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四十八話:交わらない道の上で

مؤلف: 渡瀬藍兵
last update تاريخ النشر: 2025-06-01 19:03:14

 美琴の言葉が、ようやく静江の心の殻に届こうとしていた——その時だった。

 背後に、気配がひとつ。

「……君たち」

 聞き覚えのある声だった。悠斗と美琴が振り返り、静江もまた扉の隙間から目を向ける。三人の視線が、同じ方角に集まった。

 街灯の下に立っていたのは、紺色のくたびれたスーツを着た男だった。肩の線が疲労でわずかに下がり、ネクタイは緩められている。仕事帰りだろう。その片手には、スーパーの白いビニール袋が提げられていた。

 詩織の婚約者——竹中。

「竹中さん?」

 悠斗は思わず声を上げた。こんな場所で、こんな時間に。偶然にしては出来すぎている。

「……竹中」

 静江の声が、一段低くなった。目がすっと細まる。美琴の言葉でわずかに緩みかけていた表情が、再び硬質なものに塗り替わっていく。

「……何しに来たんだい」

「……お義母さん。彼らの話を聞いていたでしょう?」

 竹中の声は穏やかだった。責めるでもなく、媚びるでもなく、ただ静江のそばに寄り添うような響きを帯びている。

「お義母さんと呼ぶな!!  あたしゃあんたたちの結婚を認めたつもりはないよ!」

 静江の怒声が夜の住宅街に弾けた。どこかの家の窓明かりが、一瞬ちらりと揺れる。

 美琴が口を開いた。

「……竹中さんはどうしてこちらに?」

「静江さんに、食材を届けに来たんですよ」

 悠斗の目が、竹中の手元に落ちた。スーパーの袋の中に、野菜や豆腐、パックに入った魚が覗いている。一人暮らしの食卓を想定したような、控えめだが過不足のない量だった。

「……っ」

 静江の息が詰まった。扉を掴む指から、わずかに力が抜ける。

「いままで玄関の入口に置いてあった食材は……あんただったのかい」

 その声には、怒りの残滓と、それを上回る動揺が入り混じっていた。知らなかったのだ。玄関先にいつの間にか置かれていた食材——その送り主を、今この瞬間まで。

「……わざわざ言うことじゃありませんから。それに、詩織ならきっとあなたを気にかけてと言うと思ったんです」

 竹中の声は淡々としていた。恩を着せる色はどこにもない。ただ当然のことをしてきたという静けさだけが、その言葉の底に流れている。

「……なんだい。あんたは一体なんなんだい……」

 静江の声が掠れた。怒りでも拒絶でもない。堰き止めていたものが、小さな罅から滲み出すような声音だった。

「……憎んでんじゃ……ないのかい……」

「僕が静江さんを憎む理由なんてありませんよ。だって、あなたは詩織を産んでくれたんですから。感謝こそすれ、あなたを憎むなんて有り得ません」

「……!」

 静江の唇が震えた。何かを言い返そうとして、言葉にならない。喉の奥で声が潰れ、代わりに目元だけが赤く滲んでいく。

「静江さん、僕たちの時間はあの日たしかに止まってしまいました。でも、こうして前を向くきっかけが出来たんです」

 竹中が一歩踏み出した。悠斗と美琴の間をすり抜け、静江の前に立つ。その手が、閉じかけていた扉にそっと触れた。力ではなく、ただ添えるように。

 扉が、ゆっくりと開いていく。

 再び姿を現した静江は、さっきまでとは別人のようだった。怒りの鎧が剥がれ落ち、その下にあったのは、痩せた肩と、深い疲労を刻んだ顔。けれどその目だけが、かすかに潤んで揺れていた。

 竹中が悠斗と美琴に向き直った。

「あの時、初めて会った時からあなたたちには、他の人とは違う何かを感じていたよ」

「えっ?」

「言っただろう?  あそこには面白半分で現れる人が大半を占めていたんだ。でも、あなたたちは違った」

 竹中の声は穏やかだが、確かな重みを帯びていた。言葉のひとつひとつを、自分の中で確かめてから口にしているような間がある。

「その言葉には死者を……詩織を思う気持ちをたしかに感じたんだ」

 そう言って、少し気恥ずかしそうに頬を掻いた。視線を逸らし、それからまた戻す。その仕草に、不器用な誠実さがにじんでいる。

「話を聞いていたのですか?」

 美琴が尋ねた。

「すまない。盗み聞きをするつもりはなかったんだ。でも、静江さんの様子をみてただ事じゃないと思って」

「……僕たちを信じてくれるんですか?」

 悠斗は恐る恐る口を開いた。彼の声が、まだどこか震えているのが聞き取れる。

「僕たちがこんな状況でなければ、きっとさっきの話も受け入れられなかっただろう。でも、信じざるを得ないことがいくつもあるだろう?」

 竹中の目が、真っ直ぐに悠斗を見ていた。

「あの事件となんの関係も持たないあなたたちが、どうやって詩織の家を、静江さんを知ることが出来る?  どうやってここへ?」

「——そう考えると、にわかには信じがたい話だが、そういうことなんだろう」

「……ありがとうございます」

 美琴が深く頭を下げた。折り目正しく、背筋の通った一礼だった。

「いいんだ。それより、わざわざここに来たということは何かをして欲しいんだろう?」

 竹中の声に、余計な感傷はなかった。信じると決めたなら、次は行動だ——そう言外に語るような、簡潔な問いかけ。

 「静江さんには私たちと共に、風鳴トンネルへ来ていただきたいのです」

「なるほど。それはとても難しい話だね……」

 竹中が低くこぼした。腕を組み、視線を地面に落とす。

「静江さん、どうしますか?」

 強制ではない。選ぶのはあなただ、と——その声はそう言っていた。

「…………。嬢ちゃん」

 静江が顔を上げた。その目は、もう拒絶の色を失っていた。代わりにあるのは、長い年月をかけて積もった疲弊と、その奥でかすかに灯る何か。

「はい」

「……さっき言ってたね。あの子は私を裏切ったと思ってるって。あたしに会うのを恐れてるって……」

「はい。たしかに言いました」

「……それはあたしもおなじさね」

 静江の声が、ひとまわり小さくなった。怒鳴ることも、突き放すこともやめた声。二十年分の重さが、そのまま言葉に乗っている。

「もうずっと、あのトンネルには寄り付いていないよ。あたしも……あの子に憎まれてると思うと怖かったんだ……」

 その一言が落ちた瞬間、玄関先の空気が変わった。蝉はもう鳴いていない。虫の声すら遠い。静江の告白だけが、夜の住宅街にぽつりと残された。

 母もまた、怯えていた。娘に拒絶されることを。憎まれていることを。二十年間、互いが互いを恐れたまま、同じ街の中ですれ違い続けていた。生者と死者という、決して交わらない道の上で。

「そうですよね。後悔していても、あのトンネルへ近寄ることもできない……。それは非常に辛いことだと思います」

 美琴の声は穏やかだった。同情ではなく、理解だった。静江の痛みをそのまま受け止めて、否定も肯定もせず、ただそこに在ることを認める声。

「でも、今ならそれも乗り越えられます。私が、先輩が……そして竹中さんが、あなたのことを支えます」

 美琴の目が、竹中へ向いた。

「そうでしょう?  竹中さん」

「……はは。君は交渉が上手そうだね」

 竹中が笑った。困ったような、けれどどこか清々しい笑みだった。断る理由を探す気配は、そこにはない。

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     ──────────────── 『私は……何のために生まれてきたんだろう』 「……君にしか成し得ないことがあったからだ」 『でも、そこに私の気持ちが入り込む隙間なんてなかった』 「君は、それでもその命を燃やし続けた。鮮やかに——春になれば咲いては散る桜のように…」 「君が成し遂げたことは無駄ではない。払った代償はたしかに大きかった。だが、私は知っている。……私こそが、君がここにいた証だ」  ─────────────────  桜が、ひらひらと舞っていた。  淡い花びらは春の風にほどかれ、街のいたるところへ静かに降り積もってゆく。見上げれば枝という枝が薄紅に霞み、目を落とせ

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