Masuk
「ちょっと倉坂さん!」
穏やかな夕暮れの空気を引き裂くような、激しい怒号が周囲に響き渡った。
「あんた、家賃どれだけ滞納したら気が済むんだい!」
ここは、コーポA201号室。
倉坂瞳(25歳) が一人暮らしをする家の前だ。帰宅早々、今にも噛みつきそうな顔をして仁王立ちで立ちふさがる大家の姿は地獄の門番のように見える。
それは、お前を決して部屋にいれるもんかという強い意志を放っていた。「ああ……大家さん……」
瞳の持っていた仕事道具は、急に腕にずしりと重く感じられ、体に緊張が走った。
「あはは……こんにちは……」
ひきつった顔で挨拶をしながら、今日はどうやってこの大家から逃れようかと考えてみる。
目の前の大家との距離、退路、大家と玄関までの距離……どうよ?
だが——
これまで何度も追撃をかわしてきたがここまでか。
あああ!さすがにもう無理!逃げられないわ……心の中で頭を掻きむしりながら自分が詰んだことを悟り、瞳は諦めたように肩を落としてその場に崩れ落ちた。
だって、大家を運よくかわし、室内に潜り込めてもこれからどうするの?
このアパートはプライバシーがないのよ! 1階に住む大家には、居るのがもろばれじゃないの。住んでみて最初に気づいたのは、プライバシーがほとんど守られないということだった。
玄関の埋め込みポストから室内は覗けるし、壁も薄い。
隣の人が立ち上がったら、こちらの床まで軋む部屋だ。 更には、玄関ドアの建て付けは悪く、体格の良い大家が全力で体当たりなんてしたら……まあ、一瞬にして吹き飛んでしまうわよね。
その後は、あの大家に入口を塞がれ、最後は部屋から出ることもできず兵糧攻め。一時しのぎに意味はないわ。
大家が話したいと言えば、話し合いたい場所で話をするしかない。諦めてぐっと唇を引き締め、殴られて吹っ飛ばされても耐えられるように腹筋に力を入れる。
「今日も頑張って働いてきたところです。近いうちにはお支払いできると……」
こんな言葉を大家が求めていないことは知っているが、なんとか言い訳を紡ごう作戦だ。
もごもご口を動かし、なんとかその玄関に入らせてもらえないものかと大家に視線を送ってみる。だが、抵抗は瞬時に霧散した。
言いかけた途中で大家からキッと睨まれ、それ以上は何も言えない。「ここはねぇ!前の人が首を吊って借り手がつかないから、特別に貸してやったんだ。それなのに、家賃を払ってもらえないんだったら貸した意味がないんだよ!!」
バンバン
ただでさえ傷んだ我が家の玄関の扉を大家が叩くと、その激しい音に合わせて木屑がぽろぽろとこぼれ落ちる。
あああっ!叩かないでよ!もっとボロボロになるじゃないの!
思わず、瞳は無駄な抵抗をするように手を空に伸ばす。
どうせ出ていくときに修繕費まで請求するつもりでしょう?
だいたい特別に貸したって……その原因はあなたじゃないの! 知ってるんだからね!瞳が借りた部屋は、プライバシーがないことに加え瑕疵物件だ。
厳しい大家の取り立てが原因で、前の住人は行き先がなくなり首を吊っていた。法的には3年は賃貸説明に記載が必要。
でも、大家は短期間でも誰かに貸せば次は普通に貸せると断言している。 つまり、次に貸す相手が出来るまでのつなぎに、金がなく事情がある瞳が、瑕疵物件でも平気な相手としてあてがわれたのだ。瑕疵物件になったのはあなたのせいなのに……
瞳は、勝ち誇った顔をした大家を恨めしそうに見つめる。
ただ、どんなに怒りがあっても、家賃6か月分滞納しているのも事実。
家賃を払えるあては、あの能力を使うぐらいしかない。 そろそろお金を稼いで、次の場所へ逃げる時期がきたのかもしれない……能力を使い、金を稼いではまた次の場所に行く、再び行き詰まったら、能力を使いの連続だった。
「お支払いの期限は?」
「期限なんて、今日だよ! 今日 ! あんた、今日は働いてきたなら多少の稼ぎはあったんだろう?」
「あっ!」
大きな大家に体当たりされ、荷物を奪うように取られた瞬間——
その風呂敷に包んだ結び目は解かれ、荷物ごと金属の廊下の床に投げつけられる。
ガラスの割れるような音と重たい物の重なり合うようなはげしい落下音が鳴り響く。 占いの演出用の水晶玉が転がり、ピキッという音と同時に亀裂が入った。「あ!なんてこと!商売道具なのに……」
更には、その中に入っていた折れ曲がった売上金1万が……
「ふんっ!」
「ま、待って!それは今月の食費代!」
「可愛い顔してるんだから、誰かにねだって食わせてもらったらいいだろう!これは利子だ!いいか、残りを週末までに!そうしないと出ていってもらう」
思わず大家に縋り付いた瞳を片手で床に振り払い、大家は、ほぼ全ての財産と言える1万円札をひょいと手に掴んで去っていく。
「ああ……私の……お金……」
瞳は、床に散らばった割れた水晶玉や散らばった仕事道具を拾い集めていく以外、何もできることはなかった。
◇ 「どうしたらいいの……」瞳は、先の見えない未来に生きる気力を無くし、部屋の冷たく硬い板の床に無意識に手を触れた。
すると、瞳の目には、先ほどまで何もなかった空間に映像が展開される。
瑕疵物件でも構わないだろうと思われている理由はこれだ。
瞳は、自分の触れたものが見た過去を知ることが出来る能力を持つ。
今、映っている映像はこの床が見た過去、この部屋の前の住人の最後だ。高齢の男性が涙ぐみながら椅子を運んでいる。
首に輪をかけては外しを繰り返している。 そして、何度目だろうか、全てを諦めたように目を瞑り、椅子を蹴り上げ……どさっという音と青白く変わる肌、だらりと垂れる腕や足が瞳の目の前に覆い被さってくる。
瞳は、ただぼんやりとその床が見た過去を見ていた。
「知らない方ですが……私もこの後を追うかもしれません。いえ、これがきっと私の未来」
それが、最近の日常だった。
瞳は、物だけではなく、人も触れれば過去を読み取ることが出来る。 かつては、その能力をテレビで披露し一躍有名人となったが、今は静かに暮らしたいと思っている。「前の住人の最後を無意識にリピートしてしまうのは、それだけ追い詰められているんでしょうか?」
過去を見るのはとても力がいる。
疲労感も半端なければ、目の前で人が死ぬのを止められないなんて、無力感、自責の念も大きい。それなのに、わざわざそんな状況を無意識に見ているなんて、すでに精神状態は限界を超えているとしか思えない。
思わず両手で顔を覆っていると、足音が聞こえてきた。「音?」
このアパートは、2階に上がるには金属製の外階段を使わなければならない。
カンカンカンカン
「複数人?2人?」
耳をそばだてる。足音は、こっちに向かってくる。
「もしかして、また大家?今度は誰か腕っぷしが立つ人を連れてきたとか……」
こっちに来るなと願っているのに、その足音は家の前で止まった。
「本当にこんなところにその女が住んでるんですかね?」「お前!ただでさえ、滅多にその力を発揮してくれることはないって言うんだから、迂闊なことをここで言うなよ!」
「俺、オカルト系とか信じないんですけど……」
「オカルトじゃない。どっちかというと超能力だな」
そんな会話が聞こえてきて、これは……誰?と少し動きが止まる。
男性2名。知っている人?いや、母の知り合いの可能性もあるわ。もしそうならドアや窓も開けずにここで籠城しようかしら?
瞳は、母と関係が悪い。
今こんな生活を送っているのも、自身のせいというよりは、自分から搾取を繰り返そうとする母のせいだ。 大家よりも更にたちが悪い人種だ。緊張のあまり背中を一筋の汗がつたう。
コンコン
いよいよ玄関をノックされた。
瞳は、ごくりと息をのみ、そーっと玄関に近づいていった。
瞳は、そっと袋ごしに鉛筆をつまむと静かに目を閉じた。ここからは、お金に見合っただけの苦しみを味わわなくてはいけない。この事件の真相に触れて、ちゃんと結果を伝える。そう自分に言い聞かせて大きく息を吐くと、全身にとんでもない重力が押し寄せて来た。苦しい……重い……それは、この鉛筆を持っていた者の苦しみか?それとも、過去に遡る自分への負荷なのか?その境界線が分からなくなっていく。最初に景色が広がって見えたものは、真っ赤な血の海だ。覚悟はしていたが、その光景は目を背けたくなる惨状だった。瞳は、自分に見えたものを、流星に事細かに伝えるように努力する。「この鉛筆は……男の子が持っている。でも、この子はすでに死んでるわ」男の子が力なくだらりとしている。すでに胸が動いていない。衣服が血まみれだ。(もう少し遡ろう。鉛筆はこの過去を知っている)鉛筆に血はついていないが、間違いなくこの現場の景色を見ていた。そのため、その少し前の時間に遡るように意識する。だが、瞳は少し息苦しい感覚に襲われ始めた。「男の子の手にこの鉛筆は固く握られているわ。そして……男の子は刺されたのね。包丁もこの鉛筆の周りも血まみれ……鉛筆は……男の子が握っていて、血溜まりと手は距離があるから血はついていない」「見えるのか?でも、これは被害者は握ってないぞ。現場には落ちていたが……」流星の声は、瞳にはぼんやりとしか届いていない。遠くの世界でその声が聞こえる感じだ。返答をしすぎると、今の時間に戻ってしまうが、この声があるから戻りやすいとも言える。瞳は、そのぼんやりとした声に答えていった。「うん、そうね。死んで手の力が抜けて……今、コロコロ転がった。そばでは、男の人と女の人がすでに刺されているわ。最後に殺されたのが子供だったのね……母親が殺された後、どうして?おじさん!そう叫んでいた」瞳の見ている前で刺された男の子は、恐怖と刺された痛みで目を見開き、短時間で生気を失い血溜まりの中に沈み込む。その男の子が死に至る経過が示され、瞳はうっと吐きそうになる。すでに目の前には子供も含めて三人が死んでいる。(鉛筆は、犯人の顔を見ているかしら?)「目の前では、男の子を守ろうとしたのかしら?子供より先に女の人が死んでる……もう少し前にもどるわ」(顔を見ることが出来たら、容疑者の候補の写
瞳は、大家から渡された請求書を前に、朝から真剣に悩んでいた。「どうしよう。多分振り込みのほうがいいよね。証拠をちゃんと残さないと、昨日みたいに現金を奪って、これは利息だって言いかねない」でも……その前に18万だ。昨日は欲張らず、その半額で交渉をすべきだったかしら?でも川村の態度を見たら、タダで能力を使うのは当然って言いそう。もし、次に来たとしても、最初にきちんと請求しないと踏み倒されそうだわ。「うん、絶対全額請求しよう」瞳は手を握りしめて、固く決意する。今日は外に稼ぎに行かず、あの二人を待たないといけない。占いで稼げても、せいぜい1万稼げたら良いほうだ。でも、彼らは18万に変わるかもしれない。「来るなら早く来てくれないかな……」瞳は、ごろっとその場に横になった。その目に映るのは、四畳半の部屋にある段ボールの机と小さな冷蔵庫……そして、小さな鍋。テレビどころかタンスすらないし、服も下着もバッグ一つに収まる量だ。占い師でもないのに、演出に使うための占い道具の方が多かったが、それも昨日大家に壊されたまま置かれている。贅沢をしているつもりはないけど……結局、母と同じように占いと夜職をしないと支払いは出来ないのかもしれない。でも、夜職といっても、今の話題すら知らないのにお客さんと話せるだろうか?彼氏すらいたこともないのに、色気が出せるだろうか?テレビに出たこともあったから、能力を見せろって言われたらどうしよう……その時、金属のカンカンという音が聞こえて、ガバッと起き上がる。来たっ!ドアを叩く音が聞こえて、昨日の大川流星の声がした。「すいません。大川です」気を遣っているのか?周りに知られたくないのか?警察とは言わず、少し小声で声を出す。瞳は慌てて髪を整えて、そっと玄関横の窓を開けた。「あら?ひとり?」川村がいない。周辺に誰もいないことを確認する。流星は背筋を伸ばし、引き攣った顔で窓を開けた瞳の方を見る。そして、瞳と視線が交差すると軽く会釈した。瞳も思わず会釈を返し、自分の心臓がバクバクと音を立てるのを感じ取っていた。(来た!ということは……家賃を返せるチャンス!)心の中で、いやっほぉ!とガッツポーズをする。いや、待って!まだ分からない。無料で見ろという昨日の話の続きかもしれない。ここは、気合を入れて
その後流星は、川村と共に山川温泉の華月旅館でのんびりと温泉に浸かっていた。平日ということもあり、温泉の露天風呂は自分たち二人しかいない。川のせせらぎが聞こえて来て、少しひんやりとした風が頬をすり抜けていくのが気持ち良い。「いいお湯ですね」流星は、はーっと一息吐いた。先ほどの、瞳の最後の言葉が気になってしまって、ずっとモヤモヤしている。せっかく、滅多に体験できない高級温泉旅館に宿泊出来るというのに……ああ!忘れろ!忘れてしまえ!流星は自分の頭にそう言い聞かせていた。川村はそんな流星の様子に気づかず、流れる汗を拭い外の風景に目を移している。「本当にいいお湯だな。有名な温泉でもないのに、さすが久保田課長だよ。よく、知っている」だが、しばらく温泉を楽しんだ後は、少し緊張が取れたのだろう。先ほどの倉坂瞳についてつぶやいた。「18万はぼったくりだよ。1万でも考えるね」突然、川村から前触れもなく言われた言葉に、流星は忘れることを諦めた。「18万なんて、俺の初任給の手取り1か月分ですよ」そう批判めいた口調で、流星も川村に合わせようとした。川村もその反応に満足そうな顔をして、話を続ける。「ああいう人の足元を見る商売をする奴らが、俺は一番嫌いなんだ。遺族にああいうのが、たかるんだよ。占いとか、宗教とか」その気持ちはとてもよく分かったので、流星も頷く。被害者や遺族に、わざと誹謗中傷をしてくる人や、先祖の供養が悪いからこうなったのだと言ってくる人、霊に呪われているのだという霊媒師や、警察以上に調査できるという言葉で商売する探偵など……人の不幸を商売や思想に使う人間を、流星も軽蔑していた。そして、そんな家族の苦しみを知っているくせに、18万をふっかけたあの女性に、川村が嫌悪を持つのも当然……ただ、彼女が売り込みに来たわけじゃなくて、今回は俺たちが押しかけたのだ。そうなると、自分たちも同じことをしていることにならないか?そして、あの能力……嘘だと言い切っていいのか?電子タバコのトリックはどうなっていたのだろう?瞳が川村係長の名前を言い当て、俺たちがここに泊まることがなぜわかったのか?そう考えると、再びドツボのループにはまっていく。だめだ!彼女のことが頭から離れない!「先に上がらせてもらいます」ザバッ!流星は、勢いよく立ち上がり、温泉か
二人が帰った後――はぁぁぁぁ!!瞳は思いっきり息を吐き、ずるずると座り込んだ。「ああ、せっかくのチャンス、交渉失敗だわ……どうしよう」頭を抱えて、どう言えば18万払ってあげるからと言ってもらえたのかわからず途方に暮れる。あの警察の男の子、同じくらいの歳かしら?自分は学校に通えなかったので、同じ年齢の人たちと話をする機会がほとんどなかった。こうやって、同年代を間近にすると、普通に学校に通い、就職した人たちはこんなふうに社会で活躍しているのかと感じる。「いいなあ。真っ当に生きていたら、こんなふうに大家に突き上げられることも、瑕疵物件に住むこともないのよね」天井を仰ぎながら、今もらった警察署の所属先の入った無機質な名刺に触れようとする。しかし、その手は空を舞っただけで止めた。「無闇に人の情報を覗かなくてもいいよね。もらった名刺から、男の名前は大川流星だと分かったわけだし……」小さな段ボールに布をかけた机に、その名刺を投げ出した。「ふふっ、真面目くんなんだろうな。警察が表立って私のところには来られないから、川村は手帳をなるべく見えないようにしていたのに……」大川流星は、川村の努力も虚しく自分の名刺を差し出し、どこに所属しているかまでこちらに提示した。大川がボーッと瞳の顔を見ている表情を思い出して、思わず笑いが漏れる。「もう少し感じたことや思ったことを隠すものよ?あれで仕事になるのかしら……」瞳は警察が嫌いだ。しかし、大川については不思議と嫌な気持ちにはならなかった。多分、最低限の礼儀を尽くす努力をしてくれたからだわ。この能力を使う仕事は、川村のように嫌悪感を露わにする人や見下した態度で見る人が多い。だから、ご丁寧に教える必要はなかったのだけど。「川村には気をつけて……」◆瞳は、川村の電子タバコを手にした時のことを思い出していた。川村からそれを受け取った時、瞳が遡った過去は2日ほど。頭の中に、この電子タバコが見た過去を遡っていく。(このぐらいの日にちなら、私の体も負担が少なくて、遡りやすいのだけど……)あの時、瞳は電子タバコが見た過去を見ていた。電子タバコの位置は固定されていないので、タバコの視点もマメに変わる。手で持ち歩くときもあるし、ズボンの尻ポケットに入れることもある。机の上に置かれていることもあった。受け取
こんな可愛い子、自分の周辺にいない。顔小さいなあ、人形みたいだ。流星に雷が落ちた理由はこれだ。初めて芸能人に会ったような、同じ人間ですか?と思うぐらい、顔が小さいのにパーツが大きくて体は華奢だ。写真よりは大人になっていたが、可愛らしさが美しさに変わっただけだった。まっすぐな肩を過ぎたところまで伸びたストレートの黒髪。真っ黒なぱっちりした目に長いまつ毛。日焼けしていない白い肌。これは、芸能事務所も動くわ……そう納得する顔立ちだ。その反面、人形のように表情がなく、まるで陶器の肌かと思わせる血色のなさ、痩せ細った首筋に、人ではないような薄気味悪さも感じていた。生きた日本人形のような雰囲気だ。「突然伺って申し訳ありません。私はA県の幕田警察署の者です。実は、あなたがかつて未解決事件を解決されたことがあると思うのですが、その時の事をお伺いしたかったのです」流星が、瞳に思わず見惚れている横で、川村は淡々として表情を出さない。まるで事件の聞き取りのためにやってきたかのようなふりをして、警察手帳の表紙をちらっと見せる。(へぇ、さすが川村係長!そう言われたら、当時の自分の能力の話をせざるを得ないもんな)流星も、真面目そうな顔をして、同じようなふりをする。それを見て、瞳は流星をじっと見た。「あなたタバコ吸ってる?」「え!俺はタバコは吸わないよ」突然の瞳からの問いかけに、流星は慌てて手を振って吸っていないと答え、川村を見る。「私は、電子タバコだけど……」川村も、情報屋からタバコを要求されることもあるが、まさかこの子が?と目を丸くさせながら、驚きの顔を隠せない。「それでいい。貸して」川村に、瞳は怯む事なく要求する。「え?いや、電子だよ。新しいカートリッジをセットしようか?」電子タバコは、本体とは別にカートリッジがなければ吸う事ができない。川村が提案したにも関わらず、瞳は首を横に振って、不要だと断った。「大丈夫、吸うわけじゃないから。あなた達が本当に警察なのか確認がしたいの。その手帳を貸してとは言えないでしょう?」瞳は、流星と川村から視線を外さない。「これで……私たちが警察だと分かるのか?」そこまで言うなら仕方あるまいという顔で、手帳を入れていた場所と同じ胸ポケットから川村はしぶしぶ電子タバコを出す。瞳は、川村の動きの一つ一つか
コーポA201号室――お世辞にも綺麗とは言えない家だけど、こんなところに本当に自分と同じ年齢の女性が住んでいるのだろうか?今、男は人生を大きく変える女性と運命の出会いを果たそうとしている。◇A県警 幕田警察署 捜査一課 大川流星は25歳である。彼女いない歴は25年。交番勤務を経て、次はどこに異動だろうと喜んで行った職場は、大半が男性ばかりの出会いがない捜査一課だ。これは、彼女いない歴も更新されていく一方じゃないのか?(自分でいうのもなんだが、見た目がそこまで悪いと思ったことはないんだけど……縁がないのかなあ)身長も176センチと高すぎることも低すぎることもない。顔も、一般的なところだろう。警察官らしく、清潔感は意識している。剣道だって有段者だ。なよっとしていないし、頼り甲斐のある男性を目指している。それなのに!いよいよ、マッチングアプリで出会いを探さないとダメか?流星は頭を抱えて、マッチングアプリに登録すべきか真剣に悩み始めていた。「早い奴は、もう結婚し始めている。先日も学生時代の友人の結婚式に行ったしな。でも、縁は無くても上司や先輩はかわいがってくれるから、誰かが紹介してくれないかな」いいことを思いついたと流星の表情は明るくなる。しかし、可愛がられるは、頼みやすいであり、押し付けやすいである。今日も、定年間際の課長、久保田敏治から「流星、ちょっと頼みたいことがある……」そう声をかけられた。自分の他には、係長の川村優希も呼ばれている。上司二人に呼ばれたら、ほぼ新人の自分は何かやらかしたか?と最初に疑うのは当然。一気に緊張し、背中に汗が伝う。(とりあえず、良いことではないだろうな)捜査一課は、事件を担当することが多く、やらかしの内容によってはマスコミに発表しなくてはならないものから、裁判に発展しかねないものまである。しかし、頼みたいって言ってなかったか?よく考えると、そんな重要案件を担当したことはない。「ああ、固くならないでくれ。君にしかお願いできないことがあって声をかけたんだよ」久保田は、間違いなくお願い事だとにこやかに笑って、手招きをする。君にしかできない?自信を持って断言できる。俺にしか出来ない仕事なんてない。絶対、こいつ今暇だ。何だったら、休みの日だって暇だろう?そう思われている自信がある。