ANMELDEN「あんたが十数人を引き連れて拉致犯のアジトに乗り込み、後頭部を殴られてトランクに押し込められ、あわや窒息死しそうになった時……私という母親がいることなんて、少しでも頭をよぎったのかしら」
修は何も答えなかった。
千絵子は彼を数秒間睨みつけ、深く息を吸い込んで、込み上げてくる怒りをぐっと押さえ込んだ。
「修。最後にもう一度だけ聞くわ。誰にあおられて行ったの?」
「誰にもあおられちゃいない。俺が自分で行ったんだ」
「自分で?」
千絵子の声が跳ね上がった。
「堂々たる九条家の御曹司が、よりにもよって神崎家の養女のために、向こう見ずにも拉致犯の巣窟に乗り込んだって言うの?九条家の顔に泥を塗るだけじゃ飽き足らず、自分の命まで投げ出したくなったわけ?」
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澪は下唇を噛み締め、無言で受話器を握りしめた。沈黙を守る娘に、深雪は言葉を続けた。『脅すつもりはないの。ただ……未婚で妊娠することがどれほど過酷なことか、私は痛いほど知っているから。かつて私も、あなたと同じ道を歩んだのだから……』「お母さん……」深雪は深いため息をついた。『昔の話はどうでもいいわ。とにかく、これはひとつの命よ。もしあなたが本気でこの子を産んで育てる覚悟があるのなら――最悪の事態も想定しておきなさい。万が一……あくまで万が一だけど、あなたと真島家の関係に何かが起きた時、あなた一人でこの子を背負って生きていく覚悟があるのかどうか。分かるわね?』長い静寂が二人を包んだ。電波が切れたのかと深雪が不安になりかけた頃、澪の静かだが芯のある声が響いた。『……分かっています。お母さん、ありがとう。……この数日間、しっかり考えてみるわ』電話を切った後、澪は病院のベンチにぽつりと座り込んだ。深雪の重みのある言葉は、浮かれかけていた彼女を冷たい現実に引き戻す楔となった。その時、ポケットの中でスマホが震えた。画面には『真島怜』の文字が表示されている。澪は気持ちを切り替え、電話に出た。「怜ちゃん?」『澪お姉ちゃ〜ん!!』スピーカー越しに届いたのは、甘えるような、泣きつくような怜の大声だった。『お兄ちゃんが私をいじめ
澪の頭の中は真っ白に染まっていた。心のどこかで、懸命に現実を拒絶しようとする自分がいた。(あり得ない……たった一度きりだったのに。まさか、あの一度で妊娠するなんて――)「やっぱり……病院に行くのは、もう少し様子を見てからでも……」澪は震える下唇を強く噛みしめた。「あの、帰りにドラッグストアで……妊娠検査薬を買って試してみます。まずは自分で確かめてから……」深雪はそれ以上無理強いはせず、ただ静かに頷いた。「ええ、分かったわ。どんな結果が出ても、絶対に真っ先に私に知らせるのよ」その日の帰り道、澪は人目を忍ぶようにドラッグストアで妊娠検査薬を買い求めた。家に帰るとすぐに洗面所に鍵をかけ、固唾をのんで三分間、結果が出るのを待った。やがて――白い判定窓に、鮮烈な二本の赤紫色の線がゆっくりと、確実に浮かび上がってきた。指先が小刻みに震え、妊娠検査薬を持つことさえままならなかった。(本当に……赤ちゃんが、いるんだ……)澪はゆっくりと床に膝をつき、自分の腕に顔をうずめた。頭の中は喜びと恐怖、混乱の渦に飲み込まれていた。◇週末、澪は一人で総合病院の産婦人科を訪れた。問診、採血、そして超音波(エコー)検査。静まり返った診察室で、中年の女性医師は手元の検査
ドレスサロンは、街の中心部にある洗練されたショッピングエリアの一角に佇んでいた。店内の壁一面に、眩いばかりの純白のドレスがずらりと並んでいる。気品ある笑顔を浮かべた店員が、静かに歩み寄ってきた。「いらっしゃいませ。本日はどのような衣装をお探しでしょうか?」「この子に着せるドレスを探しているの」深雪が隣の澪を指差し、穏やかに微笑んだ。「来月の婚約パーティー用のものです」店員の視線が澪に注がれた。頭から足元までを一通り見つめると、そのプロらしい笑顔に感嘆の色が浮かんだ。「素晴らしい透明感をお持ちのお嬢様ですね。どうぞこちらへ。まずはベースのデザインから見てまいりましょう」異変が起きたのは、三着目のドレスを試着し終えた時だった。フィッティングルームから出てきた澪に、深雪が温かい紅茶のカップを差し出そうとした。澪が手を伸ばしかけた瞬間――前触れもなく、視界がぐにゃりと歪むほどの激しい目眩に襲われた。「澪……!?」深雪の驚く声が、まるで水底から聞こえるかのように遠のいていく。声を返そうとしたものの、それよりも早く、喉の奥から強い吐き気が込み上げてきた。澪は咄嗟に口元を押さえ、よろめきながら壁に手をつくと、その場に屈み込んで激しくえづいた。「お客様!?大丈夫ですか!?」店員は青ざめ、慌てて椅子を引き寄せた。澪は支えられながら椅子に腰掛け、何度か深呼吸をして吐き気をこらえた。「すみません……少し、低血糖で立ちくらみがしただけです
昴は円香の訴えを聞くうちに、みるみる顔を曇らせていった。「澪が……お前に手を上げただと?」「ええ……!それに、神崎家なんて願い下げだ、二度と戻るつもりはないとまでおっしゃって――」「円香さん」その時、澄んだ静かな声が割り込んできた。早苗だった。彼女は紅茶のカップを手にしたまま、涼しげな笑みを浮かべて円香を見つめていた。「それは、少し筋が違うんじゃないかしら?」円香の泣き声がピタリと止まり、ギクリと体を強張らせた。早苗は優雅に微笑みつつも、その瞳の奥には冷徹な光を宿していた。「だって、お話がおかしいわ。奥様はこの家を自ら捨てて出て行かれたわけではありませんわよね?それなのに、どうして円香さんがそんなふうに奥様を責め立てる必要があるのかしら。奥様は一時的に別宅へ身を寄せられているだけで、神崎家の正妻である事実は何ひとつ変わっていないのよ」「な……っ」早苗はゆったりと言葉を重ねる。「本当は、奥様もお戻りになりたかったはずですわ。ただ素直になれなかっただけで。それなのに、円香さんがそんなふうに追い返すような真似をするから……あら、まさかとは思うけれど、円香さん。ご自分をこの家の『新しい女主人』だとでも錯覚していらっしゃるんじゃないの?」その一言は、昴が抱いていた歪んだプライドの痛いところを、完璧に射抜いた。(……そうだ。早苗の言う通りだ)昴の胸中に納得が広がっていく。深雪はこの家に戻
円香はその揺らぎを見逃さなかった。昴の心が再び深雪へ傾くのを阻止するため、ここぞとばかりに前に出た。「こんなくだらないことで、旦那様がわざわざお出ましになる必要などございませんわ。どうぞそのまま朝食をお続けになってください。私が奥様を『お迎え』に行ってまいりますから」それだけ言い残すと、円香は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、玄関へと向かった。◇門の外、車のかたわらに佇む深雪の姿を認めると、円香は顔に作り笑いを貼り付けたまま、目の奥に冷たい光を宿した。「まあ、奥様。よくもまあ抜け抜けとお戻りになれましたこと。外で若い男でも捕まえて、すっかり神崎家の正妻としての立場をお忘れになったのかと思っていましたわ。旦那様も本当にお可哀そう。よりにもよって、こんな淫乱な女を妻にしてしまわれるなんて。災難としか言いようがありませんわね」深雪の顔から血の気が引いた。「……誰が不貞を働いたというのです。根拠もない嘘で私を辱めることは許しません!」「あら奥様、そうやって突っ張らなくてもよろしいのに。神崎家の贅沢な暮らしが恋しいくせに、素直に謝るのはプライドが許さないんでしょう?この際ですわ、奥様が私に頭を下げてちゃんとお願いするなら、私から旦那様に上手く執り成して差し上げてもよろしいですのよ?何しろ旦那様は、私の言うことなら何でも聞いてくださいますから」深雪は唇を激しく噛み締め、悔しさに全身を震わせた。その時――屋敷のドアが荒々しく開かれ、澪が凄まじい気迫で駆け出してきた。澪は円香の前に立ち塞がると、一切の躊躇なく、その頬へ向けて思い切り右腕を振り抜いた。バシッ――!甲高い破裂音が響き渡り、円香は
婚約パーティーまで、あと十四日。その日の朝、澪はまたしても猛烈な吐き気に襲われ、跳ね起きるように目を覚ました。布団を蹴飛ばして洗面所へ駆け込み、洗面台にしがみついて何度も激しくえづく。胃袋を雑巾のようにぎゅうぎゅうと絞られるような苦痛だったが、口から出るものは何もなかった。鏡を覗き込むと、そこには血の気を完全に失った青白い自分の顔が映っていた。(……昨日の夕食があたったのかしら)深く考えないように自分に言い聞かせ、冷水で顔を洗って着替えを済ませると、一階のダイニングへと降りていった。ダイニングでは、父の昴、異母妹の綾音、そして側室である早苗がすでにテーブルについていた。澪が椅子を引いて席に着くと、メイドの鈴が察して朝食を運び、彼女の前に絞りたてのレモンジュースが入ったグラスを置いて微笑んだ。「澪お嬢様、今朝のレモンジュースはフレッシュな搾りたてでございます。お口に合えばよろしいのですが」澪は吸い寄せられるようにグラスを取った。レモンの強い酸味が口の中に広がり、喉の奥に残っていた不快感が少し和らいだ。彼女は無意識のうちに、立て続けに二口、三口と飲み進めていた。「澪ちゃん、最近好みが変わったの?」向かいに座る早苗が小首を傾げ、どこか探るような、好奇心を帯びた視線を向けてきた。グラスを口に当てたまま、澪の動きがピタリと止まった。昴が読んでいた新聞から目を上げ、わずかに眉をひそめる。「どうした。そのジュースに何か問題でもあったか?」早苗はふふっと上品に微笑んだ。







