四季木実(しき このみ)は、植物状態に陥った恋人の平穏な目覚めと無事を願い、幾度も古寺に祈りを捧げた。 そしてついに――古賀亮(こが りょう)は目を覚ました。 だが、彼女を待っていたのは、毎晩繰り返される屈辱だった。 かつて自分に属していたすべてを彼は奪い取り、それを彼の初恋の笑顔のために差し出したのだ。 心が砕け、魂までも擦り切れた木実は、ついに彼のもとを去る決意をする。 その瞬間、彼女を顧みることのなかった男は、狂ったように崩れ落ちた。 血まみれの身体で地にひれ伏しながら、彼は何度も繰り返す―― 「木実、お願いだ。もう一度、俺を愛してくれないか……」
View More花火が終わりを告げたそのとき、広大な芝生の境界線上で突如として騒ぎが起きた。この一帯では一年前まで暴動が頻発していたが、近頃はようやく落ち着いたばかりだった)。結婚式の会場を決める際、木実は慎重に何度も考えを巡らせていた。まさか、こんなにも運悪く自分たちの身に降りかかるとは思ってもみなかった。「先に車まで行こう」義幸は彼女を強く抱きしめ、その腕で守ろうとする。だが、重たいドレスの裾は地面を引きずり、群衆に何度も踏まれ、彼女の歩みを妨げた。周囲は混乱し、人々は右往左往するばかりだった。気づけば義幸の声は聞こえず、姿もどこかへ消えていた。木実は押し寄せる人波に揉まれ、ついには転倒してしまった。「おっ、きれいな花嫁が一人残ってるぜ」「身につけてる宝石類は、どれも高価そうだな」ならず者たちが、銃を手にしながら彼女へと真っ直ぐに近づいてきた。その瞬間、木実の心は冷え込み、命の終わりを覚悟した。耳元をかすめた銃弾の音。しかし、痛みは訪れなかった。目を開けると、彼女の目の前に立ちはだかる大きな影がすべての銃弾を防いでいた。それは――亮だった。彼はずっと、遠くから彼女の様子を見守っていたのだ。そして、危険が迫った瞬間、約束など忘れたように迷わず飛び出していた。あの日、彼はこう言った。――木実に残りの人生、永遠の幸せを。「木実、俺は……これまであまりに多くの過ちを犯してきた。たぶん、お前を守れるのも……これが最後だ。許してくれとは言わない。ただ来世で……もし叶うなら、もう一度だけ、お前のそばに立てる機会を……」彼の唇はかすかに開き、血まみれの手のひらでそっと彼女の頬を撫でる。まるで、その美しい花嫁姿に血がつかぬよう、極力丁寧に。その目に映った一瞬で、木実の胸は締めつけられるような苦しみに包まれた。「しゃべらないで! 亮、これが最後なんて言わないで……私が助ける!」彼女は地面に引きずるウェディングドレスを破り取り、傷口を必死に押さえた。けれど――傷はあまりにも多く、深かった。彼女が医師としてできることは、ただ流れ続ける血を見つめることだけだった。それが、医者である彼女にとって最大の無力感だった。そして、心を引き裂かれるほどの敗北だった。「亮、あんたは私に許
船上で、義幸は木実の乱れた衣服には一切目を向けず、真っ先に彼女の体中をくまなく確認した。「怪我してないか?」その声に、木実の心はわずかに和らいだ。「島で何があったのか、気にならないの?」彼女がそう尋ねると、義幸は静かに首を振った。「君が無事でいてくれる――僕にとって、それだけが最良の知らせだよ」その一言に、木実の鼻先がつんと熱くなった。もし亮が愛するという感情を彼女に教えた存在なら、義幸は真の愛とは何かを彼女に与えてくれた人だった。「どうして私の居場所がわかったの?」義幸の語る内容を聞いて、木実はようやく事情を理解した。歓奈は、死んでいた。彼女は死の直前、亮の目の前でありながら、密かに手のひらに一枚の地図を隠し持っていたのだ。それは、島の位置情報だった。木実は様々な可能性を想像していた。だが、まさか最終的に自分を救った手が、歓奈の残したものになるとは。「……彼女も、散々私と張り合ってきたけど、最後にやっといいことしてくれたわね」その瞬間、三人の間に横たわっていた恩怨は、すべて潮に流されたように消えていった。木実は肩をすくめ、過去すべてを海の彼方へと捨て去った。そして、そっと義幸の手を握った。荒波が轟く海の先には、昇りゆく朝日があった。そこには、ふたりの新しい未来が広がっていた。それから、かなりの時が流れた。亮は、本当にあの時の言葉通り、木実の前に二度と姿を現さなかった。だが、木実の所属する組織には、三か月ごとに国内からの物資援助が届いた。言うまでもなく、それが誰の手によるものかは――彼女にはわかっていた。だが、木実がどんどん遠方へ赴くにつれて、亮にも彼女たちの正確な居場所を知る術はなくなった。そして再び亮が木実の名を見ることになったのは――ある日の新聞の一面だった。整った顔立ちの男女。海外メディアも「最もお似合いの国際医師カップル」と称賛していた。しかし、亮の目を引いたのは、見出しの下にあった一行の小さな文字だった。【おめでたい知らせ――周藤医師と四季医師はクリス島の山の麓にて、結婚式を挙げる予定】それを見た瞬間、亮の胸に鋭い痛みが走った。彼は、自分が本当に木実を手放したとは一度も思ったことがなかった。だからこそ……彼は知っていた。たと
木実が目を覚ましたとき、彼女の手には一本のナイフが握られていた。鋭利な刃先には、すでに鮮血がにじんでいた。その刃の向こう――亮の心臓部に深く突き立てられている。彼は痛みに頓着せず、うわごとのように呟いた。「まだ足りない……こんな程度じゃ、俺の罪は償えない……」木実の指先が、ふと緩んだ。だがその瞬間、亮が彼女の手を再び握り、自らの心臓に刃をさらに深く押し込もうとした。「亮!自殺するのは勝手だけど、私を巻き込まないで!」この手は人を救うためのものだ。人を傷つけるためにあるわけじゃない。殺人犯になる気なんて、微塵もない。彼女が必死に手を引こうとすればするほど、亮の表情は凍りついていった。「……それでも、君は俺を許してくれないのか?なら、こうすればどうだ!」強い力が彼女の腕に伝わり、刃先は彼の腹部へと向けられた。そしてさらに下へ……亮の全身は血だらけ。だが彼は、その痛みすらも感じていないかのように、動作を止めようとしなかった。「木実、お願いだ……お願いだから、もう一度だけ、俺を愛してくれないか……」哀願というにはあまりに悲痛な声。けれど木実の胸に湧き起こったのは、ただただ息が詰まるような窒息感だった。「あんなに美しかった私たちの関係が、どうしてこんなにも歪んでしまったの……」彼女は、目の前の男を見つめながら思った。今や見る影もない――記憶の中の少年と、完全に別物になってしまった男。それでも、ふと記憶が蘇る。十八歳の木実は、無邪気で奔放な少年と笑い合っていた。あの頃は、本当に――美しかった。「亮、もう戻れないの」かつてのすべての思い出には、必ず亮がいた。手を温めてくれた彼。何もかも差し出してくれた彼。その鮮やかな記憶は、今もなお彼女の心に生きている。だが、それはあくまでも「記憶」でしかない。木実が生きているのは「今」だった。彼女は真正面から亮を見つめて言った。「私があなたを許せないのは、過去のせいじゃない。もう、あなたを愛していないのよ。それに、あなた自身ももう気づいてるんじゃない?それが愛なのか、それともただの執拗なのか……」亮は何かを否定しようとした。だが木実は、言葉を挟ませなかった。「でもね、私は覚えてる。あ
漆黒の夜。木実は、突然その場で車に押し込まれた。運転席には亮。彼女の顔を正面から見据え、柔和さの中に狂気を宿した声で言った。「木実、怖がらないで。お前を傷つけるつもりはない。ただ……お前が今、俺に対して多くの誤解や警戒心を抱いているのは分かってる。でも構わない。俺たちだけの場所に行けば――お前の心の傷は、きっと俺が癒せる。これからの人生は、お前と俺だけで歩んでいこう」甘く囁くその声は、むしろ背筋を凍らせるほどに不気味だった。木実の背には、ぶわりと鳥肌が立った。「……あなた、頭おかしいの?これは誘拐でしょ!」怒りを隠しきれぬその瞳を正面から見つめて、亮は、何の躊躇もなく頷いた。「そうだ。お前を失ったあの日から、俺はずっとこの計画を練ってきた。たとえ力づくでも、絶対にお前を手放したくないんだ!」アクセルは踏み込まれ、車は猛然と走り続けている。木実の怒号が車内に響いても、亮はなお微笑を絶やさなかった。「もうすぐ着くよ。俺たちの場所に」窓の外は、潮の香り以外、すべてが遮断されていた。やがて、亮は彼女の目隠しを外す。目の前には、どこまでも広がる青空と白い雲。だが、いかにその風景が美しくとも、今の木実にとっては、ただの牢獄に過ぎない。「ここ……どこなの?」「お前が二十歳の誕生日を迎えた年に、俺が買った島だ。プレゼントとして贈るはずだった。けどその前に、あの事故が起きて――俺たちはすれ違った。でも今なら、すべて取り戻せる。もう誰にも見つからない。木実」亮の声は、まるで陶酔するかのように低く沈んでいた。海と空に包まれた島。だが、そんな夢のような舞台こそ、彼女の警戒心をいっそう刺激する。突然、亮の手が伸び、彼女を砂浜に押し倒した。「木実、昔みたいに……もう一度、全部俺のものになって」「やめてッ!」彼女の怒声が海辺に響き渡り、手にした貝殻を思い切り彼の額に叩きつけた。「亮! 弁償ってこういうこと? 心も身体も踏みにじって、また私を人形にしようっていうの?」その一撃により、ようやく亮の瞳に一瞬の正気が戻った。彼が目にしたのは、恐怖と嫌悪に満ちた木実の表情。それは、彼の心の中で最後まで残っていた柔らかな部分を、粉々に打ち砕いた。「お前は、あの周藤のために
木実は、初めて歓奈と出会った日のことを、今でもよく覚えていた。か弱く無垢な花のような顔立ちに、不屈の気迫を秘めた眉目。だが今、もしもそのかすれた声に、かろうじてかつての音色が残っていなければ、もはや彼女だとは到底思えなかっただろう。考えるまでもない。ここまで歓奈を追い詰め、非人道的な仕打ちを加えたのは、間違いなく亮の仕業だ。「木実、俺たちを妨げるすべては、もう排除した」亮の瞳には、狂気の色が宿っていた。「お前を苦しめた連中には、みな報いを受けさせた」四季家の破産。そして歓奈のこの有様。これまで、木実は国内のニュースに目を向けたことはなかった。だが状況を知った今も、そこに喜びの思いも、憐憫の情もない。ただ、亮に向ける視線には、明確な嫌悪が込められていた。「気持ち悪いわ。かつて彼女をかばって、我が子さえ見捨てたくせに、今になって彼女の苦しみを、『私の許し』を得るための道具にするなんて」亮は、その場に凍りついた。「もし彼女に騙されなければ、俺たちはこうならなかった」歓奈が貪欲さの果てに堕ちた結末は、自業自得。だが、彼女の全身の傷跡を目にした木実の脳裏に浮かんだのは、自らが苦しみ抜いた、あの暗黒の時だった。「ええ、彼女は自業自得よ。でも、あんたはそれ以上。誰かを愛しているときは、天にも届くように持ち上げておきながら、少しでも不満があれば、容赦なく泥に叩き落とす」かつての自分も、そして今の歓奈も。こんな結末を迎えたのは、彼女たちが許されざる過ちを犯したからではない。根源は、亮の本質的な冷酷さにある。彼にとって、人の命は踏みにじっても構わない草のようなものだった。「あなたの元に戻る? 冗談じゃないわ、古賀社長。下手すれば、歓奈の今日が、明日の私になる。私はそんな未来、絶対にごめんよ。あなたのように、自分勝手で冷たさが骨の髄まで染み込んだ人間とは、これっぽっちも関わりたくない」その言葉が、亮の心を鋭く刺し貫いた。言い訳したくても、のど元で詰まったまま、一言たりとも声にできなかった。「自分は違う」――そう言いたい。だが、過去の行いのすべてが動かぬ証拠となり、木実が信じるはずもない。彼女が背を向けて歩き去るのを、亮はただ呆然と見つめるしかなかった。追おう
亮は言葉を飲み込んだ。静寂の中、これまで意図的に無視してきた激痛が、一気に波となって押し寄せた。彼はようやく、かつて木実が味わった絶望の深さを、身をもって理解したのだった。手術を終えるころには、二人とも汗だくになっていた。木実は消毒を終え、東の空に淡く差し始めた朝の光を見やった。扉の外には、すらりとした男の姿が立っていた。「終わったの?他の患者も無事に処置できたよ。迎えに来た」義幸は歩み寄り、木実の手をそっと握った。その仕草には、明らかな親密さが漂っていた。亮のわずかにぼやけていた視界が、一瞬でクリアになった。彼はふらつきながらも体を起こし、裂けた傷口を押さえた。「お前たち……」視線の先、木実はその手をしっかりと握り返していた。まるで稲妻に打たれたように、亮はかすれる声で問いかけた。「……いつから、だ?」自分が木実との和解を切望していた間に、彼女の隣にはすでに別の誰かがいたなんて。「何か問題でも?」木実は彼を見つめ返したが、その眼差しにはもはや一点の優しさもなかった。「私が誰と恋愛しようと、あなたに報告する義務はないわ」その冷たさが、亮の胸を深く抉った。何度か、体が揺れた。手術時に麻酔を使わず耐えた激痛より、今この瞬間の心の痛みの方が、はるかに深かった。亮の視界に靄がかかる。唇を震わせながら、かすれた声で呟いた。「木実……お前は、俺を騙してるんだろう?まだ、あの時歓奈と俺が親しくしていたことを怒っていて、それで……演技を……」木実は踵を返そうとしたが、彼の言葉に足が止まった。「どこから来るの?その自信は」「感情を弄ぶと本気で思ってるの?私、四季木実。誰かを愛するときは、心の底から本気で愛してる。その人と共に歩いていけると確信したときにしか、関係を始めないの」かつて彼女は、亮こそが「その人」だと信じていた。けれど今では気づいた。人生を共に歩むには、ただ深く愛し合うだけでは足りない。互いへの信頼と、価値観の一致が必要だった。義幸と心が通じたのは、偶然ではあったが、決して一時の衝動ではない。患者と医師の対立に直面したとき、義幸はいつも彼女の前に立ち、どんなときも守ってくれた。長い日々を共にする中で、気づけば、彼の存在が心の奥に
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