Masuk昼下がりの学院食堂は、銀の食器が並び、香ばしい匂いに包まれていた。
列に並びながら、私は胸の奥で何度も反芻していた。(”俺も期待している”……殿下が、私に。ああ、きっと私は正しい道を歩いている。ヒロインとして……!)
胸が熱くなり、思わず口元が緩む。
トレーを持ちながら笑みを浮かべていると、背後から花で笑う声がした。「まぁまぁ、随分と幸せそうね、サフィーさん」
振り向けばモニカが立っている。取り巻きが二人、扇のように左右に並んでいる。当然扇子も持っている。
「そのスープ、少し味が足りないのではなくて?」
意地の悪そうな笑みをしながら、彼女は隠していた小瓶から山盛りの塩を振りかけた。
真っ白な粒が表面を覆い、香りは一瞬にして台無しになってしまう。「きゃははっ!」
「庶民の味には、ちょうどいいんじゃない?」
「これで”殿下に期待される舞台女優様”の昼食ですって!」
笑い声が突き刺さる。
スプーンを握る手が震え、涙がにじみそうになった。(これは……ゲームのイベント。いじめに耐えれば、必ず救いがある。大丈夫、私はヒロインなんだから……!)
「いい加減になさい、モニカ!」
振り向くと、食器を片手にアプリルが立っていた。
どうやら食べ終わった食器を洗っていたみたい。 エプロンは少々濡れているからそうみたい。 そんな彼女は背筋はまっすぐで、瞳は凛としていた。「他人の食事に手を加えるなど、下劣の極みですわ。それでも貴族の令嬢と名乗れるのかしら?」
「なっ……あなたに言われたくはありませんわ!」
「そうよ。洗いかけの食器を手にしている貴女に……」
「あら、貴女達はかつてわたくしの取り巻きだったのでは?」
「それはそれ、今は……」
モニカは顔を赤らめて、周囲を見回す。
追従していた取り巻きも、徐々に言葉がすぼんでいて気まずそうに目を逸らそうとしていた。「破滅した身だからこそ、分かることもありますの。貴女達の振る舞いは、決して誇りとは呼べませんわ」
アプリルの声音は冷たく、けれど揺るぎなかった。
モニカは舌打ちをして取り巻きを連れて、足早に去っていく。 残された沈黙の中で、私は震える声を絞り出した。「……ありがとうございます」
「礼など不要ですわ。すぐに新しいの持ってきますわ」
アプリルは淡々と答え、布で食器を拭きながら背を向けた。
少しして新しいスープが運ばれてくる。「ただ同じ過ちは繰り返したくないだけですの」
その言葉が胸に残り、私はスプーンを握り締めた。
(ヒロインなのに、悪役令嬢に助けられるなんて……)
混乱と戸惑いで、胸の鼓動は収まらなかった。
その夜、食堂での出来事を思い返しながら、私は机に向かった。 アプリルは日誌を書き終えて眠りについている。(殿下が”期待している”と仰った……なら、私がすべきことは一つ。勉強を頑張って、殿下に相応しいヒロインになること!)
翌日、私は図書館へ足を運んだ。
まだまだ足りないと思ったから。 前にも来たことがあるから、場所は分かっている。 高い天井に並ぶ本棚、静謐な空気。 ここに居るだけで賢くなった気分になる。 そう思いながらも分厚い本を抱えて席につき、必死にペンを走らせる。(大丈夫……きっと試験で結果を出せば、殿下に褒めてもらえる。ゲームでも、ここはヒロインの努力が報われる大切な場面だったはず!)
そう信じ、ページをめくる指に力を込めた。
でも、背後からまたもや声が降ってきた。「まぁ、またお勉強? 庶民出身のあなたが点を取るのは、きっと難しいでしょうね」
モニカとその取り巻き達がくすくすと笑う。
「”ご優秀なサフィー様”でも、頭の良さまでは取り繕えないんじゃなくて?」
「きゃははっ!」
胸が締め付けられ、視界が滲む。
(違う……私は殿下に期待されている。頑張れば……!)
必死に言い聞かせながら、羊皮紙に目を落とす。
その時、鋭い声が館内に響いた。「静かになさい、モニカ。前にも言った通り、ここは学びの場ですわ」
振り返れば、書架の隙間からアプリルが姿を現した。
埃を払うための布を片手に、じっとモニカを見据えている。「だからアタシ達は本を読みに来たのよ」
「ならば尚更、声を慎むべきですわ。他の方々に迷惑になるのが分からない貴女達ではないでしょう」
言葉は淡々としていたが、その眼差しは揺るぎなく、静かな威厳に満ちていた。
モニカは一瞬たじろぎ、唇を噛んだまま取り巻きと共に去って行った。 静けさが戻ると、アプリルは何事もなかったように再び布を手に取って、机の埃を拭き取った。「……ありがとうございます」
思わず声をかけると、彼女は振り向かずに答えた。
「礼は要りませんわ。規律を守るのは当然ですから」
その冷ややかな横顔を見つめながら、私は唇を噛んだ。
(……やっぱり冷たい。でも、それでも……どうしてか。気になってしまう)
ページを閉じても、胸の鼓動は収まらなかった。
冷たいと思っていたはずのその姿が、頭から離れない。 気づけば私は、彼女の立ち振る舞いを目で追ってしまっていた。(どうして……悪役令嬢だったはずの人が、あんな風に毅然とできるの?)
答えは見つからないまま、私は本を抱えて図書館を後にした。
けれど、この日の出来事は、確かに私の中でアプリルへの印象を少し変えてしまっていた。宿に戻る頃には、街はすっかり夜の顔になっていた。 石畳の通りには橙色の灯りがともり、昼間の喧騒が嘘のように落ち着いている。「ふぅ……」 部屋に入った瞬間、私は思わず息を吐いた。 身体は疲れているはずなのに、どこか心地よい。「お疲れ様です、サフィーさん!」 ロータスはそう言いながら、窓を少し開けて夜風を入れる。 アプリルは椅子に腰を下ろし、静かに手袋を外した。「さて……本日の成果を確認しましょうか」 その一言で、空気が少し引き締まる。 私は露店で使っていた布袋を、そっと机の上に置いた。 一瞬だけ、私達は言葉を止める。「じゃ、じゃあ……これが、今日の売り上げ」 袋の口を開くと、銅貨と銀貨が控えめな音を立てて転がった。 思っていたよりも、ずっしりとしている。「……思った以上ですわね」 アプリルは一枚一枚、丁寧に貨幣を数えていく。 その手つきは、メイドとして学院で書類を確認していた頃と同じくらい落ち着いていた。「干し果物が一番出ていますね。次が干し肉、香草袋も、伸びています」 ロータスは帳簿を開きながら、素早く計算していく。 こんなに能力があるなんて、一緒にいて頼もしいね。だから学院のメイドとして働いていたのかもね。 紙の上で数字が整っていくたびに、私の胸が少しずつ高鳴った。「……合計すると、日銭としては十分すぎるくらいです」「え、そんなに……?」「そうね。二日目としては、かなり良い売り上げですわ」 アプリルは顔を上げ、はっきりと言い切った。 その声には、評価と安堵が混じっている。「サフィー、貴女はちゃんと”商い”をしていますわよ」 アプリルのその言葉に、胸の奥がじんと熱くなった。 この街の人達に顔を覚えてもらった、この事に私は嬉しくなる。「私、失敗すると思ってた」 ぽつりと零れた本音。 二人は何も言わず、続きを待ってくれる。「ギルドに止められて、怒られて……何も出来ずに終わるんじゃないかって。ニコラさんの露店を潰してしまう事になるのかなって」「でも、終わらなかったですよ! 続いています!」 ロータスが、ぱっと笑顔を向ける。 本当に元気ね、ロータスって。「むしろ、始まった感じです!」 その明るさに、思わず笑ってしまう。「ええ」 アプリルも小さく頷いた。「貴女は今日、”誰かの役に立つ”ことを
太陽が斜めに傾き始め、露店通りに長い影が伸びる頃だった。 今日もだいぶ売れた商品を整えながら、私はほっと息をついた。(……こんなに売れるなんて、思わなかったな) 干し果物の箱はもう底が見えているし、干し肉も半分以上無くなっている。 香草袋も、午前は全然出なかったのに、午後に入ると立て続けに そこへーー「……これは、想像以上ですわね」 聞き慣れた、芯のある気品を含んだ声が背中から届いた。「アプリル……!」 振り向くと、淡い旅服の裾を揺らしながら、アプリルが立っていた。 仕事の疲れがあるはずなのに、その赤い瞳は驚きと嬉しさで輝いている。「サフィー、随分と繁盛しているじゃないの。まさか……ここまでとは思いませんでしたわ」「え、えへへ……ちょっと頑張っただけで……」 と言いながらも、褒められて胸がくすぐったい。「サフィーさん! 本当に……すごいです!」 息を弾ませながら、ロータスも駆け寄ってきた。 ワインレッドの髪を揺らし、手には自分の帳簿道具が抱えられている。「見てください、在庫……! もう半分以上減っていますよ!」「う、うん……売れちゃった」「売れちゃった、ではありませんわ。これは立派な”成果”ですわよ」 アプリルは棚の上をざっと確認し、頷く。「商品がなくなり始めたということは、客がついた証です。しかも見てくださいな、通りすがりの人が何度も看板を見ていますわ」 確かに。 看板の前で立ち止まって、覗き込む人が増えている。 午前とは比べ物にならない反応。(すごい……こんなに見られてるんだ)
女性が出ていった後、少し様子を見ていた人が話しかけてきた。「さっきの……肩もみ? 結構、気持ちよさそうだったわね」 気になっていたんですね。 この街では、見知らぬ相手にも気軽に声をかける風習があるらしい。「は、はい……良かったら、お試しできますよ」「……今日はやめとくけど、また来るかもね」 女性は行っちゃったけれども、来てくれるのかな。 期待しておこうかな。「すみません、干し葡萄を二袋ください!」「はい、ただいま!」 私は露店の商品を売っていく。 そこからしばらく、商品が売れていく感じになっていた。 まあ、そんな次々と来るわけじゃないですよね。 干し肉を売りながら思いました。 看板を何人かが見ていて、気になっている人が居ない訳じゃないから。 ”気にしてくれている”という事実だけで、胸の奥が温かかった。(うまくいくかも……?) そう思い始めた時だった。「おい、嬢ちゃん。その看板……本気なのか?」 旅人らしい大柄な男性が立ち止まっていた。 結構な装備だから、砂漠を歩いてきたのかな。「はい、ちゃんとやっています!」「昨日の砂漠歩きで肩が死んでいるんだ。ちょっと頼むわ」「どうぞ、こちらへ!」 椅子に案内して、肩に触れた瞬間、固く張り詰めた筋肉が伝わる。 部活でやった時でもここまでは、そう居なかった気がした。「うわ……これは結構……」「おぉ、そこだ! そこが痛ぇんだ……!」 まずは肩をさすって温めたあと、最初の女性よりも強めに揉んでいく。 揉みほぐすたび、旅人の表情がみるみる変わっていく。「&
ギルドの人達が去った後、昨日と同じようにお客さんがやってきて、品物を買っていく。 お客さんは昨日よりも多いような。 ニコラさんが居なかったから悩んで来なかった人も来ているのかもしれない。「あら、この干し葡萄、前より袋が綺麗ね。あなたが詰めたの?」 主婦らしい女性がやってきた。 私が袋詰めした果物を手にして見ていた。「はい、少しでも美味しく見えるようにしてみました!」 これはちょっと工夫してみたもの。 売れるためには、ちょっとだけ工夫した方が良いと思ったから。「そうなのね、じゃあ二袋ちょうだい。手が丁寧だと信頼できるわね」「ありがとうございます!」 この人からそう言われて嬉しく感じる。 様々な人が買ってくれて心が満たされるようだった。「この香草袋、良い香りがするね」 隣のお店の邪魔にならないけれども、この露店の前を通りかかった人達の足を止めるくらいには、この香草からは良い香りが出てくる。 この女性も立ち止まってくれた。「そうなんです! これって癒されるんですよ」「貴女の雰囲気もあって、買いたくなるのよ」「嬉しいです!」 私は微笑みながら買ってくれた女性に感謝する。「嬢ちゃん、干し肉はまだ残っているのか? 昨日買ったのが思ったより旨かったからさ」「ありますよ! 固いですけれど、長旅にはちょうど良いと思います」「そうそう、それそれ。三つ頼む」 私は干し肉を袋に包んで渡す。「お買い上げありがとうございます!」 旅人が旅の準備として買っていったりしてくれる。 あの砂漠を越えたり、別の場所へ向かったりするから。 お昼までこんな調子で時間が過ぎていった。 少しお客さんが少なくなった時間では、在庫整理を行ったり、香草袋を並べ直したりする。「……肩もみ? 頭のマッサージ? へぇ……珍しいわね」
「よし、今日も頑張ろう!」 翌朝、私は昨日と同じ時間に、宿を出た。 露店の布をめくって、木箱を並べながら深呼吸をした。 昨日よりも人が多い気がする。 緊張で喉が渇くけれど、逃げるわけにはいかない。 ニコラさんの代わりに店番をすると言ったのは、他でもない私なのだから。「今日も……頑張ろ」 朝の日差しに、店先の金属製の飾りがきらりと光った。 今日から店先にはもう一つ看板を置いて。 昨日アプリル達の仕事を聞いて、焦ったから置いてみたものだったり。 少しして、最初のお客さんが来た。 干し果物を手に取りながら。「嬢ちゃん、あのお兄さんは今日も居ないのかい?」「はい。用事でしばらく不在だそうです」「へえ、珍しいねえ。まあいいや、これ三つちょうだい」 思ったより自然に返事が出来て、自分でも驚いた。 どこか、胸の中があたたかい気分になる。 でもその安堵を破る出来事は、突然やってきた。「失礼。商業ギルドの者だ」 影を刺すように、青い外套の男が三人。 胸には商業ギルドの紋章が光っている。 彼らを見た露店街のざわめきがすっと引いた。(……ギルド!? こんな早く来るの!?) 喉の奥がひゅっと縮む。 客だったおじさんが気まずそうに離れていく。「この店の主は?」「えっ……えっと……私が今、代わりを……!」「代理? では”代理人承認書”を見せてもらおう」 承認書なんて……そんなの、もらってない。 ニコラさん、何も言っていなかった。 胸がぎゅっと痛む。「あ、あの……書類は……」「まさか無許可の店番ではない
日が昇るにつれて、客も増えていった。「この干し果物、試食出来るのかい?」「はい、どうぞ!」「お、うまいじゃないか! 二袋くれ!」 毎回おどおどしていたけれど、少しずつ慣れていくのが分かった。 子供が駆け寄ってきて、売り物の石を手にしていた。「このキラキラした石、きれい! いくら?」「それは……えっと……これくらいだよ」「おこづかいで買える!」 そう言って笑った子供に、私の胸も温かくなった。 ーーああ。 断罪とか、破滅とか、あの舞台の冬みたいな世界とは全然違う。 ここではただ人と話、人と笑い、人から必要にされている。 それだけで、夢が救われていくようだった。「どう? ちゃんと出来ていますの?」 夕方、店仕舞いの準備をしていると、アプリルが仕事終わりに様子を見に来た。「うん……午前はちょっと失敗しちゃったけれど、でも、ちゃんと売れたよ!」「そう。よく頑張ったわね」 アプリルは珍しく、ほんの少し目を細めて微笑んだ。「サフィー、貴女……”誰かのために動いて、誰かに認められる”ことが好きなのね」「え……?」 まるで私のことが分かるみたいに、話していた。「学院ではあれほど空回りしていたのに、今日はとても自然に見えるもの」 胸がくすぐったくなり、思わず目をそらした。「う、うん……だって、嬉しいんだもの。誰かが笑ってくれるのって……」「ええ。その気持ち、大切にしなさい」 アプリルの声は、砂漠の夜の風よりも柔らかかった。 今日の店番は何とか終わった。「ふぅ……ちょっと疲れたね」 宿に戻り、ベッドに腰を