Mag-log inエレベーターのドアが静かに開いた瞬間、
(……あれ?)
何気なく目を向けただけだったはずなのに、
女性社員のひとり。
視線が一瞬だけぶつかる。
(どこかで……)
懐かしい。
いや、違う。
「会ったことがある」ではなく――
理由はわからない。
(……どうして、こんな気持ちになる?)
気のせいだろうかと首を振り、いつも通りの表情に戻す。
社内での簡単な自己紹介のあと、有馬真一は梨央の部署に配属された。
「……では、有馬さん、こちらが本日からお世話になるチームです」
彼の名前が耳に届いた瞬間、梨央の中で何かがざわりと動いた。
(有馬……真一……)
ただの名前。それだけのはずなのに、胸の奥が妙に反応した。
(有馬……真一、有馬……)
心の中で繰り返していることに、ふと気づく。
(なんで、こんなに……名前が引っかかるの?)
意味もなく、その名前が頭の中で反芻されて止まらない。
「……真一……さん……?」
小さな声が、無意識に漏れた。
梨央ははっとして、小さく首を振った。
「ううん、なんでもないの……」
笑ってごまかしたけれど、胸のざわめきは、まるで波紋のように静まってくれなかった。
(しっかりしなきゃ……)
頬をそっと撫でるようにして、自分に言い聞かせる。
(夢に惑わされてる場合じゃない。仕事に支障が出る……)
けれど、目の端で有馬真一の姿を捉えた瞬間、またあの“既視感”がぶり返す。
(……でも、どうして。どうしてこんなにも心が揺れるの?)
理性で押しとどめようとしても、感情は次第に輪郭を濃くしていく。
梨央は、気持ちを切り替えるように紙コップを手に取り、給湯室へ向かった。
湯気の立つコーヒーサーバーの前に立ち、ゆっくりと黒い液体を注ぐ。
(……あの夢のせい、よね)
そう思いながら振り向いた瞬間――
「すみません、それ、借りてもいいですか?」
声がした。
(近い……)
思わず息をのむほどの距離。
「ごめんなさい、どうぞ……!」
慌てて横にずれると、有馬が柔らかく微笑んだ。
「ありがとう。……初日なのに、挨拶遅れましたね。営業部の有馬です。これからよろしくお願いします」
その声に、また心臓が跳ねた。
(この声、知ってる。間違いなく……)
夢の中で、私の名を呼んだあの人の声と、同じ――。
手に持ったコップが微かに揺れて、熱が指先に滲んだ。
「……篠原梨央です。こちらこそ、よろしくお願いします」
震える声をなんとか押し殺しながら、梨央は一礼した。
その瞳に、微かな哀しみが宿っているように見えたのは、気のせいだったのだろうか。
エルゼリアの懐妊は、カイルの世界を静かに、しかし決定的に塗り替えた。かつて彼を苛んでいた絶望や虚無感は、鳴りを潜めた。 代わりに彼の胸を満たしたのは、狂おしいほどの守護の意志と、燃え盛るような独占欲だった。「俺が、守る」彼は何度も、自分に言い聞かせるように呟いた。 エルゼリアを、そしてまだ見ぬ我が子を。 この腕の中にある小さな世界だけが、彼のすべて――それ以外は、排除すべき敵だった。その新たな「誓い」は、彼の力に恐ろしい変質をもたらした。奈落の力は、彼の強い意志に呼応し、より深く、より濃密な闇となって彼に流れ込んだ。 だが、それはもはや純粋な破壊の力ではなかった。 彼の独占欲を映し出し、触れるものすべてを支配し、変質させる――禍々しい呪いそのものだった。彼が歩けば、足元の草花は生命力を吸われたように黒く枯れ果て、 彼が湖の水を覗き込めば、水面は鏡のように光を失い、濁った沼と化した。森の動物たちは彼の気配を恐れ、鳴き声ひとつ上げることもなく姿を消した。 かつて生命に満ちていた迷いの森は、カイルの歪んだ愛を体現するかのように、静かで不毛な「彼の領域」へと変貌していく。かつて、どんな絶望の中でも人々の希望となっていた彼の手が、 今はただ、命を枯らす黒い炎となって森を焼いていた。そして――彼自身も、その変化に気づいていた。だが、彼はそれを意に介さなかった。むしろ、心地よいとさえ感じていた。この静寂こそが、二人と一人の聖域を守る結界。 この枯れた大地こそが、誰にも侵されない安息の揺りかご。「どうした、カイル? 難しい顔をして」エルゼリアが、彼の背中にそっと寄り添う。 彼女の存在だけが、このモノクロームの世界で唯一、鮮やかな色彩を放っていた。「……いや。この森が、静かになったと思ってな」カイルは振り返り、愛おしげに彼女の頬を撫でた。 その指先から放たれる微かな闇の波動に、エルゼリアが気づくことはない。「ええ、そうね。でも、私はこの静けさ、好きよ。 あなたと、この子と、三人だけでいられるのだもの」彼女は幸福そうに微笑み、カイルの胸に顔をうずめた。その無垢な言葉が、カイルの心をさらに奈落へと突き落とす。(そうだ。これでいい。これが正しいんだ)彼の瞳の奥で、かつての英雄の光は完全に消え失せ、底なしの闇だけが揺らめいてい
リアムとセイ=ラムが森の闇に消えた後、湖畔には重たい沈黙だけが残されていた。冷たい空気を裂くように、カイルはゆっくりと振り返り、震えるエルゼリアをそっと後ろから抱きしめた。その腕の力は、たしかに優しかった。かつて彼女が安らぎと感じた、あの包容と同じはずだった。「……もう大丈夫だ」けれど、その腕はもう、彼女にとって安息ではなかった。まるで逃がさないと囁くように、静かに締め付ける――鎖のような重さ。彼の胸に耳を当てると、焦りを孕んだ鼓動が、エルゼリアの魂に刺さるように響いてくる。目には見えない小さな亀裂が、二人の間に静かに生まれていた。夜。焚き火のそば、エルゼリアは静かに口を開いた。「カイル……」思いがけず、落ち着いた声が自分の口から出ていた。「あの、光の剣を持った人は……本当に私たちの敵なのでしょうか?」カイルの肩が、かすかに強張った。「……そうだ。奴らは神々の尖兵だ。俺からお前を奪い、偽りの秩序の中に閉じ込めようとする」エルゼリアは首を横に振った。「でも……あの時、あなたの纏う闇が、一瞬だけ揺らいだように見えたの。まるであなた自身が……苦しんでいるみたいに。カイル、あなたは一体、何と戦っているの?」その言葉は、刃のようにカイルの胸を貫いた。彼は一瞬、答えを失い、視線を逸らす。だがすぐに、冷たく硬い仮面を被り直した。「お前は、何も知らなくていい。ただ……俺に守られていればいいんだ」彼のその声は、問いへの答えではなかった。それは懇願であり、呪いであり、彼自身の魂を繋ぎ止めるための唯一の祈りだった。そしてその夜――エルゼリアは、彼の腕の中で疑念が溶けていくのを感じていた。真実も、正義も、どうでもよかった。この腕の中がすべて。この人がいる場所が、自分の世界のすべてだった。彼の背にそっと腕を回し、彼女は自らを捧げるように、その愛を受け入れた。たとえその先が、光のない奈落の底だったとしても。カイルは、その儚い存在を壊してしまいそうなほど強く抱きしめ、唇を求め、肌を重ね、魂ごと喰らい尽くすようにエルゼリアを愛した。彼女は、その激しさに身を委ねながら、微かな違和感が胸の奥に残っていることに気づいていた。――これは、ほんとうに“守られている”感覚なのだろうか?その問いは、快楽に溶けるように霧散した。けれどその夜、彼女
迷いの森の中心、霧が淡くたゆたう湖畔。それまでエルゼリアに穏やかな視線を向けていたカイルの表情が、凍り付いたように変わった。彼の腰に佩かれた剣が、鞘の中で高く澄んだ音を立てて鳴いた。「来たか――」湖の水面が風もなくさざ波立ち、森の空気が鉄の匂いを帯びていく。それは神聖なる者が放つ、紛れもない神意の波動だった。「カイル……?」不安げに立ち上がるエルゼリアを、カイルは背後から強く抱き寄せた。「大丈夫だ。誰がお前を奪いに来ようと、俺が全てを斬り捨てる。俺だけを信じろ。俺だけが、お前を守れる」その言葉に、彼女は何も言わず、ただ小さく頷いた。だがその胸の奥、どこかにわずかな震えがあった。愛と呪縛――
王都アストリアから東へ数日の距離にある、広大な「迷いの森」。 その森の入り口に、二つの異なる勢力が、期せずしてほぼ同時に到着していた。 【ガイウス率いる王国軍】 森の南側。陽光が届く開けた街道に、王国騎士団を主軸とした大規模な軍勢が陣を敷いていた。掲げられた旗は、王家の紋章。しかし、その軍を支配する空気は、正義のそれとは程遠い、欲望と焦燥に満ちていた。 「まだ見つからんのか! 奴らはこの森のどこかにいるはずだ!」 陣の中央で、豪華な装飾鎧に身を包んだガイウスが、地図を睨みながら斥候に怒鳴りつけていた。彼の野心は、日ごとに膨れ上がっていた。魔女を手に入れ、その力を独占し、病床の王に代わってこの国を掌握する。その輝かしい未来予想図が、彼を焦らせていた。 「しかし、ガイウス様。この森は古くから『神隠しの森』と呼ばれ、一度入れば二度と戻れぬとの言い伝えが…」 古参の騎士が懸念を口にするが、ガイウスはそれを鼻で笑った。 「臆したか? 迷信に怯える腰抜けは、ここで王の帰りを待っているがいい! 功名を立てる好機を逃すことになるがな!」 ガイウスは、兵士たちに向かって高らかに宣言した。 「聞け、者ども! この先に、国を裏切った逆賊カイルと、災いを呼ぶ魔女がいる! だが、恐れるな! あの魔女を捕らえた者には、望むだけの金銀財宝と地位を約束しよう! 陛下の御名において、私が保証する!」 金と地位。その言葉に、兵士たちの目がぎらついた。彼らの多くは、騎士団の誇りよりも、目先の報酬に心を動かされる傭兵上がりの者たちだった。士気は、歪んだ熱狂によって高まっていく。 彼らにとって、これは聖戦ではない。一攫千金を狙う、宝探しのための戦争だった。 【リアムとセイ=ラム】 一方、森の西側。古木が鬱蒼と茂る、獣道さえない場所に、二人の人影があった。 リアムと、彼の師であるセイ=ラム。 リアムは、息を殺して森の奥の気配を探っていた。セイ=ラムとの地獄のような修練を経て、彼の五感は人間を超えた領域にまで研ぎ澄まされていた。 「…南の方角から、大軍の気配がします。かなりの数です」 リアムの報告に、セイ=ラムは静か
ナフィーラの魂が北の聖地で覚醒の光を放った頃、王都アストリアは、静かだが確実な腐敗の渦中にあった。リゼア=アナが撒いた「堕ちた騎士」と「奇跡の魔女」の噂は、人々の恐怖と欲望を煽り、一つの大きな悲劇を生んでいた。騎士団長バルトロムが、堕ちた英雄カイルに討たれたという衝撃的な事件。それは王国の守りの要である騎士団の権威を失墜させ、王都に不穏な空気を蔓延させていた。【王城・玉座の間】玉座の間では、野心が鈍い光を放っていた。 騎士団長の後釜を虎視眈々と狙う貴族騎士、ガイウス。彼は、病弱な国王の前で恭しく膝をつき、その舌で巧みに恐怖と希望を編み上げていた。「陛下、バルトロム卿の無念、必ずやこのガイウスが晴らしてご覧にいれます。しかし、かのカイルが連れる魔女は、ただの災厄ではございません」ガイウスは、リゼア=アナが夢で囁いた言葉を、さも自分が得た情報であるかのように語る。「噂によれば、その魔女は死者さえ蘇らせるとも言われるほどの、奇跡の治癒の力を持つとか。もし、その御力を王家のものとできれば、陛下の御心の安寧は、未来永劫続くことでしょう」その言葉に
ナフィーラが、愛した村と愛した人の背中を同時に失ったのは、まだ春の香りが風に名残をとどめていた頃だった。カイルを逃すため、彼女は自ら村人の非難を受け入れた。 その沈黙の圧力が、彼女を門の外へと押し出す。彼らが消えた森とは反対の、北へと続く荒野。 誰もいない、風の音すら寂しげな道を、彼女は一人で歩き始めた。最初の数日は、何も感じなかった。 石の硬さも、風の冷たさも、自分の鼓動さえも、まるで他人のもののようだった。思考を手放し、ただ夜が来れば眠り、朝が来れば歩く。 心は、厚い氷に閉ざされた湖面のように、静まり返っていた。カイルの最後の瞳に、自分の姿はもう映っていなかった―― その事実だけが、無音の幻影として、何度も再生された。泣くこともできなかった。 涙も、嘆きも、神への祈りさえも、この空虚な心の前では無力に思えたからだ。荒野を越え、やがて彼女は人の気配のない北方の古の森へ辿り着いた。そこは「観月の森」と呼ばれ、かつて月の女神セレイナに捧げられた“観月の祭壇”が存在したという伝承が残る地だった。森はまるで、世界の原初の静寂をそのまま閉じ込めたような場所だった。 苔むした巨木が空を覆い、木漏れ日がまだら模様を地面に描く。風さえも、神聖な囁きのようだった。彼女はその中心、静かな湖のほとりに、小さな庵を築いた。 朽ちた枝、蔓、落ち葉……森の中にあるものだけを使い、祈るように住処を編んでいく。日中は薬草を摘み、夜は湖に映る月を見つめる。 けれどその祈りは、もはや誰かのためではなかった。それは、魂への問いかけだった。「私は、何者だったのか」「なぜ、あれほどまでに彼を愛したのか」 「なぜ、最後の夜に、あの背中を引き止めなかったのか」彼の無事を祈る気持ちと、裏切られた傷に囚われる心。 そして――「彼を赦したいと思ってしまう自分を、どうしても赦せない」その矛盾が、祈りというより自責の念として彼女を苛んだ。「私はまだ……光の巫女でいていいのでしょうか……?」季節は静かに巡り、森は紅に染まり、やがて白い雪に覆われた。 心は摩耗し、感情は鈍くなり、命の光すら、胸の奥で弱まりつつあった。それでも、彼女は生きていた。そして、冬の最も厳しい、ある満月の夜。湖に厚い氷が張り、澄み切った銀の月が、まるで巨大な瞳のように、静まり返った森
森の端で、ナフィーラは膝を折り、静かに嗚咽を漏らしていた。湿った土の匂いが冷たく肺腑を満たす。 「私が……止められなかったから……。私が、あなたの優しさを信じてしまったから……カイルが……村が……」 胸の奥で「きっと救えるはずだった」という淡い信念が音を立てて崩れ落ち、その破片は棘となって心を絶え間なく突き刺した。 カイルの選んだ「共存」という名の優しさを、ナフィーラは誰よりも強く肯定した。ただ、彼の隣で祈り、寄り添うことしかできなかった。 だが、意識を失って倒れていたエルゼリアを助けたことが、村に不安と恐怖を呼び、今やカイルは孤立し、彼女を守ろうとするその身さえ追い詰められ
冷たい風が森を渡り、葉を揺らす音だけが虚しく響いていた。ナフィーラの背が月光の向こうに消えた後も、カイルはその場に立ち尽くしていた。重い沈黙が彼を押し潰さんばかりに覆い、その場の空気さえ凍りつくようだった。(これが……俺が望んだ未来なのか……)深い夜
その日の夜、村を包む空気は、もはやただ重いだけではなかった。それは、いつ爆発してもおかしくない火薬庫のような、危険な静寂だった。日中、村人たちの非難の視線と囁き声は、カイルだけでなく、彼のそばにいるナフィーラにも容赦なく向けられた。「巫女様ですら、あの余所者の女に夢中になったカイルを引き戻せないのか……」その冷たい言葉は、ナフィーラの胸に深く突き刺さり、音もなく彼女の心を傷つけていった。カイルは村人たちの敵意を一身に背負いながらも、昼間はエルゼリアの看病を続けた。目覚めた彼女は、自分の名がエルゼリアであること以外、何も覚えていないと語った。
カイルは、気を失った女の体をためらいがちに抱き上げた。想像以上に軽く、冷え切った体は、まるで命の熱が抜け落ちたようだった。血の鉄錆びた匂いと、微かに残る気品ある花の香りが、冷たい夜風に混じり彼の鼻をかすめる。 「…厄介事を拾っちまったな」 誰に言うでもなく、舌打ち混じりに呟く。霧深い森の中、足元はおぼつかない。女を抱えることで、いつもなら馴染んだ小道が







