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11話「灯、また来る」

Penulis: 団紡るう
last update Tanggal publikasi: 2026-06-26 03:29:02

 その夜、灯は手ぶらで来た。

 革靴はあった。しかし地下書庫へ向かわなかった。鞄もいつもより小さかった。本が入っている鞄の重さを、いつの間にか判別できるようになっていた。今日は入っていなかった。

「読むものがなくなったんですか」

「そういうわけではないです」

 それだけだった。説明はなかった。なぜ来たのかも言わなかった。靴を脱いで、いつものようにリビングへ向かった。

 夕食は豚汁と焼き魚だった。

 二人分作る方が自然になっていた。それが習慣になったのがいつからなのか、正確には覚えていなかった。灯が来なければ、翌日の朝食に回せばいいだけの話だった。

 テーブルについた。食べ始めた。静かだった。

 今日は本の話も出なかった。地下書庫の話も出なかった。灯は豚汁を一口飲んで、特に何も言わなかった。瑠衣も特に話題を作らなかった。沈黙が気まずいわけではなかった。ただ静かな食卓だった。

 半分ほど食べたところで、灯が口を開いた。

「実家には行きましたか」

「先週行きました」

「どうでしたか」

少し考えた。

「変わっていなかったです」

「そうですか」

「帰りたい場所じゃないとわかりました」

 灯は頷いた。焼き魚に箸をつけた。

 感想も評価もなかった。同情もなかった。ただ聞いて、受け取った。それだけだった。

 食事が終わった。灯が皿を重ねた。

「いいです、置いておいてください」

「そうですか」

 本当に置いた。いつもと同じだった。

 しばらくソファで本を読んでいたが、今日はいつもより早く帰り支度を始めた。鞄を持って、玄関へ来た。靴を履いた。

「ごちそうさまでした」

「いえ」

 扉が閉まった。

 今日、何しに来たのかわからなかった。

 本を読みに来たわけでも、探し物があったわけでも、用事があったわけでもなかった。ただ来て、食事をして、少し話して、帰った。

 不思議な人だった。

 台所を片付けながら、今日の食卓を思い返した。変わっていなかった、と言ったとき、灯は何も言わなかった。帰りたい場所じゃないとわかった、と言ったときも、何も言わなかった。ただ「そうですか」と言った。

 それで十分だった。

 ソファに戻った。静かだった。

 いい夜だと思った。

 スマホを手に取った。

 画面が光っていた。

 真衣からの通知が十七件来ていた。

 開いた。写真が大量に送られてきていた。

 ホテルのロビー、プールサイド、オーシャンビューの客室、サンセットの写真。全部、パンフレットか公式サイトのスクリーンショットだった。

 メッセージが続いていた。

『お姉ちゃん、結婚式ありがとね〜!無事に終わって超サイコーだった💕』

 結婚式の話だった。自分の姉の結婚式を乗っ取った式を、超サイコーと表現していた。

 続きを読んだ。

『安定期に入ったから雅之くんとハワイにハネムーン行く予定なんだ〜✈✨』

 次のメッセージ。

『妊婦の海外旅行はちょっと危ないってお母さんは心配してるけど、ハワイなら日本語通じるしへーきへーき!雅之くんのお仕事の有給、真衣が使ってあげるの』

 読み返した。一度では処理できなかったので、もう一度読んだ。

 有給を使ってあげる、と書いてあった。雅之の有給を。その有給で周囲の仕事のしわ寄せがどれだけ来ると思っているのか、この脳内お花畑は知らない。

 さらに続いていた。

『雅之くんの好みのホテルの部屋とかテイスト知ってたら教えて! お姉ちゃん広告代理店ならハワイの情報にも詳しいと思って~』

瑠衣はスマホを置いた。

 天井を見た。

 怒りが来るかと思ったが、来なかった。悲しみが来るかと思ったが、それも来なかった。来たのは、静かな呆れだった。怒りを通り越した先にある、乾いた感覚だった。

 広告代理店に六年いて、扱った案件の中に医療系のタイアップがあった。ブライダル関連のデータも触ったことがあった。妊娠中の海外渡航リスクについて、資料をまとめたことが一度あった。

 安定期とはいえ、妊婦の海外旅行には相応のリスクがある。

 現地で早産や合併症が起きた場合、海外では健康保険が適用されない。民間の旅行保険も、妊娠関連のトラブルは補償対象外のものが多い。

 これは医療の専門知識ではなく、資料作成の過程で把握した一般的な情報だった。なんなら今はAIもある時代だ。調べれば三十分もかからずにで出てくる内容だった。

「ハワイなら日本語通じるしへーきへーき」と書いた真衣は、その三十分を使っていなかった。

 そして雅之もそれを調べていないか、調べた上で真衣に流されていた。

 元婚約者として雅之のことはある程度知っていた。優柔不断だった。決断を求められると相手の顔色を見た。真衣が行きたいと言えば、リスクを調べる前に「そうしよう」と言う人間だった。

 その程度の判断力の男だった。婚約していた頃から変わっていなかった。ただ、当時は瑠衣がそのたびに調べて、確認して、リスクを整理していた。今はそれをする人間がいなかった。

 真衣と雅之は二人で、調べないまま決めて、調べないまま進む。

 その先に何があるかは、確率の話だった。うまくいくかもしれなかった。ただ、うまくいかない可能性を一切考えていない人間が、うまくいかない状況に直面したとき何が起きるかも、だいたい想像できた。

 スマホを持ち直した。

 真衣のトーク画面を開いた。通知設定を変えた。非表示、通知オフ。画面から消えた。

 返信はしなかった。

 雅之の好みのホテルのテイストを教える義理はなかった。妊婦の海外旅行のリスクを教える義理もなかった。真衣は聞いていないし、聞いたとしても信じないし、信じたとしても行くと言うだろう。その判断は真衣がするべきことだった。瑠衣がするべきことではなかった。

 スマホを置いた。

 部屋が静かだった。

 さっきまで灯がいた。食事をした。「変わっていなかった」という話を聞いてもらった。それだけのことだったが、今夜の記憶として残っているのはそちらだった。

 真衣のメッセージは、読んだという事実だけが残った。それ以上でも以下でもなかった

 ソファに深く座った。

 あの二人の行く先を、瑠衣は心配しなかった。

 今夜は関係のない話だった。

 真衣がまた非通知でメッセージを送って来たらしいが、見ないことにした。

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