LOGIN彼氏の小田島弘也(おだしま ひろや)は、デリバリーを注文してくれた。 届いたのは、チーズがどろりと溶け出したダブルチーズバーガーと、揚げたてのフライドポテト。 こってりした料理は、彼の元カノの大好物だった。 けれど、私・桑谷夢子(くわたに ゆめこ)は脂っこいものが苦手で、少し食べただけでもすぐ胃もたれしてしまう。 あれほど何度も言っておいたのに。 彼がフードデリバリーアプリでお気に入りに登録しているのは、どれもこってりした料理のお店ばかりだ。 彼はいつも「忘れてた。次はちゃんと選ぶ」と言った。 そして私は、いつだってその言葉を信じてきた。 今日までは。 今日は、腸の手術を終えて退院し、家に帰った初日だ。 退院する前、医師は弘也に念を押していた。 今の私は、まだ脂っこいものを食べてはいけないと。 そうしなければ、再発して命に関わるおそれもあると。 それなのに、彼はまた忘れた。 いつものように黙って我慢して、届いたものを食べるようなことはしなかった。 そのせいで午後ずっと胃の痛みに苦しむのも、もうごめんだ。 私は3年間、自分の好みに合わないデリバリーを食べ続けてきた。 でも、もうこれ以上、我慢したくない。 自分の口に合わないものを、もう食べたくない。 私のものではない人に、これ以上しがみついていたくもない。
View Moreいつもより早めに帰宅して、家の飾りつけをすることにした。夕暮れが近づいた頃、玄関のドアがノックされた。私は笑顔で、新を迎えようとした。夫であり、これから生まれてくる子どもの父親でもある、大切な人を。けれど、そこに立っているのは、弘也だ。私の顔を見るなり、彼の目が赤くなった。あふれ出した涙が、次から次へと頬を伝ってこぼれ落ちていく。不思議なものだ。以前なら、弘也が泣くだけで、胸が張り裂けそうなほど心を痛めたはずなのに。今の私は、ただひたすら煩わしいとしか思わない。私は冷たく、ドアを閉めようとした。けれど、弘也がドアの隙間に手を差し込んで、閉まるのを阻んだ。彼はすがるような声で懇願した。「夢子、もう一度だけ顔を見せてくれないか。あと一度だけでいいんだ。夢子が望むなら、俺は何だってするから」私は静かに彼を見つめた。以前よりもずっと痩せこけ、顔には疲れの色が深く刻まれている。眉間に浮かんでいた自信に満ちた輝きも消え失せ、実際の年齢よりもずっと老けて見えた。「もう十分でしょ?帰ってくれる?」弘也は、私を食い入るように見つめた。「夢子、俺が間違ってた。取り返しがつかないほど、ひどい間違いを犯したんだ。夢子が望むなら、どんな罰だって受ける。だから、俺を見捨てないでくれ。真礼はもう追い払った。夢子と一緒に家に帰りたい。夢子の望むとおりにするから、お願いだ……」私は思わず笑いそうになった。かつて何度も真礼のために私を傷つけてきた男が、今になって、こんなにも惨めに私に戻ってきてほしいと懇願している。昔の私なら、どれほどこの言葉を聞きたかっただろう。けれど、それを手に入れたのは、心がすっかり冷えきってしまったあとだ。誰よりも私を傷つけたのは、ほかでもない彼自身なのに。私は首を横に振った。「弘也、私たちはもう二度と、元には戻れないよ。そもそも、最初から私たちには、幸せな結末なんてなかったんだよ」弘也は激しく首を横に振った。「夢子はあんなにも愛してくれてた。俺だって、夢子をあんなにも愛してたんだ。俺たちには、たくさんの思い出があるじゃないか。本当に俺を捨てて、ほかの男と新しい人生を始められるのか?」「3か月前だったら、もしかしたら、その言葉がすごく嬉しかったかもしれない
一晩中眠れなかったせいで、弘也の声はひどくかすれている。「真礼のせいじゃない。悪いのは最初から俺だ。初めから夢子を失望させ続けた。だから、彼女は最後の別れの一言すら、俺に言ってくれなかったんだ」弘也は、1か月もの間、抜け殻のように過ごした。酒に溺れ、夢子が眠っていたベッドに横たわり、残された彼女の香りを嗅いでいた。夢子がまだそばにいてくれたあの頃に戻ったような気持ちに、浸っていた。周りの人たちはみんな、彼を心配し、少しはしっかりするようにと励ました。けれど、弘也はただ、夢子が残していったぬいぐるみを抱きしめるばかりだった。まるで、それがこの世で何よりも大切な宝物であるかのように。事務所にも行かず、どんな集まりにも顔を出さなくなった。一日中スマホを握りしめ、二度と返事の返ってこないアカウントに、何万通ものメッセージを送り続けた。決してつながることのない番号に、何度も何度も電話をかけ続けた。そんなある日、真礼が家で倒れた。医師の診断は、体が弱っているため入院して経過を見なければならない、というものだ。弘也は入院に必要な荷物をまとめるため、慌てて彼女の家へ向かおうとした。ところが、階下まで下りたところで、車の鍵を忘れたことに気づいた。急いで病室に戻ると、そこには、さっきまで体が弱っていると言っていた真礼の姿が見えた。なんと彼女は、主治医の膝の上に座り、夢中で口づけを交わしているのだ。医師の手は真礼の体を這い、彼女の頬が赤色に染まっている。「先生、偽の診断書を作って、彼をあの女のところへ行かせないでくれるなら、私に何をしたって構わないわ!」医師はいやらしい笑みを浮かべた。「体を差し出してくれるっていうのか?それで、君のかわいい彼氏が嫉妬したりしないのか?」「彼はまだあの女に未練があるのよ!私があれだけ陥れたのに、彼はまだあの女のことばかり考えて、どうしても別れようとしない。こんなの、私を本気で愛してるとは言えないでしょ!」弘也は、目の前が真っ暗になった。すべては真礼が仕組んだことだったのだ。彼は両手で頭を抱えた。そして、自分がとんでもない過ちを犯したことに、ようやく気づいた。嘘つきのために、自分を誰よりも愛してくれた女の子を捨ててしまったのだ。弘也は、自分の頬を思
その夜、事務所の上層部によって、弘也と真礼のための祝勝会が催された。この訴訟で、弘也の実力は改めて証明された。業界で名の知れた弁護士たちも、数多く駆けつけている。弘也は勝利を収めたはずなのに、どこか晴れ晴れしない顔をしている。何度もスマホに目を落とす。けれど、画面には何の動きもない。午後、彼は夢子にメッセージを送っていた。祝勝会に来ないかと誘ったのだ。それなのに、夢子からは返事がなかった。弘也の胸は、ざわざわと落ち着かない。何かよくないことが起きている。そんな気がしてならない。家に帰って、夢子の様子を確かめようとした、まさにそのとき。真礼が床に倒れ込み、全身に赤ワインをかぶっているのが目に入った。彼はすぐさま真礼を病院へ運んだ。医師によれば、虫垂炎で手術が必要とのことだ。弘也は病室の前で待ち、手術の同意書に署名した。そのとき、ふいに思い出した。あのとき、自分が駆けつけなかったせいで、夢子はどんな思いで手術の同意書に署名したのだろう。手術の翌日、誰にもお見舞いに来てもらえず、どうやって一人で乗り越えたのだろう。後悔が、押し寄せる波のように彼を呑み込んだ。弘也はスマホを取り出し、夢子にメッセージを送った。けれど、返事はやはりなかった。その後2週間、弘也は昼間は真礼のお見舞いに行き、夜は仕事に明け暮れて、一度も家に帰らなかった。事務所にも、そろそろ復帰しているはずの夢子の姿はなかった。家に帰っても、彼女の姿は見当たらない。ドアを閉めた瞬間、耳に届くのは、最近ずっと続いている、恐ろしいほどの静けさだけだ。いつもなら漂ってくる、食欲をそそる料理の匂いもない。どれほど帰りが遅くなっても、必ず灯っていたあの明かりもない。あるのは、がらんとした家だけだ。弘也は唇を引き結んだ。一日働き続けた疲れが、どっと押し寄せてくる。以前は、家こそが心からくつろげる場所だった。けれど、今は違う。夢子がいないからだろうか。弘也は、無意識のうちに、長いこと入っていなかった寝室のドアを開けた。ベッドは以前と変わらず、きれいに整えられている。彼はまっすぐ歩み寄り、そのまま横になった。鼻先に、懐かしいジャスミンの香りが満ちてくる。夢子がいちばん好きな香りだ。
玄関を入った弘也は、テーブルの上に置かれた私の術後検査の結果を見て、少し驚いた顔をした。それから、すぐに申し訳なさそうに謝ってきた。「夢子、ごめん。今日は真礼が高熱を出したから、看病に行ってたんだ。次の診察はいつ?今度こそ、必ず付き添うから」次なんて、もうない。内定は受けた。航空券も予約した。弘也と私にも、もう先はない。私はベッドに横になり、すっかり忘れかけていたフランス語を復習している。「大丈夫よ」感情のこもっていない声だ。まるで、どうでもいいことのように。実際、私にとっても、もうどうでもいいことになっていた。弘也が何か言いかけたとき、私はイヤホンを外し、あくびをした。「早く寝よう」彼のもとを去ると決めてから、悪夢にうなされることも不眠に悩まされることも、すっかりなくなっていた。翌朝、弘也が起き上がっても、私は目を覚まさなかった。私は親しい友人や同僚たちを全員誘い、食事に出かけた。一日中、別れの挨拶に追われている。この街の、あらゆるものとの別れ。フランスの法律事務所が、就労ビザを手配してくれたのだ。とっくに、この街にもこの国にも何の未練もなかった。弘也を除いては。そして今、その彼でさえ、もう私を縛りつけることはできない。夜、家に帰ると、弘也の革靴の隣に、赤いハイヒールが置かれていた。私のサイズではない。キッチンからは、鼻をつくような油の匂いが漂ってきた。私はドアを閉めた。すると、キッチンにいた弘也と真礼が顔をのぞかせた。真礼が親しげに声をかけてきた。「桑谷さん、お帰りなさい。弘也と一緒に晩ご飯を作ったの。手を洗ってきて。もうすぐできるから」弘也も、私に説明した。「真礼が、訴訟を引き受けたお礼にって、ぜひ夢子にも手料理を振る舞いたいらしいんだ」私は何も言わず、力なく微笑んだ。食卓へ向かうと、すでに四品のおかずが並んでいる。脂っこいものばかり。食事の間、私はほとんど口をきかなかった。真礼と弘也は、次々と話題を振ってきた。けれど、もう話を合わせる気にもなれなかった。何の意味もないのだから。明日になれば、弘也と真礼が何をしようと、私にはもう一切関係なくなる。夜11時、水を飲もうと部屋を出たときも、真礼はまだ帰っていなか
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