Se connecter智美はすぐ傍の机に向かい、溜まった仕事の処理に追われていた。ただ母と娘が寄り添っているだけなのに、その空間にはなんとも穏やかで心地よい時間が流れていた。詩乃は遊んでいる合間に、ことあるごとに智美の膝元へすり寄ってきては抱っこをせがんだ。そのたびに智美はマウスから手を離し、しばらくの間、愛娘をぎゅっと抱きしめてやる。ママの体がふんわりと柔らかく、大好きな甘い匂いがするものだから、詩乃はすっかり安心しきって、なかなかその腕から離れようとしなかった。おもちゃより、今はただひたすらに甘えたいのだ――智美には、その無邪気なサインがすぐにわかった。智美はくすっと笑いながらノートパソコンを閉じ、詩乃を抱き上げて悠人の待つ寝室へと向かった。寝室では、ちょうど悠人がシャワーを浴び終えて出てきたところだった。智美は腕の中の詩乃を彼に託した。「少しの間、抱っこしてあげて。私もシャワーを浴びてくるから」「わかった」と短く応じ、悠人は詩乃を受け取ると、本棚から絵本を一冊選び出し、静かに読み聞かせを始めた。詩乃はその絵本をちらりと横目で見ると、不満そうに首を振った。「にいにはね、英語の絵本しか読んでくれないもん」もともと、就寝前の読み聞かせは家庭教師の役目だった。しかし、いつの間にか拓真と謙太もそこに混ざるようになり、やがて拓真が「先生の話は簡単すぎる。これじゃあ妹の教育によくない」と独断で切り捨て、自分の英語の絵本を持ち込んで読み聞かせるようになったのだ。すっかりお株を奪われた家庭教師は、しばらくの間、どうすべきかと途方に暮れていたほどだ。悠人は面白がるように詩乃に確かめた。「英語の意味がちゃんとわかってるのかい?」詩乃がこくんと力強く頷き、ベッドから這い降りて、とてとてと隣の自分の部屋へと駆けていく。やがてお気に入りの英語の絵本を抱えて戻ってくると、それをベッドの上に広げ、「パパ、これ読んで」とおねだりした。それが幼児向けのごく簡単な絵本だと確認すると、悠人は滑らかな発音でページをめくり、読み始めた。詩乃はパパのお腹の上にまたがり、ぽすっとその大きな胸にもたれかかりながら、真剣な眼差しで絵本を見つめる。悠人が試しにわざと単語を読み間違えてみると、詩乃はすかさず「違うよ」と正しい発音に直してみせた。悠人は思わず笑みをこぼした。も
そこへ拓真と謙太が飛び込んできて、詩乃を遊びに誘い出した。従兄たちに声をかけられると、詩乃はころりと機嫌を直した。二人の手をしっかりと握り、満面の笑みを浮かべて部屋を出ていく。その愛らしい後ろ姿を見送るうちに、智美の胸をよぎっていた一抹の寂しさも、すうっと溶けていった。これほど温かな家族がそばで見守ってくれているのだから、詩乃のことは何も案ずる必要はない。その後、智美は香代子とともに洋城や海知市など各地を巡り、全十一公演に及ぶコンサートツアーを見事に完走した。香代子にとっても、デビュー以来これほどの過密スケジュールをこなしたのは初めての経験だった。ツアーの幕が下りる頃には、さすがの香代子もすっかり精根尽き果てた様子で、「今回ばかりは、絶対に長めのお休みをもらうからね」と言い切った。智美は二つ返事で快諾した。これほど身を粉にして働いてくれたのだ。会社にもたらした貢献は、もはや言うまでもない。彼女の奮闘のおかげで、次なる事業拡大へ向けた資金にも十分な余裕が生まれていた。智美が羽弥市へ帰り着いたのは、もう年の瀬も押し迫った頃のことだった。時を同じくして、悠人もまた長期出張から帰宅していた。彼を乗せた車が岡田家のガレージに滑り込むと、そこにはちょうど帰り着いたばかりの智美の姿があった。久方ぶりの再会だというのに、二人の間には気恥ずかしいような、どこかぎこちない空気が漂った。先に動いたのは悠人だった。無言のまま歩み寄ると、そのまま智美の体をそっと腕の中に抱き寄せた。馴染み深い体温と、ふわりと漂う懐かしい香りに包まれた瞬間、智美の中で張り詰めていた何かが静かに解けていく。気付けば、彼女の両手も自然と彼の背中へと回されていた。二人はしばらくの間、ガレージに立ったまま抱擁を交わしていた。やがて指を絡ませて手を繋ぐと、並んで家の中へと足を踏み入れた。荷物はすべて運転手が運び入れてくれた。リビングへ入ると、詩乃がソファにちょこんと座り、和也が買ってきたというレゴブロックを真剣な面持ちで見つめていた。すぐ隣では謙太が、妹の遊びに根気よく付き合ってくれている。愛しい娘の顔を見た瞬間、智美の胸の奥にじんわりとした温もりが広がり、目元には自然と涙が滲んだ。詩乃のほうも気配を感じ取ったのか、ふっと顔を上げた。愛するママの姿を認めた瞬間、
智美はくすっと笑った。「ええ、詩乃が好きなことを、思い切りやらせてあげたいと思っています」子どもを自分たちの都合で急き立てるつもりは、少しもなかった。自分がピアノを始めたのは、半分は純粋に好きだったから。でも残りの半分は、彩乃に強要されたからだった。十歳のとき、彩乃は誰かと張り合って、二年以内にピアノの検定で最高グレードを取るよう命じてきた。当時の智美はそれに反発し、もうピアノなんてやりたくないと思い詰めた。そのせいで、こっぴどく叱られたこともある。あの頃の傷ついた気持ちは、今も鮮明に残っている。母と同じ育て方を、詩乃にはしたくなかった。この子には、もっと自由に。もっと伸び伸びと育ってほしい。自分が歩んだ息苦しい子ども時代を、詩乃に繰り返させるつもりはなかった。一方で悠人も、相変わらず多忙な日々を送っていた。岡田グループの海外事業部で権力争いが勃発し、この半年ほどで手痛い不祥事が続いてしまったのだ。その後始末に追われ、悠人は出張続きの毎日だった。二人が顔を合わせる機会は、めっきり減った。それでも悠人は、出張中も欠かさず、智美が眠りにつく前にビデオ通話をかけてきた。智美も少しずつ、離れている時間に慣れていった。そのことを聞いた祥衣は、少し納得がいかない様子だった。ラインで智美にこう送ってきた。【詩乃もまだ小さいのに、二人ともそんなに忙しくて、すれ違いが続いたら、夫婦関係に亀裂が入ったりしない?】竜也とほとんど四六時中一緒にいる祥衣には、智美と悠人の距離感がどうにも理解できなかった。智美は返信した。【私たち、二人とも仕事が好きだし、べったり一緒じゃないと寂しいタイプでもないから、今のところ大丈夫。全然問題ないよ】悠人のことが恋しくないといえば、嘘になる。でもだからといって、仕事を投げ打って海外の悠人に同行するかといえば、そんな気にはなれなかった。祥衣はそれを読んで、素直に感心したように返した。【私には無理だわ。竜也が子供連れて三日以上実家に帰ったら、もう機嫌が悪くなる自信ある】祥衣には、傍にいてくれることと、情緒的な心の通い合いが欠かせなかった。今ならよくわかる。自分の性格には、同じように仕事一筋のタイプは向かない。家族を一番に考えてくれる竜也みたいな人だからこそ、うまくいくのだ。智美は微笑んで返信した
梨沙子は、自分が惨めだとは微塵も思っていなかった。以前のようなブランドバッグは買えなくなったけれど、生活は十分に充実していたし、何より自分で稼いだお金を使うという確かな誇らしさがあった。世間の厳しさに身を置くうちに、梨沙子はずいぶんと変わった。自分の意見をしっかり持てるようになったし、物事の受け止め方も以前とはまるで違う。実の母の嘲りを前にしても、梨沙子は動じなかった。「佐倉さん、私のことはご心配なく。今のほうがずっと満たされていますから。名家の奥様なんて暮らし、今は少しも未練はありません」あの家の駒として使われる日々には、もう二度と戻りたくなかった。「佐倉さん」と呼ばれた瞬間、史子は怒りで顔を強張らせた。この薄情な娘め。史子がさらに言い返そうとした、そのとき。少し離れたところに目をやると、崇樹がじっと梨沙子を見つめているのが目に入った。――変だわ。最近、崇樹が梨沙子にアプローチしているという噂は、あちこちで耳にしていた。離婚歴があって、たいした取り柄もない娘のことを、あの深田崇樹が本気で相手にするはずがない。どうせ暇つぶしに決まっているとそう甘く見ていたのだが、噂はいつまで経っても消えなかった。そして今、崇樹が梨沙子を見る目を目の当たりにして、認めたくはないけれど、史子にもわかってしまった。あの男は本気だ、と。もっとも、深田家が梨沙子を受け入れるかどうかは別の話だが。史子は胸の内で悪態をついた。仕事ごっこに現を抜かす暇があるなら、崇樹を落として深田家に嫁いでしまえばいいのに。そうなれば、佐倉家も梨沙子を認めてやる気になるというものを。この頑固な娘ときたら、何が大事かもわかっていない。まあいい。どうあれ自分の娘なのだから、機会を見てまた話してみよう。史子はそう自分を納得させた。もちろん、梨沙子がそんな話に耳を貸すつもりなど、毛頭なかったのだが。……詩乃が一歳の誕生日を迎えた頃、智美と梨沙子は羽弥市に八店舗目の支店を出した。香代子との芸能事務所のほうも、所属アーティストが十人を数えるまでになっていた。そのうち新人の二人がバラエティ番組で少し注目を集め、じわじわと知名度が上がり、バラエティや連続ドラマの脇役のオファーが舞い込むようになった。香代子は自らのコンサートに向けた準備にも着手し、有望な新人を
智美の体型をとやかく言えないとわかると、今度は「地位を固めるために子どもを産んだのだ」と陰口を叩く女たちも現れた。何しろ、智美が悠人と結婚してからそれほど日も経っていない。こんなに早く子どもを産んだとなれば、周囲が勝手な憶測を立てるのも仕方のないことだった。だが、そんな野次馬たちの声は、あっという間にかき消されてしまう。ひとたび赤ん坊の泣き声が響きわたった瞬間、宴席にいた全員の視線が吸い寄せられるようにそちらへ向かった。ベビーカーの周りには四人のベビーシッターが付き添っていた。泣き声を耳にするや、一人がすぐに赤ちゃんを抱き上げ、懸命にあやし始める。それでも赤ちゃんはなかなか泣き止もうとしない。智美が駆け寄ろうと腰を浮かせた、まさにその瞬間、悠人がすでに一歩先を越していた。名家の子息らしい端正で優雅な佇まいでありながら、赤ちゃんを抱く手つきはすっかり手慣れたもので、あやす声もどこまでも穏やかだった。日頃から進んで育児を担っているのだと、一目見れば誰もが理解した。先ほどまで泣き止まなかった小さな愛娘は、悠人にそっとあやされるうちに、少しずつ落ち着きを取り戻していった。やがておとなしく彼の腕の中に収まり、こぼれ落ちそうなほど大きな瞳でじっと父親を見上げた。その無垢な眼差しに、悠人の表情がじんわりとほぐれていく。頭を傾けて娘の額にそっと唇を寄せると、愛おしそうに呼びかけた。「よしよし、いい子だ」娘の岡田詩乃(おかだ しの)がようやく泣き止んだのを見届けて、智美も安堵の吐息を漏らした。抱っこを代わろうかと腰を上げかけた矢先、明日香がそっと智美の手を引き、微笑みながら言った。「悠人に任せておけばいいのよ。さあ、あなたは今のうちに少し召し上がれ」その言葉の奥に滲む慈しみは、その場にいた誰の目にもはっきりと伝わった。宴席に集まった奥様方は、いずれも世慣れた方々ばかりだ。この一幕を目にするなり、岡田家における智美の立場がいかに揺るぎないものかを、即座に察していた。もし智美が軽んじられる存在であれば、こんな席でゆったりと食事を楽しむなど許されるはずもない。赤ちゃんの傍らに立ち、ひたすら世話をし続けるのが精一杯のはずだ。それまで智美を侮っていた奥様方も、この瞬間、一様に見る目が変わった。中には声を潜めて娘に耳打ちする方もいた。
翌日、明日香が、経験豊富な産褥シッター二人と専属の栄養士二人を引き連れ、プライベートジェットで大桐市に降り立った。もちろん、滋養強壮に効く高級食材も山ほど持参して。人数が多すぎて、産後ケア施設のスイートルームですら手狭になってしまった。明日香はすぐさま近くの高級一軒家を手配し、生活環境を整えさせてから、智美と赤ちゃんをそちらへ移した。なんといっても、孫二人の育児を乗り越えてきた歴戦の明日香である。手際よく、悠人や智美が口を挟む間も、手を出す暇もなく、すべてを完璧に取り仕切ってしまった。産後の一ヶ月間、智美は育児の心配を何ひとつしなくてよかった。シッター二人は経験豊富なベテランで、そこに明日香も加わり、赤ちゃんが少しでも泣き出せば、瞬時に誰かが抱き上げてあやしてくれた。智美はできれば母乳で育てたかったのだが、明日香に笑いながら止められた。「授乳は後が大変なのよ。やめるときが辛いし、胸が張ったら何時間も熱を持って苦しいわよ。粉ミルクにしなさい。美穂だって授乳しなかったけど、拓真も謙太もあんなに元気でしょ。うちで手配する粉ミルクは市販じゃ手に入らない特別な品質のものだから、栄養面はまったく心配しないで」悠人もその意見に深く納得した様子でうなずいており、智美はそれ以上主張できなかった。栄養士が組んでくれた産後食は栄養バランスが完璧で、一ヶ月間ベッドで過ごしてもほとんど体重の変化はなく、むしろ顔色は産前よりも明るく血色がよくなっていた。月が明けると、明日香はさらに産後回復を専門とする名医を二人呼び寄せ、智美の体のケアも万全に整えさせた。産後の一ヶ月をゆったりと過ごし終えると、智美と悠人は愛しい娘を連れて、羽弥市へと戻った。美羽の挙式はその後、旦那さんの故郷で盛大に行われることになっていたが、智美も祥衣も出席できなかった。智美が出産してから半月も経たないうちに、祥衣も病院で無事に出産したからだ。元気な男の子だった。美羽はラインで、少し寂しそうにしみじみと送ってきた。【式を挙げた時期が重なっちゃって残念だったけど、ふたりとも、ママになって本当におめでとう】祥衣は竜也にオムツ交換の細かい指示を出しながら、のんびりと返信した。【(笑)、大桐市のほうでの式にはちゃんと出席したんだから、たっぷりお祝いしたでしょ。美羽
祐介は彩乃を見て言った。「お義母さん、本当に心配しました!どうして急に入院なんてことになったんですか?」その声は震え、まるで義母の身に何かあったらと、心から恐れているかのようだった。彩乃は、彼がこれほど自分を心配してくれることに、心が温かくなるのを感じた。努めて優しい笑みを浮かべ、慰めるように言った。「祐介くん、そんなに心配しなくていいのよ。私は大丈夫。ほら、この通り元気でしょう?ちょっとした不調だから、数日入院すればすぐに良くなるわ」だが祐介は首を横に振り、申し訳なさそうに言った。「いいえ、入院はとても大事なことですよ。俺が普段、仕事にかまけてお義母さんと過ごす時間を作れなか
しばらく沈黙した後、悠人は低い声で言った。「明日は外せない用事がある。だから今夜は付き添えないが、専用の看護師を手配しておいた。君の容態は詳しく伝えてあるから、しっかり面倒を見てくれるはずだ。医療費と看護費用は、全て俺が負担する」そう言うと、悠人は身を翻して去ろうとした。しかし、千夏がそう簡単に行かせるはずがない。ベッドから身を起こそうとしながら叫んだ。「悠人くん!私、あなたを庇ったから、こんなひどい怪我しちゃったのよ!ねぇ、本当にこのまま私を置いていくのね?看護師さんなんて呼んでこなくていい。悠人くんさえいてくれれば、それで十分なのに……」美しい瞳に涙が溜まり、今にも零れ落ちそう
翔太の楽団は、彼女にとって音楽の夢を叶える絶好の舞台だった。しかし、その運営責任者の一人が健太郎である以上、ここに残ればこれからの生活はさらに苦しくなるに違いない。智美が迷っていると祥衣が口を開いた。「よく考えてみなさい。そうだ、私ね、近いうちに独立して起業しようと思ってるの。一緒にやらない?」祥衣の提案は智美の心を大きく揺さぶった。手の怪我が治るまでには、まだ数か月かかる。今はピアノも弾けない。祥衣と一緒に起業すれば、新しい道が開けるかもしれない。ただ、今回の翔太との勉強の機会を失うのは惜しかった。「少し考えさせてください」「分かったわ、返事を待ってる」
山内の言葉を聞いても、智美が考えを変えることはなかった。彼女にとって、祐介はすでに元夫なのだ。母の部屋へ向かうと、祐介が柄杓を手にして、母の足をお湯につけてやっているところだった。智美は思わず皮肉げに口元を歪めた。三年間、彼の足を洗ってやったことは何度もあった。今さら一度だけ母の足を洗ったくらいで、感動する気にはなれない。それなのに、母はあっさりとこの一手に心を掴まれてしまったようだ。祐介が母を利用して、自分を屈服させようとしている。そう思うと胸の奥が冷えた。彼は知らないのだろうか。そんなやり方は、むしろ彼への嫌悪を強くするだけだと。一応戻ってきてはいるもの







