تسجيل الدخول休日の昼、スマホが鳴った。
母からだった。しばらく画面を見てから出た。 「元気?」 「まあ、そこそこは」 「今どこに住んでるの」 「知り合いのところです」 少し間が空いた。 「そう」 住所は聞いてこなかった。聞かれても答えるつもりはなかったので、ちょうどよかった。 「そろそろ帰ってきなさい」 真衣の出産準備が始まった。手伝いが必要だ。家族なんだから。家族は助け合うべきだ。 母の言い方はいつも同じだった。同じフレーズが何度も続く。瑠衣が口を挟む余地は与えない。 父に代わった。 「いつまでも意地張るな」 「意地を張っているつもりはないんですが。それに出て行ってくれと言ったのはそちらですよね?」 「お前の部屋も空いてる」 (駄目だ、こいつら人の話を聞いちゃいねぇ) 瑠衣は聞こえないように軽く息を吐いた。 「赤ちゃんの部屋じゃなかったんですか」 沈黙があった。 「なんとかなる」 本気の声だった。なんとかなる、と言いながら、なんとかするのが瑠衣だという前提がすでにあった。 「考えておきます」 電話を切った。ソファに座って、天井を見た。染みのない、均一に白い天井。見慣れてきていた。
帰るかどうか。答えは電話を切った瞬間にはもう出ていた。 別のことを思い出していた。あの夜、父に呼ばれてリビングに行ったら、父の顔が妙に真剣だった。「しばらく家を出てくれ」と言った。理由を聞く前に、自分でわかった。怒りより先に、妙に冷静だった。出ていったのは自分だった。頼まれたから出たのか、自分で決めたのか、今でもよくわからなかった。 本を開いて、読まなかった。灯が地下書庫に置いていった植物学者の随筆だった。ページの上に視線を置いたまま、一行も進まなかった。窓の外で風が木を揺らして、影が床を横切った。それだけ見ていた。母の声でも父の声でもなく、あの夜のリビングの静けさだけが、ずっと耳の奥に残っていた。夕方、玄関に革靴があった。
珍しく早い時間だった。台所に向かうと、灯がすでに地下書庫から上がってきていて、テーブルの横に鞄を置いていた。手ぶらだった。 「今日は早いですね」 「近くに用事があったので」 「そうですか」 夕食の準備を始めた。今日は鍋にしようと思っていた。一人分より二人分の方がちゃんとした食事になると気づいてから、灯が来る日の夕食は品数が少し増えていた。 野菜を切りながら、昼間の電話のことを思い出した。 「親族の中で、叔父さんのことを知っている人っているんですか」 「いないでしょうね」 手が止まった。 「そんなものなんですか」 「そんなものです」 淡々としていた。聞かれたから答えた、という感じだった。 「会ったことがないんですよ、今まで。親戚の集まりにも来てないし、父からも話を聞いたことがなくて」 「親族の集まりには行きません」 「なんでですか」 「呼ばれないので」 それだけだった。続きを待ったが、なかった。呼ばない理由が親族側にあるのか、来ない理由が灯側にあるのか。どちらを聞いても答えは返ってくる気がしたが、聞いてしまうと何かが変わる気がして、やめた。もう少し後でいい。 白菜を鍋に入れた。灯は椅子を引いて座り、テーブルに肘をついて黙っていた。台所に人がいるのに静かだった。邪魔でもなく、気を遣っているわけでもない。ただそこにいた。その感じに、最近少しずつ慣れてきていた。鍋が煮えた。二人でテーブルについた。
しばらく無言で食べてから、昼間の電話の話をした。 母から連絡があったこと。戻ってこいと言われたこと。真衣の出産準備が始まって人手が必要なこと。帰れば部屋があると言われたこと。その部屋は先月まで赤ちゃんの部屋になる予定だったこと。 話しながら、変な感じがした。声に出すと、頭の中にあったものが急に小さくなった。あんなに重かったのに、言葉にしたら要約できてしまった。 それが少し、怖かった。自分の話なのに、どこか他人の話を整理しているみたいだった。 箸を置いて、湯気の立つ鍋を見た。何も考えていなかった。ただ白菜が煮崩れているのが目に入った。 灯は黙って聞いていた。鍋から豆腐を取りながら、何も言わなかった。全部話し終わったところで、箸を置いた。 「帰りたいですか」 瑠衣は少し考えた。 昔なら違っただろうと思った。家族という言葉に引っ張られて、帰っていた。 でも今は、その言葉が届く前に、別の感覚がある。ここに来てから気づいたことだった。 「帰りたくないです」 考えて選んだ言葉ではなかった。確認したら既にそこにあった。 「それでいいんじゃないですか。あなたも大人なんですから」 鍋に箸を伸ばした。 慰められるより、背中を押されるより、その返し方が一番楽だった。自分の答えが、自分のものになる感じがした。食事が終わった。
灯は地下書庫へ向かった。鞄から小さなメモを出して確認してから降りていった。 台所を片付けた。鍋を洗って、食器を棚に戻して、テーブルを拭いた。リビングの電気を少し落とした。 廊下の先、地下書庫の扉の下から明かりが漏れていた。 親族の誰も知らない人が、数万冊の本の中で何かを探している。 豪邸を建てて、集まりにも呼ばれなくて、それでも毎週ここに来る。 本が読みたいから、と言っていた。それは本当だと思う。ただ、それだけでもない気がした。根拠はなかった。 しばらくそこに立っていた。片付けは終わっている。戻ればいい。なのに足が動かなかった。明かりが消えるのを待っているわけでもなかった。ただ、あの扉の向こうに人がいることが、今夜は妙に落ち着いた。 今日、電話があった。帰れと言われた。帰りたくないと答えた。それだけのことなのに、ひどく遠い話に思えた。あの家の声が、この廊下には届かなかった。 地下書庫の明かりは消えなかった。 ソファに戻って、昼間開いて読まなかった本を手に取った。 今度はページが少し頭に入った。植物学者の随筆だった。 植物は場所を選ばない、と書いてあった。根を張った場所で生きる、とも。それが諦めなのか強さなのか、著者は最後まで書かなかった。 本を閉じて、膝の上に置いた。灯が面白いと言っていた意味が、少しわかった気がした。 灯のことを少し考えかけて、やめた。今夜はそこまでしなくていい。 明かりはまだついていた。仕事帰りの電車の中で、今日の案件を頭の中で整理していた。 クライアントへの確認事項が二点残っていた。明日の午前中に連絡すれば間に合う。企画書の修正は夜にやろうと思っていたが、帰宅してから考えることにした。最寄り駅で降りて、いつもの道を歩いた。 門を開けて、玄関の鍵を差した。扉を開けた瞬間、足が止まった。 革靴があった。 揃えて置かれていた。見覚えのある、状態の良い革靴だった。 口元が少し緩みかけた。気づいて、止めた。 鞄を持ち直して、リビングへ向かった。 気配は地下からした。 書庫の扉が開いていた。明かりがついていた。降りると、灯が脚立の上にいた。白いシャツに黒いパンツ。袖を肘までまくって、上段の本を一冊ずつ取り出して並べ替えていた。 脚立の高さは天井近くまであった。「危なくありませんか」 灯が少し首を傾けた。脚立の上で、手は本棚に向けたまま、こちらを見た。「落ちたことはありません」「そういう問題じゃなくて」「ありがとうございます」 それだけ言って、また本棚に向いた。礼だけ受け取って、心配の続きは受け取らなかった。脚立を降りる動作を横から見ていた。 無駄がなかった。ゆっくりでも速くでもなく、必要な動きだけで降りてきた。四十代だとは思っているが、動きに年齢を感じなかった。「整理しているんですか」「順番が気になったので」「どんな順番ですか」「出版年です。著者別にすると探すとき分かりやすいですが、出版年順にすると時代の流れが見えます」「両方あった方が良くないですか」「どちらかを選ぶ必要があります」 そう言って、また脚立を上った。今日は出版年順を選んだらしかった。 出版年順。著者別より不便に思えたが、灯がそう決めたなら理由があるのだろうと思った。この家の本棚の順番を、自分ではなく灯が決めている。そのことを、おかしいとは思わなかった。 夕食は冷蔵庫にあった残り物に、帰りに買ってきたコンビニの惣菜を足した。大した食事ではなかった。 灯は「いただきま
朝、玄関を見た。 革靴がなかった。当たり前だった。灯は昨夜帰っていた。わかっていたのに、一瞬だけ確認してしまった。 台所へ行くと、流しにコップが一つ置いてあった。灯が使ったものだった。洗われていなかった。洗おうとしたのかもしれないし、そのままにしていったのかもしれない。どちらかは分からなかった。 リビングを見た。椅子がきちんと元の位置に戻されていた。灯が座っていた椅子だった。食事のあと、立ち上がる前に押し込んでいった。そういう人だった。 昨夜誰かがここにいた証拠は、流しのコップと、戻された椅子だけだった。 瑠衣はコップを洗って、支度をして、会社へ向かった。 第一営業局は朝から忙しかった。 メールを開くと昨夜のうちに三件来ていた。一件はクライアントからの修正依頼、一件は社内の会議日程の調整、一件は別案件の納期確認だった。順番に返信した。 電話が鳴った。「江品さん、お世話になっております」メーカーの担当者だった。先週入稿した素材に差し替えが出たという話だった。「分かりました。こちらで対応可能な日程をお調べしますのでお待ちください」 すぐにPCの画面を開く。内容を確認して、対応可能な日程を伝えた。「ありがとうございます。またその日に改めてご連絡させていただきます」 電話が切れた。瑠衣はひとつ息を吐いて、先ほどのやりとりの要点をまとめるためにキーボードに手を置いた。 午前中はそのまま終わった。 昼休みに弁当を食べながら、午後の会議の資料を見直した。修正が必要な箇所が二か所あった。「お疲れ様です、江品さん」 隣のデスクの男性社員、正木が座って来た。「今日も弁当ですか」「はい。確認したいことが多すぎて、外に出る暇がないので」 言葉にしたあと瑠衣はハッとした。正木はランチを終えた後だった。彼は瑠衣の気まずそうに小さく『すみません』と呟いた言葉を聞き逃さなかった。軽く笑った。「江品さんはきっちりした性格なんですね。俺も自分の仕事の進捗が気にならない訳ではないですけど、外に出てリフレッシュするのも大事かなと思って」 正木は紙の資料を整理を始めた。「最近、江品さんなんか頑張りすぎのような気がして。無理しないで下さいね。息抜きとかされてます?」「まぁほどほどには」「なら良かった」 独身とは聞いていたが、正木の笑顔は本心のものだろう
その夜、灯は手ぶらで来た。 革靴はあった。しかし地下書庫へ向かわなかった。鞄もいつもより小さかった。本が入っている鞄の重さを、いつの間にか判別できるようになっていた。今日は入っていなかった。「読むものがなくなったんですか」「そういうわけではないです」 それだけだった。説明はなかった。なぜ来たのかも言わなかった。靴を脱いで、いつものようにリビングへ向かった。 夕食は豚汁と焼き魚だった。 二人分作る方が自然になっていた。それが習慣になったのがいつからなのか、正確には覚えていなかった。灯が来なければ、翌日の朝食に回せばいいだけの話だった。 テーブルについた。食べ始めた。静かだった。 今日は本の話も出なかった。地下書庫の話も出なかった。灯は豚汁を一口飲んで、特に何も言わなかった。瑠衣も特に話題を作らなかった。沈黙が気まずいわけではなかった。ただ静かな食卓だった。 半分ほど食べたところで、灯が口を開いた。「実家には行きましたか」「先週行きました」「どうでしたか」少し考えた。「変わっていなかったです」「そうですか」「帰りたい場所じゃないとわかりました」 灯は頷いた。焼き魚に箸をつけた。 感想も評価もなかった。同情もなかった。ただ聞いて、受け取った。それだけだった。 食事が終わった。灯が皿を重ねた。「いいです、置いておいてください」「そうですか」 本当に置いた。いつもと同じだった。 しばらくソファで本を読んでいたが、今日はいつもより早く帰り支度を始めた。鞄を持って、玄関へ来た。靴を履いた。「ごちそうさまでした」「いえ」 扉が閉まった。 今日、何しに来たのかわからなかった。 本を読みに来たわけでも、探し物があったわけでも、用事があったわけでもなかった。ただ来て、食事をして、少し話して、帰った。 不思議な人だった。 台所を片付けながら、今日の食卓を思い返した。変わっていなかった、と言ったとき、灯は何も言わなかった。帰りたい場所じゃないとわかった、と言ったときも、何も言わなかった。ただ「そうですか」と言った。 それで十分だった。 ソファに戻った。静かだった。 いい夜だと思った。 スマホを手に取った。 画面が光っていた。 真衣からの通知が十七件来ていた。 開いた。写真が大量に送られてきていた。 ホテルのロビー
電車の窓の外に、見慣れた景色が流れていた。 子供のころから何百回と見てきた風景だった。駅のホーム、踏切、団地、川。昔は実家に帰るたびに、この景色が見え始めると少し安心した。もうすぐ帰れる、という感覚があった。 今は何も感じなかった。 それでも電車に乗っていた。本当は来たくなかった。ただもう一度だけ確認したかった。自分の目で見て、肌で感じて、それでも同じ答えが出るなら、次からは迷わなくて済む。そのために来た。 乗り換えが一回あった。乗り換えのホームで、学生のころよく買っていたパン屋が閉まっているのに気づいた。シャッターが降りていた。跡地に別の店が入っていた。 何年前に閉まったのか、知らなかった。 実家の前に立った。 インターホンを押す前に、鍵を持っていることを思い出した。ただ勝手に開けて入る気にはなれなかった。ボタンを押した。「はーい」 母の声がして、ドアが開いた。「久しぶり」「そうですね」「元気そうじゃないか」 父が廊下の奥から顔を出した。 まるで何事もなかったような空気だった。少し拍子抜けした。怒鳴られるとも思っていなかったし、責められるとも思っていなかったが、もう少し何かあるかと思っていた。ただの久しぶりの帰宅として処理されていた。 リビングに通された。 テーブルの上に、カタログが何冊も広げてあった。ベビーベッド、ベビーカー、チャイルドシート。付箋が貼ってあって、母の字でメモが書き込んであった。テレビ台の横にベビー用品の箱が積んであった。部屋の中心が変わっていた。 真衣がソファから立ち上がった。「お姉ちゃん久しぶりー」 いつも通りだった。何も変わっていなかった。声のトーンも、笑い方も、こちらに近づいてくる足取りも、全部あの頃のままだった。「久しぶり」「どこに住んでるの、ちゃんとした家?」「ちゃんとしてます」「良かった。心配してたんだよ」 本当に心配していたらしかった。その顔で分かった。悪意がなかった。何かを演じているわけでもなかった。ただ、心配の中身が少し違う
休日の昼、スマホが鳴った。 母からだった。しばらく画面を見てから出た。「元気?」「まあ、そこそこは」「今どこに住んでるの」「知り合いのところです」 少し間が空いた。「そう」 住所は聞いてこなかった。聞かれても答えるつもりはなかったので、ちょうどよかった。「そろそろ帰ってきなさい」 真衣の出産準備が始まった。手伝いが必要だ。家族なんだから。家族は助け合うべきだ。 母の言い方はいつも同じだった。同じフレーズが何度も続く。瑠衣が口を挟む余地は与えない。 父に代わった。「いつまでも意地張るな」「意地を張っているつもりはないんですが。それに出て行ってくれと言ったのはそちらですよね?」「お前の部屋も空いてる」 (駄目だ、こいつら人の話を聞いちゃいねぇ) 瑠衣は聞こえないように軽く息を吐いた。「赤ちゃんの部屋じゃなかったんですか」 沈黙があった。「なんとかなる」 本気の声だった。なんとかなる、と言いながら、なんとかするのが瑠衣だという前提がすでにあった。「考えておきます」 電話を切った。 ソファに座って、天井を見た。染みのない、均一に白い天井。見慣れてきていた。 帰るかどうか。答えは電話を切った瞬間にはもう出ていた。 別のことを思い出していた。あの夜、父に呼ばれてリビングに行ったら、父の顔が妙に真剣だった。「しばらく家を出てくれ」と言った。理由を聞く前に、自分でわかった。怒りより先に、妙に冷静だった。出ていったのは自分だった。頼まれたから出たのか、自分で決めたのか、今でもよくわからなかった。 本を開いて、読まなかった。灯が地下書庫に置いていった植物学者の随筆だった。ページの上に視線を置いたまま、一行も進まなかった。窓の外で風が木を揺らして、影が床を横切った。それだけ見ていた。母の声でも父の声でもなく、あの夜のリビングの静けさだけが、ずっと耳の奥に残っていた。 夕方、玄関に革靴があった。 珍しく早い時間だった。台所に向かうと
灯が来る日に規則性はなかった。 三日続けて来ることもあれば、十日以上来ないこともあった。本人は「本が読みたい時に来ます」と言っていた。どうやら本当らしかった。来る理由が本で、来ない理由は本が読みたくないから、それだけだった。 今日は玄関に革靴があった。それだけでわかるようになっていた。- 夕食の支度を始めると、灯がスーパーの袋を台所に置いた。珍しかった。持ってきたのは初めてだった。 受け取って中を確認した。 値引きシールの貼られた総菜が一つ。豆腐が一丁。卵が六個入り。全部特売か見切り品だった。 豪邸の主が持ってきた買い物袋の中身とは思えなかった。服も同じだった。くたびれたスーツ。長く使い込まれた革鞄。ブランド品は何一つ見当たらなかった。財布も先週チラリと見えたが、量販店で売っているような黒い二つ折りだった。 三階建ての豪邸に数万冊の本を持っている人間が、見切り品の総菜を買ってくる。 噛み合わなかった。 食事中、灯が箸を置く動きが目に入った。 静かだった。音がしなかった。グラスを持つ指先も、食器を扱う所作も、妙に整っていた。意識してやっているようには見えなかった。むしろ無意識だった。だから余計に目についた。安物のスーツを着ていて、見切り品を買ってきて、それなのに所作だけが場違いなほど洗練されていた。 「叔父さんって、昔お金持ちだったんですか」 「違います」 即答だった。 「じゃあどこで覚えたんですか、そういうの」 灯は少し考えた。 「忘れました」 本当に覚えていないらしかった。 どこで身につけたかを忘れるくらい、長い間そうしてきたということなのか。それとも本当に記憶にないのか。どちらなのか判断できなかった。 「忘れるものですか、そういうのって」 「そうでもないですか」 「普通は覚えてると思います」
瑠衣は今日も仕事で帰りが遅くなった。 "江品"という表札の門をくぐった時に、違和感を感じた。実家なのに、自分が住んでいる家なのに、何か違う感じがした。そしてそれは、玄関に入った時に確信した 玄関に靴が多い。 父のスリッパ、母のパンプス、妹の真衣のスニーカー、それから男物のローファーが二足。 仕事帰り、鍵を回す手が一瞬止まった。いやな予感というより、答えの見えた数式を解く前の感覚に近かった。 リビングのドアを開けると、全員いた。父、母、真衣、婚約者の深内雅之、そして見覚えのある顔が二つ——雅之の両親だ。テーブルを囲んで
金曜日の夜、玄関を開けたら革靴があった。なぜか少し安心した。その事実に気づいて、すぐ気づかないふりをした。スーパーの袋を台所に置いて、地下書庫に向かった。灯は先週と同じ場所にいた。棚の前に立って、背表紙を眺めていた。「こんばんは」「こんばんは」それだけだった。いつも通りだった。夕食を作りながら、考えた。先週来た。今週も来た。偶然が二回続くと、習慣に近い。灯が「普段は別の場所に住んでいて、本が読みたいときだけ来る」と言っていたの
金曜日だった。 仕事帰りの電車の中で、今週を振り返った。同情された。気を遣われた。案件は三件動いた。雅之からまた意味のわからないメッセージが来た。無視した。上司に「本当に大丈夫か」と四回聞かれた。四回とも大丈夫だと答えた。 豪邸に帰るのが、少し当たり前になってきていた。 それが嫌だった。当たり前にしていい場所ではない気がした。でも帰る場所はここしかなかった。 最寄り駅で降りて、いつもの道を歩いた。コンビニに寄ろうか迷って、今日は食材を買おうと思って、駅前のスーパーに入った。何を作るか決めていなかったが、野菜と豆腐と卵を買った。それだけあれ
目が覚めた瞬間、ここが自分の家ではないことを思い出した。 天井が違う。染みがない。高い。白い。 ソファで寝ていた。ベッドは二階にあったが、昨夜は上がる気力がなかった。体を起こすと、リビングの壁一面の本が目に入った。昨日からそこにあった本が、今朝もそこにあった。当たり前だった。 スマホを見た。会社からの着信が二件入っていた。上司の番号だった。折り返した。 「無理して来なくていいぞ」 「出ます」 少し間があった。 「そうか」 それだけだった。電話が切れた。シャワーを浴びて、スーツに着替えた。 株式会社オルビット・コミュニケーションズ。広告代理店。勤続六







