登入ここから出て、リリーとして好きに生きていい。衣食住を含め、あちらでの生活の全てを支援するので、何も心配はいらない。そうアルトワ夫妻に言われた私はなかなか息苦しい毎日を送っていたが、またそんな毎日に耐えられるようになっていた。今までとは違い、終わりが見えているからだ。あとどのくらいでアルトワから離れられるのか具体的な日数はわからない。だが、私のために2人は急ピッチでことを進めてくれると言ってくれていた。きっと1ヶ月もしないうちにここから出られるだろうと期待も込めて思う。そんな毎日を送る中で、私は常々疑問に思っていたことの答えをついに見つけてしまった。「ゔぅ…ぅ…」アルトワ伯爵邸内の廊下を何となく歩いていると、聞こえてきたすすり泣く女性の声。気になってその声の方へ向かうと、レイラ様が今使っている部屋の前へとたどり着いた。そしてたまたまほんの少しだけ扉が開いていたので、思わず中を覗いてみると、そこには静かに泣いているレイラ様と、そんなレイラ様を気の毒そうに見つめ、囲む、複数のメイドたちの姿があった。「…私、リリーが怖いの。自分の居場所が奪われそうだからと口も聞いてくれないし、目が合えば睨むし。セオとウィルなんて、無理やり彼女に縛られて、彼女の傍にいるしかないのよ?本当に2人が可哀想だわ。でも私、怖くてリリーには逆らえないの…」うるうるとその美しい星空のような深い青色の瞳に涙を溢れさせ、メイドたちに訴えかけるレイラ様はあまりにも儚げで、弱々しい。そんなレイラ様にメイドたちは一斉に哀れみの視線を注いだ。「レイラ様、大丈夫ですからね。私たちがアナタ様をお守りいたします」「あのニセモノのことなら私たちにお任せを」メイドたちがレイラ様を少しでも安心させようと優しく笑っている。泣いているレイラ様にそれを慰めるメイド。この光景を見て私はわ
しかしただ耐え続けるといっても、限度というものがある。学院での嫌がらせが始まり3週間。アルトワ伯爵家での嫌がらせが始まり4週間。レイラ様のニセモノとして嫌がらせを受け始め、もう1ヶ月。さすがの私も我慢の限界を迎えていた。イザベラ様を始め、生徒たちの怒りも、アルトワ伯爵家の使用人たちの怒りもわかる。痛いほどわかる。だからこそ、反撃も反論もすることなく、彼らの怒りが収まるのならと、嫌がらせや嫌味も黙って受け続けたのだ。だが、それは収まるどころか私を排除しようと、激しさを増す一方だった。6年前とは違い、あまりにも四方八方敵だらけでさすがの私も疲れてしまった。きっともう耐えるだけでは、この大きな怒りは収まらないだろう。この大きな怒りを収めるには、怒りの原因である私自身が消えるしかない。レイラ様が戻ってきた当初の予定では、要らぬ混乱を招かぬよう段階を踏んで、私とレイラ様が入れ替わる予定だった。だからこそ、その予定に従い、今日まで何を言われても、何をされても、私はレイラ様であり続けた。だが、今の状況でもそうすることが果たして本当にベストなのだろうか。学院中の生徒も、アルトワの使用人たちも、全員が私がニセモノだと知っており、恐れていた事態はもうすでに起きてしまっているのだ。私がニセモノだと周知された今、私はもういらないし、消えるべき存在だろう。今日という息苦しい1日を終えた私は今の状況をアルトワ夫妻に伝える為に談話室へと向かった。夕食後には決まってあそこで仲良くくつろいでいるからだ。「お父様、お母様、今ちょっといい?」談話室の扉を開けると、そこにはやはり予想通り、仲良く同じソファに座り、くつろぐ夫妻の姿があった。なので、私はそんな夫妻の元へ迷わず歩み寄り、声をかけた。すると2人は優しく私に微笑んだ。「どうしたの?レイラ?」「何だい?」
そして予想通り、あの日を境に私の学院での受難の日々が始まった。 まずあんなにも尊敬され、憧れの的だった私は学院中の生徒から冷たい視線を向けられる嫌悪の対象となった。 そこにいないもののように扱われたり、陰口を囁かれることは日常茶飯事で。 さらにそれが加速し、私に面と向かって暴言を吐いたり、私の教科書やノートなどに手を出し、ボロボロにしたり、隠したりするなど、直接私に害をなす生徒まで現れた。 『あれはレイラ様のニセモノだ』 『あれにホンモノのレイラ様はいじめられて怯えている』 『あれのせいでホンモノのレイラ様は学院にも社交界にも戻れない』 そうあることないことを口にする生徒たちの声を何度聞いてきたことか。 噂の出所はもちろんあのイザベラ様なのだろう。 しかし、日に日に風当たりが強くなる生徒たちとは違い、ウィリアム様とセオドアだけは何も変わらなかった。 もうすでに私がレイラ様ではないと知っており、私に嫌がらせをしても、どうにもならないとよくわかっている2人だからこそ、変わらなかったのだろう。 ただ2人は本当に以前と何も変わらなかった。 私が嫌がらせを受ける現場を見ても、何事もないように私に接してくるのだ。 助けようとする素振りさえも一切見せない。 それでも、彼らが変わらず傍にいる間は、生徒たちも遠慮しているのか、あまり積極的に私に嫌がらせをしてこようとしないので、結果として、間接的に彼らに守られている形となっていた。 皆、ウィリアム様とセオドアの前では、粗相を起こしたくないらしい。 それがほんの少し私の心を軽くさせた。 彼らさえ傍にいれば、嫌がらせを受けることもない。彼らはここでの安全地帯のようなものなのだ。 あの2人が私の安全地帯になるとは、何とも皮肉なものだが。
スープに毒を盛られた日を境に使用人が私とは口を聞かなくなった。私の担当をしていた仲の良かった使用人たちは全てレイラ様の担当となり、新しく私の担当になった使用人たちは何故か私に冷たかった。だが、冷たいだけで仕事を放棄しているわけではなかった。私が使っているレイラ様の部屋の掃除ももちろんきちんとしてくれるし、私の身支度等も手伝ってくれる。しかし、その全てが必要最低限であり、仲の良かった使用人たちのように私への気遣いからくるその先のことは何一つなかった。何故、こんなにも急に冷たくなってしまったのか。やはり6年前のように嫌がらせが始まってしまったのか。そんなことを思いながらも、アルトワ伯爵邸内の階段を1人で登っていると、それは突然聞こえてきた。「ホンモノのレイラ様はあのお方なのに!どうしてニセモノがレイラ様として生きているの!?」廊下から聞こえてきた若そうなメイドの悔しそうな声に、思わず私はその場で足を止める。ニセモノって多分私のことだよね?どうしても話の内容が気になり、私はバレないようにそっとその声のする方へと歩みを進めた。そして廊下で何やら不満げに話をしているメイドたちの姿を見つけた。「ホンモノのあのお方のことを思うと胸が痛いわよねぇ。本来なら学院に通っていたのもあのお方なのよ?それなのに1日中ここに閉じ込められて、ニセモノが学院に通っているんだもの」「図々しいにもほどがあるわ。さっさとあのお方の場所を返すべきよ」「それなのにあのお方は常に笑顔でいらっしゃるからこっちももう苦しくて…」何故下っ端であるメイドたちがホンモノのレイラ様の存在を知っているのだろうか。彼女たちの話に聞き耳を立て、私はそんなことを思った。今ここにホンモノのレイラ様が帰ってきているということは、要らぬ混乱を招く為、伏せられているはずだ。あの日、ホンモノのレイラ様を見た使用
あの4人での演劇鑑賞から1週間後。今日もいつものようにアルトワ伯爵一家の皆様と私は共に夕食を食べていた。「この魚は今朝捕れたものだそうよ」机を挟んで向こう側に座る奥方様が本日のメインディッシュに視線を向ける。すると、セオドアの左隣に座るレイラ様の表情が明るくなった。「まあ、そうなの?それは楽しみだわ」魚料理が一番好きだというレイラ様が嬉しそうに、けれど上品にフォークを使って、魚料理に手をつける。それから美しい所作で魚料理を楽しんでいた。かつてセオドアに『姉さんは実は肉料理の方が好きだ。周りが勝手に姉さんが魚料理好きだと勘違いしていたから、心優しい姉さんは仕方なく、魚料理好きだということにしていた。姉さんが好きなのは肉料理』と教えられたことに疑問を持つ。もう1ヶ月以上、レイラ様のことを見ているが、どう見ても肉料理好きを隠して、魚料理好きなフリをしているようには見えないのだ。普通に魚料理好きに見える。6年前、レイラ様のことを何も知らなかった私は、とにかく一番レイラ様のことを知っていると思われるセオドアのアドバイスをよく聞き、完璧なレイラ様の代わりになろうと決めていた。そしてセオドアの助言もあり、完璧なレイラ様に近づけたのではないかと思っていたが、いざホンモノのレイラ様にお会いすると、私とレイラ様は似ても似つかないものになっていた。この1ヶ月レイラ様を見続けて思ったのだが、食の好み以外にも、選ぶものや身につけるものの好みなど、全てが若干セオドアが言うものと違う気がするのだ。セオドアのレイラ様像が少しだけ違ったのか、わざと間違いを教え続けていたのかわからないが、今はもうそんなことどうでもよかった。完璧なレイラ様の代わりに実はなれていなかったのだとしても、私がレイラ様の代わりを務めるのはあと数ヶ月ほどだ。もうどうでもいい話だろう。「アイリ
劇場内の準備が整い、ついに入場が始まる。ウィリアム様が私たちに用意してくれた特別席は個室のようになっており、たくさんの鑑賞席が並ぶ一般席の上から、舞台を観られるようになっていた。そしてこの落ち着いた空間にはきちんと4つの席があった。「さあ、どうぞ、レイラ」ウィリアム様に手を引かれ、まずこの部屋に入ったのは私だった。部屋に入った私は何となく目に留まった左端の席まで移動し、腰を下ろす。するとそのままウィリアム様は私の右隣に腰を下ろそうとした。…したのだが。「ちょっと待ってください」それをセオドアが冷たい声で制止した。「姉さんの隣には僕が座ります。ですからウィリアム様はそこには座らないでください」こちらにゆっくりと近づいてきたセオドアが、そこから動くようにとウィリアム様を促す。だが、そんなセオドアの言うことなどもちろんすんなり聞くウィリアム様ではなかった。「レイラの隣に座るのは婚約者である俺だよ」「違います。家族である僕です」にこやかだが、どこか目の笑っていないウィリアム様と、冷たい表情でウィリアム様を睨むセオドアの間にギスギスとした空気が流れる。何と嫌な空間なのだろうか。「…じゃあホンモノの家族の隣に座ればいいんじゃないかな?」お互いに一歩も引かない空気が続く中、ウィリアム様はセオドアにそうにこやかに提案した。「もちろんそうするつもりですよ。姉さんとアイリス姉さんの間に僕が座るんです」「ふーん。でも2人ともなんて少々わがままなんじゃない?1人くらいは俺に譲るべきだよ?」「どちらも譲れません」「強情だね」何を
sideウィリアムこの国の王家とも並ぶ力を持つ、三大貴族のうちの一つ、シャロン公爵家の跡継ぎは完璧でなければならない。何もかも全て。婚約者に至るまで、だ。俺の完璧の一つだった完璧な婚約者のレイラが半年前、バカンスに行く途中で、馬車で事故に遭い、おそらく死んだ。行方不明扱いになってはいるが、こんなにも月日が経っているので、生きている方がおかしいだろう。この国の同世代の中で一番完璧だった彼女はもうこの世にはいないのだ。シャロン家がアルトワ家との婚約を望んだ理由はひとえにレイラの存在が全てだった。完璧な跡継ぎには完璧な婚約者を。ただそれだけだった。アルトワ家のレイラがいないのなら婚
やっとの思いで屋敷内へと辿り着いた私は、こんなことをしてきた元凶にお暇を伝える為に、屋敷内の廊下を1人で歩いていた。ウィリアム様の顔なんて見たくもないし、訳のわからない道を1時間も彷徨っていたので、疲労感もすごく、さっさと帰りたいのが本音だが、そういう訳にもいかないのが現状だ。ウィリアム様よりもアルトワ家のレイラ様の身分の方が下である以上、礼儀は通さなければならない。私は疲れた体に鞭打って、ただただウィリアム様がいるであろう彼の部屋を目指した。*****少し歩いて、やっと目的の部屋の前へと辿り着いた。中から人の気配を感じるので、おそらくここにウィリアム様がいるのだろう。さっさと
今日のウィリアム様との予定はシャロン公爵邸内にあるガラスドームの園庭を共に散策する、というものだった。「やぁ、レイラ」今日も今日とて嫌々ウィリアム様の前に現れた私に、ウィリアム様はとても嬉しそうに柔らかく微笑む。…本当に意味がわからない。私のことが嫌いなはずなのにどうしてそんな顔ができるのだろうか。「こんにちは、ウィリアム様」「こんにちは、レイラ。今日は散策にうってつけの日だね」「そうですね」ウィリアム様がガラス越しの空にほんの少しだけ視線を向けたので、私も同じように空に視線を向ける。ここは園庭とはいえ、ガラスドームの中なので、外の天気の影響を一切受けない。外がどんなに寒
次に目を覚ました時、私は死んでいなかった。見覚えのある天井に自分が今、レイラ様の部屋にいるのだと把握する。何となく体を起こす前に誰かの気配を感じたので、横を見てみれば、そこには椅子に座り、ベッドにうつ伏せになって寝ているセオドア様の姿があった。何故、ここにセオドア様が?疑問に思いながらも体をゆっくりと起こす。すごく重たい感じはするが、それ以外に特に目立った異常は感じられない。毒を飲んだ割には至って正常だ。今までの毒の中でも強力なものだと思っていたのだが、そうではなかったのかもしれない。「…ん」私が起きた気配を感じたのか、セオドア様も目を覚まし、体を起こした。それから至って