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10話「実家へ」

ผู้เขียน: 団紡るう
last update วันที่เผยแพร่: 2026-06-25 07:00:21

 電車の窓の外に、見慣れた景色が流れていた。

 子供のころから何百回と見てきた風景だった。駅のホーム、踏切、団地、川。昔は実家に帰るたびに、この景色が見え始めると少し安心した。もうすぐ帰れる、という感覚があった。

 今は何も感じなかった。

 それでも電車に乗っていた。本当は来たくなかった。ただもう一度だけ確認したかった。自分の目で見て、肌で感じて、それでも同じ答えが出るなら、次からは迷わなくて済む。そのために来た。

 乗り換えが一回あった。乗り換えのホームで、学生のころよく買っていたパン屋が閉まっているのに気づいた。シャッターが降りていた。跡地に別の店が入っていた。

 何年前に閉まったのか、知らなかった。

 実家の前に立った。

 インターホンを押す前に、鍵を持っていることを思い出した。ただ勝手に開けて入る気にはなれなかった。ボタンを押した。

「はーい」

 母の声がして、ドアが開いた。

「久しぶり」

「そうですね」

「元気そうじゃないか」

 父が廊下の奥から顔を出した。

 まるで何事もなかったような空気だった。少し拍子抜けした。怒鳴られるとも思っていなかったし、責められるとも思っていなかったが、もう少し何かあるかと思っていた。ただの久しぶりの帰宅として処理されていた。

 リビングに通された。

 テーブルの上に、カタログが何冊も広げてあった。ベビーベッド、ベビーカー、チャイルドシート。付箋が貼ってあって、母の字でメモが書き込んであった。テレビ台の横にベビー用品の箱が積んであった。部屋の中心が変わっていた。

 真衣がソファから立ち上がった。

「お姉ちゃん久しぶりー」

 いつも通りだった。何も変わっていなかった。声のトーンも、笑い方も、こちらに近づいてくる足取りも、全部あの頃のままだった。

「久しぶり」

「どこに住んでるの、ちゃんとした家?」

「ちゃんとしてます」

「良かった。心配してたんだよ」

 本当に心配していたらしかった。その顔で分かった。悪意がなかった。何かを演じているわけでもなかった。ただ、心配の中身が少し違う気がした。瑠衣の状況ではなく、瑠衣の生活水準を心配していた。屋根があるかどうかを確認して、安心していた。

 お茶が出てきた。座った。

 会話が始まった。

 真衣の体調の話になった。最近は安定してきたこと、先週の検診で問題がなかったこと、来月から産休に入ること。そこから雅之の仕事の話になった。残業が減ったこと、職場の理解があること。保険の見直しをしたこと。育児休暇をどうするか検討中であること。赤ちゃんの名前の候補がいくつか出ていること。

 瑠衣は相槌を打っていた。

「へえ」

「そうなんだ」

「良かったね」

 三種類の言葉で、会話が成立していた。

 誰も悪気はなかった。本当になかった。ただ誰も、瑠衣に何かを聞かなかった。

 父が缶ビールを持ってきた。自分の分だけだった。

 テレビをつけた。野球の中継が始まった。父はそちらを見始めた。

「そういえば今の仕事どうなんだ」

 父がテレビを見たまま聞いた。

 少し期待した。答えを用意しようとした。仕事のことを話そうか、最近の近況を話そうか、どちらから始めるかを考えた。

「あ、その前に聞いて」

 真衣が身を乗り出した。

「名前なんだけどさ、雅之さんのお母さんが絶対に画数で決めたいって言って、でも私は音の響きを重視したくて、先週また揉めたんだよね」

 父がテレビから顔を向けた。母がカタログを閉じた。

「画数っていうのは確かに気になるよね」

「でもまず読める名前じゃないとな」

 母と父、真衣の三人の話が始まった。

 瑠衣は口を閉じた。開きかけていた口を閉じた。仕事の話を聞かれたのは、会話の繋ぎだったらしかった。もう一度聞かれることはなかった。

 名前の候補を真衣が三つ挙げた。父が一つ目を読み上げた。母が画数を調べ始めた。

 瑠衣はお茶を飲んだ。

 夕方になった。

 チャイムが鳴って、母がドアを開けた。雅之の声がした。

 リビングに入ってきた雅之は、瑠衣を見て一瞬止まってから、自然な顔を作った。

「来てたんだ」

「どうも」

「元気そうでよかった」

 本気で言っていた。声のトーンで分かった。安心している顔だった。元気そうで良かった、と本当に思っていた。

 だから返事に困った。

 何を返すのが正解なのか分からなかった。ありがとうと言うのか、おかげさまでと言うのか、どちらも違う気がした。

「まあ」

それだけ返した。

 雅之は真衣の隣に座った。名前の候補の話に合流した。三番目の候補が気に入っているらしく、その理由を説明し始めた。真衣が反論した。父が仲裁した。母が笑った。

 瑠衣はソファの端で、お茶の入っていない湯呑みを持っていた。

 夕食の支度を母が始めた頃、立ち上がった。

「今日は帰ります」

 母が台所から顔を出した。

「もう帰るの。せっかくだからご飯食べていきなさいよ」

「大丈夫です」

「たまには顔出せよ」

 そう告げた父はテレビに視線を戻していた。

「今度は泊まっていってねー」

 真衣の言葉を背に玄関で靴を履いた。母が見送りに来た。

「体に気をつけなさい」

「はい」

 ドアを閉めた。

 駅までの道を一人で歩いた。

 昔は毎日通った道だった。中学から高校から大学から社会人まで、この道を何千回と歩いた。どこに何の店があるか、どこの家の犬が吠えるか、どこの角を曲がると近道かを全部知っていた。

 懐かしいはずだった。

 何も戻ってこなかった。

 今日一日を振り返った。誰も瑠衣を傷つけなかった。誰も怒鳴らなかった。誰も意地悪をしなかった。母はお茶を出してくれたし、父は仕事のことを聞いた。真衣は心配していると言った。

 それでも、ずっと居心地が悪かった。

 一度も「瑠衣はどうしたいのか」を誰かに聞かれなかった。そもそも聞かれる空気がなかった。瑠衣が何かを話し始める前に、別の話題が来た。瑠衣の人生は今日この家で、一秒も話題にならなかった。

 踏切の前で止まった。

 遮断機が降りていた。電車が通るのを待った。

 考えた。怒っているかどうか確認した。怒っていなかった。悲しいかどうか確認した。それも少し違った。

 あの家にいる間、ずっと感じていたのは居心地の悪さだけだった。追い出されたわけではなかった。冷たくされたわけでもなかった。ただずっと居心地が悪かった。

 なぜか、今日やっと分かった気がした。

 私はここにいなかったんだ。ずっと。

 遮断機が上がった。

 渡った。駅に向かって歩いた。

 振り返らなかった。

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