LOGIN5年前、私・水原雲(みずはら くも)は高橋勲(たかはし いさお)を邸宅から追い出した。 5年後、彼は名高い教授になっていた。そして私は、もう治る見込みはないと告げられていた。 彼はグラスの中の赤ワインをゆっくりと揺らし、その眼差しは冷え切っていた。 「水原社長、大金を稼ぐ仕事はやめて、どうしてホステス稼業に鞍替えしたか?」 喉の奥から苦いものが込み上げてきた。私は無理やり笑みを浮かべた。 「仕方ないんです。借金が山ほどあって。高橋教授、太っ腹なところを見せて、200万円ほど貸していただけませんか?」 彼は赤ワインを私の顔に浴びせた。 「相変わらずだな」 刃のように鋭い口調だった。 「金しか見えていない」 私を骨の髄まで憎んでいる彼を見て、私はほっとした。 ――よかった。 彼はまだ知らない。彼の胸で脈打っているのが、私の心臓だということを。
View More真昼の穏やかな日差しの中、私は邸宅の広いベッドに横になり、テレビのニュースを見ていた。【新垣晴、殺人罪で無期懲役】「なんだか懐かしい名前ね。私、彼女を知ってるのかしら?」そばにいた男はその声を聞くと、近づいてきて優しく私の頭を撫でた。「さあね。とにかく今は、あなたとは何の関係もないよ」私は顔を上げ、彼に笑いかけた。「あなた、ステーキが食べたい。早く作って」彼は愛おしそうに答えた。「はいはい、すぐ行くよ。この食いしん坊さん」私は自分の過去を覚えていない。ただ、自分が一度死んだことと、今そばにいる夫・神谷圭一(かみや けいいち)が、誰よりも私を愛してくれている人だということだけは分かっている。私は病院のベッドで目を覚ました。圭一は道端で私を拾ったのだと言った。あの時の私は息も絶え絶えで、心臓もほとんど止まりかけていた。彼は私を拾って病院へ運び、私の命を救ってくれた。彼は私の身の回りのことを細やかに世話してくれた。私もその優しさに包まれているうちに、自然と彼と結婚していた。結婚後の生活は充実していて、幸せだった。圭一は神谷グループの社長で、仕事で忙しくても、いつも私を第一に考え、心から大切にしてくれた。私も新しい趣味を見つけ、音楽を学び、ピアニストになった。ただ、一人の奇妙な男が、私の穏やかな日々を脅かした。彼はいつも私の家の警備を突破しようとし、私に会おうとしてきた。私が外出すると、彼はそばについてきて、大声で泣いた。彼は口々に、こんなことを言った。「雲、お前は生きてる。生きてるんだね。家に帰ろう。僕は勲だ。僕は残りの人生をかけて君に償う。もう二度と、君を苦しませない」私は眉をひそめた。「あなた、私と知り合いなんですか?これ以上しつこくするなら、警察を呼びますよ」勲はその場で固まった。「お前は……もう僕のことを覚えていないのか?」「あなた、何か有名人なの?私が必ず知ってなきゃいけないの?」私は彼を白い目で見た。「それに雲なんて名前、聞いたこともない。私の名前は神谷幸美(かみや さちみ)よ」神谷幸美――それが、圭一が私につけてくれた名前だ。幸という漢字に込められた意味――あなたに出会えて、幸せだ。勲がまだ私のそばでぶつぶつ言っているのを見て、私はとうとう
家に戻ると、勲は電話をかけた。「昔のことを全部調べてくれ。金のことは気にするな。使える手はすべて使って調べろ」ちょうどその時、晴が高級ブランドの品々が入った大きな袋をいくつも提げて、鼻歌を歌いながら家に入ってきた。「勲さん、結婚式の準備のために、たくさん買ってきたよ」勲は顔を上げ、彼女を見た。その目には、果てしない冷たさだけがあった。「晴、聞きたいことがある。お前は、雲が僕に心臓を提供した人間だと、前から知っていたのか?」その問いを聞いた瞬間、晴はその場で固まった。愛想笑いを浮かべ、必死に取り繕う。「勲さん、何を言ってるの?彼女はただの金にがめつい浅ましい人間よ。あなたのために、そこまでするはずがないわ。本当にあなたを愛しているのは私。あなたに心臓を捧げられるのも私よ」「そうか?」晴の全身が強張っているのを見て、勲は心の中ですでに答えを出していた。「お前が雲に言ったあの言葉、全部お前のでっち上げだったんだな」「で……でっち上げなんてないよ。私が言ったことは全部事実よ!」晴は拳を強く握りしめ、額には細かな汗が浮かんでいた。「事実?」その言葉は、勲が歯の間から絞り出したようだった。「お前が雲に無理やり酒を飲ませたのは、彼女の体がもう長くもたないと、前から知っていたからじゃないのか!」今度の言葉は、もはや疑問ではなかった。疑いようのない断罪だった。勲はうつむき、送られてきた資料に目を落とした。雲が頻繁に病院へ通っていたのは、心臓交換後の体を維持するために、特効薬が必要だったからだ。それと同時に、彼の様子を知るためでもあった。彼女が売血していたのは、自分の金をすべて勲の治療に使っていたからだった。彼女自身のためには、ほんの少しも金を残していなかった。――雲は汚くなんかない。汚かったのは、愚かな僕だ。これまでの数え切れない日々の中で、彼女はどれほど重いものを背負っていたのだろう。何度も寝返りを打つ夜、彼女はどれほど自分を思い、どれほど苦しみながら孤独な夜を過ごしていたのだろう。彼女は泣いただろうか。自分の決断を後悔しただろうか。自分に何度も傷つけられ、あんな悲痛で深い眼差しで自分を見つめていた時、彼女は何を思っていたのだろう。勲はお守りを強く握りしめた。その力が入り
勲は医師を見た。「雲が僕に渡す?何を?」医師は小さな箱を手にすると、それを勲へ差し出した。「これです」箱の中には、木製のお守りが一つだけ入っていた。そこには、小さな「高橋」の字が刻まれていた。勲はお守りを取り出し、その文字をそっと撫でた。すると、記憶が波のように押し寄せ、彼を飲み込んでいった。これは、両親が彼に残した唯一の形見だ。何の変哲もないお守りなのに、そこにはあまりにも多くの想いが込められていた。聞いた話では、会ったことのない両親が、桃の木で作り、何十日も昼夜を問わずお経を唱えて、ようやく手に入れたものだという。一生の無事を守り、ずっと身を守ってくれるお守りだった。「一生を託せる人、一緒に人生を歩んでいける人、心から信じられる人に出会ったら、これをその人に渡しなさい」あの時、彼は誕生日プレゼントとして、背伸びをしながら雲の首にかけた。誇らしげに顔を上げ、瞳に星を宿したような表情で言った。「雲さん、これは僕の両親が残してくれたもので、人を一生守ってくれるんだ。これをあなたにあげる。これがある限り、僕たちはずっと離れない。これからもずっと一緒にいられる」雲は断ろうとした。けれど少し考えると、ふいに身をかがめ、彼と指切りをした。「じゃあ、約束ね。私はずっとあなたのそばにいるから」彼女は、自分の約束を守った。勲の手が震え始めた。まるで百歳を超え、何も持てなくなった老人のようだった。あの時、自分の持っていたものはすべて捨てられた。それでも、このお守りだけは、彼女がずっと身につけて大切に守っていた。今、彼女はこの大事なお守りを自分に返した。涙がいつの間にか瞳からあふれ、埃一つないお守りの上に落ちた。医師は重い口調で言った。「これは、水原さんが生前に残した最後の品です」生前?勲は目の前の世界がぐるぐると回り、耳をつんざくような耳鳴りが鳴り響くのを感じた。雲が死んだ?ありえない。彼はいきなり医師につかみかかり、かすれた声で言った。「先生、雲と口裏を合わせてるんじゃないですか?彼女はこんなやり方で僕を騙して、僕の心を揺さぶって、金を出させようとしてるんじゃないですか?」医師はため息をつき、首を横に振った。「先生、言ってください。彼女は死んでいないって。
勲は相手の顔を見ると、胸の奥に突然、言いようのない不安が湧き上がった。すると、焦ったように、指をぎゅっと絡ませた。「どうした?何があった?」相手は一瞬ためらってから、言葉を選ぶように口を開いた。「いえ、大したことじゃないんです。ただ、水原雲があなたに突き倒されたあと、私にしがみついて取り乱して、あなたに伝えてほしいことがあると言いまして」「彼女は何を言ったんだ。教えてくれ!」勲の呼吸が荒くなり、血走った目で問い詰めた。「彼女は、寒くなったらちゃんと服を着てください、いじめられたら我慢しないでください、それから……」「それから何だ?言えよ!」「それから、ごめんなさい、と」手にしていたタバコが、ぽとりと床に落ちた。勲は雷に打たれたような衝撃を受けた。こんな子供をあやすような言葉なのに、それはかつて彼が一番多く聞かされた言葉だった。雲は彼の頬を撫でながら、微笑んで言ってくれた。「私に迷惑をかけるなんて、気にしなくていいの。あなたが無事でいることが一番大事。いじめられたら、我慢しないで、ちゃんとやり返しなさい。今日は外が冷えてるよ。そんな薄着じゃ寒いでしょう。私が新しい服を買ってあげたの。ほら、見て。ごめんね。今日は私が軽率すぎた。謝るから、許してくれる?」相手は、その場で固まったままの勲を見て、恐る恐る口を開いた。「高橋教授、ただのうわ言ですよ。大した意味なんてありません。あの女、その時は正気じゃなかったんでしょう。思わず口にしただけですよ」勲は聞く耳を持たなかった。かすれた声で、喉の奥から絞り出すように尋ねた。「雲はどうなった?どこにいる?」「それは私にも分かりません。救急車が来て、そのまま運ばれましたから。でも、大したことはないはずです」その言葉が終わるより早く、勲は突然振り返り、よろめきながら走り出した。言いようのない苦しみが彼を襲い、頭の中にはここ数日の光景が次々と浮かんだ。彼女の言葉も、表情も、そしてその哀しみも、まるで別れを告げているようで、それでいて、何かを訴えかけているようでもあった。何かある。きっと、彼が気づいていない何かがある。雲に会いたい。彼女が自分に何を隠しているのか、確かめたい。なぜ、伝えたいことがあるのに何も言わなかったのか。勲は息を
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