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9話「家族からの連絡」

مؤلف: 団紡るう
last update تاريخ النشر: 2026-06-24 05:00:22

 休日の昼、スマホが鳴った。

 母からだった。しばらく画面を見てから出た。

「元気?」

「まあ、そこそこは」

「今どこに住んでるの」

「知り合いのところです」

 少し間が空いた。

「そう」

 住所は聞いてこなかった。聞かれても答えるつもりはなかったので、ちょうどよかった。

「そろそろ帰ってきなさい」

 真衣の出産準備が始まった。手伝いが必要だ。家族なんだから。家族は助け合うべきだ。

 母の言い方はいつも同じだった。同じフレーズが何度も続く。瑠衣が口を挟む余地は与えない。

 父に代わった。

「いつまでも意地張るな」

「意地を張っているつもりはないんですが。それに出て行ってくれと言ったのはそちらですよね?」

「お前の部屋も空いてる」

 (駄目だ、こいつら人の話を聞いちゃいねぇ)

 瑠衣は聞こえないように軽く息を吐いた。

「赤ちゃんの部屋じゃなかったんですか」

 沈黙があった。

「なんとかなる」

 本気の声だった。なんとかなる、と言いながら、なんとかするのが瑠衣だという前提がすでにあった。

「考えておきます」

 電話を切った。

 ソファに座って、天井を見た。染みのない、均一に白い天井。見慣れてきていた。

 帰るかどうか。答えは電話を切った瞬間にはもう出ていた。

 別のことを思い出していた。あの夜、父に呼ばれてリビングに行ったら、父の顔が妙に真剣だった。「しばらく家を出てくれ」と言った。理由を聞く前に、自分でわかった。怒りより先に、妙に冷静だった。出ていったのは自分だった。頼まれたから出たのか、自分で決めたのか、今でもよくわからなかった。

 本を開いて、読まなかった。灯が地下書庫に置いていった植物学者の随筆だった。ページの上に視線を置いたまま、一行も進まなかった。窓の外で風が木を揺らして、影が床を横切った。それだけ見ていた。母の声でも父の声でもなく、あの夜のリビングの静けさだけが、ずっと耳の奥に残っていた。

 夕方、玄関に革靴があった。

 珍しく早い時間だった。台所に向かうと、灯がすでに地下書庫から上がってきていて、テーブルの横に鞄を置いていた。手ぶらだった。

「今日は早いですね」

「近くに用事があったので」

「そうですか」

 夕食の準備を始めた。今日は鍋にしようと思っていた。一人分より二人分の方がちゃんとした食事になると気づいてから、灯が来る日の夕食は品数が少し増えていた。

 野菜を切りながら、昼間の電話のことを思い出した。

「親族の中で、叔父さんのことを知っている人っているんですか」

「いないでしょうね」

 手が止まった。

「そんなものなんですか」

「そんなものです」

 淡々としていた。聞かれたから答えた、という感じだった。

「会ったことがないんですよ、今まで。親戚の集まりにも来てないし、父からも話を聞いたことがなくて」

「親族の集まりには行きません」

「なんでですか」

「呼ばれないので」

 それだけだった。続きを待ったが、なかった。呼ばない理由が親族側にあるのか、来ない理由が灯側にあるのか。どちらを聞いても答えは返ってくる気がしたが、聞いてしまうと何かが変わる気がして、やめた。もう少し後でいい。

 白菜を鍋に入れた。灯は椅子を引いて座り、テーブルに肘をついて黙っていた。台所に人がいるのに静かだった。邪魔でもなく、気を遣っているわけでもない。ただそこにいた。その感じに、最近少しずつ慣れてきていた。

 鍋が煮えた。二人でテーブルについた。

 しばらく無言で食べてから、昼間の電話の話をした。

 母から連絡があったこと。戻ってこいと言われたこと。真衣の出産準備が始まって人手が必要なこと。帰れば部屋があると言われたこと。その部屋は先月まで赤ちゃんの部屋になる予定だったこと。

 話しながら、変な感じがした。声に出すと、頭の中にあったものが急に小さくなった。あんなに重かったのに、言葉にしたら要約できてしまった。

 それが少し、怖かった。自分の話なのに、どこか他人の話を整理しているみたいだった。

 箸を置いて、湯気の立つ鍋を見た。何も考えていなかった。ただ白菜が煮崩れているのが目に入った。

 灯は黙って聞いていた。鍋から豆腐を取りながら、何も言わなかった。全部話し終わったところで、箸を置いた。

「帰りたいですか」

 瑠衣は少し考えた。

 昔なら違っただろうと思った。家族という言葉に引っ張られて、帰っていた。

 でも今は、その言葉が届く前に、別の感覚がある。ここに来てから気づいたことだった。

「帰りたくないです」

 考えて選んだ言葉ではなかった。確認したら既にそこにあった。

「それでいいんじゃないですか。あなたも大人なんですから」

 鍋に箸を伸ばした。

 慰められるより、背中を押されるより、その返し方が一番楽だった。自分の答えが、自分のものになる感じがした。

 食事が終わった。

 灯は地下書庫へ向かった。鞄から小さなメモを出して確認してから降りていった。

 台所を片付けた。鍋を洗って、食器を棚に戻して、テーブルを拭いた。リビングの電気を少し落とした。

 廊下の先、地下書庫の扉の下から明かりが漏れていた。

 親族の誰も知らない人が、数万冊の本の中で何かを探している。

 豪邸を建てて、集まりにも呼ばれなくて、それでも毎週ここに来る。

 本が読みたいから、と言っていた。それは本当だと思う。ただ、それだけでもない気がした。根拠はなかった。

 しばらくそこに立っていた。片付けは終わっている。戻ればいい。なのに足が動かなかった。明かりが消えるのを待っているわけでもなかった。ただ、あの扉の向こうに人がいることが、今夜は妙に落ち着いた。

 今日、電話があった。帰れと言われた。帰りたくないと答えた。それだけのことなのに、ひどく遠い話に思えた。あの家の声が、この廊下には届かなかった。

 地下書庫の明かりは消えなかった。

 ソファに戻って、昼間開いて読まなかった本を手に取った。

 今度はページが少し頭に入った。植物学者の随筆だった。

 植物は場所を選ばない、と書いてあった。根を張った場所で生きる、とも。それが諦めなのか強さなのか、著者は最後まで書かなかった。

 本を閉じて、膝の上に置いた。灯が面白いと言っていた意味が、少しわかった気がした。

 灯のことを少し考えかけて、やめた。今夜はそこまでしなくていい。

 明かりはまだついていた。

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