LOGIN新婚の夜、夫である加藤幸太(かとう こうた)に電話がかかってきた。 幸太はすぐさまベッドから飛び起きると言った。「真奈美が駄々をこねていてね、様子を見てくる」 私は白くなるほど強く、幸太のシャツの裾を掴んだ。「今夜は新婚の夜だよ、本気で出ていくの?」 幸太はシャツのボタンを掛けながら、面倒くさそうに吐き捨てた。「真奈美は、俺がいないと眠れないんだ」 喉にガラスの破片が刺さったような苦しみを覚え、私は声を震わせた。「幸太、妻は私よ」 「妻、だと?」 幸太は鼻で笑うと、私の顎を強く掴んで見下ろした。「家財を差し出してまで、俺と結婚したかったんだろう?欲しい名分は手に入ったんだ、他に何が不満だ? そんなに不満なら、俺の妻になりたい女は他にいくらでもいる。 よく考えておけ。離婚しても、慰謝料なんて一円も払わないからな」 一刻も早く松尾真奈美(まつお まなみ)の元へ駆けつけようとドアを叩きつける幸太の背中を見て、私は手をだらりと下げた。体はそのまま、冷え切った布団の中へと滑り落ちていく。 「分かったわ、もう何も言わない」 枕の下から末期胃がんの診断書を取り出し、記された日付をそっと指先でなぞった。 もう、これでいい。 あなたが、いつか後悔しなければいいのだけど。
View More1年後。幸太は心身ともにぼろぼろになっていた。脳に深刻なダメージを負い、うつ病も併発し、骨と皮だけのように痩せ細っていた。さらに皮肉なことに、不潔で無軌道な生活がたたり、感染症まで患っていた。命に別条はないとはいえ、幸太にとってはその屈辱的な現実が何よりの苦しみだった。幸太はボロアパートに身を隠して暮らしていた。かつて、直美と初めて一緒に住んだ部屋だ。彼はそこを買い戻し、失った面影を探そうとしていた。しかし、そこにもう直美の気配など残っていなかった。ある日、幸太が街を歩いていると、ふと見慣れた後ろ姿が目に入った。その女性は2歳くらいの子供と手をつなぎ、幸せそうに微笑んでいた。「直美?」幸太は狂ったように駆け寄り、その女性を呼び止めた。振り返った顔は、まったくの別人だった。「あの、人違いですよ」幸太はその場に立ち尽くし、目の奥の光がすうっと消えた。そうだ。直美は、もうこの世にはいない。あの冷たい秋の日に、死んだはずだ。家に戻り、鏡の中のやつれた、病的な顔をした自分を映し出している。これが報いなのだろうか?かつて誇りにしていたハンサムな容姿も、財産も地位も、すべてが今の自分への何よりの痛烈な嘲笑に思えた。抗ウイルス薬と抗うつ薬を手放せず、生きているのか死んでいるのかも分からない毎日が続いた。幸太は、ある荒唐無稽な妄想に取り憑かれるようになった。今ここで死ねば、向こうでまた会えるのではないだろうか?幸太はカミソリを手に取り、手首に押し当てた。その時、壁に貼られた一枚の付箋が目に入った。それは、以前幸太が直美に残したメッセージだった。【直美、俺たち一緒に長生きしよう】幸太はカミソリを投げ捨て、頭を抱えて泣き崩れた。自分には死ぬ権利すら、残されていなかった。生きなければならない。尽きることのない悔恨と痛みを抱えながら、百年生きるのだ。それこそが、自分に対する一番の罰なのだ。それから、数年が過ぎた。幸太は実業の世界を完全に去り、すべての財産を寄付して、街で目立たない浮浪者になっていた。彼はボロアパートを守りながら、毎日墓地に足を運んだ。直美の墓石を毎日丁寧に磨き、新鮮な赤いバラを供え続けた。「直美、今日はいい天気だよ」幸太はいつも独り言
幸太は病んだ。頭痛ではなく、心の病だった。夜通し眠れず、目を閉じれば血を吐いて苦しむ直美の姿が浮かんだ。幸太は酒に溺れ、感覚を麻痺させようとした。「直美、出てきてくれないか?俺が悪かった。本当に申し訳なかった」虚空に向かって独り言を呟く声は、ひどくかすれていた。この数日、幸太は必死になって直美を探し回った。しかし、何も手掛かりはなかった。あらゆる防犯カメラの映像を調べ、銀行口座の記録もすべて確認し、タクシーの乗車履歴まで辿った。それでも見つかる手がかりは極めて少なかった。ただ一つ分かったのは、直美がこの街を離れたその日、小さなキャリーケース一つしか持っていなかったことだ。中に入っていたのは数枚の服と、破れた写真が一枚だけ。秘書が恐る恐る告げた。「社長。奥様は、すべての貯金を寄付されたようです」幸太はガバッと顔を上げた。「何だって?」「持っていた全額を、癌研究基金に寄付していました」その瞬間。幸太は何も言えなくなった。彼は悟ったのだ。直美は最初から、生き延びようとなんてしていなかったと。ただ、直美が望んでいたのは、死ぬまでのほんの少しの時間、自分の妻として過ごすことだけ。たった数日であっても。それを思った瞬間、幸太は笑い出した。涙を流しながら。「なんて愚かなんだろう。なぜ、俺を憎まなかったんだ」秘書は声を潜めた。「社長、奥様が最後に確認された場所は、南部の辺鄙な町でした」それを聞いて、幸太は徹夜で車を飛ばした。そこは美しい町で、野花が咲き乱れていた。町医者を訪ねると、直美についての手掛かりが掴めた。「あのきれいなお嬢さんのことですか?」老医師はため息をついた。「亡くなる直前まで、黄ばんだ写真を大切そうに握りしめていましたよ」心臓が止まるかと思った。「な……亡くなっただと?」「2週間ほど前です。身内には連絡しないでくれと頼まれていました」老医師は幸太に小箱を渡した。「彼女から預かっていたものですよ。もし誰か探しに来たら渡してくれと言っていました」幸太は震える手で箱を開けた。中に入っていたのは、かつて適当に選んだ安物の指輪だった。添えられた紙切れにはこうあった。【幸太、今世はあまりに辛すぎたわ。来世では、もう二度と会わ
手が震え始めた。もう自分では止められない。幸太は断片を少しずつ集め、ある恐ろしい真実に近づこうとしていた。「そんな……嘘だろ」直美の青白い顔、額に浮かんだ冷や汗、そして彼女の口から出た「もうすぐ死ぬ」という言葉が脳裏を駆け巡る。あの時、自分はなんと答えたか?お前は図太いと言い、芝居だと蔑んだ。「幸太さん、何してるの?」部屋に入ってきた真奈美は、散らばる破片を見ると表情を変えた。「もう、捨てようと思ってたゴミよ。わざわざ拾わなくてもいいでしょ?」幸太は勢いよく立ち上がった。血走った目で、真奈美の首に手をかけた。「これ、お前が破いたのか?」真奈美は顔面蒼白で必死にもがいた。「違うわ……ゴミだから片付けただけよ……」「出ていけ!」幸太は真奈美を突き飛ばすと、狂ったように家を飛び出した。彼が向かったのは、直美が行きつけだった病院だった。「先生、加藤直美という人のカルテを診せてください」医者は幸太を一瞥し、冷たく言い放った。「ご主人ですか?今まで一体どこにいたんですか?」幸太は石のように固まり、思考が停止した。「直美は……本当に病気だったんですか?」「末期の胃癌ですよ。見つかった時にはもう転移していました。ご本人には家族に内緒にしてくれと言われていましたよ。心配させたくないと。今思えば、自分が重荷になるのが怖かったんでしょうね」信じがたい現実を突きつけられ、幸太はふらりと壁に寄りかかった。「直美はどこです?今、どこにいるんですか?」「退院しました。連絡先も何も残さずに」幸太は呆然自失のまま病院を後にした。外は土砂降りだった。冷たい雨が顔を打ちつけていく。震える手でスマホを取り出し、必死に電話をかけ続けた。「お客様の電話は電源が入っていないか……」幸太は憑かれたように直美の行方を探した。母親の眠る墓地、昔住んでいたアパート、そして働いていたスーパーまで回った。どこにもいなかった。直美はこの世から、初めから存在しなかったかのように消え去っていた。幸太が家に戻ると、真奈美がソファで泣いていた。「幸太さん、死にかけてるあの女のために、私を怒鳴るなんてひどい!」真奈美の言葉を聞き、幸太は咳をして手のひらを血で染めていた直美の姿を思い出した。「お前、どうして直美
幸太が帰ってきたのは、翌日の午後だった。彼はドアを乱暴に押し開けると、いつものように苛立った声で言った。「直美、メッセージはどういう意味だ?また何か新しい手口か?」部屋の中は静まり返っていた。美味しそうな料理の匂いもなければ、いつもなら駆け寄って上着を受け取ってくれた直美の姿もない。リビングのテーブルの上には、離婚届が静かに置かれていた。幸太は鼻で笑うと、ペンを手に取った。「いいさ。そんなにお前が何もない状態で出ていきたいなら、願い通りにしてやる」そして迷うことなく、一気に名前を書きなぐった。「おい、直美?出てこい。書類に書いたぞ。さっさと出ていけ」返事はなかった。幸太が眉をひそめて寝室のドアを開けると、部屋は片付いていた。布団のシワひとつないその光景には、言いようのない冷たさが漂っていた。クローゼットの中身は半分に減り、直美の日常品は跡形もなくなっていた。「本当に消えたのか?」幸太は冷ややかに鼻を鳴らした。「どこまで耐えられるか、見ものだな」幸太にとって、直美が全てを売り払い、自分なしでは生きていけないという思い込みが根底にあった。彼は迷うことなく、すぐに真奈美を迎え入れた。真奈美は嬉々として寝室へ入り、直美の持ち物をすべてゴミ箱へ放り捨てた。「ねえ幸太さん、この部屋、前は薬臭くて、最悪だったわ。今はやっと私の香水のおかげでいい匂いになったね」幸太は愛おしそうに真奈美の鼻をなぞった。「好きにしていいさ。お前が喜ぶならそれでいい」だが、わずか3日後。幸太の頭の中には、ふとした瞬間に直美がよぎるようになっていた。朝起きると、ハチミツ水が出てくるのが習慣だった。シャツの襟にはシワ一つないのが当たり前だった。頭痛の時には、決まって誰かが優しくマッサージをしてくれていた。真奈美は何一つできない。甘えるだけで、自分を夜の遊びに引きずり回すことしか頭にないのだ。真奈美と同棲を始めて5日目。幸太は初めて、この家がまるで他人の家のように感じられた。以前、直美がいた頃の家は、常に磨き上げられていた。リビングには塵一つなかった。キッチンには、ほのかな料理の匂いが漂っていた。しかし今ではどうだ。テーブルの上は出前の空き箱で埋まり、ソファの上には服や化粧品が散乱していた。真奈美は