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白いキキョウと遅すぎた懺悔

白いキキョウと遅すぎた懺悔

By:  匿名Completed
Language: Japanese
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「雪乃の薬をすり替えたのはあんたよね?」 口を開いても、漏れるのはかすかな息だけだ。 3年前、火事の現場から須藤雪乃を助け出したときに負った後遺症だ。 しかし、あの人たちが覚えているのは、私のせいで雪乃の心臓病が悪化したということだけだ。 母の声が、耳をつんざく。 「まだしらを切るつもり?雪乃がはっきりと見たって言ってるのよ!」 必死に身振りで伝えようとするが、それより早く、父の足が膝裏を蹴りつける。 バランスを崩し、氷のように冷たい川の水に飲み込まれる。 岸から、父の声が降ってくる。 「覚えてないというなら、水の中でじっくり考えろ」 母は、ボディガードたちに言いつける。 「1回20万円もする水泳の個人レッスンを受けさせていたんだから、これくらい平気よ。しっかり見張っていなさい。自分のしたことを認めるまで、絶対に上がらせないこと」 両親は知らない。ボディガードたちが、すでに雪乃に買収されていたことを。 死を覚悟するほど苦しくなって、ようやく引き上げられた。 手の震えを必死に抑えて、血で汚れたノートに、歪んだ文字を書きつけた。 【私が死んだら、心臓は雪乃にあげて。 彼女の16年間をうばって、ごめんなさい】

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Chapter 1

第1話

私・須藤詩乃(すどう しの)は必死に首を横に振り、指を岩の隙間に食い込ませながら、どうにか這い上がろうとする。

鼻にまで川の水が入り込み、声を出すことさえできない。

母・須藤冴子(すどう さえこ)が金切り声を上げる。

「雪乃の薬をすり替えたのはあんたよね?雪乃がはっきりと見たって言ってるのよ!」

必死に身振りで伝えようとするが、凍るような寒さで、思うように動けない。

――私じゃない。雪乃の薬に触れたことなんて、一度もない。

口を開けても、傷ついた声帯を空気がすり抜け、ヒューヒューというかすれた音しか出てこない。

父・須藤宗一郎(すどう そういちろう)は、後ろに控えるボディガードたちを振り返る。

「何も言わないってことは、認めたも同然だ。そのまま水に浸からせておけ。自分のしたことを認めるまで、絶対に引き上げるな」

妹・須藤雪乃(すどう ゆきの)はそっと母の腕に手を添え、弱々しく言う。

「お母さん、川の水はすごく冷たいから、お姉ちゃんが風邪を引いちゃうよ……」

「風邪?雪乃と違って、詩乃は心臓病もないし、無駄に丈夫なのよ!雪乃は優しすぎるの。水に浸かっていれば、自分が何をしたか思い出すかもしれないわね!」

水が耳元まで迫り、周囲の音が次第に遠ざかっていく。

父が母の肩を抱いて背を向けるのが見える。雪乃が私に向かって、ゆっくり首を横に振る。声は聞こえない。それでも、その唇の動きが、はっきりと読める。

「ざ・ま・み・ろ」

3人が車で去ったあと、私は必死に岸まで這い上がった。

しかし、茂みから飛び出してきた男に阻まれ、再び川へ突き落とされる。

須藤家のボディガードだ。

「恨まないでくれよ。雪乃様からの指示で、お前が謝るまで岸に上げるなってことになってるんだ」

口をパクパクと動かしても、やはり声は出ない。

助けを求めて手を伸ばすと、ボディガードはスマホを取り出し、笑いながら私を撮影し始めた。

ようやくもう一度岸へ上がった瞬間、今度は首を掴まれ、そのまま水の中へ押さえつけられた。

「この喋れない女を殺せば、2000万か。雪乃様もなかなか気前がいいな」

「それにしても、こいつ、ずいぶんきれいじゃないか。早く片づけろって言われてなきゃ、もう少し楽しんでみたかったぜ」

「チッ、2時間も浸かってるのに、まだ死なねぇのか。しぶといな」

私がまだ這い上がろうとしているのを見ると、ボディガードたちは大きな石を拾い上げ、私に向かって投げつけた。

「クソが、これでどうだ!」

体が沈んでいき、四方八方から水の重圧がのしかかってくる。

肺に残っていた空気が、細かい気泡となって水面へ上っていく。

目を開けたまま、水面の光が、どんどん遠ざかっていくのを見つめる。

やがて、冷たい川の水に完全に呑み込まれた。

……

再び目を開けると、家の前に立っていた。

身につけているのは、さっきまで着ていた濡れたセーターだ。もう水滴は落ちてこない。

手を伸ばしてドアを開けると、ダイニングのまぶしい明かりが目に入る。

雪乃がちょうど、母の茶碗に料理を取り分けているところだ。

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第1話
私・須藤詩乃(すどう しの)は必死に首を横に振り、指を岩の隙間に食い込ませながら、どうにか這い上がろうとする。鼻にまで川の水が入り込み、声を出すことさえできない。母・須藤冴子(すどう さえこ)が金切り声を上げる。「雪乃の薬をすり替えたのはあんたよね?雪乃がはっきりと見たって言ってるのよ!」必死に身振りで伝えようとするが、凍るような寒さで、思うように動けない。――私じゃない。雪乃の薬に触れたことなんて、一度もない。口を開けても、傷ついた声帯を空気がすり抜け、ヒューヒューというかすれた音しか出てこない。父・須藤宗一郎(すどう そういちろう)は、後ろに控えるボディガードたちを振り返る。「何も言わないってことは、認めたも同然だ。そのまま水に浸からせておけ。自分のしたことを認めるまで、絶対に引き上げるな」妹・須藤雪乃(すどう ゆきの)はそっと母の腕に手を添え、弱々しく言う。「お母さん、川の水はすごく冷たいから、お姉ちゃんが風邪を引いちゃうよ……」「風邪?雪乃と違って、詩乃は心臓病もないし、無駄に丈夫なのよ!雪乃は優しすぎるの。水に浸かっていれば、自分が何をしたか思い出すかもしれないわね!」水が耳元まで迫り、周囲の音が次第に遠ざかっていく。父が母の肩を抱いて背を向けるのが見える。雪乃が私に向かって、ゆっくり首を横に振る。声は聞こえない。それでも、その唇の動きが、はっきりと読める。「ざ・ま・み・ろ」3人が車で去ったあと、私は必死に岸まで這い上がった。しかし、茂みから飛び出してきた男に阻まれ、再び川へ突き落とされる。須藤家のボディガードだ。「恨まないでくれよ。雪乃様からの指示で、お前が謝るまで岸に上げるなってことになってるんだ」口をパクパクと動かしても、やはり声は出ない。助けを求めて手を伸ばすと、ボディガードはスマホを取り出し、笑いながら私を撮影し始めた。ようやくもう一度岸へ上がった瞬間、今度は首を掴まれ、そのまま水の中へ押さえつけられた。「この喋れない女を殺せば、2000万か。雪乃様もなかなか気前がいいな」「それにしても、こいつ、ずいぶんきれいじゃないか。早く片づけろって言われてなきゃ、もう少し楽しんでみたかったぜ」「チッ、2時間も浸かってるのに、まだ死なねぇのか。しぶといな」私が
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第2話
「お母さん、心配しないで。お姉ちゃんはただ意地を張ってるだけだから、気が済んだら、きっと帰ってくるよ」父は手を伸ばし、雪乃の頭を優しく撫でた。「やっぱり雪乃のほうがしっかりしてるな。あの子は昔から、何かと手を焼かせてばかりだ」ダイニングテーブルの上には、黄色い果肉がたっぷり乗ったマンゴームースケーキが置かれている。私が7歳のとき、雪乃は誕生日にマンゴームースを食べたいと言った。ケーキを食べた私は全身に発疹が出て救急搬送され、そこで初めて、マンゴーアレルギーだと知った。それ以来、雪乃の誕生日ケーキは必ずマンゴームースになった。そうすれば雪乃は、ケーキも、両親の愛情も、すべて独り占めできるからだ。母がため息をつく。「心臓病になったのが詩乃だったらよかったのに。雪乃みたいな優しい子が、どうしてこんな目に遭わなきゃいけないの」喉が詰まり、思わず手を伸ばして母の肩に触れようとした。しかし、手はむなしく母の体をすり抜けてしまう。「そういえば、詩乃は7歳のときに、雪乃に階段から突き落とされたって言い張ったろ。雪乃はまだ5歳だぞ。そんな力があるもんか」私の話になった途端、父の声が露骨に冷たくなる。私は必死に叫ぶ。「違う!雪乃が私のネックレスを取ろうとしたから、私が後ずさったときに足を踏み外したの!」母が呆れたように言う。「結局、雪乃が自分のブレスレットを詩乃にあげたじゃない。あんな安物のネックレスで、大騒ぎするなんて」あれは、祖母がくれた銀のネックレスで、小さな月のペンダントがついていた。雪乃が欲しいと言ったが、渡したくなくて断った。すると、雪乃はいきなり手を伸ばし、ネックレスを引きちぎろうとした。ネックレスが切れ、月のペンダントは階段を転がり落ちて、そのまま見つからなくなった。私は母を見つめ、やり場のない悲しみに包まれる。「あのブレスレットは、もともと壊れていたの。雪乃が自分で机の角にぶつけたんだよ。弁償だなんて言いながら、本当はいらないものを押し付けてきただけじゃない」雪乃がタイミングを見計らったように口を開く。「お姉ちゃん、まだ私のことを怒ってるのかも……電話してみようか?」父はうっとうしそうに手を振る。「その必要はない。この前の火事だって、あいつが勝手に走り回らなければ、あんな大
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第3話
父は忘れている。あのとき私は、脚を骨折して手術を受けたばかりだった。医師からは、甘いものも冷たいものも口にしないようにと言われていた。ホームビデオの映像が切り替わる。雪乃が小学校に入学したときの映像だ。真新しい制服を着て、玄関ではしゃいでいる。母はしゃがみ込み、雪乃の胸元のリボンを整えながら、優しい眼差しで彼女を見つめている。「雪乃は昔から手のかからない子ね。それに比べて詩乃ときたら、わがままばかり言って。脚はもう治っていたのに、いつまでも車椅子に乗りたがって。私たちにもっと構ってほしかっただけなのよ」本当は医師から、3ヶ月は経過を見ながら、歩かないようにと言われていたからだ。父がふいに口を開く。「そういえば覚えているか?雪乃が熱を出したとき、詩乃も具合が悪いと言い張ったことがあったろ。結局病院に連れて行ったら、雪乃は39.5度もあったのに、あいつは熱も何もなかった」母は露骨に嫌そうな顔をする。「もうやめて。あの子の話をするとイライラするわ。昔から本当に性根の悪い子なんだから」そのとき、電話が鳴った。母がローテーブルの上からスマホを取り、画面を確認する。「知らない番号ね。セールスかも」それでも一応、電話に出る。受話口から、かすかな声が聞こえてくる。「もしもし、須藤詩乃さんの……」次の瞬間、スマホの画面が暗くなる。バッテリーが切れたのだ。時計の針は、夜9時を指している。雪乃が大きなあくびをする。「お母さん、明日、お姉ちゃんに新しいワンピースを買いに行こうよ。お詫びのしるしってことで」母はためらうことなく首を横に振った。「放っておきなさい。2、3日もすれば、あの子も頭が冷えるわ。さあ、もう遅いからそろそろ寝なさい」父も立ち上がり、雪乃の頭を優しく撫でる。「お前も早く寝ろ。詩乃みたいに、何かあるたび家出するんじゃないぞ」私はリビングの中央に立ち、両親が寝室のドアを閉めるのを見つめる。続いて、雪乃の部屋のドアも静かに閉じられた。明かりが一つ、また一つと消えていく。私が今夜どこで寝るのか、誰一人として気に留めない。私がまだ、あの冷たい川の中にいることなど、誰も覚えていない。……翌朝。母は私の部屋の前で少しためらってから、声をかける。「詩乃、お母さんよ」2分ほ
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第4話
しかし、まさにその同じ日、雪乃がピアノコンクールで金賞を取ったため、両親は表彰式へ行ってしまったのだ。学校で日が暮れるまで待っていたが、結局両親は来なかった。帰り道、あまりの空腹に耐えきれなくなり、食べるものを探してショッピングモールへ向かった。そこで私のことを思い出した両親と鉢合わせしたのだ。……母は荒々しい足音を立てて、私の部屋へ向かう。机の引き出しを開け、中を探り始める。やがて、黒い表紙のノートを取り出す。私が隠していた日記帳だ。母は最初のページをめくり、ざっと目を通しただけで鼻で笑った。「またこんなくだらないこと書いてる」日記をダイニングテーブルに放り投げる。「ほら、またよ。『雪乃が熱を出したときは、お母さんが病院に連れて行った。私が熱を出したときは、自分で薬を飲んだ』。こんなことまでいちいち書いてるわよ。『雪乃に絵を破られた。雪乃にセーターを取られた』。日記の半分は、こんな些細なことよ。勉強もしないくせに、雪乃と張り合うことばかり考えてるんだから」――でも、お父さん、お母さん。あなたたちは知らない。そんな些細なことが、ずっと私を苦しめていた。ご飯も喉を通らず、夜も眠れないほど苦しかった。母は鼻を鳴らした。「あの子は昔から雪乃のことが気に入らないのよ。姉妹なのに、いちいち張り合って。雪乃には心臓病があるんだから、少しは思いやってあげてもいいでしょ?私たち、十分よくしてあげてるじゃない。欲しいものは何だって買ってあげたのに」ページをめくる母の手つきが次第に荒くなり、紙に皺が寄っていく。「『雪乃の薬がなくなった。私がすり替えたと言われた』……何これ、でたらめばかり!雪乃に濡れ衣を着せられたとでも言いたいわけ?『雪乃が電話で、薬なんて効かないからとっくに捨てた、と話しているのを聞いた』」母ははっとしたように顔を上げ、怒りに任せて日記帳を閉じた。「どうして帰ってこないのかと思ったら、こういうつもりだったのね!嘘をつくなら、もっとマシな嘘をつきなさいよ!雪乃が薬を捨てたなんて!病気を治したくないっていうの!?」母は日記帳をテーブルに叩きつけ、立ち上がってダイニングを苛立たしげに歩き回る。「まだ若いのに、こんな作り話をでっち上げるなんて、計算高すぎるわ。大人になったら、どうなることや
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第5話
警察署に着いたときも、母の手はまだ震えていた。運転席に座る父は、指先が白くなるほど強くハンドルを握りしめている。母がうわ言のように呟く。「きっと……きっと詩乃じゃないわ。何かの間違いよ」両親は車を降り、署内へ入っていく。受付の若い警察官が顔を上げ、二人を見る。「須藤詩乃さんのご家族ですか?」両親は黙ってうなずく。警察官は立ち上がり、受付から出てくる。「こちらへどうぞ」薄暗く長い廊下を進んでいく。警察官が突き当たりにある鉄製の扉を押し開けると、中からひんやりとした空気が流れてくる。部屋の中央にはストレッチャーが置かれ、白い布の下には、人らしき輪郭が浮かんでいる。母は入り口で立ち止まったまま中へ入ろうとせず、全身をガタガタと震わせている。警察官が私の遺体を指し示す。「ご確認をお願いします」父がストレッチャーへ近づく。伸ばした手が白布の端に触れる。数秒ためらったあと、震える手でゆっくりと布をめくる。長く水に浸かっていたせいで、顔立ちもほとんど分からなくなっている。唇は紫に変色し、目は固く閉じられ、濡れた髪が額にべったりと張りついている。足、手、そして顔……体の至る所に、目を背けたくなるような痛々しい傷跡が残っている。母の喉から、ヒュッと短い声が漏れた。次の瞬間、膝から力が抜け、その場に崩れ落ちた。「し……詩乃?」父は白い布を握りしめたまま、私の顔を食い入るように見つめている。握られた布は、くしゃくしゃになっている。そこへ監察医が入ってきて、淡々とした口調で、確認された内容を告げる。「死者は女性、死因は溺死と考えられます。肺内には水が入り、気道からは藻類も確認されています。川での溺死とみて矛盾しません。死亡推定時刻は、昨夜8時から9時の間です」昨夜8時から9時……昨夜8時、両親は雪乃とホームビデオを見ていた。昨夜9時、母はあの電話をセールスだと思って切った。「そんな……嘘よ。あの子は泳げるのに……」母は床に手をついて立ち上がろうとするが、足に力が入らず、何度もその場に崩れ落ちる。父が突然白い布から手を離し、監察医に向かって怒鳴る。「何かの間違いだ!詩乃は泳げるんだ!死んだふりをしてるんだろ?昔からそうやって、俺たちの気を引こうとした!」監察医は
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第6話
まず、遺書が1通あった。【私が死んだら、心臓は雪乃にあげて。彼女の16年間をうばって、ごめんなさい】もう1枚は、水に濡れて文字が少しにじんでいるものの、上部の文字ははっきりと読み取れる。【診断書患者氏名:須藤詩乃診断結果:気道熱傷による声帯損傷所見:正常な発声は不可能】その下には担当医の署名があり、日付は3年前になっている。父の指が、【正常な発声は不可能】という文字の上で長い間止まった。しばらくすると、手が震え始め、紙がカサカサと音を立てる。父はその紙を食い入るように見つめながら呟く。「そんなはずがない……詩乃は、ちゃんと喋れるはずだ……」父の前まで歩み寄り、静かにため息をつく。「火事のあと、声が出せなくなったんだよ。お父さんとお母さんはずっと、私が意地を張って口をきかないんだと思ってたよね」父が顔を上げ、ストレッチャーに横たわる私を見て、再び診断書に目を落とす。何か言おうとしたが、声は出なかった。診断書が父の手から滑り落ち、床にひらりと落ちる。【正常な発声は不可能】という文字が、霊安室の青白い照明の下で、痛いほど鮮明に浮かび上がっている。……警察署から家に戻ったときには、すでにすっかり日が暮れていた。母はぼんやりした顔で段ボール箱を抱えている。中に入っているのは私の遺品だ。濡れた通学かばんと、ふやけてボロボロになった教科書だ。父はその後ろを重い足取りでついてくる。玄関のドアを開けると、雪乃がリビングのソファに座り、スマホをいじっていた。二人に気づいた雪乃は顔を上げる。目は赤く腫れている。泣いていたように見える。「お父さん、お母さん……お姉ちゃんが……」母は雪乃の言葉には答えず、真っ直ぐに私の部屋へ向かう。段ボール箱を床に置く。母は部屋の中央に立ち、ゆっくりと周囲を見回す。母はいつも、私のことを怠け者だと言っていた。心臓の病気があるからと言って、雪乃のことばかり気にかけていた。しかし今、あらためて部屋の中を見回してみて、母は私が彼女の思っていたような怠け者ではないと気づいたはずだ。部屋には塵一つなく、物もきちんと整理されている。母は机の前まで歩き、引き出しを開ける。中には文房具がきれいに並んでいる。引き出しの一番奥を探ると、硬い紙切
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第7話
そこまで書かれたところで、続きはなかった。母は一枚ずつ、ゆっくりとカードをめくっていく。静まり返った部屋の中で、母の呼吸が次第に荒くなっていく。やがて、箱の一番底に入っていた、もう1冊のノートに目を留めた。クラフト紙の表紙で、とても薄いノートだ。最初のページを開くと、私の字でこう書かれている。【9月3日。雪乃が今日、同級生に「私のお姉ちゃん、しゃべれないの。だから無視していいよ」と言っていた。どうしてそんなことを言うのかと聞いたら、雪乃は笑って「ただの冗談よ。お姉ちゃん、真に受けちゃったの」って言った】【9月10日。雪乃が自分の薬をビタミン剤にすり替えた。気づいて問い詰めると、「この役立たずが、私のことに口出ししないでよ。そんなに欲しいなら、あんたが飲めば?無駄にするんじゃないわよ」と言われた】【10月5日。雪乃がお母さんに私の日記を見せて、私がお母さんの悪口を書いていると言った。お母さんは怒って、私を叱った。雪乃はそばで「お姉ちゃん、ただ機嫌が悪かっただけかもしれない」と、かばうフリをしていた】【10月25日。雪乃が川沿いを散歩したいと言って、私を誘った。川に着くと、雪乃は「お姉ちゃん、もし落ちたら助けを呼べる?」と聞いてきた。私は何も答えられなかった。彼女は笑った。「そっか、お姉ちゃんは声が出ないんだったね」】【11月12日。雪乃が「お父さんもお母さんも、私のほうが好きなんだよ。この家で一番いらないのはあんただから」と言った。私は必死に首を横に振った。すると彼女は、「じゃあ死んでみれば?死んだら、お父さんたちが心配してくれるか試してみなよ」と笑った】ページをめくる母の手が震え始める。母は部屋を飛び出したが、リビングにいた雪乃の姿はいつの間にか消えていた。母はスマホを手に取り、少しためらったあと、ようやくある番号に電話をかけた。呼び出し音がしばらく鳴って、やっとつながる。「もしもし?お母さん?」雪乃の声が聞こえてくる。電話の向こうは少し騒がしく、外にいるようだ。母は恐ろしいほど静かな声で尋ねる。「雪乃、今どこにいるの?」雪乃は何かを察したのか、すぐにしおらしい声色に変えた。「今……友達の家にいるの。ちょっと気分転換したくて、外に出てたの。お母さんたちは大丈夫?」母は少し間を置いた。
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第8話
雪乃の声は、弾むように明るい。「お母さんたち、私のことが一番大事よね?お姉ちゃんはもう死んじゃったんだし、その心臓で私の病気も治せるんだよ?だったら、みんな幸せじゃない?」母は口を開けたまま、手にしたスマホを見つめる。その目には、信じられないという驚きと、まるで知らない人を見るような戸惑いが浮かんでいる。電話が切れた。母はテーブルの上に置かれた、あの切り取られた家族写真に目を落とす。写真の中で、6歳の私は、片腕だけを残し、画面の端にぽつんと写っている。母は口をパクパクと動かし、何かを言おうとした。しかし、声は出なかった。母はゆっくりと、その場にしゃがみ込んだ。私の遺品が入った段ボール箱のそばで、自分の体を両腕で抱きしめ、肩が激しく震え始めた。母は丸一日、自分の部屋に閉じこもっていた。雪乃が何度電話をかけてきても、出ようとはしなかった。夜になり、父があの日のドライブレコーダーのデータと、車の中から見つかったブリキの箱を持って帰ってくる。その日の午後7時56分、二人はレストランで夕食を済ませ、帰宅する途中、再び川沿いの道を通っていた。ドライブレコーダーの映像には、画面の端に黒い人影が映っていた。その人影が、何かを川へ蹴り落としたように見える。続いて、父の声が響く。「最近の子どもは本当にしつけがなってないな。川にゴミを捨てるなんて」母が答える。「そんなことはどうでもいいから、雪乃が帰りを待ってるし、薬も飲ませないと」「そうだな」車は加速し、そのまま通り過ぎていった。父はそこで映像を一時停止する。画面の端に映った人影を、父の手がちょうど覆い隠している。父はブリキの箱を開けた。中には、細々としたものがいくつも入っている。一番底には、小さく折りたたまれた紙がある。そこに書かれていたのは、7歳の私の字だ。鉛筆で書かれた文字は歪んでいる。【お父さん、いつもお仕事お疲れさま。お金を貯めて、ネックピローを買ってあげるね】下には笑顔のマークが描かれている。その紙の隣には、豚の形をした小さな貯金箱がある。父はそれを手に取って振ってみるが、とても軽い。蓋を開けると、硬貨がいくつか転がり落ちる。500円玉が3枚、100円玉が2枚、それから10円玉や1円玉が少し。全部合わせて、1733
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第9話
母は雪乃を無視する。すると、あの遠縁の叔母の声が、今度は少し大きくなって聞こえてくる。「私に言わせれば、早く亡くなったほうがみんなのためよ。ほら、須藤さん夫婦を見てみなさいな。この半年ですっかり老け込んで……」言葉が終わるか終わらないかのうちに、父が突然振り返る。数歩で叔母のところまで詰め寄り、彼女の胸ぐらを乱暴につかむ。目は血走っている。「俺の娘を、悪く言うな!」周囲の参列者たちは息を呑む。叔母は恐怖に顔を引きつらせる。「悪気はないよ。ただ、思ったことを……」父は叔母に怒鳴りつける。「悪気はないだと?娘がそこに眠っているのに、よくそんなことが言えるな!」高く振り上げられた拳は、迷った末、ゆっくりと下ろされた。叔母はよろめき、近くにいた人に支えられた。母は振り返り、私の墓石の前まで歩み寄る。そして袖で、墓石についた雨をそっと拭う。それから顔を上げ、親戚たちを見渡す。「娘の詩乃は頭がよくて、優しい子だった。私の人生で、一番の誇りよ」その言葉に、辺りが静まり返る。すると雪乃が前に出て、猫なで声で言う。「お母さん、そんなに悲しまないで。これからは私が、お姉ちゃんの代わりにお母さんたちを大切にするから……」母は言葉を遮る。「必要ないわ。私には詩乃だけで十分よ」雪乃の表情が一瞬こわばる。「お母さん、それどういう意味?お姉ちゃんはもう死んだんだよ。これからは私のほうがいい子になるから……」父が怒鳴りつける。「黙れ!」雪乃は親戚たちを見回し、少し声を張り上げる。「だってそうじゃない!叔母さんの言う通りよ!お姉ちゃんは生きてたって目障りだったし、今はその心臓を私に使えるんだから、よかったじゃない!どうせ死んじゃったんだから、娘は私一人で十分だよ!」母はゆっくりと雪乃の方へ向き直る。まるで、恐ろしいものを見るような目をしている。「……今、なんて言ったの?」雪乃は悪びれもせずに続ける。「お姉ちゃんが死んで、みんなにとってよかったって言ったの。これからは私一人が娘なんだから、ちゃんと親孝行……」パァン!乾いた平手打ちの音が響き渡る。雪乃の顔が横を向き、髪が頬にかかっている。彼女は頬を押さえたまま、信じられないという顔で母を見つめる。母の手はまだ、小刻みに震えてい
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第10話
「詩乃が亡くなったあと、財産のほとんどは寄付したわ。でも、あなたも私たちの娘であることに変わりはないから、治療費として使えるように信託財産を残してあるの」雪乃は二つ返事で会うことに応じた。翌日の午後、母は約束していた喫茶店に先に着いた。新しいワンピースを着た雪乃は、店のドアを開けると、迷わず母の向かいの席に座る。母はバッグから数枚の書類を取り出し、雪乃の前に差し出す。「これが信託の契約書よ。目を通してみて」雪乃は書類を受け取ると、ざっと目を通しただけで、迷うことなく署名する。書き終えると、書類を母のほうへ押し戻し、得意げに笑った。「こんなことしなくてよかったのに。お母さんが後悔するって、最初からわかってたよ。だってお姉ちゃんが死んじゃった今、私にまで何かあったら、本当に娘がいなくなっちゃうもんね」母は何も言わず、ただ雪乃を見つめている。雪乃は悪びれもせず話し続ける。「ボディガードたちの間で出回ってるあの動画、見た?途中で何度か岸に這い上がろうとしたのに、そのたびにボディガードに蹴り落とされてたんだよ。お姉ちゃん、声も出せないから、口をパクパクさせながら溺れていったの。すっごく面白かったよ。あはははは!」雪乃は声を上げて笑った。「お母さん、そんなに怒らないでよ。本当のことを話したじゃない。それに、お金ももらえたんだし、全部なかったことにしようよ。ね?これからはお父さんとお母さんに、ちゃーんと親孝行するから……」母がゆっくりと顔を上げる。「……話は終わった?」雪乃が一瞬、きょとんとする。母はテーブルの下からボイスレコーダーを取り出し、録音停止のボタンを押した。雪乃の笑顔が引きつる。「お母さん、それ……」母は立ち上がり、ボイスレコーダーをバッグにしまった。「この録音は、あなたの殺人教唆の証拠として警察に提出するわ」そう言い残し、母は背を向けて店を出ていく。雪乃は慌てて入り口まで追いかけたが、そこで突然足を止める。ドア枠に手をつき、顔が真っ青になる。もう片方の手で胸元を押さえ、肩で息をする。周囲の客たちが騒ぎ始め、誰かが救急車を呼んだ。母は店の外に立ったまま、長い間、ガラス越しに冷ややかな目で雪乃を見つめていた。3日後、警察が家にやって来て、ボイスレコーダーと私の日記
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