LOGIN「先生は意地が悪い」
「お宅の組長には負ける」「……返事に困るようなことを言わないでくれ」 気持ちが解れるような会話を交わしながらビルを出て、来客用の駐車場へと向かう。 この後、和彦は自宅マンションに戻り、三田村はそこで護衛を外れるため、単なる移動の時間であったとしても、二人きりでいられる時間を惜しんでいた。明日も三田村が確実に護衛をしてくれるとは限らず、いつ顔を合わせられるかすら、わからないのだ。「――体調は、もうなんともないのか?」 ふいに三田村に問われ、和彦は目を見開く。「えっ……」「先生がひっくり返って、まだ三日しか経ってないんだ。俺だけじゃなく、組長や千尋さんも心配している。気になることがあるなら、一度じっくり病院で診てもらったほうがいい」 気遣う言葉をかけてきながらも、三田村の眼差しがいくぶん険しくなったように見えるのは、和彦が抱えた後ろめたさのせいかもしれない。 和彦は、秦との間に何があったのかと、誰かに詰問されることを恐れていた。問い詰められたら、隠しきれる自信はない。 賢吾は怖いし、三田村に気苦労をかけたくもない。それに、鷹津の登場で組全体がピリピリしている中、秦に体を触れられた程度で、余計な騒動を引き起こしたくもなかった。もちろんこれは、隠し事をしているという罪悪感を薄めるための、言い訳だ。「ひっくり返ったなんて、大げさだ。酒が回りすぎて、酔っ払っただけなのに」 まだ何か言いたそうな顔をしながら、三田村が車のキーを取り出す。 これで、この話は終わりだ――と思ったが、三田村が先に車に乗り込もうとしたとき、その三田村の携帯電話が鳴った。 素早く携帯電話を取り出した三田村は、液晶を見るなり眼差しを一際鋭くする。組からの呼び出しなのだろうかと思いながら見守る和彦の前で、三田村は電話に出て、ぼそぼそと会話を交わす。そして、和彦に向けて携帯電話を差し出してきた。「先生に話したいことがあるそうだ」 和彦は、まだ新しい携帯電話を買っていない。そのため、用のある誰かが三田村経由で連絡してきたのだ。****「――俺との約束を忘れたのかと思ったぞ」 春巻を一口食べて、味に納得したように頷いてから、唐突に澤村が切り出す。和彦は苦笑を洩らしながら、酢豚を堪能する。値段が手頃なランチメニューなのだが、値段以上の価値がある味だ。 先日、中嶋に連れてきてもらってディナーを食べた中華料理店に、ぜひもう一度訪れたいと思っていたところだったので、澤村とランチを一緒に、という約束を果たすには、うってつけの店だろう。 店はホテル内にあるため、常にさまざまな人が行き交っている。そのため、護衛をホテルの駐車場に待機させておいても目立たない。和彦の予定としては、食事後、澤村と別れてからは、ホテル内で買い物をするつもりだった。「仕事で忙しかったんだ。それに、友人の相談に乗ったりしていた」「ほお、友人……。新しい職場でできたのか」「……まあな」 テーブルを挟んで、和彦と澤村の間に微妙な空気が流れる。情報を隠そうとする者と、なんとか探ろうとする者との、軽いジャブの応酬といったところだろう。 和彦のガードが堅いと悟ったのか、澤村は肩を竦めて春巻の残りを食べる。「いいさ。相変わらず元気そうだし、何より、いい物を着ている。少なくとも、荒んだ生活を送っているようには見えない」「荒んだ、か。澤村先生がどんなことを想像していたのか、聞くのが怖いな」「俺にこんな心配をさせたくなかったら、来月もランチにつき合えよ」「そうだな。年明けから、ぼくも忙しくなりそうだから、友人とゆっくりバカ話できるうちに、楽しんでおこう」「知的な会話と言えよ」 かつてのように澤村と、他愛ない会話を交わしながら、笑い合う。 澤村と会うまでは、今の生活を気取られるのではないかと身構え、緊張もするのだが、こうして会って話してしまえば、ほっとするし、楽しい。自分は何を心配していたのかとすら思えてくる。 だが、かつては毎日味わっていた気楽な時間も、そろそろ終わりに近づいてきた。 食器が下げられ、代わって、デザートの杏仁
「そんなことだろうと思った」「迷惑かけついでに、すみませんが、俺を慰めてくれませんか」 本気で言っているのだろうかと、和彦は隣に座った中嶋の顔をまじまじと見つめる。中嶋は、ヤクザらしくふてぶてしい笑みを浮かべていた。もしかしてからかわれているのだろうかと思ったぐらいだが、気弱な表情を見せられるよりはいいかもしれない。 和彦はもう一口お茶を飲んでから、ふっと息を吐き出す。「――彼なりに、君を気づかっているんじゃないか。自分は集団で襲われて、そのトラブル処理のために、長嶺組に後ろ盾になってもらった。多分、長嶺組長に何か弱みを握られたんだろ。一方で、君は総和会の中で確かな地位を築き始めた。……自分の事情に巻き込んで、元後輩の足を引っ張りたくないのかもしれない、と甘いぼくは考えてしまう」「本当に先生は甘いですよ。ヤクザの世界なんて、そう甘くもないし、綺麗事は大抵通じない」「ぼくだって、無理してこの理屈を捻り出してやったんだ。黙って頷いておいてくれ」 ヤクザの体面を取り繕ってやるのも大変だと、和彦はお茶を飲みながら思う。 本当は中嶋も、和彦が今言ったようなことを薄々感じているはずだ。それを素直に認められないのは中嶋が、甘くなく、綺麗事も通じないと言い張るヤクザだからだ。秦は秦で、正体の掴めない男であるが故に、容易に本心など晒したりはしないだろう。「……秦さんは、一体何者なんですか」「さあな。長嶺組長は知っているようだが、ぼくは知りたいとは思わないし、聞いたところで話さないだろうな。一応、ヤクザの世界に限りなく近い場所にはいても、彼は普通の実業家だ。胡散臭くても」 和彦の表現に、中嶋は苦しげに笑い声を洩らす。その姿を横目で見ながら和彦は、こう思わずにはいられなかった。 やはり中嶋は、秦に関することだけは、〈女〉を感じさせる。猜疑心が強くて、粘着質で、嫉妬深くて――健気だ。「罪な男だな。秦静馬って男は」 和彦の言葉に、ニヤリと笑って中嶋が乗った。「秦さん以上に罪な男の先生が、何言ってるんですか」「そういうことを言うと、今後君を慰め
思わず立ち上がると、中嶋が驚いたように見上げてきた。「先生?」「ちょっと酔ったみたいだから、顔を洗いに行ってくる」 そう告げて、パウダールームに向かう。 店内以上に、和彦にとってこのパウダールームは、恥辱の記憶に満ちていた。ここの洗面台に押さえつけられ、秦に――。 これ以上思い出すと、秦だけでなく、中嶋の顔までまともに見られなくなりそうだった。和彦は唇を噛むと、鏡に映る自分の顔から視線を逸らす。 水で濡らした手を頬に当て、熱を冷ます。秦が作ってくれたミモザを飲んだら、あとはソフトドリンクをもらって今夜の締めにしようと思った。深酔いして、明日に響くのは避けたい。 パウダールームを出た和彦が店内に戻ったとき、思いがけない光景が繰り広げられていた。「なっ――……」 秦と中嶋がキスしていた。正確には、カウンター内にいる秦のシャツの襟元を掴み寄せ、身を乗り出すようにして中嶋が強引にキスしているのだ。 キスしているほうの中嶋はこちらに背を向けているため、どんな顔をしているかは見えない。ただ、必死さは伝わってくる。一方の秦は、落ち着いていた。和彦と目が合うと、まるで子供の駄々を許す大人のような、ひどく優しい眼差しをしているとわかった。 どういう状況なのだと、和彦は軽く混乱する。混乱しながらも、自分はここにいてはいけないと――中嶋の邪魔をしてはいけないと思い、慌てて自分が座っていた席へと戻る。 あたふたしながらダッフルコートとマフラーを取り上げたところで、やっと中嶋が振り返った。 店内には、なんとも気まずい沈黙が流れる。そんな中で、秦だけは艶やかな笑みを浮かべていた。 優しいのか冷たいのかよくわからない笑みだなと思った途端、和彦はむしょうに秦に対して腹が立った。**「――恥ずかしいところをお見せしました」 コンクリートの冷たい階段に腰掛けると、中嶋は自嘲気味に言った。缶入りの熱いお茶を啜りながら和彦は、つい眉をひそめる。「ぼくに対して、謝らなくていい。……酔っていたんだから仕方ない、
グラスをゆっくり揺らしてから、ウィスキーを一口飲む。美味しい、と思わず洩らしていた。中嶋の元には、琥珀色が美しいマンハッタンが置かれ、しっかりとチェリーも添えられている。 秦は、中嶋の満足そうな顔を見て小さく微笑むと、自分の分のカクテルを作るため、カウンターに戻る。 もてなされる側の和彦と中嶋は、ゆったりと美味しいアルコールを楽しんでいるが、もてなす側に回っている秦は、テーブルとカウンターを行き来して、なかなか慌ただしい。 もっとも、秦本人は楽しそうにしているので、かつての仕事柄というより、人にサービスすることが好きな性質なのかもしれない。 しかし、いくらこんなことを推測しても、秦の本性に触れた気がしない。相変わらず謎の男のままだ。 機嫌よく飲んでいるうちに、次第に和彦も緊張を解く。いい思い出があるとは言いがたい店であることや、一緒に飲んでいる面子にクセがあるということを差し引いて、それでも気分はよかった。 護衛を待たせているという心苦しさを感じなくていいのが、その気分に拍車をかけている。 カウンターに入ってオレンジを絞っている秦を、ソファの背もたれに腕を預けて和彦は眺める。「――ああいう姿を見ていると、秦静馬というのは何者なんだろうかと思えてきません?」 和彦と同じような姿勢となって、中嶋が話しかけてくる。「何者なのかはともかく、抜け目がないな。物騒なことに巻き込まれたと思ったら、いつの間にか、長嶺組を後ろ盾にしたんだ」 若い頃、警察に目をつけられるようなこともしているらしい秦だが、結局、補導歴も逮捕歴もないのだ。やはり、抜け目がない。「あまり、何者なのか考えないほうがいいのかもしれない。ぼくは今みたいな生活を送っていて、自分の好奇心に折り合いをつけている。知りたいこと、知りたくないこと、知ったところで、つらくなるだけのこと――」「俺も、わかってはいるんですけどね。ただ、秦さんと知り合って十年以上になるのに、ほとんど何も知らないっていうのは、けっこうキツイ」 中嶋は、苦々しげに唇を歪めていた。そんな表情を目にして、和彦のほうが胸苦しくなる。
和彦は、この店で秦に安定剤を飲まされ、体をまさぐられたのだ。挙げ句、内奥にはローターを含まされた。長嶺組組長である賢吾と関わりを持ちたかった秦が、賢吾のオンナである和彦に目をつけたうえでの策略だ。 賭けに近い危険極まりない策略だが、秦は生殺与奪の権を賢吾に握られながらも、こうして艶やかな存在感を放ち、元気にしている。そのうえ、賢吾の許可を得て、和彦の〈遊び相手〉という立場に収まっている。 よくこの店に招待できたものだと、見た目に反した秦の神経の図太さに、和彦は感心すらしてしまう。「……中嶋くんに肩入れしたくなる……」 聞こえよがしに和彦が呟くと、慣れた手つきで氷を砕きながら、秦が囁くような声で言った。「わたしなりに、必死に考えたんですよ。中嶋の出世を祝いたい気持ちもあるし、中嶋の思い詰めた顔も見たくないという気持ちもあって」「だからといって、ぼくを巻き込むな。この間、確かそう言ったはずだ」 グラスに氷を入れた秦が、嫌味なほど清々しい微笑みを浮かべた。「それは、無理ですね。わたしも中嶋も、先生が好きですから」 グラスとウィスキーのボトルをカウンターに置かれ、和彦はそれらを持って席に戻る。すると中嶋が、肩に腕を回してきた。「――二人して、内緒話ですか」 いかにも酔っ払いらしい気の抜けた笑みを向けてくる中嶋だが、芝居の可能性が高い。 切れ者のヤクザで、恩人ですら利用できると断言するしたたかさを持つ反面、その恩人が絡むときだけ、妙に〈女〉を感じさせ、健気さすら見せるこの青年を、和彦なりに傷つけたくないと思っている。 周囲にいる男たちからは甘いと笑われるだろうが、中嶋に対して友情めいた感情を抱きつつあるのだ。「出世祝いに、君に何か贈ったほうがいいだろうかと、相談してみたんだ」 和彦のウソに、中嶋は一瞬真顔となってから、次の瞬間には困ったように眉をひそめた。やはり、酔ったふりをしていたのだ。和彦のウソなど、簡単に見抜かれた。「……先生は、甘いですね。男に対して」「この世界で生きていく武器
「客もホストもいないホストクラブで、男三人で飲むというのも、新鮮でしょう?」「イイ男二人に囲まれて、贅沢な気分だ」 わざと素っ気ない口調で応じると、隣で中嶋が派手に噴き出す。急に和彦は心配になり、中嶋のあごを掴み寄せて顔を覗き込む。「もしかして、もう酔っ払ったのか」 和彦の突然の行動に驚いたように中嶋は目を丸くしたあと、やけに嬉しげに笑った。「まだ、大丈夫ですよ。先生の冷めた口調と冗談の加減が、妙にツボで……」「ぼくの冗談で笑うようなら、本当に酔ってるんじゃないか」 中嶋がさらに笑い声を洩らし、和彦は、大丈夫かと秦に視線を向ける。優雅に足を組み替えた秦は、中嶋を指さした。「リラックスしてるときは、こんな感じですよ、こいつは。ホスト時代は、どれだけ客から飲まされようが、顔色一つ変えなかった。だけど、仲間内で飲むと、まっさきに酔っ払って、つまらないことで笑い転げる」「……つまらないこと……、つまり、ぼくの冗談はつまらないということだな」 ぽつりと和彦が洩らすと、失礼なことに、中嶋と秦が同時に噴き出した。「先輩・後輩揃って、失礼な連中だな……」 怒ったふりをして席を立った和彦は、カウンターへと向かう。「先生?」「カウンターの中に、いいウィスキーを隠してあるだろ。さっき見えたんだ」 なんでも自由に飲んでくれと最初に言われたため、遠慮する気はなかった。秦という男は信頼していない和彦だが、秦の店の品揃えについては信頼しているのだ。 素早く立ち上がった秦が、カウンターに入る。「封を開けるので、ちょっと待ってください。ついでに、新しい氷も出しますね」 そこに、中嶋からカクテルの注文が入り、苦笑しながら秦が準備を始める。和彦は、カウンターにもたれかかりながら、改めて店内を見回していた。 このホストクラブを訪れるのは初めてではない。実は前に一度、来ていた。 そのときのことを思い出し、和彦の頬は熱くなってくる。もちろん、酔いのせいではな