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第184話

Author: 花野めい
この時間なら、義景の誕生会はまだ終わっていないはずだ。それなのに、どうしてここに?

「あれ、酒井社長じゃありませんか?」

研も由樹に気づき、何かを思い出したように尋ねた。

「先ほどのインタビューで、村上千歳さんとのご結婚を発表されていませんでしたか?」

足早に去っていく男は、研が三久の腰に添えた手に、ちらりと視線を落としていた。

その後ろ姿が完全に見えなくなった頃、三久の思考はようやく現実に戻ってきた。

彼女はとっさに研の体を押しのけた。

「あっ、すみません。さっきはとっさのことで」研の手は数秒間宙に浮いたまま止まり、それからばつが悪そうに引っ込められた。

三久は服の裾を軽く整えると言った。「ありがとうございました。それじゃあ、また」

先に踵を返した彼女は、車に戻ると依果に電話をかけた。

しかし呼び出し音が続くばかりで、なかなか出ない。

三久の胸に、少しずつ不安が込み上げてくる。

やがて、着信が自動的に切れる寸前、ようやく依果が電話に出た。

「依果ちゃん、何かあったの?」

電話の向こうは少し騒がしく、依果は声を抑えて言った。「おじいちゃんが急に体調を崩して、
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  • 社長の子じゃありません――でも、逃がしてもらえない   第184話

    この時間なら、義景の誕生会はまだ終わっていないはずだ。それなのに、どうしてここに?「あれ、酒井社長じゃありませんか?」研も由樹に気づき、何かを思い出したように尋ねた。「先ほどのインタビューで、村上千歳さんとのご結婚を発表されていませんでしたか?」足早に去っていく男は、研が三久の腰に添えた手に、ちらりと視線を落としていた。その後ろ姿が完全に見えなくなった頃、三久の思考はようやく現実に戻ってきた。彼女はとっさに研の体を押しのけた。「あっ、すみません。さっきはとっさのことで」研の手は数秒間宙に浮いたまま止まり、それからばつが悪そうに引っ込められた。三久は服の裾を軽く整えると言った。「ありがとうございました。それじゃあ、また」先に踵を返した彼女は、車に戻ると依果に電話をかけた。しかし呼び出し音が続くばかりで、なかなか出ない。三久の胸に、少しずつ不安が込み上げてくる。やがて、着信が自動的に切れる寸前、ようやく依果が電話に出た。「依果ちゃん、何かあったの?」電話の向こうは少し騒がしく、依果は声を抑えて言った。「おじいちゃんが急に体調を崩して、血圧が急上昇したの。病院に運んだところ。みくさん、どうして知ってるの?」先ほどは救急隊員たちの動きが慌ただしく、三久はストレッチャーに横たわっているのが誰なのか、はっきり見えていなかった。「病院にいるの」彼女は少し沈んだ声で言った。「駐車場にいるから、まだ上には行かない。おじいちゃんに何かあったら、いつでも連絡してね」依果は何度も相づちを打った。「そんなに心配しなくても大丈夫。大したことはないみたい。先生の見立てだと過労が原因だって。もう高齢だからあまり無理させたくないのに……全部お母さんのせいよ。わざわざ誕生パーティーで、お兄ちゃんと千歳の結婚を発表するなんて言い出すから……」彼女はぶつぶつと不満をこぼし続けた。通話が終わっても、三久は車から動かなかった。三十分ほど経った頃、依果からメッセージが届いた。義景の血圧が下がったという。やはり年齢的に無理がきかないだけで、医師の指示で二日間ほど入院して経過を観察したのち、自宅で静養することになったようだ。親族たちは皆、胸を撫で下ろした。潔子は義景の病床のそばに付き添っていた。「みんな帰りなさい。私

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    あいにくタイミングが悪く、担当医は回診中ですぐには戻れないとのことだった。代わりに同じ科の別の医師が歩み寄ってきて言った。「何かご質問があれば、私にどうぞ」三久は病状について尋ねるのは控えた。この医師が愛菜の担当というわけではないからだ。「これから毎月の医療費が、だいたいどのくらいになるか知りたいんです」「寛解導入療法の段階なら、保険適用外の薬もあるため、費用は百万円から百三十万円くらいのはずです。その後の地固め療法の段階に入れば、月に四十万円ほどで十分足りると思いますよ」医師はそう説明した。三久は思わず眉をひそめた。「でも私たち、今月はもう四百万円払っていて、それを使い切っているんです」「え?」医師は驚いた顔をした。「それは……もしかしたら治療方針が、私の患者さんとは違うのかもしれませんね」そう言うと、その医師は机の上の書類を手に取った。「担当医が戻ったら、直接聞いてみてください。私はこれで失礼します」「ありがとうございました」三久はそのまま診察室で待ったが、三十分以上経っても担当医は戻らなかった。研が病院に着いたと連絡があり、三久は仕方なく診察室を出て、研の母の病室へ向かうことにした。研は入院病棟のエレベーター横で待っていた。三久が差し入れを手にしているのを見て、彼は申し訳なさそうな顔をする。「わざわざ気を遣わせてしまって。僕のほうでもう用意してあるんですけど」三久が彼の指す方向を見ると、病室の入り口にすでに差し入れが置かれていた。「目上の方なんですから、これくらい用意するのは当然ですよ」研は両手に差し入れを提げて病室に入った。三久が来ると知って、研の母は身支度を整えていた。数日会わないうちに、彼女はひとまわり痩せ、頬もこけている。それでも、「祝い事」を前にした高揚感からか、見たところ、思ったより元気そうだった。「おばさま、こんにちは」三久が近づくと、研の父がすぐに椅子を引いて彼女の隣に置いた。「おじさま、そんなに気を遣わないでください」研の父は微笑むと、少し離れたところに立った。「早坂三久さんだよね?先生を探してくれたこと、本当に助かったよ」研の母は、三久と研の様子を見比べながら、目を細めて満足そうにしていた。「たいしたことはしていません。おばさま、どうか気になさら

  • 社長の子じゃありません――でも、逃がしてもらえない   第182話

    母娘は控室を後にし、足早に宴会場へと向かった。会場はすでに熱気に包まれている。義景と潔子が階下に姿を見せ、祝辞を受けているところだった。隆が一言挨拶を述べたあと、主役の座を摩美に譲った。深紅のドレスをまとった摩美は、満面の笑みを湛えていた。「今日は我が家にとって、喜びが重なる特別な日です。おじいさまの誕生日にあわせて、もうひとつ嬉しいご報告がございます。由樹と千歳の結婚式を、八月二十六日に執り行うことになりました。皆様、どうぞご出席くださいませ」会場がどよめき、祝福の声が次々と沸き起こる。由樹のもとには次々と人々が集まり、グラスを合わせた。「社長、おめでとうございます!」「おめでとう!」由樹はワイングラスを手に、気品ある顔にうっすらと笑みを浮かべていた。だが、その笑みは目元までは届いていない。「どうも」その光景を見届けた千歳は、宴会場の入り口で幸子の腕を引いた。「お母さん、もうその話はやめて!」幸子は、どうにも怒りが収まらない様子だった。「やめてどうするの?あのジジイとババアときたら、三久のことばかりを可愛がって、あなたなんて眼中にないじゃない!子どものことだって、はっきりさせないまま式を挙げるべきじゃないでしょ!」幸子は千歳の腕を引き、会場の中へ戻ろうとする。千歳は必死にそれを押しとどめた。「お母さん!由樹さんに嫁ぐこと以上に大事なことなんてないの!こんなに人がいる前で酒井家の顔に泥を塗るような真似をしたら、この縁談自体が破談になってしまう!」その言葉に、幸子もいくらか冷静さを取り戻したようだった。壇上で注目を浴びている摩美へ目をやった。「そうね……摩美さんは世間体を何より重んじる人だもの。パーティーが終わったら、お母さんが改めて聞いてみるから」千歳は頷き、乱れた髪をそっと手で整えた。「お母さん、お化粧崩れてない?見て」「大丈夫、崩れてないわ。うちの娘が一番きれいなんだから」幸子は千歳の耳にかかったおくれ毛を優しく整えた。千歳は背筋を伸ばして会場へ足を踏み入れると、由樹のもとへ歩み寄り、その腕にそっと自分の腕を絡めた。二人で並び、祝福を受け続けていた。……三久はライブ配信を眺めていた。カメラは由樹と千歳の姿を映し出している。二人の結婚式は、三久の出産予定日よりも

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    潔子は軽く二度咳払いをして、何事もなかったかのように平静を装い、話をそらそうとする。「このプレゼント、おじいちゃんもきっと気に入るわ。早く開けてみましょう」義景も自分の言い間違いに気づき、潔子に調子を合わせた。「おお、見てみよう」彼はプレゼントを受け取り、丁寧な包装を開けていく。千歳は唇を軽く噛み、隣に立つ由樹をちらりと見る。「座れ」由樹は薄い唇を開き、短くそう言った。義景の言い間違いに本当に気づかなかったのか、それとも潔子と同じように誤魔化しているのか、それはわからない。千歳の心は激しく揺れ動いていた。これまで三久は、彼女にとってずっと目の上のたんこぶだった。だが今や、胸に突き刺さった棘のような存在にまでなっている!その棘は彼女の胸の真ん中に突き立ち、触れなくてもじくじくと痛むのだ。「おじいちゃんおばあちゃん、みくさんは――」休憩室がようやく静まりかけたところで、三久の名前を口にしながら、依果がドアを開けて入ってきた。千歳がいるのに気づき、彼女の声はぴたりと止まる。室内が一瞬静まり返った。「まったく、いつもそうやって騒々しく入ってきて」潔子が依果に目で合図をする。「早くこっちに来て、おじいちゃんが千歳のプレゼントを開けるのを手伝ってあげて」依果は喉元まで出かかった言葉を飲み込み、「うん」と小さく答えると、義景のそばへ寄ってプレゼントを開けるのを手伝った。千歳が贈った誕生日祝いは、七桁もする茶器一式だった。深い藍色を基調に、金箔で縁取られ、花模様が施されており、ひと目で高価とわかるものだ。だが、義景にとって一番不必要なものといえば、まさにお金で買えるような贅沢品だった。これと同じような、いや、それ以上に価値のある茶器なら、家にいくらでもある。それでも義景は千歳の顔を立てて言った。「本当に見る目があるのう」「家に帰ったら飾りましょうね」潔子がにこやかに相槌を打つ。千歳は胸の奥に苦いものを感じながらも、顔には笑みを浮かべた。「おじいちゃんに気に入ってもらえて、よかったです」「依果、しまっておいてくれ」義景が贈答箱を依果に渡す。依果は包装を戻し、ティーテーブルの上に置いた。それから休憩室はまた静けさに包まれ、その静けさの中に気まずさが広がっていく。「用事があ

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    妖艶な顔に、ご機嫌を取るような笑みを浮かべている。「神崎社長」三久は手を引き抜いた。「何か用ですか」洲人はばつが悪そうに笑う。「その、謝りたくてさ。俺は面白がって見ていただけかもしれないけど、それでも君を助けたことにはなるだろ?この前の村上の件、俺が……」「ありがとうございました」三久はそう遮ると、階段を二段下りて、彼との距離を広げた。「もし『ありがとう』の一言じゃ助けてもらった分に見合わないと思うなら、もう助けてくれなくて結構です」感謝の言葉以外に、今の彼女には洲人に返せるものが何もないからだ。洲人はその言葉の裏に込められた意味を聞き取り、いっそう気まずくなった。「面白がって見物してたのは、さすがに褒められたことじゃないってわかってるけど、でもさ、面白そうなことは、見られるうちに見ておかないと損だろ……おい、待てって!」洲人が言い終わる前に、三久はさっと背を向けて歩き出していた。「おい、ゆっくり行けって、気をつけろよ……」三久が階段を駆け下りていくのを見て、洲人も内心ひやりとする。三久は彼の言葉に取り合わず、足早に駐車場へと向かった。洲人はその後ろ姿をしばらく見送り、やがて舌打ちをして引き返す。彼は本当に、三久に対して悪いことをしたと感じていた。その分、これからほかのことで埋め合わせようと思った。「神崎さん、またうちの三久に何したの!」依果がその一部始終を目撃し、思わず飛び出して洲人を問い詰めた。洲人はびくりと震える。「き、君……一体どこから現れたんだ?」「言っとくけど、これからも彼女をいじめたら、私、絶対許さないから!」依果は本来、二人の間のことに口を出すべきではないとわかってはいたが、それでも三久の肩を持たずにはいられなかった。「うちのおじいちゃんとおばあちゃんはみくさんのこと、すごく気に入ってるんだからね!これ以上いじめたら、酒井家を敵に回すことになるんだから!」洲人の口元がひくつく。「いや、このところずっと俺のことを調べてたのは、俺が三久をいじめてると思ってたからか?」依果の表情が一瞬固まる。――洲人を調べていたことが、ばれた?「言っとくけど、本当に三久を苦しめてるのはな……」洲人は一段ずつ階段を上り、依果のそばまで来ると、追い詰めるように彼女をホテルの中へ

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    宴会場では、由樹が動くたびに自然と人の輪ができた。財界の重鎮たちと和やかに言葉を交わしながらも、次々と彼のもとへ挨拶に訪れる客が途切れることはない。「由樹さん」千歳が横に歩み寄り、親しげに腕を絡めてきた。由樹の腕が一瞬だけわずかに固まったが、すぐにふっと力が抜けた。「ちょうどよかった、紹介しよう。こちらは金子(かねこ)会長だ」千歳は由樹にぴたりと寄り添いながら、愛くるしい笑顔を向けた。「金子様、父からお噂はかねがね伺っております。今日ようやくお会いできて光栄です」「千歳ちゃんが小さい頃、抱っこさせてもらったことがあるんだよ……」金子会長は千歳と和やかに言葉を

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    三久は足を止めた。静かに息を飲み込んで、表情が少しずつ固まっていく。「どういうことですか?」哲朗には事情がまったくわからない。「早坂さんが本社に戻りたいってことじゃなかったんですか?」三久はかぶりを振った。「違います。退職を申し出に来たんです」哲朗が目を丸くした。「退職?なぜですか!」「個人的な理由です」三久は端的に答えた。「本社への異動、撤回できますか?」「撤回するにも社長の許可が必要ですし……」哲朗は困り顔だ。三久はこめかみを指で押さえた。じわじわとした絶望的な無力感が込み上げてくる。哲朗がなだめるように言った。「年末は会社が一番

  • 社長の子じゃありません――でも、逃がしてもらえない   第6話

    依果は口では「わかった」と言いながら、部屋を出ていく摩美の背中に向かって、思いきり舌を出した。――千歳が由樹の腕を取ってダイニングへ向かう残酷な場面が、三久の頭から離れなかった。あれは、見るんじゃなかった。帰り道、冷たい夜風を浴びながら少し正気を取り戻した三久は、途中の店で温かい食事を食べてからアパートへ帰った。それから数日、由樹と千歳に関する華々しいニュースが連日のように報じられていた。もどかしかったのは、肝心の退職手続きにまだ何の動きもないことだ。人事部で顔のきく大島沙織(おおしま さおり)に電話をして事情を聞いてみた。驚いたことに、沙織は三久が退職を申し出

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