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浮世はかくも儚く、出会わなければよかった

浮世はかくも儚く、出会わなければよかった

By:  春朧Completed
Language: Japanese
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渡辺千夏(わたなべ ちなつ)と藤井達也(ふじい たつや)は幼い頃からの幼なじみであり、共に芸術系の試験を受け、演劇学院に進学した仲だった。二人の夢は、俳優になること。 高校三年の時、千夏は両親を事故で亡くし、深い悲しみに沈んでいた。そんな彼女を、達也はずっと傍で支え続けた。その優しさに、千夏は次第に恋心を抱くようになる。しかし、達也の想い人は演劇学院の先輩・佐藤真奈(さとう まな)だった。千夏は自分の気持ちを胸の奥にしまい込むしかなかった。 やがて二人は実力派の若手俳優として名を上げ、芸能界で注目を集める存在となった。そんな中、達也から突然プロポーズされ、千夏は驚きつつも受け入れた。 結婚後、達也は千夏に芸能界を引退してほしいと願い出た。千夏は迷いながらもその期待に応え、家庭に入った。そして、二人の間に藤井颯真(いしい そうま)という男の子が生まれた。 颯真が三歳の誕生日を迎えたある日、千夏は偶然、達也の過去を知ってしまった。かつて彼を振り捨てて海外に行った真奈が、再び帰国していたのだ。そして達也と真奈は再び関係を持ちはじめていた。 達也は千夏との結婚から七年が経っても、世間に千夏との関係を公表しなかった。それだけでなく、真奈が戻ってきてからは家に帰らない日も増え、ついには颯真を連れて真奈に会いに行くようになる。 父子ともに真奈に懐き始め、かつて夢を諦めて家庭に尽くした千夏に対して、冷たい態度を取るようになった。

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Chapter 1

第1話

「千夏、あなたと達也は長い間一緒に過ごしてきたでしょ?颯真ももうこんなに大きくなって……お願い、行かないでくれない?

私の持っている株は全部あなたに譲るわ。これからは、私がいる限り、もうあなたに辛い思いはさせないから……いい?」

藤井家の別荘。藤井達也(ふじい たつや)の母が赤くなった目で、白いワンピースを着た渡辺千夏(わたなべ ちなつ)に優しく語りかけていた。目には明らかな未練が滲んでいる。

千夏は視線を落とし、しばらく黙ったまま小さく首を振った。そして、手首の翡翠の腕輪を外し、そっとテーブルの上に置いた。

「お義母さん、こう呼ぶのも……これが最後です。もう引き止めないでください。私、決めたんです」

達也の母は、千夏を引き止めることはできないと悟ったように、静かにため息をついて背を向け、目元の涙をぬぐった。そして振り返ると、無理にでも笑顔を作った。

「千夏……あなたは本当にいい子よ。藤井家があなたにしてきたこと、本当に申し訳ないと思ってる。これからは、自分のやりたいことをして生きていってね」

「お義母さん、一つだけお願いがあります。私が出て行く件、達也にはまだ言わないでください。必要なときには……手を貸していただけませんか?」

達也の母は、涙ぐみながら何度もうなずいた。目尻のしわが、これまでの年月の重みを物語っていた。

千夏はその姿を見つめ、最後にはこらえきれず、達也の母をそっと抱きしめた。そして、迷いのない足取りでその場を後にした。

その動きは、潔く、そして決然としていた。

千夏はタクシーに乗って藤井家の別荘を後にした。車内で、彼女の頭の中には様々な記憶が去来していた。

達也と共に過ごしたあの年月。彼らの子供――藤井颯真(いしい そうま)のこと。

思い出すだけで、千夏は苦笑いを漏らしてしまった。

彼女と達也は幼なじみだった。一緒に学校へ通い、一緒に成長し、一緒に芸術大学を目指した。そしてそのまま、演劇学院に合格した。

二人の夢は、スクリーンに映る存在になること――俳優になることだった。

高校三年のとき、千夏の両親が事故で亡くなった。最も辛いその時期、達也はずっとそばにいてくれた。そして、千夏の心には、自然と達也への恋心が芽生えてしまった。

だが、達也が好きになったのは、彼の先輩だった。美しくて妖艶な女性。そのことを知った千夏は、自身の想いをそっと胸にしまい込んだ。

やがて二人は、望んだ通り人気俳優になった。そんなある日、達也は千夏にプロポーズした。

「結婚しよう。ずっと一緒にいたい」

突然の言葉に、千夏は驚いた。でも、心の奥に押し込めていた愛が、抑えきれず溢れ出そうになった。そしてその夜、彼女は頷いた。

結婚後、達也は「君にはもう表に出てほしくない」と言った。悩んだ末に、千夏は芸能界を引退し、家庭に入る決意をした。

その後、息子の颯真が生まれた。

颯真が三歳の誕生日を迎えた日、千夏は達也が心に秘めてきた過去を知ることになる。

かつての先輩は、自分のキャリアのために達也を捨て、海外で活動していた。そして、達也の仕事が軌道に乗った頃、彼女は戻ってきた。

そして――二人は再び結ばれた。

颯真という名前も、実はその先輩・佐藤真奈(さとう まな)の名前から一文字取ったものだった。

結婚して七年。達也は一度も千夏との関係を公にしたことがなかった。唯一、颯真が生まれたときだけ、子どもの存在を発表した。

「君を守りたいから。傷ついてほしくない」

そう言っていた。

だが、真奈が戻ってきて以来、達也は夜通し帰らないことが増えた。颯真を連れて真奈の元に行くようにもなった。

もしかしたら、血は争えないのかもしれない。父と子は、そろって真奈に懐き、千夏――家庭のために自分の夢を捨てた母親に、冷たい態度を取るようになった。

千夏は、指にはめていた結婚指輪を見つめ、そっと外した。そして、窓を開けて、それを風の中に投げ捨てた。

――彼に捨てられたのなら、自分もまた、彼を捨てるだけ。
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第1話
「千夏、あなたと達也は長い間一緒に過ごしてきたでしょ?颯真ももうこんなに大きくなって……お願い、行かないでくれない?私の持っている株は全部あなたに譲るわ。これからは、私がいる限り、もうあなたに辛い思いはさせないから……いい?」藤井家の別荘。藤井達也(ふじい たつや)の母が赤くなった目で、白いワンピースを着た渡辺千夏(わたなべ ちなつ)に優しく語りかけていた。目には明らかな未練が滲んでいる。千夏は視線を落とし、しばらく黙ったまま小さく首を振った。そして、手首の翡翠の腕輪を外し、そっとテーブルの上に置いた。「お義母さん、こう呼ぶのも……これが最後です。もう引き止めないでください。私、決めたんです」達也の母は、千夏を引き止めることはできないと悟ったように、静かにため息をついて背を向け、目元の涙をぬぐった。そして振り返ると、無理にでも笑顔を作った。「千夏……あなたは本当にいい子よ。藤井家があなたにしてきたこと、本当に申し訳ないと思ってる。これからは、自分のやりたいことをして生きていってね」「お義母さん、一つだけお願いがあります。私が出て行く件、達也にはまだ言わないでください。必要なときには……手を貸していただけませんか?」達也の母は、涙ぐみながら何度もうなずいた。目尻のしわが、これまでの年月の重みを物語っていた。千夏はその姿を見つめ、最後にはこらえきれず、達也の母をそっと抱きしめた。そして、迷いのない足取りでその場を後にした。その動きは、潔く、そして決然としていた。千夏はタクシーに乗って藤井家の別荘を後にした。車内で、彼女の頭の中には様々な記憶が去来していた。達也と共に過ごしたあの年月。彼らの子供――藤井颯真(いしい そうま)のこと。 思い出すだけで、千夏は苦笑いを漏らしてしまった。彼女と達也は幼なじみだった。一緒に学校へ通い、一緒に成長し、一緒に芸術大学を目指した。そしてそのまま、演劇学院に合格した。二人の夢は、スクリーンに映る存在になること――俳優になることだった。高校三年のとき、千夏の両親が事故で亡くなった。最も辛いその時期、達也はずっとそばにいてくれた。そして、千夏の心には、自然と達也への恋心が芽生えてしまった。だが、達也が好きになったのは、彼の先輩だった。美しくて妖艶な女性。そのことを知った千夏は
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第2話
千夏が家に近づいた頃、マンションの入口でかつてのマネージャーに電話をかけた。「もしもし、白井さん。私、復帰するつもり」電話の向こうで白井(しらい)はしばらく黙りこんだ。けれど、その沈黙の中には抑えきれない喜びが滲んでいて、その中には少しだけ痛々しさも混じっていた。「よかった……ファンのみんな、ずっとあなたの帰りを待ってたよ。戻ってきたら、また私があなたを大スターにしてあげる。達也のところで苦労してたんでしょ?辛かったら帰っておいで、うちらはあなたの家族なんだから」七年前、千夏が芸能界を引退しようとしたとき、最初に反対したのが白井だった。必死で止めてくれたのに、千夏はそれを「金づるだから手放したくないだけ」と思い込んで、大喧嘩になった。出ていく日、白井はドアの前で立って待っていて、最後に一言「また戻りたくなったら、いつでも私が引き上げてやる。千夏、人に養われるってのは楽じゃないよ」って言って、首を振りながら見送ってくれた。その言葉を思い出して、千夏は今にも涙がこぼれそうになったが、なんとか顔を上げて涙を引っ込め、マネージャーの言葉に返事をした。「失敗した。でも、もう二度としないよ。白井さん、お仕事は七日後からお願い。それまでに家のこと、片付けたい」電話を切ってから、千夏は家の中に入った。部屋の中は真っ暗で、達也と颯真がまだ帰ってないのが一目でわかった。千夏は気にも留めず、まっすぐ寝室に向かって自分の荷物をまとめ始めた。達也と一緒に買ったペアルックや親子ペアの服をたくさん取り出しては、ひとつひとつ畳んでいく。けれど、それらの服は一度も着られることがなかった。「子どもっぽいから着たくない」――いつもそう言われていた。だけど今日、真奈のSNSを見た。そこには達也と颯真、そして真奈の三人が親子服を着て写っていて、キャプションには「三人家族〜」と書かれていた。たとえ顔がスタンプで隠れていても、千夏には一目でわかった。あれは達也と颯真、そして真奈だった。着るのが嫌だったわけじゃない。ただ、自分と一緒に着たくなかった――そう気づいた瞬間、千夏は苦笑いをした。それから、手元のペアルックと親子服を全部ゴミ袋に投げ入れた。父子が帰ってきたのは、深夜もとうに過ぎた頃だった。達也は颯真の手を引いて帰宅した。颯真は名残惜しそう
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第3話
千夏はしばらく黙っていた。達也に自分がこの家を出て行くことを知られたくなかった。達也の性格を考えると、きっと面倒なことになるとわかっていたからだ。「別に……ちょっとゴミを片付けてただけ」その声はどこか冷めていた。達也はふと気づいた。千夏の指には、いつもはめていた結婚指輪がなかった。結婚して七年、一度も外したことがなかったはずだ。「指輪は?」問い詰めるような達也の視線を受けても、千夏は淡々と答えた。「片付けてる時に、なくしたのかもね」達也がさらに何か言いかけたところで、スマホが鳴った。相手が何を言ったのかはわからなかったが、達也の顔が一瞬にして焦りに染まり、すぐに出かけようとした。颯真が彼の手をぎゅっと掴んだ。「パパ、僕も一緒に行く!」達也は少し申し訳なさそうに千夏を見て、説明した。「先輩が海外から戻ってきたばかりで、土地勘もなくてさ。今、熱が出ちゃって……付き添ってあげたいんだ」千夏がそれを拒否して怒鳴り出すと予想していた達也は、内心その時の言い訳まで準備していた。だが、思いもよらず千夏はあっさりと頷いた。その反応に達也はしばらく呆然とした。今日の千夏は、どこかいつもと違っていた。千夏は顎を少し上げて言った。「息子も連れて行きなよ。どうせ彼もパパの先輩に会いたいんでしょ」達也は颯真を抱きかかえると、そそくさと家を出て行った。その慌ただしさは、かつて千夏が出産間近で一人きりだった時にも、彼の顔には見られなかったものだった。――若い頃の想いって、案外ずっと消えないものなのかもしれない。千夏は高い踏み台に上がり、押し入れの奥から離婚届を引っ張り出した。そこには、すでに達也の署名があった。「達也」という文字を見つめながら、知らず知らずのうちに目元が赤くなっていた。真奈が帰国した日、達也は酔っ払って帰ってきた。「真奈……離婚届、俺はもうサインしたんだ。君さえ良ければ、今すぐ千夏にも署名させるから」達也は千夏を真奈と見間違えていた。千夏はその涙を飲み込み、子どもをあやすような優しい口調で問いかけた。「達也、離婚届ってどこにあるの?」達也は顔を赤らめ、虚ろな目でしばらく考え込んだあと、主寝室を指差した。「えっと……寝室のクローゼットの一番上の棚……」千夏は署名を終えると、元の場
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第4話
再び目を覚ましたのは、消毒液の匂いが充満する病室だった。千夏のベッドのそばに白井がうつ伏せになっていた。彼女が少し体を動かすと、白井はすぐに目を覚ました。白井は手を伸ばして千夏の額に触れ、熱が下がっているのを確認すると、ほっと安堵の息をついた。「千夏、自分の身体は自分で大事にしなよ。私、仕事があるから戻るけど、何かあったらすぐ電話して」その口調は厳しかったが、千夏の胸の奥に温かさがじんわりと広がった。白井の目の下のクマを見て、思わず胸が締めつけられるような気持ちになった。白井は慌ただしく病室を後にし、入れ替わるように医者が入ってきて千夏の容体を確認した。彼女の顔色が少し良くなっているのを見て、医者もようやく息をついた。「異物で下腹部を貫かれて、骨盤内に大量出血がありました。かなり危険な状態でしたよ。あの白井さんが保証人になって手術の同意書にサインしてくれました。今は容体が安定していますが、まだ危険期は完全に脱していません。退院後は重い物を持たないように、しっかり安静してください」看護師が薬を取り替えに入ってきて、手を動かしながら口もよく動いていた。「渡辺さん、あのとき本当に危なかったんですよ。手術中に大量出血して、何度も危篤のサインが出ました。命がけでしたからね。これからは身体をちゃんと大事にしてくださいね。感情の波も抑えて、落ち着いて過ごさないとダメですよ」若い看護師のやさしい口調に、千夏は微笑みながらうなずいた。そのとき、病室の入口近くでふたりの看護師がこっそりと話しているのが聞こえてきた。「ねえ、あの超イケメンのトップアイドル・達也、彼女のためにうちの病院で高級個室を用意したんだって。昨日からずっと付きっきりだよ。今朝なんか、自分でお粥を食べさせてたらしいよ」「えー、その彼女って達也の奥さんなのかな?達也の子どものママだったりして?だって、達也って昔から奥さんが誰かとか、一切公表してなかったじゃん。もしかして、誰かが無理やり子ども作っちゃったとか?」もう一人の看護師が首をかしげた。「さあね。でも、私あの子がきっと達也の奥さんだと思うなあ。だって、達也の息子もすごくその人に懐いてるし、ベッドの横で絵本読んであげて寝かしつけてたよ」「それ聞いたら間違いないね。もし奥さんじゃなかったら、あの親子があそこ
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第5話
千夏は看護士に真奈の病室の番号を尋ね、よろよろとその部屋へ向かった。エレベーターは病室の主の許可がなければ使えない仕組みだったが、千夏は自分が来たことを知られたくなかった。四十九階もの階段を、千夏は杖をつきながら一段ずつ登っていった。病室の前に辿り着いたときには、下腹部が血で濡れ、血はズボンを伝って足元へ流れ、靴を赤く染めていた。千夏は病室の扉の前に立ち、中の光景を見て、思わず目に涙を浮かべた。気にしないって決めたはずなのに、いざ目の前にすると、そんなに簡単に割り切れるものじゃないと気づかされた。達也は片膝をつき、手に持ったお粥をふうふうと冷ましながら、一口ずつ真奈に食べさせていた。颯真は真奈の隣に身を寄せ、真奈が一口食べるたびに彼女の頬にキスをし、そのたびに真奈はくすくすと笑った。まるで、病室の中は温かな三人家族のようだった。通りかかった若い看護士が、その様子を見て目を輝かせながらつぶやいた。「三人とも、ほんとに幸せそうですね」千夏は胸の奥の痛みをこらえ、看護士を呼び止めた。「すみません。あの中の患者さん、何の病気なんですか?」「ええと、あの方ですね。熱を出されたんですよ。旦那さんがこのフロアの高級個室を全部押さえたんです。息子さんもすっごくお利口さんで、あれだけ幸せなご家庭があるってことは、きっとあの方も素敵な人なんでしょうね」千夏は何も言わず、背を向けてその場を離れようとした……そのとき、背後でドアが開く音がして、思わず足を止めた。「千夏?」千夏はゆっくりと振り返った。胸は早鐘のように鳴っている。達也が彼女の姿を確認すると、眉をひそめ、うんざりした表情を浮かべた。「先輩の看病に来ただけって言っただろ?君が心配するのは分かるけど、まさかここまでつけてくるなんてな。今度はストーカーかよ?ほんと理解不能だ」颯真もすぐ後に出てきて、千夏を見るなり眉をひそめた。まるでコピーしたかのような父子の反応だった。千夏は苦笑いを浮かべた。「先輩の看病?一晩中ここで看病して、颯真まで真奈さんにキスしてるのに?笑わせないでよ」達也はその言葉に一瞬言葉を詰まらせたが、代わりに颯真が前に出て、千夏の鼻先を指さして大声で怒鳴った。その姿はまるで、真奈こそが自分の本当の母親だと信じて疑わないかのようだった。
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第6話
千夏が振り返ると、真奈がベッドに横たわっており、腕がベッドの端から垂れ下がり、そこから血が止めどなく流れていた。手首には骨が見えるほどの深い傷があり、血に染まったカッターの刃が床に落ちて「カタン」と乾いた音を立てた。颯真は部屋に飛び込む前に、怒鳴り声を上げた。「見てよ!全部あんたのせいだよ!真奈おばちゃんがこんなことしたのは!」千夏は戸口に立ちすくみ、動けなかった。達也は真奈を抱きしめ、真っ赤に充血した目が彼の焦りを物語っていた。真奈の目も涙で赤く染まり、どこか儚く、美しさすら漂わせていた。「達也……私、戻ってくるタイミングが悪かったよね。あなたたち三人の幸せな生活を壊してしまった。私がいなくなれば、また元通りになれる……お願い、死なせて、達也……」達也は何も言わず、真奈を見つめていた。その瞳には、きらりと涙が光った。「やだ……行かないでくれ、真奈。七年前、君は俺を捨てたんだ。それなのに、今また俺を捨てる気か……?」戸口に立つ千夏は、まるでこの場にそぐわない傍観者のようだった。そこへ看護師が慌ただしく駆け込んできた。「藤井さん、すみません。佐藤さんは大量出血のため、緊急輸血が必要です。ただし、彼女はパンダ血でして、今の血液バンクには在庫がほとんどありません。こちらでは対応が難しいため、転院をおすすめします」「パンダ血」という単語を聞いた瞬間、千夏は悟った。今日はもう逃げられないと。達也は目を赤く染めたまま、真奈をそっとベッドに寝かせ、怒りに満ちた足取りで千夏のもとへ向かった。「パンダ血だろ?こいつがそうだ、こいつの血を取れ!」そう言って、千夏をドア枠に激しく叩きつけた。彼女は床に倒れ、しばらく痛みで声も出せなかった。ようやく塞がっていた傷口が再び開き、血が滲み出す。看護師は困った顔で言った。「藤井さん、この方もすでに大量に出血しています。今以上に採血するのは命に関わる危険があります、それは……」怒りに我を忘れた達也は、再び千夏の腕を乱暴に引き上げた。千夏の目から涙がにじむ。「構わない。何かあったら、俺が責任を取る」「それは……」「俺は、彼女の夫だ」「夫」というその言葉が、呪いのように千夏の全身を締めつけ、息すらできなくなった。看護師はそれ以上何も言わず、千夏を急いで採血室
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第7話
「高三の時、両親を亡くして落ち込んでた私を支えてくれた。だから一生忘れないって言ってたでしょ?」達也の声は冷たく、拒否を許さない強さに満ちていた。「恩返しするって言ったよな?真奈に献血してくれたら、それでチャラにしてやるよ」千夏が言おうとしていた言葉は、そのまま喉に詰まった。達也は、彼女がずっと抱いていた感謝の気持ちを全部知っていたのだ。それなら……これで本当に最後にできる。三日後には、何の未練もなくこの場所を去れるってことだ。千夏は目を閉じ、針が血管に刺さるのをそのまま受け入れた。ズボンの端を掴んで、泣き出しそうな気持ちを必死でこらえる。彼女は何よりも注射が怖かった。それを達也は知っているはずだった。血液が千夏の体から抜き取られていくにつれて、腹部の傷口からも血がにじみ続け、頭がぼんやりしてきた。意識がどんどん遠のいていく。看護師が腹部の傷を先に処置しましょうかと申し出ると、達也は即座にそれを却下した。「真奈を助けるのが先だ。他のことは後回しでいい」七年もそばにいた自分は、彼の中ではその程度の存在だったのか――看護師は献血を終えると、困ったように千夏と達也を見比べた。「藤井さん、もう一人献血者を探すべきです。通常の献血量は既に限界で、この方はご自身もかなりの出血をしていますから」達也はあからさまに苛立ち、テーブルの上にあったコップを床に叩きつけた。ガラスの破片が飛び散り、看護師が驚きで身を引いた。この看護師は千夏も知っている。数日前、達也をイケメンだと褒めていた、達也のファンの一人だ。「いいからやれって言ってんだ!何かあったら俺が責任取る!」「わ、わかりました……」千夏は何も言わなかった。これまでの自分の全ての努力が、今となっては何の意味もなかったと悟っていた。だったら全部返すよ、達也。もう、お互いに借りはない。血が体から抜かれていくにつれて、千夏の意識は薄れていった。再び目を覚ました時、そこは病室のベッドの上だった。ベッドのそばには達也と颯真がいた。千夏は喉の奥がひどく詰まるような感覚に襲われ、何も言わずに目を閉じ直した。達也はしばらく黙っていた。どこか後ろめたさとためらいを含んだ表情で、何度か口を開きかけて結局閉じた。そしてようやく、かすれた声で言った。「君の身体が
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第8話
「千夏、どういうことだ?君が落ちたのは、ただあの椅子の品質が悪かったからだろ?子どもを疑うなんて、やめてくれよ」達也の声がかすれて、信じられないという色が滲んでいた。千夏は顔を上げた。小さな顔には頑なな表情と、どこか哀しい光が浮かんでいる。「椅子に綺麗な切り口があったの。あの椅子を使うのは、家族の中で私だけ。だから、それを壊した人間の狙いは明らかに私よ」その声は大きくなかったが、ひとつひとつの言葉が鋭く、達也の口を塞いだ。千夏は達也の背後に隠れている颯真を見つめ、その瞳はさらに痛みを帯びる。「颯真、ママに教えて。誰かが椅子を壊すように言ったの?」自分の子どもが口を開けば、きっと許せる。十月十日、自分の身体で育てた大切な命なのだから。だが、颯真は答えなかった。彼は目をくるくると動かし、やがて達也の背後に隠れ、泣きそうな声で言った。「パパ……僕、やってないよ。ママが無理やり言わせようとしてるんだ……」達也もすぐに口を挟んだ。「千夏、それはないだろ。颯真に関わる大人なんて、俺か真奈くらいだぞ。まさか、俺たちが君を傷つけようとしてるって言いたいのか?」千夏は何も言わなかった。ただ、達也の背後でこっそり笑っている颯真を見つめ、胸の中にどうしようもない虚しさが広がっていった。この親子は、どちらも同じ――腐っている。それでも千夏は、まだ諦めたくなかった。「寝室には監視カメラがあるのよ、達也」「子どもを信じてやるのが教育ってもんだ!君が颯真をうまく育てられない理由、ようやく分かったよ。だから、颯真が真奈には懐いてるのに、君には冷たい。自分自身の問題を考えたことあるか?」そう言い捨てると、達也は颯真を抱き上げ、力いっぱいドアを開けて出ていった。ドアは勢い余って、しばらくの間閉まらなかった。千夏は深く息を吸い込み、スマホで自宅の監視映像を開いた。保存ボタンを押し、再生を始める。画面の中の颯真は、小さなナイフを手に、黙々と何かを削っていた。彼は寝室で、午後いっぱいその作業を続けていた。千夏はその日を覚えている。あの日、颯真は妙に大人しくて、千夏が部屋に入ると、彼はナイフを持って床に座っていた。「ママ、リンゴを剥いてあげようと思ったんだけど、リンゴが見つからなかったの」颯真はそう言った。
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第9話
果たして、達也は何度も迷った末にようやく口を開いた。「千夏、あの映画の主演の件だけど……真奈に譲ってくれないかな」その一言で、千夏の心は一気に冷え切った。彼女が芸能界から離れてからも、ある大作映画の監督だけはずっと彼女の復帰を待ち続けていた。監督は「千夏がやらないなら誰にも渡さない」とまで言い切っていた。その監督とは年の離れた親友でもあり、この大作映画こそ千夏が再起を懸けた最後のチャンスだった。千夏は以前、達也にもこの映画がどれほど自分にとって大切かを話していた。もし復帰するとしたら、この作品が唯一にして最高の機会だと。マネージャーの白井と連絡を取り、白井が千夏に手配したのも、その映画のスケジュールだった。千夏は口を開くのがつらそうだった。「達也……この映画が私にとってどんな意味を持つか、わかってる?」達也は目を伏せ、唇は白くなっていた。「分かってる……でも真奈の方が状況は厳しいんだ。少しだけ、彼女のことも分かってくれないか?スクリーンに立つのが、彼女の一番の夢なんだよ」「じゃあ私の状況は厳しくないの?私の一番の夢はスクリーンじゃないとでも?」千夏はその瞬間、達也への失望で胸がいっぱいになった。――チンチンチン。千夏の携帯が鳴った。彼女は電話を取った。「全部終わった。明日そっち行くよ。分かった」白井からの確認の電話だった。準備はすべて整っているかと。その様子を見ていた達也の顔に、不安の色が浮かんだ。どうしてこんなにも胸がざわつくのか、自分でも分からない。この無力感が、たまらなく嫌だった。千夏は自分の知らない何かをしようとしている……?彼女は一体、明日どこへ行くつもりなんだ?「明日、どこに行くんだ?」千夏は達也に知られたくなかった。彼に邪魔されたくなかった。「傷の治療施設よ」納得のいく理由だった。達也は千夏の腕の傷を見つめ、そこにかすかな罪悪感を浮かべた。「俺がちゃんと見てあげられなかったから……」千夏はその言葉を聞いても、心が動くことはなかった。窓の外を見つめながら、目頭がじんわりと熱くなった。「もう、どうでもいいの」「もう、どうでもいい」――その言葉は、達也の心に激しい波紋を起こした。七年も連れ添った妻のその一言に、彼は深い動揺と不安を覚えた。「
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第10話
千夏は早起きしてから、白井に迎えに来てもらうよう連絡した。白井は両腕いっぱいの白いジャスミンを抱えて、笑顔で交差点に立っていた。彼女を見つけるとすぐに手を振りながら叫んだ。「千夏!」千夏の胸には複雑な感情が渦巻いていた。長年、両親以外で自分が白いジャスミンを好きだと覚えているのは白井だけだった。記念日のたびに達也は彼女にユリの花束を贈ってくれていたが、後になってそれが真奈の好きな花だったと知った。達也は、彼女を通して別の女の子を想っていたのだ。白井はそんな千夏の表情が少し曇ったのに気づき、笑いながら彼女の肩を抱き寄せ、頬に音を立てて二度キスをした。「千夏、宣言するよ!今日からはあなたの再スタートだよ。過去のことはもう全部終わり。これからは、あのキラキラした大スター千夏として生きていくんだから!」千夏の目にはうっすらと涙が浮かび、こくんと小さく頷いた。車に乗り込むとすぐに、白井は映画の脚本を取り出して千夏に渡した。開けてみてと促しながら言った。「これが監督があなたのために残してくれた脚本。二、三日でしっかり読んで、役作り考えて。そしたら私がオーディション連れてくから」千夏は素直に頷き、静かにページをめくり始めた。すぐに物語に引き込まれ、真剣な眼差しが戻ってきた。白井はその姿を見て、胸の中がじんわりと温かくなった。まるで千夏が一度も芸能界を離れていなかったような、そんな錯覚さえ覚えた。その頃、達也は真奈の部屋から出てきたところだった。首元にはまた赤い痕がいくつも残っていた。慌ただしく病室へ向かったが、看護師から千夏はすでに退院したと告げられた。「退院?仕事も実家もなくて、クレジットカードも全部俺が出してるのに、彼女が行く場所なんてあるか?」空っぽのベッドを見つめながら、達也は冷たい声で問い詰めた。看護師は肩をすくめたあと、なぜか奇妙な表情で彼を一瞥し、そのまま足早に立ち去った。達也は苛立ちを感じながらも、その怒りをぶつける相手が見つからなかった。真奈からの電話が途切れることなく鳴り続けているのを見て、なぜかますます気が滅入ってきた。ふと、千夏が前に自宅で転倒して怪我をした時のことを思い出した。もしかして、真奈も何かあったのでは――そんな考えが頭をよぎる。握りしめていた拳をそっと開き、十一回目の着
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