兄いです」
車を降りれば、そこは石畳の街、祇園だった。連れ立って歩き出した足元には、鈍く光る石畳がどこまでも続いている。街灯が和紙を透かしたような柔らかな光を落とす。この街の呼吸に馴染み、流れるように石畳を闊歩する京司。対して、初めて足を踏み入れた花街の、格式高くも艶やかな気配に圧倒され、鈴華はただ息をひそめるように歩を進める。その対照的な後ろ姿が、夜の祇園に鮮やかに浮かび上がっていた。喧騒を一つ角で曲がれば、そこには静止した時間があった。軒先に吊るされた提灯に、ぽっと温かな灯がともる。その柔らかな光は、打ち水で湿った石段を淡く照らし、訪れる者を無言で招き入れていた。年月を重ねた木目の塀は、雨を吸ってその深みを増している。土壁の落ち着いた黄色と、瓦屋根の重厚な灰色。風が吹けば、柳の細い枝がさらさらと音を立て、提灯がわずかに揺れる。格子の隙間からは、微かに焚きしめられた香の香りと、出汁の芳醇な香りが漂ってくるようだ。一歩足を踏み入れれば、日常を脱ぎ捨て、贅を尽くした静寂の中へと没入していく。通り過ぎる人々は思わず足を止め、その入り口を羨望の眼差しでそっと見つめるのだった。京司は迷いのない所作で、年月に磨かれた格式高い門扉を押し開いた。鈴華は重厚な家屋が放つ威圧感に気圧され、足を止め、一瞬の躊躇の色を見せたが、それを悟られぬよう飲み込むと、京司が揺らした暖簾の残響をくぐるようにして、深閑とした奥へと歩を進めた。玄関を跨ぐと、お香の香りがかすかに鼻腔を突いた。女将は音もなく膝をつき、京司へ向けて柔らかな京言葉を落とす。「おこしやす。どうぞ、こちらへ」気心の知れた間柄特有の、短いやり取り。「女将。急で悪いなぁ」「烏丸の若頭はんの頼みどしたら断れしまへんわ」中庭に面した長い渡り廊下。歩を進めるたび、歴史を吸い込んだ木材がわずかに軋み、時の厚みを物語っていた。やがて、重厚な唐紙の前に辿り着く。女将がしなやかな所作でその扉を開けると、青畳の香りがふわりと鼻腔をくすぐった。「こちらでございます。どうぞ、ごゆるりとおくつろぎやす」雪見障子の向こうには、計算し尽くされた借景が広がっている。手入れの行き届いた苔の緑が、夕闇の中でしっとりと深く沈み込み、配置された庭石が影となって静かに座していた。その目に映るすべてが、鈴華にとっては







