Share

深き想いを抱き、薄き冷たさへ
深き想いを抱き、薄き冷たさへ
Penulis: 白団子

第1話

Penulis: 白団子
「この特効薬を打てば、一時的に生命力は回復する。ただし効き目は七日だけ。七日が過ぎれば、間違いなく死ぬ」

「急いで打ちな!藤瀬さんがもうすぐ迎えに来るんだ。とにかくうちの精神病院で死なれなきゃいい。外に出たあとどこでくたばろうが知ったこっちゃない!」

戸原涼音(とばら すずね)は床で身を縮めていた。その体は止まることなく震え続け、顔色は紙のように真っ白だった。半ば死にかけた脳はもう思考を手放し、ただ目を見開いたまま、介護士たちが自分の生死を論じるのを聞いていた。

冷たい液体が血肉に溶け込む。全身が激しく痙攣し、やがて長い時間ののち、ようやく静けさが戻った。

介護士たちは顔が冷え切っていた。彼らは涼音の足をつかみ、ずるずると引きずって、こざっぱりと温かみのある病室に放り込む。まるで、最初からここが彼女の病室だったとでも言うように。

けれど、真実は違う。今日この瞬間まで、彼女がいたのは光の差さぬ地下室。そこにはベッドすらなかった。

「涼音、ほら、誰が迎えに来たと思う?」さっきまで凶相だった介護士が、甘ったるい声で囁く。さっきとは別人のようだ。

病室のドアが開く。藤瀬西洲(ふじせ さいしゅう)の、しなやかで端正な影が現れた。

逆光の中に立つ彼の深い造作に、光と影が斑に落ちる。理不尽なほど、綺麗だった。

涼音の瞳がかすかに揺れる。焦点の合わない目で、やっとの思いで西洲を見上げる。喉がひくりと鳴ったのに、言葉は一つも出てこない。

おじさん、やっと迎えに来てくれたの?

どうして、今回はこんなに遅かったの?

涼音は西洲に育てられた。だが彼は彼女の血の繋がったおじさんではない。父の友人にすぎない。

彼女が幼い頃、両親は事故で同時にこの世を去った。孤児院にいた彼女を抱き上げ、連れ帰ったのが西洲だった。

あの日、孤児院で。彼は壊れ物でも抱くように、そっと彼女を腕に収めた。

「涼音、やっとお前を見つけた。大丈夫、怖くない。これからおじさんは、誰にもお前を傷つけさせない」

光のない彼女の人生に、その日、一筋の光が差し込んだ。

現実と記憶が重なり、涼音の瞳に微かな涙の光が揺れる。おじさん、やっと迎えに来てくれたんだ。やっぱり、来てくれるって……

その涙がこぼれるより早く、艶やかな声が横から差し込んだ。「西洲、涼音は見つかった?」

そこで初めて、西洲の隣に女がいると気づく。

白石月綺(しらいし つきあや)が西洲の腕に絡みつき、しなやかな体を寄せながら、勝者の微笑を浮かべていた。

涼音はぽかんとした。死にかけの脳が、ようやく軋みを上げて回り出す。そうだ。忘れてた。おじさんには、もう月綺がいるんだ。

以前、おじさんが彼女を精神病院に送ったのも、月綺のためだった。

おじさんは「頭が狂っている」と言って、自らの手で彼女をここへ運び込んだ。ここでちゃんとしつけを受けて、心の雑念を取り除けと……

今の自分は、本当に狂ってしまったのかな。こんな大事なことまで忘れるなんてって涼音は思う。

「涼音、私たち、迎えに来たのよ」月綺がにっこりと歩み寄り、姉妹のように親しげに涼音の手を握る。「ここでの暮らしはどう?お医者さんや介護士さんに、いじめられてない?」

いじめ?それは、どこからがいじめなんだろう。

冬、服をはぎ取られて、他の患者たちと一緒に凍った地面に立たされた。そして、介護士が高圧の水を、冷たい噴流を容赦なく浴びせて、それを「お風呂」と呼んでいた。これは、いじめかな?

言うことを聞かなければ、細い針で指先を刺された。深く刺さりすぎて、あとから抜けなくなった針は、そのまま肉に埋まった。これも、いじめ?

殴打、罵倒、電撃、モラハラ……

これらを「いじめ」とひとくくりにするのは、あまりにも生ぬるい。

ふと我に返ると、月綺の指先で何かがきらりと光り、涼音の目を刺した。

無意識に視線を落とす。月綺の薬指に、見覚えのありすぎるブルーダイヤの指輪が嵌っている。

「やだ、バレちゃった」月綺は頬を染める仕草をしてみせる。「私、あなたのおじさんと婚約したの。来週には結婚よ。この婚約指輪、どこか見覚えない?西洲はね、あなたのデザインしたダイヤの指輪で、私にプロポーズしたの」

ああ、そういうこと。涼音は笑った。道理で見覚えがあるわけだ。

それは、おじさんのために彼女がデザインした、告白の指輪だった。

名は「海枯」。海が枯れ、石が砕けても、愛は微塵も衰えない――そんな意味を込めた指輪。

あのときおじさんは、なんて返したんだっけ。

ああ、そうだ。

「涼音。お前、頭がどうかしてるのか?俺はお前のおじさんだ。お前の法的な保護者だぞ。そんな感情を向けるなんて、背徳で乱倫だ。自分で気持ち悪いと思わないのか?」

もうすぐ死ぬからだろうか。以前なら彼女を完全に打ち砕いたはずの出来事が、今は妙に静かに受け止められる。

「おめでとう」涼音は淡々と言った。悲しみも喜びもない、ただの痺れた声で。「その指輪、サイズは合ってる?合わないなら、私が直す」

何しろ自分の作品だ。デザイナーは、自分の作品を勝手にいじられるのを好まない。

だというのに、西洲の目がすっと冷えた。「誰を馬鹿にしてる?」

自分のプロポーズの指輪に向かって、真っ先にサイズが合うかと訊く。それはつまり、この指輪は月綺のものではなく、自分のものだと暗に言っているのと同じだろう。

まったく、三つ子の魂百まで。本性は変わらない。
Lanjutkan membaca buku ini secara gratis
Pindai kode untuk mengunduh Aplikasi

Bab terbaru

  • 深き想いを抱き、薄き冷たさへ   第24話

    家で三ヶ月間静養したあと、涼音の体はほとんど回復した。彼女は荷物をまとめ、キャリーバッグを引きながら、自分だけのひとり旅へと出発した。出発の朝、西洲はまるで心配性の父親みたいに、しつこく口を出してきた。「外に出たら、ちゃんと自分を守るんだぞ。外国は物騒だ、国内みたいに安全じゃない。夜の八時以降は絶対に出歩くな。毎日必ず安否の連絡をしてくれ。もし何かあったら、すぐに俺に連絡すること……やっぱりボディーガードでもつけようか?お前一人であんな遠くまで行くなんて、どう考えても……」「西洲、涼音は気分転換の旅行に行くんだよ?悪魔の谷にでも挑みに行くんじゃないんだから」と、健康診断に来ていた清佳は思わずツッコむ。「もう、その小言やめてよ。グダグダ言う男なんて、全然魅力ないから!気をつけないと、涼音が帰ってこなくなるよ?」「縁起でもないこと言うな!」西洲は清佳を睨みつけると、こっそり涼音のバッグに防犯スプレーを忍ばせた。涼音は、西洲にそんな物は空港の検査で没収されるとは言えなかった。名残惜しい気持ちを胸に、涼音は旅立ち、西洲は家に残って、彼の小さなバラが帰ってくるのを待つことにした。表向きは余裕そうに見せていたけれど、心の中は不安でいっぱいだった。涼音は、また帰ってきてくれるだろうか?もし帰ってこなかったら?もし新しい彼氏でも連れて帰ってきたら?三年も経てば、彼女も自分を忘れてしまうんじゃないか?そんな考えが西洲を夜な夜な苦しめ、まるで幽霊のように、彼は毎日SNSで涼音の旅先の写真をチェックし続けた。写真に男が写っていたら、気になって眠れなくなる始末……それでも、自分から「写真の男は誰だ」なんて聞くことは絶対にしなかった。自分には、そんな資格もないとわかっていたから。心の中でこっそり相手がゲイでありますようにと祈るのが精一杯だった。涼音はとても律儀で、毎晩寝る前には西洲にメッセージを送り、旅先での面白い出来事を語ってくれた。恋愛の話などは一切なく、あくまで旅の話だけ。それを嬉しく思う自分がいる一方で、「もしかして俺には話したくないだけ?」「本当は新しい彼氏ができたけど、言い出せないのでは?」と不安になる自分もいた。西洲は、誰かを本気で愛することがこんなに苦しいものだとは知らなかった。それでも、文句を言う資格もなく

  • 深き想いを抱き、薄き冷たさへ   第23話

    涼音は、本当は西洲を責めてはいなかった。彼女は知っていた。おじさんは決して自分を傷つけたいわけじゃなかったのだと。けれども、傷つけられた事実は消せない。過去に起きてしまったことは、どんなに願っても変えられない。あの精神病院に閉じ込められていた三年間、自分が味わった痛みと絶望は、どこまでも現実で、決して消え去ることはなかった。何度も何度も、自分の命を諦めようとした。だが、そんな人権もない場所で、死ぬ自由すら許されなかった。自殺のそぶりを見せれば、すぐさま介護士たちが駆け込み、「発作が起きた」と決めつけられ、彼女をベッドに縛り付けていた。そして、拘束衣を着せて、自由も尊厳も奪い去り、挙句の果てには電気ショックまで……あの痛みも、あの傷も、すべて本当に起きたこと。涼音には、簡単に忘れ去ることなんてできなかった。「おじさん、自分を責めることはないわ。最初は、私はおじさんを恨んだし、憎んだわ。こんなひどい目に遭っていること、てっきりあなたも知ってるんだと思ってた。でも、真実は違った。何も知らなかったのよね」涼音は静かに言葉を紡ぐ。「だから、私はおじさんを責めない。だって、あなたが知ってたなら、絶対に誰にも私を傷つけさせたりしなかったと、今なら分かるもの」その言葉に、西洲の胸がギュッと締め付けられる。あれほど酷いことをしてしまったのに、涼音は少しも自分を責めていない。こんなに純粋で、こんなに美しい女の子が、この世に本当にいるのだろうか。自分は、これほどの罪を犯したのに、どうして彼女を手に入れる資格があるのだろう?「おじさん、実はあの病院で過ごした数年、私もいろいろ考えたの」そう言って、涼音は語り続ける。「おじさんの言う通りだと思うの。もっと外に出て、いろんな世界を見て、もっと多くの人に会って、自分の心を豊かにしなきゃって。自分の心がもっと強くなって、しっかりした時に、初めて振り返ってみたい。私がまだ、あの頃のようにおじさんを愛しているかどうか。今は色んなことを経験して、すごく疲れているし、心もぐちゃぐちゃなの。だから、私は一人旅に出てみたい。私だけの旅をして、ゆっくり考えて、もっと強くなりたいの」涼音の言葉に、西洲の胸は切なさでいっぱいになる。あんなに一途に自分を愛してくれた涼音を、必死で遠ざけようとした自分。よう

  • 深き想いを抱き、薄き冷たさへ   第22話

    「ここは、どこ?」目を覚ましたばかりの涼音は、まるで迷子のような表情で辺りを見回し、そっと眉をひそめて呟いた。「私、死んだんじゃなかったの?」その言葉が消えるより早く、西洲が彼女をぎゅっとその腕に抱き寄せていた。「涼音、やっと目を覚ましたんだ」いつもは冷たく孤高な西洲の目尻に、珍しく涙がにじんでいる。もう自分の感情を抑えきれず、涼音を抱きしめたまま、頬を涙で濡らした。「ありがとう……戻ってきてくれて……」涼音はまだ状況が理解できていない様子で、ぼんやりとしたままだ。本当は、もう目覚めたくなかった。でも、どこかでおじさんの声が聞こえた気がした。おじさんが、子守唄のように物語を聞かせてくれた気もする。その温もりに惹かれて、無意識のうちにその光へと近づいていった。気付けば、その光はやっぱりおじさんだった。目を開けると、目元を赤くしたおじさんがいた。「何があったの?」涼音は混乱したまま尋ねる。「私、たしか……死んだはずじゃ……」「もう、その言葉は口にしちゃダメだ」西洲は彼女のふわふわした頬をそっとつまみ、安堵の色を浮かべる。氷のようだった肌は、もう生きた人間の温度を取り戻している。「これからは、元気に長生きしなくちゃいけないんだ」それから西洲は、ここ一年の出来事をすべて静かに話して聞かせた。「私を助けてくれたのは清佳なの?」涼音は目を見開いた。「彼女って本当に科学者だったの?てっきり、ちょっと頭がおかしいだけだと思ってた……」その言葉に、西洲はふっと笑う。「彼女は涼音に助けてもらったって言ってたよ。でも、どうやって助けたのかは教えてくれなかった。覚えてる?」涼音はまたもや困惑した顔を見せる。「私、彼女を助けたっけ?そんな覚えはないなぁ。ただ、昔、あの病院で彼女が妙な質問ばかりしてきて、私は正直に答えてただけ。そのくらいしか交流はなかった気がする……」涼音は知らなかった。それこそが、清佳への最大の助けだったのだ。清佳は稀有な天才だが、人間らしい感情や倫理観を持ち合わせていなかった。けれど、涼音という温かく優しい存在に触れることで、彼女は初めて人間らしさの光を見つけたのだ。それこそが、清佳にとって最大の救いだった。彼女は初めて、人間という生き物を面白いと思った。「思い出せなくてもいいよ」西洲はそっと囁いた。「今はまだ体

  • 深き想いを抱き、薄き冷たさへ   第21話

    こうして、西洲と清佳は密約を交わした。西洲は清佳に精神病院の管理を一任し、毎年莫大な資金を病院に注ぎ込むことを約束した。清佳が必要とする実験器具や薬品も、彼が無条件で用意することになった。そして清佳は、もう一本の特効薬を西洲に手渡し、定期的に病院を訪れて涼音の体を診察し、回復の様子を見守ることとなった。涼音が死んでいないとわかった以上、西洲も彼女を棺に閉じ込めておくなんてできなかった。棺なんて、入らずに済むならそれが一番だ。西洲は涼音を自宅に連れ帰り、彼女の部屋を昔のように美しく飾り直した。そして、そっと涼音を抱き上げ、ピンク色のプリンセスベッドに優しく寝かせた。「ここは涼音の昔の部屋だよ。配置も、涼音が好きだったあの頃のまま全部再現したんだ」西洲は微笑みながら、涼音の青白い頬に手をそっと触れた。その声は今までにないほど柔らかい。「涼音、おかえり」どれほどの時が経っただろう。やっと、彼女をもう一度家に連れて帰ることができた。今度こそ、もう二度と離れ離れにはならない。この一年、西洲は涼音の世話を徹底的にやり抜いた。まるで、時が巻き戻ったかのようだった。涼音がまだ幼かった頃、西洲は毎晩彼女を抱きしめて童話を読んでやり、眠るまで見守っていたものだ。今や小さな涼音も大人になったが、きっとおじさんの優しさはまだ必要なのだろう。西洲は昔の童話本を取り出し、低く温かい声でゆっくりと読み聞かせた。涼音が聞こえているかどうかは分からない。けれど、それでもいい。彼は、彼女に語ってあげたかったのだ。「おやすみ、涼音」読み終えると、西洲はそっと額にキスを落とし、布団を直してから静かに部屋を後にする。時折、西洲は涼音に恋の言葉も囁いた。彼女が目覚めているときには、恥ずかしくてとても言えなかった言葉も、今の彼にはやっと言える。「涼音、本当はお前より先に俺の方が心を奪われていた。でも、そんな自分を認めたくなかった。あんなに純粋で綺麗な涼音に惹かれる自分が、どうしようもなく汚れているようで……お前が俺に告白してくれた時、俺は本当にうろたえた。お前を欲しくてたまらなかったのに、年の差を思うと、どうしても自分が卑怯者に思えて、お前と一緒にいることが不公平に感じてしまった。おじとして、理性を保たなきゃいけない、絶対に一線を越えちゃいけないって、そう

  • 深き想いを抱き、薄き冷たさへ   第20話

    清佳は確かに科学者だった。それも、ちょっと常軌を逸した狂気の天才のタイプだ。彼女の頭の良さは群を抜いていて、これまで数々の驚くべき発明を成し遂げてきた。しかし同時に、彼女は正真正銘の狂人でもあった。生命の神秘を追い求めるあまり、ついには人間を実験台にすることすら厭わなかったのだ。だからこそ、彼女は精神病院に送り込まれた。もっとも、彼女の知能があれば、こんな施設から抜け出すことなど造作もないことだった。だが、清佳には逃げる気など毛頭なかった。なぜなら、この場所こそが彼女の欲しいもの全てが揃う楽園だったからだ。ありとあらゆる薬品、そして正気を失った誰からも顧みられない、好きなように実験できる狂女たち。だから彼女は精神病院にとどまり、瑞輝の専属薬師となった。世間には出回らない、とんでもない効能を持つ「特効薬」を、数多く調合してやったのだ。涼音に介護士が打った「特効薬」も、まさに彼女の作品である。「ふふ、その薬は私が作ったんだもん。もちろん解毒法だって知ってるよ」と、清佳は悪戯っぽく微笑んだ。「それに、ひとつ秘密を教えてあげる。あの特効薬、命を奪うようなものじゃないよ。涼音は私の友達だし、そんな彼女を傷つけたりするわけないじゃん?むしろ、あの薬は涼音の命を守るためのものなんだ。実は、彼女はもう死にかけていた。でも私は瑞輝に嘘をついた。この特効薬を打てば、七日以内に涼音は間違いなく死ぬってね。でも本当は、薬の効果が発動するのは七日後。薬が効きだすと、涼音は仮死状態に入る。外から見れば、心臓も止まり、呼吸もなくなり、完全に死んだように見える。でも実際は死んでない。仮死状態のあいだ、薬の力で体の傷を修復するんだ。この特効薬は二本セット。一本目を打つと仮死状態に入り、体が十分に治ったら二本目を打つ。そうすれば、彼女はまた目覚める。どう?面白いでしょ?」溺れる者が流木を掴んだように、死にかけた人間が希望の光を見つけた西洲は、もう絶望の淵にいて、涼音の後を追って死のうとすら思っていた。だが今、この清佳は、涼音がまだ死んでいないと告げたのだ!自分の大切な涼音は、まだ生きている!「二本目の特効薬はどこだ?」西洲は食い気味に尋ねた。「それさえ手に入るなら、何でもする!お前が望むなら命だって差し出す!」その言葉に、清佳は呆れたように西洲を

  • 深き想いを抱き、薄き冷たさへ   第19話

    西洲は、頭の切れる男だった。もっと早く異変に気づいて然るべきだった。人が死ねば、血は静まり、肉体は冷たく硬直し、肌はしだいに青白く変色していくものだ。けれど、涼音の肌は、ずっと透けるような蒼白さを保ち、青みひとつ帯びることはなかった。西洲が9号密室に駆けつけた時、涼音はすでに息絶えて久しかった。だが、その体には死者特有の青白さも、腐臭もほとんど見当たらなかったのだ。確かに彼女の体は冷たかった。だが、死体にありがちな強張りはなかった。肌は無垢なほど白く、それでいて、あの忌まわしい青色は浮かばない。呼吸はなく、心臓も止まっている。明らかに死んでいるはずなのに、涼音の死体は、他のどんな死体とも違っていた。本来なら、西洲はこの異変にすぐ気づくべきだった。だが、涼音の死を知ったあの日から、彼の心は完全に壊れ、正気を失い、怒りと悔恨だけが胸を満たしていた。さらに、防腐香料の香りが、彼の判断を曇らせていた。死体が腐らないのは香料のせいだと、そう思い込んでしまったのだ。だが、さきほど部下が言った。香料は一時的に腐敗を遅らせるだけで、完全に止めることはできないと。今、涼音はもう六ヶ月以上も「死んで」いるというのに、腐敗の兆しすら見せない。彼女は相変わらず、蒼白で美しく、静謐で、壊れそうなほど儚い。六ヶ月もの間、西洲は魂が抜けたように日々を送っていた。ついに一筋の希望の光が見えた瞬間、西洲は涙を流して笑い崩れた。「ハハハハ……あれは幻じゃなかった!幻じゃなかったんだ!あの女の狂人は本当に存在している!本当に!涼音は死んでない、まだ生きてる、きっと生きてる!今すぐこの精神病院を封鎖しろ!女の患者を全員集めて、下の広場に並ばせろ!絶対にあの女の狂人を見つけ出すんだ!」部下たちは即座に命令に従った。ほどなくして、病院中の女患者たちが部屋から引きずり出された。本当に狂っている者もいれば、家族に見捨てられてここに押し込まれた者もいる。中には、罪を犯し、法の裁きを逃れるために医者に偽の診断書を書かせて潜り込んだ者もいた。そうして、狂気を装う者も、本物の狂人も、全てが広場に集められた。西洲は杖をつきながら、一人ひとりじっくりと見て回った。だが、どれだけ確かめても、あの昏倒する直前に見た女の狂人は見当たらない。絶望しかけたその時、

Bab Lainnya
Jelajahi dan baca novel bagus secara gratis
Akses gratis ke berbagai novel bagus di aplikasi GoodNovel. Unduh buku yang kamu suka dan baca di mana saja & kapan saja.
Baca buku gratis di Aplikasi
Pindai kode untuk membaca di Aplikasi
DMCA.com Protection Status