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50.あなたが

Author: 杵島 灯
last update Last Updated: 2025-10-22 20:55:09

 沈黙の中、王妃はマリッサへと視線を戻す。

「あなたに紹介したい人がいます」

 王妃は立ち上がり、窓を開けてテラスへ向かう。

 マリッサは気づかなかったが、あたたかい春の日差しの下に一人の人物がいたようだ。カーテンの向こう側に見えるシルエットはドレスのもの、ならばきっと女性だろう。

 二人は少し話をして、王妃は彼女を連れて部屋の中へ戻ってくる。

 マリッサは思わず立ち上がった。

 窓から入り込む光が、蜂蜜のような色の髪を輝かせる。

 やわらかく上がる美しい色の唇は、彼女の優しさをよく映し出しているように見えた。

 その中で最も強く印象に残るのは、その瞳だ。

 深く澄んだ青。まるで陽の光を受けてきらめく海のような色。――マリッサの持つ瞳と同じ色。

 名前を聞かずとも分かる。

「彼女の話は、あなたにとって重要なものとなるでしょう」

 王妃は椅子に掛けることなく廊下の方へ向かう。

 重く閉ざされた扉が音を立てて静まりった。その中で、王妃に代わって残った彼女が口を開く。

「初めまして、王太子妃殿下。長らくお会いできなかったご無礼をお許しください」

 柔らかく落ち着いた声を持つ彼女のまなざしには、すべて包み込むような優しさがある。しかしその奥にマリッサは、深い影を見たような気がした。

 彼女は優雅に腰をかがめる。

「クレアと申します」

「……あなたが」

 ロジャーの妻。ハロルドの初恋の相手。そして、ハロルドに、『夜の教育』を施した人物。

 何を言うべきか分からずマリッサが黙っていると、クレアが「どうか」と呟くように言う。

「私の話を聞いていただけますか」

 マリッサはしばし悩んで頷いた。改めて椅子に座りなおすと、先ほどまで王妃がいた正面の椅子にクレアが掛け、優美な唇を開いた。

 ――それから、どれほどの時が過ぎただろう。

 窓辺の光がゆっくりと角度を変え、部屋の中を茜色に染めていくまで、マリッサは何度か小さくうなずきながら、ほとんど声を発することなく話を聞いていた。

 そのすべてが終わったとき、マリッサは胸に手を当てて、深く息を吸う。

「……お話しくださって、ありがとうございます」

 それだけを言ってマリッサが丁寧に頭を下げると、クレアもまた、静かに礼を返す。

 夕暮れの光は昼よりも薄いけれど、それでも彼女の麗しい髪の輝きも、青い瞳の美しさも、昼間より劣ることはない。もちろ
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