LOGIN「雪乃の薬をすり替えたのはあんたよね?」 口を開いても、漏れるのはかすかな息だけだ。 3年前、火事の現場から須藤雪乃を助け出したときに負った後遺症だ。 しかし、あの人たちが覚えているのは、私のせいで雪乃の心臓病が悪化したということだけだ。 母の声が、耳をつんざく。 「まだしらを切るつもり?雪乃がはっきりと見たって言ってるのよ!」 必死に身振りで伝えようとするが、それより早く、父の足が膝裏を蹴りつける。 バランスを崩し、氷のように冷たい川の水に飲み込まれる。 岸から、父の声が降ってくる。 「覚えてないというなら、水の中でじっくり考えろ」 母は、ボディガードたちに言いつける。 「1回20万円もする水泳の個人レッスンを受けさせていたんだから、これくらい平気よ。しっかり見張っていなさい。自分のしたことを認めるまで、絶対に上がらせないこと」 両親は知らない。ボディガードたちが、すでに雪乃に買収されていたことを。 死を覚悟するほど苦しくなって、ようやく引き上げられた。 手の震えを必死に抑えて、血で汚れたノートに、歪んだ文字を書きつけた。 【私が死んだら、心臓は雪乃にあげて。 彼女の16年間をうばって、ごめんなさい】
View More川辺は、あの日と変わらず、水音が絶え間なく響いている。母は私が突き落とされた場所まで歩いていき、しゃがみ込んで水の中にそっと手を入れる。そして、小さな声で呟く。「詩乃、お母さん、ちゃんと仇を取ったからね」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、背後の茂みからシャッター音が響く。3人の記者がカメラを構えて飛び出してきて、マイクを母の顔の前に突きつける。「冴子さん!先ほど、証拠を取るために娘さんを誘導したと認めたんですか?」「雪乃さんの弁護士は、違法な手段で証拠を集めたと主張していますが、どう説明されますか!?」「宗一郎さん!長女の詩乃さんが岸に上がろうとするのを見ながら、助けなかったという情報がありますが、事実ですか!?」カメラの赤いランプが点灯している。生配信のコメント欄には、次々と書き込みが流れていく。【本当に仕組んだの?考えれば考えるほど怖い】【今までいい親ぶってたんじゃなかったの?吐き気するわ】【二人の娘を死なせたような人が、親になる資格ない】母の顔から血の気が引いていった。唇がかすかに動いたが、声は出なかった。その夜、須藤家がネット上で大バッシングを受けていた。【須藤詩乃の母、違法な手段で証拠収集?】【須藤夫妻、鬼畜の所業】【須藤雪乃、殺人教唆】父のスマホはひっきりなしに震え、会社にも非難のメールが殺到した。取締役会から緊急会議の通知が届き、その添付ファイルには父の解任を求める議案が入っている。理由は、会社の信用を著しく損なったためだ。そのとき、窓の外が突然騒がしくなる。私は窓辺までふわりと漂い、見下ろすと、マンションの下に大勢の人が集まっている。スマホで生配信をしている人もいれば、非難の横断幕を掲げている人もいる。近所の人たちも窓から顔を出し、こちらを指さして何か話している。母は着替えを済ませ、寝室から出てくる。その顔には疲れがにじんでいる。「自首するわ。警察に行って、詩乃を置き去りにしたことも、助けなかったことも、全部話す。どんな罰でも受ける」父は母の決意を変えられず、車を出して警察署へ向かった。母の姿を見た警察官は、一瞬、驚いたように目を見開く。「須藤さん……」母の声は恐ろしいほど落ち着いている。「自首しに来ました。娘の詩乃を置き去りにし
「詩乃が亡くなったあと、財産のほとんどは寄付したわ。でも、あなたも私たちの娘であることに変わりはないから、治療費として使えるように信託財産を残してあるの」雪乃は二つ返事で会うことに応じた。翌日の午後、母は約束していた喫茶店に先に着いた。新しいワンピースを着た雪乃は、店のドアを開けると、迷わず母の向かいの席に座る。母はバッグから数枚の書類を取り出し、雪乃の前に差し出す。「これが信託の契約書よ。目を通してみて」雪乃は書類を受け取ると、ざっと目を通しただけで、迷うことなく署名する。書き終えると、書類を母のほうへ押し戻し、得意げに笑った。「こんなことしなくてよかったのに。お母さんが後悔するって、最初からわかってたよ。だってお姉ちゃんが死んじゃった今、私にまで何かあったら、本当に娘がいなくなっちゃうもんね」母は何も言わず、ただ雪乃を見つめている。雪乃は悪びれもせず話し続ける。「ボディガードたちの間で出回ってるあの動画、見た?途中で何度か岸に這い上がろうとしたのに、そのたびにボディガードに蹴り落とされてたんだよ。お姉ちゃん、声も出せないから、口をパクパクさせながら溺れていったの。すっごく面白かったよ。あはははは!」雪乃は声を上げて笑った。「お母さん、そんなに怒らないでよ。本当のことを話したじゃない。それに、お金ももらえたんだし、全部なかったことにしようよ。ね?これからはお父さんとお母さんに、ちゃーんと親孝行するから……」母がゆっくりと顔を上げる。「……話は終わった?」雪乃が一瞬、きょとんとする。母はテーブルの下からボイスレコーダーを取り出し、録音停止のボタンを押した。雪乃の笑顔が引きつる。「お母さん、それ……」母は立ち上がり、ボイスレコーダーをバッグにしまった。「この録音は、あなたの殺人教唆の証拠として警察に提出するわ」そう言い残し、母は背を向けて店を出ていく。雪乃は慌てて入り口まで追いかけたが、そこで突然足を止める。ドア枠に手をつき、顔が真っ青になる。もう片方の手で胸元を押さえ、肩で息をする。周囲の客たちが騒ぎ始め、誰かが救急車を呼んだ。母は店の外に立ったまま、長い間、ガラス越しに冷ややかな目で雪乃を見つめていた。3日後、警察が家にやって来て、ボイスレコーダーと私の日記
母は雪乃を無視する。すると、あの遠縁の叔母の声が、今度は少し大きくなって聞こえてくる。「私に言わせれば、早く亡くなったほうがみんなのためよ。ほら、須藤さん夫婦を見てみなさいな。この半年ですっかり老け込んで……」言葉が終わるか終わらないかのうちに、父が突然振り返る。数歩で叔母のところまで詰め寄り、彼女の胸ぐらを乱暴につかむ。目は血走っている。「俺の娘を、悪く言うな!」周囲の参列者たちは息を呑む。叔母は恐怖に顔を引きつらせる。「悪気はないよ。ただ、思ったことを……」父は叔母に怒鳴りつける。「悪気はないだと?娘がそこに眠っているのに、よくそんなことが言えるな!」高く振り上げられた拳は、迷った末、ゆっくりと下ろされた。叔母はよろめき、近くにいた人に支えられた。母は振り返り、私の墓石の前まで歩み寄る。そして袖で、墓石についた雨をそっと拭う。それから顔を上げ、親戚たちを見渡す。「娘の詩乃は頭がよくて、優しい子だった。私の人生で、一番の誇りよ」その言葉に、辺りが静まり返る。すると雪乃が前に出て、猫なで声で言う。「お母さん、そんなに悲しまないで。これからは私が、お姉ちゃんの代わりにお母さんたちを大切にするから……」母は言葉を遮る。「必要ないわ。私には詩乃だけで十分よ」雪乃の表情が一瞬こわばる。「お母さん、それどういう意味?お姉ちゃんはもう死んだんだよ。これからは私のほうがいい子になるから……」父が怒鳴りつける。「黙れ!」雪乃は親戚たちを見回し、少し声を張り上げる。「だってそうじゃない!叔母さんの言う通りよ!お姉ちゃんは生きてたって目障りだったし、今はその心臓を私に使えるんだから、よかったじゃない!どうせ死んじゃったんだから、娘は私一人で十分だよ!」母はゆっくりと雪乃の方へ向き直る。まるで、恐ろしいものを見るような目をしている。「……今、なんて言ったの?」雪乃は悪びれもせずに続ける。「お姉ちゃんが死んで、みんなにとってよかったって言ったの。これからは私一人が娘なんだから、ちゃんと親孝行……」パァン!乾いた平手打ちの音が響き渡る。雪乃の顔が横を向き、髪が頬にかかっている。彼女は頬を押さえたまま、信じられないという顔で母を見つめる。母の手はまだ、小刻みに震えてい
雪乃の声は、弾むように明るい。「お母さんたち、私のことが一番大事よね?お姉ちゃんはもう死んじゃったんだし、その心臓で私の病気も治せるんだよ?だったら、みんな幸せじゃない?」母は口を開けたまま、手にしたスマホを見つめる。その目には、信じられないという驚きと、まるで知らない人を見るような戸惑いが浮かんでいる。電話が切れた。母はテーブルの上に置かれた、あの切り取られた家族写真に目を落とす。写真の中で、6歳の私は、片腕だけを残し、画面の端にぽつんと写っている。母は口をパクパクと動かし、何かを言おうとした。しかし、声は出なかった。母はゆっくりと、その場にしゃがみ込んだ。私の遺品が入った段ボール箱のそばで、自分の体を両腕で抱きしめ、肩が激しく震え始めた。母は丸一日、自分の部屋に閉じこもっていた。雪乃が何度電話をかけてきても、出ようとはしなかった。夜になり、父があの日のドライブレコーダーのデータと、車の中から見つかったブリキの箱を持って帰ってくる。その日の午後7時56分、二人はレストランで夕食を済ませ、帰宅する途中、再び川沿いの道を通っていた。ドライブレコーダーの映像には、画面の端に黒い人影が映っていた。その人影が、何かを川へ蹴り落としたように見える。続いて、父の声が響く。「最近の子どもは本当にしつけがなってないな。川にゴミを捨てるなんて」母が答える。「そんなことはどうでもいいから、雪乃が帰りを待ってるし、薬も飲ませないと」「そうだな」車は加速し、そのまま通り過ぎていった。父はそこで映像を一時停止する。画面の端に映った人影を、父の手がちょうど覆い隠している。父はブリキの箱を開けた。中には、細々としたものがいくつも入っている。一番底には、小さく折りたたまれた紙がある。そこに書かれていたのは、7歳の私の字だ。鉛筆で書かれた文字は歪んでいる。【お父さん、いつもお仕事お疲れさま。お金を貯めて、ネックピローを買ってあげるね】下には笑顔のマークが描かれている。その紙の隣には、豚の形をした小さな貯金箱がある。父はそれを手に取って振ってみるが、とても軽い。蓋を開けると、硬貨がいくつか転がり落ちる。500円玉が3枚、100円玉が2枚、それから10円玉や1円玉が少し。全部合わせて、1733