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第195話

作者: 花野めい
由樹は数秒の沈黙のあと、低い声で言った。「俺と比べてどうだ」

彼も料理をすることがある。回数は多くないが、三久にとっては強く印象に残っている経験だった。

「もちろん、社長には及びません」

彼女は穏やかな微笑みを浮かべたが、その言葉の端々に、由樹と研に対する心理的な距離の違いが、はっきりと表れていた。

由樹の表情に、うっすらと不機嫌の色がにじむ。

十七階でエレベーターが止まり、三久が先に降りた。

彼女が手にしていた弁当箱が、ひどく目障りに感じられた。

エレベーターの扉が閉まると、由樹の眉間に皺が寄り、その漆黒の瞳の奥に、暗い情念が揺らめいた。

三久は弁当箱を返すことを口実に、研に会う約束を取りつけた。

【今夜、宴会場で会いましょう】

研は今夜、慶一に付き添って宴会に出席することになっていた。

午後三時、三久は村上家に着き、千歳を迎えに行った。

千歳は淡いグリーンのワンピースを身にまとい、薄化粧をして、名家の令嬢らしい気品を漂わせていた。

それに対して三久は、黒のワンピースを着ていたが、以前のようなタイトなものではなく、ゆったりとしたシルエットで、お腹のふくらみを
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    由樹の視線は、まっすぐに研へと向けられた。だが由樹は、無関心を装うように言った。「そうか、知らないな」言い終えると、彼は外へ向かって歩き出す。「社内では持ちきりの噂よ。由樹さん、まさか知らなかったなんてことないでしょう?」千歳は足早に由樹について歩いた。だが、彼女がどう言っても、由樹はごく短い言葉でしか返さなかった。「知らない」「分からない」「そうか」。数分後、二人は車に乗り込んだ。三久がエンジンをかけ、車は夜の流れの中へと入っていく。車内は静まり返り、由樹の体からうっすらと漂うタバコと酒の匂いが、次第に車内に満ちていった。彼は相変わらず窓側の席に座り、車窓を流れていく夜景へ視線を向けていた。「早坂さん」千歳が先に沈黙を破った。三久はバックミラーに目をやる。「はい、何でしょうか」「あなた、ミクロ社の人と付き合ってるって聞いたけど、本当なの?」千歳は、どこか探るように由樹の表情をうかがっていた。三久は、まさかこんな私的な質問をされるとは思っていなかった。彼女が密かに由樹の顔色を窺っている様子に気づき、三久は少し考えてから言った。「まだそんな関係ではありません」どちらとも取れる返事だったが、千歳の耳には、恋人関係を隠すための照れ隠しに聞こえた。「つまり、まだ公にはしていないってこと?」信号待ちで、三久はブレーキを踏む。時間が刻一刻と過ぎていき、青信号に変わる直前、三久は小さな声で「ええ」と、曖昧に返事をした。望んでいた答えを得た千歳は、満足げに微笑む。「さっきその人を見かけたけど、結構カッコいい人ね」由樹は黙り込んだままだったが、息が詰まるような重苦しさが車内に広がっていった。千歳はそれに気づかない。だが三久は、まるで少しずつ呼吸を奪われていくような、息苦しさを覚えた。彼女は千歳の言葉に調子を合わせた。「そうですね」「そうでしょう」千歳はそう言うと、由樹に向かって微笑んだ。「もちろん、由樹さんほどではないけどね」三久は頷く。「確かに、社長には及びません」由樹は喜怒哀楽を一切見せず、相変わらず窓の外を見つめたまま、二人の会話に何の反応も示さなかった。千歳は面白くなかった。三久がおざなりに受け答えしているのが伝わってきたし、由樹まで何も反応を示さないこ

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    もはや半ば諦めかけていた千歳の迷いは、これで完全に吹っ切れた。彼女は再びスマホを取り出し、電話をかけた。「三久のお腹の子が誰の子か、絶対にはっきりさせて!」向こうで少しの物音がしたあと、男の声が聞こえてきた。「俺は彼女の私生活まで何でも把握しているわけじゃない」「全部こっちで手配するから、そのときは私の言う通りにして。まずは帰国して!」千歳は窓辺に立ち、降りゆく夜の帳を見つめていた。外の漆黒の闇でさえ、彼女の瞳の奥に渦巻く冷たい陰鬱さには及ばなかった。……このところ、研は毎日三久にメッセージを送ってきていた。気温が変われば知らせ、朝には【おはようございます】、夜には【おやすみなさい】と。三久は少し頭が痛くなり、昼休みに亜衣里を誘って一緒に食事をすることにした。亜衣里は三久を見るなり、にこにこと笑みを崩さなかった。「早坂さん、私たち、もうすぐ身内になるのよね?」「大野さんのことで、ちょっと話したかったんです」三久は彼女に座るよう促す。亜衣里の口ぶりからすると、二人の仲はもうほとんど決まったことのように思っているらしい。「どうしたの?」亜衣里は三久の態度が思っていたのと違うことに気づき、向かいに座った。「研くんが、何か怒らせるようなことでもした?」「私と彼、合わないと思うんです」三久は率直に言った。「今のところ、恋愛や結婚をするつもりはありません」彼女はいたって真剣だった。亜衣里は複雑な気持ちになった。もともと三久と研を引き合わせたのは、彼女自身だ。半ば無理やり、三久を巻き込んでしまったところがある。けれど本心では、三久と研は本当にお似合いだと思っていた。「もしかして、彼のお母さんが病気だからなの?」三久は慌てて首を横に振った。「もちろん違います。私……好きな人がいるんです」亜衣里はぽかんとした。三久のような理性的な人が、まさか片思いをしているとは思いもしなかったのだろう。それに三久くらいの年齢になれば、感情の衝動に流されるより、条件の合う現実的な相手を選ぶべきだと思っていた。「本当に、断るための口実として言ってるわけじゃないのよね?」「もちろんそうじゃないんです」社員食堂には、次々と顔見知りが通りかかる。三久は声を落として言った。「私、嘘はつきません。それはよく

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  • 社長の子じゃありません――でも、逃がしてもらえない   第8話

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  • 社長の子じゃありません――でも、逃がしてもらえない   第7話

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