私は病床に横たわっていた。後頭部の傷は、まだ鈍い痛みを残している。
それなのに、勲が冷たくよそよそしい声で「上司と部下」という言葉を口にした瞬間――
その程度の痛みなんて、もうどうでもよくなった。
私は本当に頭を打って、おかしくなってしまったのだろうか。
そうでなければ、どうして記憶が混乱して、彼との間に別の関係があったなんて思い込んでいるのか。
7年間、届かなかった片思い。
2年前、私はようやく諦めることを決めた。
故郷へ帰る航空券を予約し、そこで穏やかな相手を見つけて、結婚しようと思っていた。
退職届を提出した日、いつも冷たかったあの勲が、何も言わずに長い間、私を見つめていた。
「残れ。俺のそばにいろ」
社内には、社内恋愛を禁止する明確な規定があった。
だから、それはこの2年間、誰にも知られない秘密の恋だった。
昼間、会社では私たちはただの普通の上司と部下。
でも、扉を閉めれば――私たちの関係は曖昧で、それでも確かに存在するものになった。
恋人同士がするような親密なことも、すべて経験した。
我に返り、私は病床のそばにいる男を見つめた。
ノートパソコンは彼の長い脚の上に置かれ、画面の光が、彫刻のように整った横顔を淡く照らしている。
少し開いた襟元には、今朝の情事で私が残した赤い跡が、まだうっすらと見えていた。
私は彼を問いたださなかった。
ただ何も気づいていないふりをして、笑った。
「さすがですね。部下思いでいらっしゃいます」
勲の指が一瞬止まった。
そして、探るような視線を私の顔へ向ける。
けれど次の瞬間、彼はパソコンを閉じ、淡々とうなずいた。
「今日は助かった。大したことがないなら、俺は先に戻る。会社に用がある。何かあれば、直接俺のアシスタントに伝えろ」
そう言って立ち上がると、もともと一つのしわもなかったスーツを整えた。
扉が彼の背後で静かに閉まる。
私は病室の扉を数秒見つめたあと、ゆっくりと顔に貼りつけていた表情を消した。
伏せた目のまま、無意識に指先でシーツを引っ掻く。
シーツには、すぐに細かな皺がいくつも刻まれた。
言葉にできない胸の内の悔しさや悲しさが、そこに滲んでいた。
ぼんやりとしていると、扉の向こうからノックの音が響いた。
入ってきたのは、勲のアシスタントだった。
彼はベッドのそばまで来ると、軽く頭を下げ、一枚の薄い紙を差し出した。
「高橋さん、社長からお渡しするよう申しつかっております」
差し出された紙に目を落とすと、2000万円の小切手があった。
「どうぞゆっくり療養なさってください。社長から、しっかり休んでから会社へ戻るようにとのことです」
私はぼんやりと、その紙を見つめた。手を伸ばすこともできなかった。
アシスタントは小切手を私の手元に置くと、振り返り、扉を閉めて出ていった。
指先が紙の端に触れると、ずっと堪えていた涙が、とうとうこぼれ落ちた。
勲はもう私に飽きたのだろう。
2年間の秘密の関係なんて、彼にとっては気まぐれで許した特別扱いにすぎなかった。
特別である以上、いつか終わりが来る。
ただ――こんなにも私を惨めにする形で、すべてを元の関係に戻そうとするなんて、思ってもいなかった。
目を閉じると、後頭部の鈍い痛みが急にはっきりと蘇った。
愛されている人は、怖いものなど何もない。
でも、勲。今度は、もうあなたなんていらない。
……
私は病院に入院して、数日が経っていた。
見舞いに来る同僚たちが次々と訪れ、病室はいつになく賑やかだった。
同僚の一人が笑いながらからかう。
「高橋さん、今回は命懸けで社長を助けたんだから、これでやっと報われるね。出世したら、私たちのことも忘れないでよ」
私は無理に口元をほころばせただけで、何も答えなかった。
その後、勲は一度も姿を見せなかった。
代わりに彼のアシスタントが何度か訪れ、そのたびに果物や栄養補助食品を置いて、すぐに帰っていった。対応はとても丁寧だった。
退院の日、私は一人で手続きを済ませ、タクシーで自分が借りている小さなアパートへ戻った。
勲と付き合い始めてから、私はほとんどの時間を、彼が川沿いに所有しているワンフロアの部屋で過ごしていた。
今年に入ってからは特に帰ることも少なく、電気代の支払いまで忘れていた。
3月末の寒の戻りはまだ残っていて、部屋の中はまるで冷蔵庫のように冷え切っていた。
私はスマホで電気代を支払って、エアコンをつけ、布団の中で体を丸める。
空気は少しずつ温まっていった。
けれど、胸の奥にはぽっかりと穴が空いたままで、どれだけ時間が経っても埋まることはなかった。
翌朝、いつもより早めに出社すると、部署の同僚たちが笑顔で駆け寄ってきた。
「おめでとう、おめでとう。もう高橋さんじゃなくて、高橋ディレクターって呼ばなきゃね」
私は一瞬、言葉を失った。
「……どういう意味?」
「社内イントラ、まだ見てないの?プロジェクト部で新しいディレクターを任命するって発表されてるよ。
これまでの実績なら、高橋さんが一番目立ってるじゃない。それに、つい最近社長を助けたばかりなんだよ?このポストが高橋さんじゃなくて、誰のものだっていうの?」
「そうそう、きっと今回急に人事を発表したのも、今日高橋さんが出社するのを待って、社長が感謝の気持ちを伝えたかったからだよ」
「高橋ディレクター、今夜はみんなにご馳走して祝ってね」
同僚たちは口々にそう言い、向けられる笑顔には偽りがなかった。
私は彼女たちを見つめているうちに、顔にも少しずつ笑みが戻ってきた。
勲との関係はもう終わったが、大人として、自分の未来まで投げ出す必要はない。
勲は良い恋人ではなかった。
けれど、仕事の上では最高の上司だった。
大学4年のインターン時代から、彼は自ら私を導き、数え切れないほどのプロジェクトを経験させてくれた。そして、持っている知識を惜しみなく教えてくれた。
だからこそ、私はここまで成長し、一人で責任を背負えるようになった。
ディレクターの座は、確かに私にふさわしいものだった。
そう思った時、ちょうど社長専用エレベーターの扉が開いた。
勲が姿を現した。その隣には、一人の若い女性が立っていた。
ハイヒールにスーツ、隙のないメイク。
彼は足を止め、周囲の社員たちを見渡した。
「みんなに紹介する。彼女は新しくプロジェクトディレクターに就任する鈴木心月(すずき みつき)だ。
今夜、仕事が終わったら、みんなで鈴木ディレクターの歓迎会を開く。費用は会社が負担する」
その瞬間、空気が凍りついた。
同僚の一人が、耐えきれずに口を開く。
「社長、高橋さんは卒業してすぐうちに入り、ずっと真面目に働いてきました。仕事の能力は誰もが認めています。
ディレクターの席は、彼女が就くべきではないでしょうか。外部から突然人を迎えるのは、少し適切ではない気がします」
勲は鋭い視線を向け、冷たい声で答えた。
「会社には会社の判断がある」
別の同僚がそれを聞き、小さな声で私を庇った。
「高橋さんは命懸けで社長を助けたばかりなのに……これって、用が済んだら切り捨てるってことじゃないか」
勲の表情がわずかに曇り、鋭い視線が周囲を一掃した。
「彼女は勇気があるだけで、無謀だった。先のことも考えず行動するような人間は、会社の上層部には向いていない」
みんなは互いに顔を見合わせて黙っていて、気まずい空気は、限界まで張り詰めていた。
私はその場に立ち尽くし、心が氷の底へ沈んでいくような感覚に襲われた。
その時、心月が一歩前に出て、私へ手を差し出した。
「こんにちは。あなたが高橋さんですね?悪いけれど、リゾートプロジェクトの資料をまとめて私に渡してもらえますか?
社長から、このプロジェクトは全面的に私に任せると言われているので」
私はその場に立ち尽くした。
まるで人前で平手打ちをされたような、目の前の世界がひっくり返るような衝撃だった。
信じられない思いで、勲を見た。
「社長、このプロジェクトは私がずっと担当してきたものです。今になって担当者を替えるのは、適切ではないと思いますが……」
私はかつて、このプロジェクトのために何度も徹夜をした。
そのたびに彼は無理やり私をベッドへ運び、休ませた。
このプロジェクトが私のキャリアにとってどれほど大切なものか、彼が知らないはずはない。
私は彼を見つめた。その瞳の奥に、少しでも私を気遣う色が浮かぶことを願っていた。
けれど、彼は視線を逸らし、同僚たちへ向き直った。
「鈴木ディレクターは海外の名門校を卒業しており、個人の能力も非常に高い。彼女なら必ずこの仕事を任せられると信じている」
私は指を強く握りしめ、そしてゆっくりと力を抜いた。
爪が手のひらに、いくつもの三日月形の跡を残していた。
心の中で、ある決意を固めた。
私は心月へ向き直り、静かに告げた。
「資料の整理には少し時間がかかります。明日の朝、あなたのメールに送ります」
勲はすでに背を向けてオフィスへ向かっていた。
その背中は真っ直ぐで、まるでペーパーナイフのように――私と彼の間に残っていたすべての繋がりを、静かに、そして完全に断ち切っていた。
私は振り返り、自分の席へ戻ると、プロジェクト資料の整理に取りかかった。
1枚1枚の図面、何度も修正を重ねた企画書、毎回の会議議事録――そのすべてに、私が一文字ずつ打ち込んだ時間が詰まっていた。
勲はその上に数え切れないほどの意見を書き込んでいた。
赤い文字で、びっしりと。
何度も何度も修正を求められた箇所もある。
昔、彼は言った。このプロジェクトが成功すれば、お前のキャリアにおける最高傑作になる、と。
そう言った時、私はちょうどシャワーを浴び終えたばかりだった。
髪からはまだ雫が落ちていた。
彼は後ろから私を抱きしめ、顎を私の肩のくぼみに乗せながら、低く、愛おしそうに、誇らしげな声で言った。
あの時の私は、彼が私のことを誇りに思ってくれているのだと思っていた。
なのに今、彼は自分の手で私が心血を注いで作り上げたものを、別の誰かへ渡そうとしている。
私は長い間それを見つめていた。気づけば、視界が滲んでいた。
退社時間になり、帰ろうとしたその時、心月が私のデスクの前に立った。
「高橋さん、今夜の歓迎会に来ていただけませんか?」
私は笑顔を作り、断る理由を探そうとした。
けれど、彼女のほうが先に口を開いた。
「高橋さん、まさか……私に不満があるんですか?それとも、来るのが怖いとか?」
挑発しているのだろうか。
私は顔を上げ、彼女を見つめた。そして立ち上がり、にっこりと笑った。
「いいですよ。お言葉に甘えます」
歓迎会は、会社近くのレストランで開かれた。
個室は広く、円卓には20人ほどが座れるほどだった。
そこには、なんと勲の姿もあった。
以前なら、こうした社員同士の集まりに彼が顔を出すことなど決してなかった。
私は彼のほうを見ないようにして、最も遠い隅の席を選んで、黙々と料理を口に運んだ。
宴の間、皆は何度もグラスを交わした。
その時、副社長の周防(すおう)がグラスを手に立ち上がり、心月へ向けて掲げた。
「鈴木ディレクター、鈴木グループのお嬢様だと伺いましたが、帰国されて、なぜご実家の会社ではなく、うちへ来られたのですか?
まさか、世間で噂されている両家の縁談……本当に近いうちに実現するのでしょうか?」
心月は口元を引き結びながら笑い、恥ずかしそうに上座にいる勲へ視線を向けた。
「周防副社長、情報が早いですね。両家にそういう話があるのは事実です。でも……やはり勲さんのお考え次第です」
その瞬間、場の空気がわずかに静まった。
私は隅の席で、手にしていた箸をテーブルへ落とした。
どういうわけか、視界が急にぼやけた。私は慌ててそれを隠した。
何気ないふりをして、目の前のグラスを手に取って、一口飲んだ。
喉が焼けるように熱かった。
見下ろすと、いつの間にか隣の同僚が注いだのか、グラスの中身は焼酎だった。
私が頼んだオレンジジュースではない。
けれど、その一口で、胸の奥に詰まっていた苦しさが少しだけ薄れた気がした。
私は自分でさらに一杯注ぎ、一気に飲み干した。
――お酒って、こんなにも楽になれるものだったのか。
「高橋」
突然、勲の声が響いた。
テーブルを挟んだ向こう側から、低く、それでいて全員に届く声だった。
「そんな飲み方をして、あとで酔って主役の座でも奪うつもりか?」
私は顔を上げ、彼の冷たい視線とぶつかった。
彼は上座に座り、グラスを指先でゆっくり回している。
他の人には、彼が何を考えているのか分からないだろう。
でも、私には一目で分かった。彼は怒っているのだ。
周囲の同僚たちは静まり返り、視線が私と彼の間を何度も行き来した。
私は口元だけで笑った。
「ご心配なく、社長。私はお酒には強いので。まさか、この程度のお酒すら奢れないなんてことはありませんよね?」
彼は私を見つめた。その目はさらに冷たく沈み、声も凍るようだった。
「プロジェクト資料の整理は終わったのか?今夜は残業する。資料を俺にも送れ」
それはつまり――出て行け、ということだった。
誰にでも分かるほど露骨に。
同席していた同僚たちは、気まずさに息を潜めていた。
私はグラスを置き、バッグを手に取って立ち上がる。
「分かりました」
私は一語一語、区切るように告げた。
「もう邪魔はしません。すぐ仕事に戻ります」
個室を出る時、私は意地でも背筋を伸ばした。
廊下は長かった。
その先には、レストランの大きな出入口がある。
私は一歩ずつ歩き、扉を押し開けた。
すると、冷たい夜風が正面から吹きつけてきた。
私は手を上げ、自分の顔に触れる。
いつの間にか、涙が頬を伝っていた。
見慣れた黒い車が、音もなく近づいてきて、私の前で静かに停まった。
勲の運転手が降り、後部座席のドアを開けた。
彼は私と勲の不確かな関係を知る唯一の人だった。
「高橋さん、社長から八麗荘までお送りするよう申しつかっております」
そう言って、二日酔いの薬を一箱差し出した。
「ゆっくり休むようにとのことです」
私はその薬を見つめた。
すると、急に顔が熱くなって、恥ずかしさが込み上げてきた。
――このクズ、まだ私に夜の相手をさせるつもりなの?
私は力いっぱい車のドアを閉めた。
「あの人に伝えて、『とっとと消えなさい』って」
……
タクシーの中で、スマホが震えた。
自分でも笑ってしまうくらい、ここまで来てもなお、彼からの連絡を期待している自分がいた。
けれど、届いたメッセージは母からだった。
【茜、前に話していた、帰省した時のお見合いのことだけど、お母さん、何人か良さそうな人を探しておいたよ。写真を送ったから、時間がある時に見てみてね】
私はそのメッセージをじっと見つめ、また目頭が熱くなった。
2年前、私は航空券を予約して故郷へ帰り、お見合いをするつもりだった。
それなのに、勲の「俺のそばにいろ」という一言で、本当に残ってしまった。
飼い主に手招きされると、嬉しそうに尻尾を振りながら駆け戻るペットのように。
この2年間、私は「彼女」という立場すら得られなかった。
それどころか、会社では隅へ追いやられた。
私は深く息を吸い込み、涙を堪えた。
母が送ってくれた写真を開き、その中から、気になる人を何人か適当に選んで返信した。
【とりあえず、この人たちに会ってみるね】
私は車窓にもたれかかった。
会社のビルの明かりが少しずつ遠ざかっていく。やがてそれは、ネオンが輝く街の景色の中へ消えていった。
私は決して無責任な人間ではない。
この仕事は大学4年のインターン時代から続けてきたものだ。
人は何事にも、きちんと区切りをつけるべきだと、私はずっと思っていた。
でも、今回だけは――わがままを言いたかった。
退職届を人事部へ提出した日の午後、勲のアシスタントが、私を社長室へ呼びに来た。
勲は私の退職届を机へ投げ返し、眉をひそめながら冷たい声で言った。
「高橋、どうしてもこんな方法で俺に当てつけたいのか?」
私は机の前に立ち、背筋を伸ばした。
「社長、これは私自身のキャリアプランです。よく考えた上で決めました」
「よく考えた?」
彼は鼻で笑った。
「退院してから何日も家に戻らず、その結果が退職か?」
私は無意識に指へ力を込め、視線を逸らした。
「社長、おっしゃっている意味が分かりません。私と社長は、ただの上司と部下です」
その瞬間、空気が凍った。
彼は私を見つめ、瞳の温度が少しずつ下がっていく。
「上司と部下……?」
彼はゆっくりとその言葉を繰り返した。
そして、声を極限まで低くする。
「記憶喪失のふりは、まだ続けるつもりか?俺はお前と、問題を解決しようとしているんだ」
胸の奥が、痛みに耐えられなくなる。
どうして彼は、そんなにも簡単に、確信を持って言えるのだろう。
「以前、社長がおっしゃったことには感謝しています。でも今は、私とあなたの関係がどういうものなのか、もう分かっています。
これからは、二度と身の程をわきまえない真似はしません。社長も、どうか公私のけじめをつけて接してください」
彼は私を見つめた。その目付きは険しかった。
「高橋、俺たちは2年間付き合ってきた。お前は俺のことをそんなふうに思っていたのか?」
私は顔を背け、何も答えなかった。
彼は少し身を乗り出し、声をわずかに和らげた。
「昇進のことか?それともプロジェクトのことが不満なのか?それなら説明できる」
「理解しています」私は彼の言葉を遮った。「会社には会社の判断があります」
深く息を吸い、できるだけ落ち着いた声で続ける。
「私にも、これからのキャリアを考えた上での選択があります。私のような一般社員の退職に、社長自ら承認していただく必要はありません。人事部に早急に確認していただき、速やかに引き継ぎを進めます」
彼は私を見つめた。
そして突然、笑った。
その笑みには、わずかな嘲りが混じっていた。
「自分の退職に俺の承認が必要ないと分かっているなら――なぜ2年前、あの退職届は俺の机に届いた?」
私は、平手打ちされたような衝撃を受けた。
顔が熱い。胸まで痛む。
あの時の私は、確かに賭けをしていたのだろう。
自分が彼にとって特別な存在なのだと。
そして、その賭けに勝ったと思っていた。
でも勲が、本当に私を選ぶはずなどなかった。
私は必死に涙を押し戻し、口元を無理やり持ち上げた。
「社長、以前の私は、自分の立場もわきまえませんでした」
彼の表情が、一瞬だけ固まった。
けれど、それもすぐに消える。
「今回は?策略を変えたのか?俺がお前を不当に扱っていると思わせたいのか?これもまた、新しい駆け引きか?」
心はもう、痛みを感じることすらできなくなっていた。
私は指を強く握り、涙をこらえる。
「身の程知らずなことは、一度すれば十分です」
私は顔を上げ、彼を見ながら言った。声は穏やかだった。
「私は、お見合い相手と真剣に付き合っていくことにしました」
その瞬間、勲の顔色が急に変わり、一瞬で、冷たく恐ろしいほど暗い表情になった。
「お見合い?」
「はい」
彼は私を見つめた。
その視線は、まるで人の心を貫くようだった。
「そうか。そういうことか」
彼は口元に冷たい笑みを浮かべる。
「なら、お前の新しい仕事と新しい恋の邪魔はしない」
彼は内線をかけた。
「人事部に伝えろ。高橋茜の退職願を承認した。すぐに処理しろ」
私はその場に立ち尽くし、その言葉を一つ残らず聞いた。
そして、笑った。
「社長。もうお会いすることもないでしょうけど。お時間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした」
私は振り返り、歩き出した。
背後で扉が閉まった瞬間、私は歩く速度を上げた。
角を曲がり、トイレへ駆け込み、鍵をかけた。
鏡に映った自分は、目が血を流しそうなほど赤く腫れ、唇は震え、顔色は青ざめていた。
誰が見ても分かるだろう。この人は、心が引き裂かれそうなのだと。
なのに――どうして勲には分からないの?きっと彼は、一度も本気で誰かを愛したことがないだろうね。
彼の冷たさによって、私はようやく目を覚ました。
私が彼の心の中では、何でもない存在だったのだと。
……
その夜、勲は海外支社へ向けて飛び立った。
一緒に行ったのは、心月だった。
引き継ぎ期間の1か月間、私は会社で一度も彼と顔を合わせなかった。
私が本当に手を離してしまえば、私たちの関係はあっけなく終わってしまうものだったのだと、ようやく分かった。
引き継ぎも残り3日となった時、私は思い切って残っていた有給休暇をすべて消化することにした。
最後の日。
私はあの2000万円の小切手を、彼がこの数年間で私に贈ったすべてのものと一緒に段ボール箱へ詰め、彼のアシスタントへ渡した。
アシスタントは箱を受け取ると、驚きと戸惑いが入り混じった表情を浮かべた。
きっと、想像もしていなかったのだろう。
私のような、ごく普通の小さな町で育った女性が、数え切れないほどの夜を、勲のような選ばれた人間と、深い関係を重ねていたなんて。
故郷に帰る便は夜なので、私はアパートへ戻った。
荷物をベッドの上へ広げる。
クローゼットの一番奥を整理していると、古びた日記帳が一冊、床へ落ちてきた。
表紙はすでに色褪せ、角は擦り切れて白くなっていた。
最初のページを開くと、そこに記されていた日付は、9年前の9月だった。
【今日、学校の講堂で彼が壇上に立って話していた。照明が眩しすぎて、顔はよく見えなかった。でも、私は彼の名前を覚えた――佐藤勲】
勲はずっと、私たちの最初の出会いは、私が大学4年の時に彼の会社へインターンとして入った時だと思っていた。
彼は知らない。
私が18歳になってからずっと、密かに努力を重ね、彼のいる場所へ近づこうとしてきたことを。
この日記には、私の青春の中に隠してきた、誰にも言えなかった想いがすべて綴られていた。
でも今となっては、もう未練を抱える必要なんてない。
私はその日記をゴミ箱へ捨てた。
これで、私と勲の間には、もう何の繋がりも残っていない。