Mag-log in今日はもう、組員が部屋を訪ねてくることはなく、携帯電話での定時連絡があるだけだ。電話に出て二、三言話せば済むので、部屋の電気さえつけておけば、和彦が出かけていることがバレる可能性は低い。――何事もなければ。
エレベーターでエントランスに降りながら、和彦の心臓はドクドクと大きく鳴っていた。近所への買い物程度なら、組員と鉢合わせしても平気だが、さすがに大きなバッグを持った状態では、なんの言い訳もできない。最悪、逃げ出そうとしていると取られるかもしれない。 慎重にエントランスをうかがうが、人の姿はなかった。早足で外に出て辺りをうかがうと、すぐにタクシーを停めて乗り込む。向かう先は、中嶋のマンションだった。*
*
中嶋のマンションは繁華街のすぐ近くにあった。人と車が行き交う雑多な通りで、夜とはいってもにぎやかだ。
治安に少々不安を覚えそうな場所だが、中嶋のような仕事や、水商売をしている人間にとっては、これぐらいのほうが周囲に気をつかわなくていいのかもしれない。 渋滞に巻き込まれながら、なんとかカラオケボックスに来て、他にすることがあるとも思えないが、あえて和彦は素っ気なく応じる。勘の鋭い中嶋には、それだけで十分伝わったはずだ。 参ったな、と小さく洩らした中嶋は、乱雑に髪を掻き上げた。「先生に関することは、すべて俺にも知らせてほしいと言ってはあるんですけど。――どうも、たびたび伝達に不備が起こるようで」 中嶋は苛立ちを込めた視線を若者に向ける。当の若者のほうは、こちらの会話に聞き耳を立てているような素振りも見せず、注意深く辺りを見回している。その様子は、よく訓練された犬のようだ。 客として出入りしている同年代の若者たちとの違いに、いまさらながら瞠目している和彦に、中嶋がそっと耳打ちをしてくる。「彼に、何か失礼はありませんでしたか?」 若者を見つめる視線を、中嶋は勘違いしたらしい。和彦は慌てて首を横に振る。「それはないんだっ。むしろ失礼だったのは――」 南郷のほうだ。そう言いたかったが、ぐっと言葉を呑み込む。迂闊なことを言って、若者から南郷に報告されても困る。こんなことで激怒する男だとも思えないが、何かあって中嶋の立場が悪くなるのは申し訳ない。 和彦は、遠慮がちに中嶋を見上げた。「……咄嗟に君の名を出したんだが、そのことで南郷さんから叱責されるようなことはないか?」「俺は一応、総和会での先生の世話係を任されている立場ですよ。先生が困って、俺を呼びつけるのは、行動として正しい。ここで長嶺組の方を呼ばれると、そちらのほうが面倒なことになったと思います」 ひとまず、その言葉に安堵しておく。「そうか。よかった……。頭に血がのぼっていて、君に電話したあとで、急に不安になったんだ」「先生に、そんな顔で心配されるのは、なかなか気分がいいですね。急いで駆けつけた甲斐がありますよ」 ここでやっと和彦は、小さく笑みを浮かべることができた。 中嶋に促されてビルを出ると、人の流れに乗るようにして歩き始める。和彦は念のため背後を振り返ろうとしたが、すかさず中嶋に言われた。「うちの人間はついてきていません。ここからは、先生
いくらでもコピーができる動画が目の前で消去されたところで、確認することに意味はない。そう考えたことが顔に出たのだろう。南郷はこう続けた。「まあ、俺を信用してくれとしか言えない。それに――長嶺組長のオンナに悪さをした証拠を、いつまでも手元に残しておいたところで、俺に益があると思うか?」 和彦はスマートフォンを南郷に返す。「……二度と、こんなことをしないでください」「騙して呼び出したことか。それとも、あんたの特別な場所に触れたことか――」 前触れもなく南郷に肩を抱き寄せられ、耳元に獣の息遣いがかかる。続いて、耳朶に鈍い痛みが走った。食われる、と本能的な怯えを感じた和彦は短く悲鳴を上げ、身を捩って南郷の腕の中から逃れた。 全身の血が沸騰しているようで、心臓が痛いほど強く鼓動を打っている。南郷の様子をうかがいながら慎重に立ち上がった和彦だが、眩暈に襲われて足元がふらついていた。「大丈夫か、先生。顔が真っ青だ」「こんなぼくを見られて、満足しましたか……?」 和彦が睨みつけると、悪びれたふうもなく南郷は大仰に肩をすくめる。「必死に虚勢を張っているあんたの姿は、なかなかいい。こういうところでも、育ちが出るんだろうな。感情的になっていても、品がある」「そんな……いいものじゃないです。怖いんです。この世界の男を怒らせるのは」「オンナらしい配慮だ。何をされても、相手を怒らせないよう気遣わないといけねーなんて。つまり今晩のことも、長嶺組長には〈告げ口〉しないということか」 南郷が向けてきた冷笑を、和彦は見ないふりをする。挑発しようとしている意図が、露骨に透けて見えるのだ。和彦のささやかな反撃を、きっとこの男は、楽しげに受け流すはずだ。 なんとか大きく息を吐き出すと、ドアに向かおうとする。本当は駆け出したいところを、ぐっと気持ちを堪えて。「――俺は、あんたのことが知りたかった」 ドアを開けようとしたところで、背後からそんな言葉が投げつけられる。動きを止めた時点で、和彦の負けだ。聞こえなかったふりもできず、仕方な
その和彦にのしかかり、布の上から唇を貪っている荒々しい獣のような男は――南郷だ。 「――長嶺組長のやり方に倣ってみた」 怒りで全身が熱くなっていくのに、胸の内は凍りつきそうなほど冷たくなっていく。頭は混乱しながらも、南郷に対する表現しがたい嫌悪感や拒否感だけは認識できた。 払い除けるようにしてスマートフォンを南郷に押し返す。視線を逸らす和彦を多少は気遣うつもりがあるのか、南郷はすぐに動画の再生を停めた。 「長嶺組長とメシを食いながら話していてわかったが、あんたは肝心なことを、長嶺組長に打ち明けてないんだな」 「肝心なことって……」 「自分に悪さをした相手が、総和会の南郷――俺だということを。顔は見ていなくても、あんたならわかっていたはずだ。あんなことをしでかすのは、俺しかいないということは。あんたと長嶺組長の間でも、あえて言葉にしないまま、互いにそれを汲み取ったわけだ」 「……ぼくはあのとき、相手の顔を見ることはできませんでしたから、迂闊なことは言えません」 「できた〈オンナ〉だ」 皮肉っぽい口調で洩らした南郷が、ふいに立ち上がる。驚いた和彦は反射的に体を強張らせたが、それ以上の反応ができないうちに、隣に南郷が座った。荒々しい威圧感に頬を撫でられた気がして、体が竦む。 「自分が原因で、総和会と長嶺組に波風が立つのを避けたかったんだな」 自惚れるなと、南郷に鼻先で笑われるのが嫌で、和彦は返事を避けた。しかし南郷は一人で納得した様子で頷く。 「さすが、オヤジさんが見込んだだけはある。――どの男にもいい顔をして、揉め事は避ける。この世界での、あんたの処世術だ」 南郷の声に侮蔑の響きを感じ取り、それが何より我慢ならなくて和彦は立ち上がろうとする。すかさず大きな手に肩を掴まれ、腰を浮かせることすら叶わなかった。 「どうにも、生まじめに反応するあんたが新鮮で、つい煽るようなことを言っちまう。すまないな、先生」 「……離して、ください」 和彦は顔を強張らせ、肩にかかる南郷の手を押しのけようとする。だが手を退けるどころか、反対に力を込められた。 「そろそろ、聞いたらどうだ。――俺がなぜ、長嶺の男
短い問いかけが、鋭い刃となって喉元に突きつけられる。不安とも恐怖とも取れる感情に襲われ、鳥肌が立っていた。和彦は無意識のうちにジャケットの上から腕をさする。「心細そうだな、先生。目の前にいる今のあんたは、実に普通に見える。普通の、優しげで非力な色男だ。ヤクザの怖い男たちを何人も手玉に取って、骨抜きにしているとは、到底思えない。だが、力のある男の傍らにいるあんたを見ると、納得させられるんだ。妙に妖しさが引き立つ。男だからこその色気ってやつだな」「……そろそろ本題に入ってください」 ここで南郷が組んでいた足を解き、ソファに座り直した。「――この間、長嶺組長に呼ばれて、二人きりでメシを食った。ちょうど連休中で、あんたは総和会の別荘にいた頃だ」「賢……、組長と?」 危うく『賢吾』と口にしそうになった和彦に気づいたのだろう。南郷はちらりと視線を動かしたあと、何事もなかったように話を続ける。「俺と長嶺組長は、外野からはとかくあれこれと言われがちだ。俺が会長に可愛がられているということで、長嶺組長は、南郷の存在をおもしろくないと感じているんじゃないか、とかな。一方の俺も、会長の実子ということで、当然のように何もかもを持っている長嶺組長を妬んでいる――」 和彦は慎重に問いかけた。「本当のところは、どうなんですか」「ズバリと聞くなんて、肝が太いな、先生。俺にとっちゃ、デリケートな話題だというのに」「聞いてほしいから、言ったんじゃないんですか」 南郷の目がこのとき一瞬、鋭い光を宿したように見えたのは、決して気のせいではないだろう。怯みそうになった和彦だが、必死の虚勢で南郷の目を見つめ続ける。 南郷は、薄い笑みを唇の端に刻む。真意の掴めない表情だと和彦は思った。「俺は、長嶺組長にそんな生々しい感情は持っていない。あの人も、そこのところはよくわかっている。あえて言葉にしなくても、互いにそれを汲み取るぐらいはできる」 和彦は相槌すら打たず黙り込むが、南郷は勝手に和彦の心の内を読んでいた。和彦の顔を覗き込む仕草をして、こう言ったのだ。「そんな
改めてビルを見上げれば、カラオケボックス店の派手な看板が掲げられていた。意外すぎる場所の前に降ろされて呆気に取られる和彦の側に、スッと一人の若者が歩み寄ってきた。ジーンズにTシャツ、その上からブルゾンを羽織っており、その辺りを歩いている青年たちと大差ない服装だ。ただ、胸元で揺れるシルバーのペンダントと、耳にいくつも開いたピアスの穴が印象的だった。 前に中嶋が、南郷率いる第二遊撃隊には、面倒を見ている若者が何人もいて、使える人材として鍛えていると話していたが、どうやらウソではないようだ。服装はラフだが、意外なほど礼儀正しい若者の物腰を見て、和彦はそう判断する。「佐伯先生、こちらに」 外見からは想像もつかない落ち着いた声をかけられたかと思うと、有無を言わせない手つきで背を押されてビルに入る。一階のカウンターは客で混み合っているが、若者はスタッフに短く声をかけただけで、奥へと向かう。 エレベーターで移動するわずかな間に、和彦は若者をうかがい見る。一見して堅気のよう、と言い切ってしまうには、鋭い気負いのようなものが感じられた。和彦を出迎えるという仕事に、何かとてつもない意義を見出しているような――。 やはり今日の状況はどこかおかしいと、和彦が確信めいたものを得たとき、エレベーターの扉が開く。いまさら引き返すこともできず、若者のあとをついていく。どの部屋にも客が入っているらしく、あちらこちらから歌声や歓声が漏れ聞こえてくる。 こんな場所に、養生の必要な患者がいるはずがない。また自分は騙されたのだと、和彦はそっとため息をつく。すると、ある部屋の前で若者が立ち止まった。「ここです」 そう短く言い置いて、若者が素早くドアを開ける。心の準備をする間もなく、即座に反応できなかった和彦だが、客やスタッフが通りすぎる廊下にいつまでも突っ立っているわけにもいかず、部屋を覗いた。 視界に飛び込んできた光景に、眩暈にも似た感覚に襲われる。 グループ用の広い部屋にいたのは、男一人だけだった。だが、存在感は圧倒的だ。「部屋に入ってきた早々、そう睨まんでくれ、先生」 ソファに深くもたれかかり、足を組んだ姿で南郷がそう声をかけてくる。軽く指先が動いたかと
**** 和彦が携帯電話への着信に気づいたのは、ジムでシャワーを浴び終えてからだった。 じっくりと丹念に全身の筋肉を動かし、健全な疲労感に満たされて、汗を洗い流してさっぱりとしたところだっただけに、一瞬、魔が差したように、億劫だなと思ってしまう。 着信は、護衛の組員からのものだ。普段であれば、和彦がジムを出るまで待っているのだが、こうして連絡してきたということは、そうするだけの事情があるということだ。その事情は、非常に限られていた。 賢吾からの一方的な呼び出しか、あるいは――。 和彦は服を着込んで手早く髪を乾かしてから、急いでジムを出る。駐車場に向かうと、組員が車の傍らに立って待ち構えていた。「何かあったのか?」 和彦の問いかけに、組員は困惑気味の表情を浮かべる。ひとまず車に乗り込むと、他人の耳を気にする必要がなくなった組員は、すかさずこう切り出した。「総和会から連絡が回ってきました――」 シートに身を預けようとしていた和彦は、半ば反射的に背筋を伸ばす。全身に行き渡っていた心地よい疲労感は、瞬時に緊張感へと変化していた。「仕事か?」「この患者を、先生に診てもらいたいと」 信号待ちで車を停めた間に、組員が車内灯をつけてからメモを差し出してくる。患者の名ではなく、和彦が施した処置について端的に記されているのだが、それで十分だ。ああ、と声を洩らして眉をひそめていた。 組員が言っている『この患者』とは、一か月以上前に半死半生となるほどの全身打撲を負った男だ。腹部の内出血がひどくて開腹手術を行った後、腸閉塞を起こしたりもしたが、それから容態も落ち着いたこともあり、別の医者のもとで養生生活を送っている――と総和会から説明を受けていた。 患者自身は、和彦の言いつけを守るし、治療にも協力的だったこともあったため、悪い印象は持っていない。ただ、この患者を診ているときに、和彦自身が思いがけない出来事に襲われ、どうしてもその記憶が蘇り、苦々しい感情に苛まれる。体に刻みつけられた生々しい感触とともに。「……具体的に、どう調子がよ
グラスをゆっくり揺らしてから、ウィスキーを一口飲む。美味しい、と思わず洩らしていた。中嶋の元には、琥珀色が美しいマンハッタンが置かれ、しっかりとチェリーも添えられている。 秦は、中嶋の満足そうな顔を見て小さく微笑むと、自分の分のカクテルを作るため、カウンターに戻る。 もてなされる側の和彦と中嶋は、ゆったりと美味しいアルコールを楽しんでいるが、もてなす側に回っている秦は、テーブルとカウンターを行き来して、なかなか慌ただしい。 もっとも、秦本人は楽しそうにしているので、かつての仕事柄というより、人にサービスすることが好きな性質なのかもしれない。
急に引き返したい気分になったが、それはできない。嫌になるほどヤクザの思考に染まっていると思うが、和彦は、賢吾だけでなく、鷹津の面子のことも考えていた。面子を潰された男は――怖い獣になる。 長嶺組が取ったという部屋は、男二人が寝ても持て余しそうな広いベッドがある、ダブルルームだった。大きな窓から見渡せる風景は感嘆するほどで、この眺望込みで、部屋の料金は安くないだろう。すでにワインまで準備されていた。 この部屋は、鷹津のためというより、和彦のために用意されたようだった。部屋を見回して感じるのは、和彦を安く扱う気はないという意思だ。「俺は、ホテルの部屋を取
****「――俺との約束を忘れたのかと思ったぞ」 春巻を一口食べて、味に納得したように頷いてから、唐突に澤村が切り出す。和彦は苦笑を洩らしながら、酢豚を堪能する。値段が手頃なランチメニューなのだが、値段以上の価値がある味だ。 先日、中嶋に連れてきてもらってディナーを食べた中華料理店に、ぜひもう一度訪れたいと思っていたところだったので、澤村とランチを一緒に、という約束を果たすには、うってつけの店だろう。 店はホテル内にあるため、常にさまざまな人が行き交っている。そのため、護衛をホテルの駐車場
「俺が興味あるのは、佐伯だ。とりあえずこいつと繋がっていれば、長嶺や、お前みたいな連中の動向が掴めるからな。……何より、こいつの存在自体が、楽しめる。長嶺どころか、その息子や子分まで垂らし込むぐらいだ。男とはいっても、最高に具合がいい。何より、こんな色男のくせして、女より淫乱だ」 屈辱と羞恥で、めまいがしてくる。そこに怒りも加わり、本気で鷹津を殴りたくなる。一方、鷹津の生々しい発言を受けても、秦は柔らかな表情を変えなかった。そのくせ唇から出た言葉は、鷹津に負けず劣らず生々しい。「先生の感じやすさといやらしさを知っているのは、ご自分だけだ







