LOGIN「先生は意地が悪い」
「お宅の組長には負ける」「……返事に困るようなことを言わないでくれ」 気持ちが解れるような会話を交わしながらビルを出て、来客用の駐車場へと向かう。 この後、和彦は自宅マンションに戻り、三田村はそこで護衛を外れるため、単なる移動の時間であったとしても、二人きりでいられる時間を惜しんでいた。明日も三田村が確実に護衛をしてくれるとは限らず、いつ顔を合わせられるかすら、わからないのだ。「――体調は、もうなんともないのか?」 ふいに三田村に問われ、和彦は目を見開く。「えっ……」「先生がひっくり返って、まだ三日しか経ってないんだ。俺だけじゃなく、組長や千尋さんも心配している。気になることがあるなら、一度じっくり病院で診てもらったほうがいい」 気遣う言葉をかけてきながらも、三田村の眼差しがいくぶん険しくなったように見えるのは、和彦が抱えた後ろめたさのせいかもしれない。 和彦は、秦との間に何があったのか「……君こそ、上手く操縦しているじゃないか」「いえいえ、先生には敵いません」 どうやって反撃してやろうかと考えていると、思いがけない追撃を中嶋から受けてしまった。 意味ありげな笑みを浮かべた中嶋が、肩先が触れるほど近くに座り直したかと思うと、声を潜めてこう言ったのだ。「正直俺、先生が今日、友人に会うと聞いたとき、信じていませんでした」「どういう意味だ?」「実は、先生の元恋人なんじゃないかと、ちょっと疑っていました」「そんなわけあるかっ」 ムキになって言い返すと、中嶋は大きく頷く。「ええ、二人が話している姿を見て、それはわかりました」「ぼくはなんと言われても仕方ないが、澤村に悪い。あいつは、生粋の女好きだ」「俺も一応、秦さんに出会うまでは、そうだったんですけどね。というか、秦さんしか――いえ、今は先生を含めて、男は二人しか興味ありませんし、興奮しません」 和彦はわずかに眉をひそめると、中嶋の頬にてのひらを押し当てる。「……ぼくの知らないところで、アルコールを飲んだのか? 酔っているんじゃ……」 そう言いながら、さりげなく中嶋と距離を取ろうとしたが、そんな和彦の行動は読まれていたようだ。肩に中嶋の手がかかったかと思うと、次の瞬間には、ラグの上にもつれ合うように倒れ込んでいた。「おい――」「よかった。今日会っていた人が、先生の元恋人じゃなくて。……秦さんと二人で、ちょっと妬けると話していたんですよ」 覆い被さってきた中嶋の顔を見上げて、和彦はそっと息を吐く。見た目はハンサムな普通の青年である中嶋が、今は〈女〉を感じさせている。自分のことを棚に上げる気はない和彦だが、こう思わずにはいられない。 中嶋は、奇妙な生き物であると。 秦に〈慣らされる〉とは、こういう生き物になることなのだろうかと、ワイシャツのボタンを外されながら和彦は、じっと中嶋を見つめ続ける。 戯れのように唇が軽く重ねられる。そっと目を見開いた和彦だが、胸の奥で
「――先生は不思議ですね。組の人間に囲まれていても、違和感がないんですよ。明らかに組の人間じゃないとわかるのに、空気が馴染んでいる。だけど、堅気のご友人と向き合っている先生を見ると、どことなく違和感があるんです。どこから見ても堅気の先生が、堅気の空気に馴染まないというか……」 ここでムキになって反論するほど、和彦は往生際は悪くない。己を知っている、と胸を張るのもどうかと思うが、少なくとも、現状認識はできていた。「ぼくは、ヤクザの組長とその跡継ぎのオンナで、組の後ろ盾でクリニックを構えて、もう何人もの組員の治療をしている。本物のヤクザには及ばないが、犯罪に手を染めているんだ。書類の偽造に、いろいろな報告義務も怠っている。そういうものの上に、ぼくの今の生活が成り立っているんだから、堅気とは違う空気になるのも当然だ」「そして、性質の悪い男ばかりを惹きつける?」 からかうように言われ、和彦は秦を睨みつける。当然だが、秦は悪びれた様子はない。艶やかな笑みを口元に湛え、和彦の目を覗き込むように、軽く首を傾けた。「不合理すらも呑み込んでいく先生の貪欲さは、どこからくるのか、気になりますよね。生まれか、育ちか――」「両方だろうな、きっと」 互いに探り合うように、秦と視線を交わす。そこに、中嶋の声が割って入った。「会話が弾んでいるところすみませんが、料理を運んでもらっていいですか」 即座に反応した秦が立ち上がり、和彦もイスを引こうとしたが、それを手で制された。「先生はお客様なので、座っていてください」 腰を浮かしかけた和彦だが、男三人がキッチンにいても邪魔になるだけだと思い直し、イスに座り直す。 テーブルには、大皿に盛られたチーズたっぷりのパスタとベーコンサラダ、それにコーンスープが並ぶ。どれも、とにかく量が多い。「あまり待たせるのも悪いと思って手早く作ったものですが、量だけはたくさんあるので、遠慮せず食べてください」「……先日も思ったが、本当に料理が上手いんだな」「まかない料理というやつです。見た目はちょっとアレだけど、それなりに食える料理を作
「先生、こっちです」 ようやく中嶋と肩を並べて歩きながら、和彦は手にした手提げ袋に視線を落とす。「それ、プレゼントですか?」「そうだ」「プレゼントだけじゃなく、伝言も受け取ったんじゃ……」「意外なことに、それはなかった。プレゼントだけを渡されて、あとは、友人からの忠告だ。一度ぐらい、会って話し合ったほうがいいと言われた」「俺でも、その友人の方の立場なら、同じ忠告を先生にするかもしれません」 中嶋にニヤリと笑いかけられ、乱暴に息を吐いた和彦は乱暴に髪を掻き上げる。 頭ではわかっているのだ。家族と会って、互いの生活に干渉しないとはっきりさせたほうがいいと。ただ、和彦が今身を置いている環境と、佐伯家が迎えつつある環境の変化は、絶対に相容れない。そして、非難される環境にいるのは、和彦だ。「……家族に会って、自分が今、ヤクザの組長のオンナになっていると話せると思うか?」「そこまで話す必要はないでしょう。ただ、元気にしている、最低限の連絡は入れる、とでも言えば」「君は、ぼくの家族を知らないから、そう簡単に言えるんだ」 和彦の声が暗く沈みかけていることを察したのか、駅ビルを出たところで中嶋に提案された。「――先生、これから一緒にメシ食いませんか?」「いや、でも……」 今晩は疲れているからと言いかけて、和彦は腹部にてのひらを当てる。食事のことを言われて初めて、空腹を自覚した。気が緩み、体も正直な反応を示したようだ。 それでも返事をためらう和彦に対して、中嶋が決定的な言葉を発した。「俺が作りますよ。手の込んだものを作る時間はありませんが、それなりに美味いものを作る自信はあります。気楽にメシを食って、飲みましょう。――秦さんのところで」 まるで気安い友人のように中嶋に肩を抱かれ、その勢いに圧されるように和彦は頷き、一拍遅れて笑みをこぼす。 前方では、車の傍らに立った秦がひらひらと手を振っていた。** 秦の部屋は、前回和彦が訪れ
大きさと重さから、中に何が入っているのか推測しているうちに、コーヒーが運ばれてくる。和彦はすぐに箱を袋に戻した。「……お前を呼び出すことを承諾したとき、条件として、監視や尾行はつけないでくれと頼んだ。それと今後、佐伯家の都合では動かないことも言っておいた。もう少し気楽な気分で、お前と会って話したいからな」 ここで澤村は大きく息を吐き出し、視線を遠くへと向けた。「大人の男が、自分の考えで姿を隠して、肉親と連絡を取りたがらないんだ。もう俺は、とやかく言わねーよ。お前が巻き込まれたトラブルは気になるが、拉致・監禁って物騒な事態になってるわけじゃないのは、とっくにわかってるしな」 その物騒な事態に、限りなく近い目に遭ったことはあるが、澤村に話す必要はないだろう。少なくとも今の和彦は、複数の男たちによって大事に扱われている。ただし、物騒な世界で。「だから、最後にもう一度だけ言っておく。――家族である限り、会ってじっくりと話し合ったほうがいい。お前と家族の間にどんなわだかまりがあるのか知らないが、それにしたって、何も知らせなくていい理由にはならないだろ」 澤村の真剣な眼差しに対して、曖昧な返事をするしかできない。和彦は視線をさまよわせ、このとき、離れたテーブルについている秦と中嶋の姿に初めて気づく。和彦のあとに店に入る手筈で、違和感なく店内に溶け込んでいる。 佐伯家の監視はついていないという澤村の話が本当だとしても、佐伯家が澤村を騙している可能性もあるため、やはり二人の存在は心強い。 和彦はさりげなく二人から視線を逸らし、コーヒーにミルクを入れる。「……まだ、心の準備ができてない。自分の今の状況を、家族に伝えられる自信がない。クリニックにばら撒かれた写真の件だけでも、説明するのに抵抗があるんだ。これが普通の家庭なら、素直に助けも求められるんだろうが……、うちは生憎、普通とは言えない」「もしかして、官僚一家の名に傷をつけると思ってるのか――」「家の名に傷がついて困るのは、ぼくじゃなくて、家族のほうだ。だからなんとかして、ぼくと連絡を取ろうとしているんだろう。そ
悪びれた様子もなく澄ました顔で秦に問われ、すっかり毒気を抜かれた和彦は、曖昧に首を動かす。「……気が抜けた」「それはよかった」 満足そうに頷く秦を一瞥して、中嶋に視線を移す。ほんの一か月ほど前に、嫉妬と猜疑心に駆られて和彦に詰め寄ってきたこともある男は、余裕たっぷりの表情で和彦と秦を交互に見つめていた。 現金なものだと内心で呟いた和彦は、まったく別のことを口にした。「中嶋くん、この男と会話していて、気疲れすることはないのか?」 秦とよく似た澄ました表情で、中嶋が応じる。「刺激的でいいですよ。それに、もう慣れました。知り合ったときから、この調子ですから」「ええ、慣らしました」 これもノロケになるのだろうかと思いながら、和彦は返事をするのはやめておいた。秦も、すぐに会話を切り替えてくれる。「――それで先生、友人の方とは、食事をする予定はないんですか?」「ああ、会ってお茶を飲みながら、実家からの伝言を聞いて、プレゼントを受け取るだけだ。それと、ちょっとした世間話」「わたしたちのことは気にしなくてかまいませんよ。放っておいても、勝手に先生を尾行して、影から見守っていますから。せっかくだから、楽しまれたら――」「いいんだ」 きっぱりと言い切った和彦は、思いがけず口調がきついものになったことを自覚し、小さくため息を洩らす。気遣ってくれたのか、中嶋が肩に手をのせてきた。「……今のぼくの事情を、友人は知らないほうがいい。組だけじゃなく、ぼくの実家も大概面倒だからな。普通の人間を巻き込みたくない」「そういうことなら、安心してください。そこそこ荒事が得意な俺と、かなり口の巧い秦さんがついているんですから、トラブっても、俺たちが処理します。もちろん、先生の友人を傷つけたりしません」 中嶋の物言いについ笑みをこぼした和彦は、しっかりと頷いた。「それについては信頼している。だから、君らに頼んだんだ」 率直な和彦の言葉に、珍しく中嶋は照れたような表情となる。ヤクザらしくないその表情の意味を、おそらく誰よりも
**** 階段を駆け下りた和彦は、待ち合わせ場所であるコーヒーショップへと急ぐ。予定では余裕をもって到着する予定だったのだが、クリニックを閉めた直後に患者から電話があり、十分ほど話し込んでしまった。 そのせいで、と言う気はないが、タイミング悪く夕方の渋滞に巻き込まれ、結局慌てる事態になっている。 駅周辺の渋滞具合から予測はついていたが、ちょうど帰宅時間帯に差しかかっている駅の地下街は大勢の人が行き交い、早足に歩くのも苦労する。人とぶつからないよう気をつけながら腕時計を見ると、待ち合わせ時間まであと数分と迫っていた。 ほぼぴったりの時間にコーヒーショップの前に到着し、店内に足を踏み入れると、こちらも混雑しており、ほぼ満席だ。 コーヒーを注文する必要のない和彦は、きょろきょろと店内を見回す。すると、目を惹くカップル――ではなく男二人が、小さなテーブルに身を持て余し気味についていた。秦と中嶋だ。 二人ともスーツにコート姿で、雰囲気は派手ではあるものの、どこから見てもビジネスマンだ。和彦の付き添いとして、一応気をつかってくれたようだ。特に、秦は。 その秦が和彦に気づき、艶やかな笑みを浮かべる。中嶋も顔を上げ、こちらは一見爽やかな微笑とともに、軽く手を振ってきた。「すまない。ちょっと渋滞に巻き込まれて……」 テーブルに歩み寄って和彦が声をかけると、秦と中嶋が同じタイミングで首を横に振る。口を開いたのは中嶋だった。「さすが先生ですね。時間ぴったりです」「……こちらが呼び出しておいて待たせるのは、心苦しいんだ」「気にしなくてかまいませんよ。秦さんと、珍しい時間を持てましたから」 中嶋の言葉を受け、和彦はもう一度周囲を見回す。「コーヒーショップでデートをするのは初めてなのか?」 まじめな顔をして和彦が問うと、中嶋は楽しげに声を上げて笑い、秦は困ったような表情となる。「まあ、そんな感じですね。秦さんと外で会うときは、ゆっくり腰を落ち着けて飲みながら、ということが多いので。こういう人の