로그인事は深夜に起きた。
リーゼロッテは何の前触れもなく眠りから引き裂かれるように目を覚ました。五臓六腑が内側から無理やり引き裂かれているような感覚だった――それはいつもの「逆脈の暴れ」特有の鈍い痛みではない。今まで経験したことのない、焼けつくような激痛が、経脈を伝って四肢の隅々にまで走った。
これは、違う。
十九年間、自分の身体の「発作」と付き合ってきたはずなのに、今この瞬間の直感が、狂ったように警告していた――今度は、本当に死ぬ。
人を呼ぼうとしたが、声を出す力すら残っていないことに気づいた。喉の奥に錆びた鉄のような味が込み上げ、俯くと、掌に咳き込んだのは、小さな暗紅色の血だまりだった。
窓の外で夜番をしていた侍女が異変に気づき、扉を開けた瞬間、目の前の光景にその場で凍りついた――リーゼロッテは床に崩れ落ち、全身に細かく、異様な赤い紋様が浮かび上がっていた。まるで何かが、彼女の皮膚の下から、荒々しく突き破ろうとしているかのように。
「誰か! 早く辺境伯様をお呼びして!」
エルフリーデが駆けつけた時には、リーゼロッテの意識はすでに朦朧としていた。
「持ちこたえろ」エルフリーデは彼女を床から抱き上げ、指先を極限まで乱れた脈に当てた瞬間、瞳孔が鋭く収縮した――これはもはや、ただの「逆脈の暴走」ではない。体内のあの力は、まるで自壊するかのような勢いで暴れ狂っている。何か外部の力が、この発作を強制的に触媒しているとしか思えなかった。
「今夜、誰が彼女に何かを使った」エルフリーデの声が一気に鋭くなり、視線が部屋中の者たちを射抜いた。
侍女は全身を震わせながら答えた。「夕餉の前に……侯爵家から使いの者が『安眠香』を届けて参りました。侯爵夫人様が特に、奥方様のご入眠のためにと……侯爵家からの品でしたので、言われた通り、香を焚いてしまい……」
エルフリーデの顔色が一瞬で凍りついた。
**安眠香。**内服の薬ではない。吸引式――「鎖脈散」よりもはるかに巧妙で、事後に証拠を辿ることも難しい手段だった。これまで検めてきたあらゆる書状や薬材は、すべて「内服」にしか警戒していなかった。この一手だけが、完全に見落とされていた。
侯爵家は今回、本気で命を狙ってきた。
「ホルトンを叩き起こせ!」ほとんど意識を失いかけたリーゼロッテを抱き上げ、大股で部屋を飛び出しながら叫んだ。「もし少しでも隠し立てするなら、今夜二度と娘に会えぬと思え、と伝えろ!」
書斎に無理やり連れてこられたホルトンは、まだ眠りから完全に覚めきっていなかったが、リーゼロッテの様子を一目見た瞬間、顔面蒼白になった。
「これは……『引燃香』です!」声が震えていた。「引燃草を精製した香の変種で……逆脈の暴走を加速させるためだけに作られたものです! 属下は……属下は本当に、この処方を提供したことなど一度も……これは私が調合した薬ではございません!」
「では誰だ」エルフリーデの声は、一語一語、抑えきれない冷気を帯びていた。
ホルトンの全身が激しく震え、何かを思い出したかのように声を上げた。「そ、それは……侯爵家のもう一人の薬師、ソフィー殿です! あの方は……侯爵夫人様付きの、嫁入り道具として連れてこられた女医――香毒の術に精通した方です! 属下が担当していたのは『鎖脈散』のみで、香毒の分野には一切関わっておりません――侯爵様は今回、恐らく……恐らく最初から、奥方様を生かして帰すつもりなど、なかったのでは……」
生かして帰すつもりなど、なかった。
その一言は、氷水のように、その場の全員の胸に叩きつけられた。
エルフリーデは、腕の中ですでに意識を失い、息も感じ取れぬほど微かになったリーゼロッテを見下ろした。蒼白な顔には奇妙な紅潮が広がっているが、唇の色は目に見える速さで失われつつあった。
「あと、どれくらい持つ」
ホルトンは冷や汗を滴らせながら、震える声で答えた。「引燃香の薬効は……もって、あと一刻。その間に、体内の力を発散させる出口が見つからなければ……経脈が完全に崩壊します」
「解毒の方法はあるのか」
「ございません……本当に、ございません! これは『封じる』という範疇の話ではないのです。無理やり体内の力を爆発させてしまうものであり、唯一の方法は……その力を完全に解き放つことです。抑え込み続けることではありません――しかし奥方様は、これまで一度も自らその力を能動的に操ったことがなく、今はこのように意識も朦朧としている。この状態で、どうやって自力で覚醒を成し遂げよと言うのです……!」
部屋は、死んだように静まり返った。
エルフリーデは俯き、腕の中の――たった三ヶ月の間に、「踏みつけられるだけの捨て駒」から、少しずつ自分の目をまっすぐ見返すようになったこの娘が、今、一寸また一寸と、死の淵へと滑り落ちていくのを見つめていた。
昨夜、リーゼロッテが口にした「私たちは、ただ受け身で相手の出方を待つべきではないかもしれません」という言葉が、ふと脳裏をよぎった――あの、ようやく光を宿し始めた瞳。
このまま黙って見ているわけにはいかない。
「ホルトン、出て行け。動かせる薬材はすべてこの机の上に並べろ」エルフリーデの声には、初めて、抑えきれない掠れが混じっていた。「カスパー、直ちに黒騎士団の動員できる全員を集め、屋敷全体を包囲しろ――今夜、侯爵家の方角から来る者は、誰であろうと斬り捨てて構わない」
彼女は俯き、額をほとんどリーゼロッテの熱く火照った額に押し当てながら、極めて低い声で――相手に語りかけているのか、それとも自分自身に言い聞かせているのか分からぬまま、呟いた。
「お前が、ようやく『生きていていい』と信じ始めたその矢先に――こんなところで死ぬことは、私が許さない」
三度目の鐘が、胸骨の奥まで響いた。リーゼロッテの足が、勝手に床を蹴った。扉へ、廊下へ、外へ。手首に絡んだ赤い糸が、見えない手に引かれるように、ぴんと張りつめている。「待て」帯が引かれた。結ばれた手首の先で、エルフリーデが踏みとどまっている。額に汗が滲み、歯を食いしばっていた。「放してください。このままだと、あなたまで」「放しません」「エルフリーデ」「その名前は、さっき、あなたが手のひらに書いてくれたものです」エルフリーデの声は低く、揺れていなかった。「覚えている理由が、それしかない。だから、書いてくれた人と一緒に行きます。理由は、それで足ります」リーゼロッテは、唇を噛んだ。反論の言葉が、どこにも見つからなかった。「私も行くわ」廊下の端から、ミレイユが言った。外套を羽織り、帽子はもう被っていなかった。「首領が、あそこにいる。娘が行かなくて、誰が行くの」カスパーが何か言いかけて、飲み込んだ。それから、短く頷いた。「広間と六人は、私が守ります。お戻りを」北の塔は、夜の中で、前よりずっと大きく見えた。崩れた頂の縁から、黒い空が覗いている。入口の石は、誰かが磨いたように滑らかだった。螺旋階段に足を載せた途端、段の溝が、かすかに光った。「数えます」エルフリーデが、先に口を開いた。「前に、あなたが私にそうしてくれたと、ミレイユさんから聞きました。今度は、私が」「あなたが、数えるのですか」「ええ。一」足音が、石に落ちる。「二。三。四」声が、少し掠れている。「五。六。七。……八」そこで、止まった。「次は、何でしたか」階段の途中で、エルフリーデが立ち尽くしていた。眉間に、困惑の皺が寄っている。「数字が、落ちました」「九です」「九。そうでした」エルフリーデは、悔しそうに息を吐いた。「あなたの名前は覚えているのに、数が」「いいんです」リーゼロッテは笑った。涙が、一粒、笑いと一緒にこぼれた。「私が、そばで言います。九。十」「十一」「合っています」「あなたが言ったからです」「それでいいんです」手首の帯の先で、二人の脈が、互いの数に合わせて、ゆっくり落ち着いていく。後ろを歩くミレイユが、何も言わずに、背を向けた。頂の広間は、前に来た時と、様子が変わっていた。崩れた床の縁に、板が渡されている。中央の石台の上に、黒い石
ランプに火を入れる手が、震えていた。マッチを擦り損ねて、三度目でやっと芯が灯った。橙の光が、寝台の上の人影をぼんやり照らす。エルフリーデは上体を起こしたまま、リーゼロッテの手首を握っていた。握っている自分の手を、他人のものを見るような目で見下ろしている。「あの、失礼ですが」静かな声だった。怯えてはいなかった。ただ、ひどく丁寧だった。「あなたは、どなたでしょうか。それと、この手は、なぜ離れないのでしょう」喉の奥が、焼けるように痛んだ。それでもリーゼロッテは、泣かなかった。ヘレナさんは、毎朝、泣かなかった。毎朝、墨を磨った。「手を、貸してください」「手を」「左手を。掌を上にして」エルフリーデは言われた通りにした。リーゼロッテは寝台の脇の小卓から、墨壺と細い筆を取った。指先が震えて、筆先が一度、紙の上で跳ねた。深く息を吸って、掌の中央に、筆を落とす。エ。ル。フ。リ。ー。デ。払いが、右へ流れた。書き終えて、息を吹きかけて乾かす。エルフリーデは、掌に並んだ文字を、じっと見つめた。「エル、フリー、デ」つかえながら、一音ずつ読む。「これが、私の名前ですか」「はい」「あなたは」「リーゼロッテです。あなたの」言葉が、一瞬詰まった。「あなたの、妻です」エルフリーデの瞳が、わずかに見開かれた。「妻」繰り返してから、ゆっくり、リーゼロッテの手首を握ったままの自分の手に、視線を移した。「それは、困りました」「え」「覚えていないのに」エルフリーデは、少しだけ首を傾げた。「離したくない、という気持ちだけが、ここに、はっきりあります」リーゼロッテの目から、涙が一粒、こぼれた。エルフリーデが、はっとした顔をした。「泣かないでください」「泣いていません」「泣いています」エルフリーデは、空いた手で、頬の涙を探った。指先が、触れるか触れないかの強さで、涙の跡をなぞる。「あなたが泣くと、胸が痛みます。理由は、分かりません。ただ」「ただ」「あなたが泣く理由を、私が作ったのなら、止めたい。作っていないのなら」エルフリーデの灰色の瞳が、静かに細くなった。「作った人間を、斬りたい」その言い方が、あまりに記憶を失う前のままで、リーゼロッテは、泣きながら、笑ってしまった。「斬らないでください」「なぜ」「相手は、遠くにいます」「遠くても、行きます
首領の筆跡を、ミレイユは長いこと見つめていた。名の広間の隅で、リーゼロッテは息を殺してその横顔を見ていた。「娘を、頼む」と、紙の下端に細く添えられた一行。ミレイユの指が、その字の上でぴたりと止まっている。「娘、ね」声が乾いていた。「あの人が、私をそう呼んだのは、生まれて初めてよ」エルフリーデの視線が、ミレイユの顔に移った。「あなたが、首領の」「ええ。ヴェルナーは、異母の弟」ミレイユは紙を折りたたんだ。指先がわずかに震えている。「十五のとき、荊眸を捨てたの。三百年の復讐より、一人の手を選んだ。父は、それを許さなかった。以来、一度も、名前を呼ばれなかった」「それなのに」「それなのに、よ」ミレイユは笑った。唇だけが、歪んだ。「死ぬつもりなのね、あの人。塔の上で」リーゼロッテの喉が詰まった。三日後の夜明け。ヴェルナーは、父の首を礎の前で落とすと言った。首領は、それを知っていて、娘に宛てた一行を、封筒の隅に忍ばせたのだ。「行きます」ミレイユが言った。「アウローラという名前を、もらったばかりだけれど」「一人では」「分かってる。だから、あなたたちに頼むの」ミレイユは、リーゼロッテの手を取った。冷たい指が、ぎゅっと力を込める。「助けて。あの人を、死なせたくない」初めて聞く、頼む声だった。その夜、リーゼロッテは、エルフリーデの手首を、帯でもう一度、自分の手首に結んだ。「必要ありません」エルフリーデは言ったが、手は引かなかった。「あなたの手首は、私が握っています」「それでも、結びたいんです」「では、お好きに」低い声が笑いを含んでいた。結び目を整える指先が、少しだけ、丁寧すぎる。寝台の上で、二人は並んで横になった。天蓋の闇を見上げる。隣の呼吸が、近い。肩が触れて、肘が触れて、掛け布の下で、足先が、ほんの少し擦れた。「リーゼ」「はい」「夢を、見たんです。昨日の夜」「どんな」「あなたが、私の名前を呼んでいました。エルフリーデ、と。それだけなのに」エルフリーデは、ゆっくり息を吸った。「呼ばれるたびに、胸の奥から、何かがせり上がってきて。目が覚めたとき、頬が濡れていました」リーゼロッテは体を横に向けた。暗がりの中に、おぼろげな輪郭がある。「私は」言いかけて、喉が詰まった。何を言えばいいのか、分からなかった。エルフリーデの手が、
灰色の外套の男は、急がなかった。靴音を石の床に落としながら、広間の中央まで歩いてくる。両脇の兵が剣を抜こうとしたが、男が片手を上げただけで、動きが止まった。兵の足元に、細い赤い糸のようなものが、いつの間にか絡みついている。「動かないほうがいい。名の糸は、ここの礎と繋がっている。切れば、壁が欠ける」声は若かった。三十に届かないだろう。首領とよく似た赤い瞳をしていた。「ヴェルナー」ミレイユが低く呟いた。「あの人の息子よ」「そう。覚えていてくださって光栄です、前の巫女様」男は軽く頭を下げた。礼儀正しいのに、目だけが笑っていない。右手の指に、小さな黒い欠片を摘んでいた。爪ほどの大きさで、赤い筋が脈打っている。国王の胸から抜けた、名の三分の一だった。「返してください」自分の声が、思ったより強く出た。リーゼロッテは一歩前に出た。エルフリーデの手が、まだ手首を握っている。指に、少し力がこもった。「それは、エルフリーデが私の名を預けていたもの。彼女のものでも、あなたのものでもない」「あなたの名だ」ヴェルナーは欠片をかざした。「あなたの名を、三つに割った一つ。つまり、あなたの一部を、私が握っている」背筋に、冷たいものが走った。「どういう意味ですか」「こういう意味です」ヴェルナーが、欠片を握り込んだ。その瞬間、リーゼロッテの足が、勝手に動いた。一歩。もう一歩。自分の意思ではなかった。膝から下が、見えない糸に引かれるように、前へ出る。「リーゼ!」エルフリーデの声が、背後で跳ねた。足が止まらない。床の円の外へ、ヴェルナーのほうへ、体が引っ張られていく。喉の奥で、息が詰まった。声を出そうとして、出ない。名前を握られると、声まで握られるのだと、体が理解した。そのとき、手首に、強い痛みが走った。エルフリーデが、後ろから、両手で掴んでいた。左手首。脈の上。あの日と同じ場所を、折れそうなほど強く。「行かせない」低い声だった。喉の奥から絞り出すような。「あなたの名前は、全部は思い出せない。でも」足が、ほんの少し、止まった。「あなたの手首の握り方は、全部、覚えています」指が、脈を押さえ込んだ。力は強いのに、痛みの底に、温度があった。「脈が乱れているな」その一言で、足首の糸が、ぷつりと緩んだ気がした。ヴェルナーの眉が、わずかに動いた。「
広間に集まった七人は、誰もが所在なげに立っていた。壁の前に、輪を作るための白い石の円が、床に描かれている。七つの手形が、等間隔に刻まれていた。リーゼロッテは、その一つ一つに目をやった。アリは叔母の袖を握っている。トビアスは、小さなミナを背中に隠すようにして立っていた。老漁師は壁の名を見上げて、口を半開きにしている。リオは、母のエルナの手を両手で包んだまま、決して離そうとしなかった。手形は七つ。人は、六人と、一人。壁際に、ミレイユが立っていた。帽子を外した銀の髪が、肩に落ちている。「入れないと、思う」彼女は先に言った。「輪は、名を呼ばれた者の手で繋がる。リーゼロッテが記憶を持つ者として、一人ずつ名前を呼ぶ。そうして初めて、手形が応える。私には、呼ばれる名がない」「ヘレナさんが覚えていたのは」「消えたわ。壁から」声は静かだった。その静けさが、胸に重かった。リーゼロッテの隣で、エルフリーデが、ごくわずかに身を寄せた。背中に、手のひらの温度が当たる。触れているのか、いないのか、分からないほどの距離だった。「白い部屋へ行きましょう」リーゼロッテは言った。ミレイユの肩が、びくりと揺れた。「会えば、また、他人の顔をされる」「はい」「そのたびに、私は」「他人の顔をされても、手が覚えています」エルフリーデが言った。低い声だった。「私は、そう教わりました」ミレイユは、長いこと、エルフリーデの顔を見つめていた。それから、小さく頷いた。白い部屋の窓から、朝の光が細く入っていた。ヘレナは卓に向かって、ゆっくりと茶を飲んでいた。三人が入ると、静かに頭を下げた。「いらっしゃいませ。今朝は、お客様が多いのですね」ミレイユは、扉の脇で立ち尽くしていた。喉が、何度も動いている。ヘレナは、その顔をじっと見た。「あなたは、いつも、窓の外にいらっしゃった方では」「……ええ」「ご挨拶が、遅れて、すみません。お名前を、まだ伺っていませんでした」ミレイユは、唇を噛んだ。「名前は、ありません。今は」「あら」ヘレナは、首を傾げた。「それは、お困りでしょう。毎朝、手のひらに書こうにも、書く名がないのですから」ミレイユの目が、見開かれた。ヘレナは、卓の上の墨壺の蓋を開けた。細い筆に墨を含ませて、静かに言った。「もしよろしければ、僭越ながら、私が、つけてもよ
名の広間に入った途端、リーゼロッテは冷たい石の粉の匂いを嗅いだ。壁の下の床に、白い石屑が散っていた。見上げると、壁のあちこちが鑿で抉られたように削れている。刻まれていたはずの細かな文字が、ところどころ丸ごと消えていた。「四十ほどです」宰相が、震える指で数えた。「削られたのは、礎の中でも古い名ばかりです」国王は壁の前に立っていた。外套の胸元を、片手で握りしめている。顔色は白蝋のようだった。「陛下」「大丈夫だ」大丈夫には見えなかった。握った手の下で、何かが脈打っている。外套の隙間から、赤い光が漏れていた。エルフリーデが一歩前に出た。「胸が、痛むのですか」「君の名だ」国王は絞り出すように言った。「壁が削られるたびに、これが引かれる。誰かが礎から、名を引きずり出そうとしている」「引き出されたら」「預かり主の私から、剥がれる。奪われる」エルフリーデの眉が険しくなった。「返してください。今すぐ。奪われるくらいなら」「それはできない」国王は首を振った。「今抜けば、礎の穴を塞げずに、結界がその場で割れる」「ですが」「君の名を守るために、国を割ることはできない。分かってくれ」エルフリーデは唇を結んだ。握りしめた拳が震えている。リーゼロッテはその拳に、自分の手を重ねた。「七つの手を集めます」「リーゼ」「期限は、三日後に縮まりました。それでも間に合わせます」拳が、ほんの少しだけ、ほどけた。広間を出る前に、リーゼロッテは壁の一角で足を止めた。ヘレナ。ミレイユ。並んだ二つの名のうち、ミレイユの側が削られていた。白く抉れた溝が、字の形を失っている。背筋が凍った。「白い部屋へ」エルフリーデが、すぐに頷いた。白い部屋の扉を開けると、ヘレナは窓辺に座っていた。いつもと同じ、背筋の伸びた姿勢だった。けれど卓の上の墨壺は、蓋を閉じたままだった。「おはようございます」彼女は丁寧に頭を下げた。「おはようございます。今朝は、お書きにならないのですか」ヘレナは自分の両手を見下ろした。左の掌が、白かった。「それが、おかしいのです。いつも通り墨を磨ろうとしたのに、手が動かなくて。何を書こうとしていたのか、思い出せなくなってしまって」窓の外に、銀色の影があった。つばの広い帽子の下で、ミレイユが立ち尽くしている。庭師の鋏が足元に落ちていた。ヘレナが