Masukコインパーキングの入口に差し掛かったとき、雨はちょうど上がったばかりだった。
アスファルトの表面には、黄色いラインを歪ませるように水たまりが点々と残っている。白い駐車番号の数字が、水に滲んでぼやけて見えた。タイヤの跡が黒く筋を引き、街灯の光がそこに反射している。
生温い湿気が、頬と首筋にまとわりついた。さっきまで降っていた雨が、空気に溶け残っている感じだ。遠くの大通りからは、車の走行音と、誰かの笑い声がかすかに届く。ここはその喧噪から少しだけ離れた、切り取られたような一角だった。
充は、カーキのジャケットのポケットに突っ込んでいた手を出し、スマホの画面を一度確認した。二十一時を少し回ったところ。待ち合わせの時刻には、まだ数分ある。
堂島が相手だ。相手に待たれるのは嫌うくせに、自分は平気で早く来るタイプだろう。そんな予感がして、充は視線を路地の奥へと向けた。
コインパーキングの一番奥、フェンスで仕切られた向こう側に、裏路地がある。ビルとビルの隙間にできた細い通路だ。そこに続く影が、街灯から逃げるみたいに伸びている。
「…行くなら、さっさと行けよ」
誰にともなく呟き、自分の足を前に出した。
靴の裏が水たまりを踏み、ぴちゃりと音を立てる。その音が、妙に大きく耳に響いた。手のひらが汗ばんでいる。さっきコンビニのガラスに映った自分の顔を思い出す。あのときと、目の色は変わっていないはずだ。
ビルの隙間に入ると、途端に空気の温度が変わった。さっきまでまとわりついていた生暖かさが少し引き、代わりに排水溝の匂いとコンクリートの冷たさが濃くなる。頭上には、細い空の筋しか見えない。
路地の奥、暗がりの中に、人影が一つ立っていた。
「よく来たな」
先に声をかけてきたそいつは、笑っているのかどうか分からない口元をしていた。
背は充より少し高いくらい。厚手のパーカーの上に黒いジャケットを羽織り、ジーンズの足元には安っぽくないスニーカー。髪は短く刈られ、耳元には小さなピアスが光っている。顔つきはどこにでもいそうな若い男だが、その目だけが違った。笑っていない。何も笑っていない目をしている。
堂島亮。
何度か遠目には見たことのある顔だった。殴られている誰かの向こう側。店のレジで震える店員の前。夜道で土下座させられている男の後ろ。
近くで見るのは、初めてだった。
「呼ばれたからな」
充は、なるべく淡々と答えた。
「お前に」
堂島は口の端を上げた。笑いと呼ぶには温度のない動きだった。
「素直でいいねえ。最近のガキどもは、呼んでも来ねえからさ」
「ガキども、ね」
その「ガキ」の中に、海斗の後輩が含まれていることを思うと、喉の奥が少し苦くなる。
「本人は?」
「来ねえよ。あいつは使えねえ」
堂島は、路地の壁にもたれかかりながら言った。雨の滴が、上のエアコン室外機からぽたぽたと落ちてきて、ジャケットの肩を濡らしている。
「だから代わりのコマを呼んだんだろ。お前」
「代わりって」
「お前、あのガキの先輩なんだろ。紹介料もらってんじゃねえの」
海斗が紹介した、と言っていた。堂島の中で、その線はとうの昔に充にも伸びているらしい。
「紹介料なんか、もらってねえよ」
充は、笑い飛ばすように言った。
「そもそも、俺はその話に関係なかった。今日こうして来てんのは、そいつの借金がこれ以上増えないようにってだけだ」
「へえ」
堂島は目を細め、ゆっくりと近づいてきた。足音はほとんどしない。それが余計に距離を詰められた感覚を強くする。
「正義の味方ってやつ?」
「そういうのじゃねえ」
喉の奥が熱い。自分でそんな言葉を出したくはない。
「ただ、俺も昔借金でクソみたいな目にあったからな。親が。だから、そいつの親まで巻き込まれるの見たくねえだけだ」
堂島は立ち止まった。充との距離、腕一本分。そこまで来て、顔を覗き込むようにしてきた。
「親思いだねえ」
目の奥が冷たいまま、口元だけが笑う。
「自分の親は、今どうしてんだ」
「とっくに切った」
「冷てえな」
「向こうが先に切ったんだよ」
淡々と言い返しながらも、胸の奥を針でつつかれたような痛みが走る。父親の背中と、酒瓶の匂いが一瞬だけ蘇った。
「ま、親の話はどうでもいいか」
堂島は気にした様子もなく、片手をポケットに突っ込んだ。
「問題は金だよ。金。あのガキの残りの借金がいくらか、知ってるか?」
「…ざっくりは」
海斗から聞いた数字が頭に浮かぶ。最初の二十万が、利息で膨れ続け、今やその倍近くになっている。
「四十ちょい」
堂島は、指を四本立てて見せた。
「それに、ここまで俺の手間と時間を使った“迷惑料”が乗っかってる」
「迷惑料ね」
「そう。迷惑料。俺だって忙しいのにさ、あいつの家の住所調べて、実家の電話番号まで取って、何回も連絡して」
「それは、お前が勝手にやったことだろ」
「勝手に、ね」
堂島は笑い声を漏らした。それが笑いであることを、耳が拒否しようとする。
「“勝手に”やらなきゃ、金なんか返ってこねえだろ。この街で飯食ってくってのは、そういうことだよ」
充は、深く息を吸った。湿った空気が肺の奥に入り込み、胸のあたりで重く溜まる。
「四十。全部まとめて今すぐは出せねえけど、半分くらいなら何とかする」
自分の口から、その言葉が出た瞬間、現実が一段階重くなった。
今の自分の貯金と、来月の給料と、カードの限度額を頭の中で素早く計算する。ギリギリ、半分は何とかなる。残りは分割で、店のシフト増やせばどうにかならないわけじゃない。
どれだけ無茶な算段でも、「不可能」ではないと自分に言い聞かせる。
「残りの半分は、俺が保証する。あいつに今以上の利息つけるのやめて、家に手出すのもやめろ」
堂島は、しばらく充をまじまじと見た。路地の少し離れたところで、水が滴る音だけがしている。
「お前」
やがて、彼はゆっくりと言った。
「自分の首絞めてる自覚、あんのか」
「あるよ」
「あるなら、普通やんねえだろ」
「普通じゃねえから今ここにいんだろ。俺もお前も」
堂島の口元が、ほんの少しだけ歪んだ。笑っているのか、苛立っているのか判別しづらい形だ。
「あのガキのこと、そこまで気にする義理あんの?」
「ねえよ」
即答した。
「義理なんかない。けど、俺がそれやんなかったら、多分誰もやんねえから」
それは正直な気持ちだった。海斗も、その後輩も、自分のことで精一杯だ。上の世代の誰かが間に入らなければ、この手の話は簡単に地獄まで転がる。
堂島は、ほんの少し顔を傾け、充の目を覗き込んだ。
「…へえ」
低くそう言った声には、先ほどまでの薄笑いとは違う響きが混じっていた。
「偉いじゃん。警察官みてえ」
その単語に、心臓が一瞬だけ跳ねた。
慎一の顔が、脳裏に浮かぶ。真面目で、不器用で、でも、誰よりも人のことを見てしまう男の顔。
「警察官なんかじゃねえよ」
充は、低い声で返した。
「俺はただの、夜の店のスタッフだ」
「スタッフねえ」
堂島は鼻を鳴らした。
「そういうやつが一番タチ悪いんだよな。自分を“ただの○○”だって言い聞かせて、自分のやってることの重さから逃げようとする」
言っていることは、一部、当たっていた。
「で、その“ただの夜の店のスタッフ”さんは、今ここで何をしに来たわけ?」
「話をしに来た」
充は、堂島から視線を外さずに言った。
「あいつをこれ以上追い詰めるんじゃなくて、落とし所をつけてもらいに。お前がやってることが全部真っ黒なのは分かってる。でも、全部がひっくり返る前に、どこかで止めないと、俺みたいな立場のやつが増えるだけだ」
「お前みたいな立場?」
「借金で家壊れたガキの、なれの果て」
堂島の目が、ほんの少しだけ細くなった。
「警察にチクった?」
突然、話題を変えるように、彼は言った。
「…は?」
「今日。誰かに相談した?」
頭の奥で、警察署のロビーと、蛍光灯の光と、慎一の顔が一瞬だけフラッシュバックする。
「別に」
「顔、動いたぞ」
堂島は笑う。今度は明らかに、相手を嗤う笑いだ。
「ここ来る前に、どっか寄っただろ。警察署とか」
「…ただの世間話だよ」
「世間話ね」
堂島はゆっくりと歩き出した。充の周囲を、円を描くように一周する。靴音が湿った路面に吸い込まれていく。
「お前みたいなタイプは、どっかで絶対“正しい大人”に頼ろうとするんだよな。自分の中の正義だけで動いてるわけじゃなくて、“ちゃんとした人間”の後ろ盾が欲しくなる」
耳の内側に、嫌な汗が滲む。
「頼ってねえよ」
「ほんと?」
堂島は立ち止まり、懐に手を入れた。
その動きに、充の背中の筋肉が反射的にこわばる。
「なんだよ」
堂島は何も答えなかった。代わりに、懐から銀色のものを取り出す。
折りたたみナイフだった。刃渡りはそう長くないが、光を受けて鋭く光っている。雨の雫が刃に落ちて、細い線を作った。
「ビビんなよ」
堂島は、ナイフをひらひらと手の中で弄びながら言った。
「別にいきなり刺したりしねえよ。脅しだよ、脅し」
「充分だろ」
喉が渇いた。唾を飲み込もうとするが、うまくいかない。舌が上顎に貼りつく。
「四十万だかなんだか知らねえけど」
充は、出来るだけ声を安定させようとした。
「それ払うために、今ここで俺を刺してどうする。金、返ってこねえだろ」
「お前が死ぬと思ってんの?」
堂島は笑う。
「刺す場所選べば、死なねえよ。ちょっと血が出て、ちょっと痛いくらい」
「冗談が好きだな」
「これが冗談に聞こえないなら、お前この街に長くいすぎて感覚バグってんだよ」
ナイフの刃先が、充の胸元のあたりにちらつく。距離はまだある。飛びかかられれば避けられるかもしれない。そう思いながらも、足が路面に釘付けになったように動かない。
ここで逃げたら、何のために来たのか分からない。何も守れない。自分の体面だけ守って、誰かに犠牲を押しつけて帰ることになる。
「…あのガキには、手出さないって約束するなら」
充は、ナイフの先を見据えたまま言った。
「俺の方にいくらでも傷つけていい。金も、時間も、身体も、可能な限り出す」
堂島の目がわずかに見開かれる。
「殴るなら殴れ。刺すなら、痛くねえとこ選べ。俺は叫んだりしねえから」
自分で言って、自分で頭がおかしいと思う。そんな都合のいい刺され方があるわけがない。でも、何かしらの「条件」を提示していないと、ここで飲み込まれそうだった。
堂島は少し黙っていた。ナイフを指の間でくるくると回しながら、充の顔をじっと見ている。その視線の中に、怒りとも興味ともつかない色が混じっている。
「ほんっと、お前さ」
低く呟きが落ちた。
「正義感ぶるの、やめた方がいいよ」
「ぶってねえよ」
「ぶってんだよ」
堂島は一歩近づく。同時に、ナイフの刃先がその分近づく。
「お前みたいなのが、一番人を巻き込むんだよな。自分だけが傷つけばいいって顔して、実際には周りが血まみれになってる」
その言葉に、胸の奥を殴られたような感覚がした。
その瞬間だった。
「警察だ!」
路地の入口の方から、鋭い声が飛んできた。
「堂島、刃物を捨てろ!」
時間が、一瞬だけ止まったように感じられた。
振り返る間もなく、堂島の手が充の腕を掴む。勢いよく引き寄せられ、背中が堂島の胸にぶつかった。ナイフの冷たい刃先が、今度は確実に彼の脇腹の辺りをかすめる位置に来る。
「動くなよ」
耳元で囁く声は、さっきまでの軽さを完全に失っていた。
路地の入口側を見ると、そこには制服姿の警察官が一人、路地の手前に立っていた。長谷慎一だ。街灯の光に縁取られたその姿が、一瞬だけ幻のように見える。
慎一の隣には、もう一人警官がいる。高瀬だ。少し年上の、その顔も充には見覚えがあった。
二人とも、ピストルにはまだ手をかけていない。だが、その目つきは完全に仕事のものだ。
「堂島」
慎一が、はっきりとした声で言った。
「その手を離せ。刃物を捨てろ。今ならまだ、単純な傷害で済む」
「うるせえな」
堂島は、充の腕をさらに強く引き寄せた。肩と背中にかかる力が、骨を軋ませる。
「どこで匂い嗅ぎつけてきたか知らねえけど…邪魔すんなよ、長谷さんよ」
名前を呼ばれても、慎一の表情は変わらない。ただ、目だけがわずかに細くなった。
「こいつは関係ねえだろ」
慎一は言った。
「お前が貸したのは、あのガキであって、こいつじゃない。人違いだ」
「人違いじゃねえよ」
堂島は、充の顎のあたりにナイフの刃先をちらつかせる。
「こいつが勝手にしゃしゃり出てきたんだよ。“あのガキの代わりに何でもするから”ってさ。可愛いだろ」
「…長谷」
充は、自分の声がかすれていることに気づいた。
「来んな」
思わずそう言っていた。自分でも驚くほど、弱い声だった。
「こいつが相手なら、俺だけで…」
「黙ってろ」
慎一の声が飛ぶ。いつもより低い。
「お前は今、完全に“人質”だ。勝手にしゃべるな」
人質。その単語が、現実として重みを持って落ちてきた。
堂島は、おもしろがるように笑った。
「そうそう。今のお前は、人質。交渉のカード。警察さん相手に使える、便利な駒」
「堂島」
高瀬が口を挟んだ。
「落ち着け。お前、ここで誰か刺したら、本当に終わりだぞ。今まではグレーゾーンでなんとかしてきたかもしれねえけど、人一人血まみれにしたら、洒落にならねえ」
「うるせえって言ってんだろ」
ナイフを持つ手に、微かな震えが伝わっているのが、背中越しに感じられた。堂島だって、完全に理性を失ってはいない。しかし、その理性がどこまで働くか、誰にも分からない。
慎一は、一歩前に出た。靴の裏が水たまりを踏む音がする。
「そこで止まれ!」
堂島が叫ぶ。
「あと一歩近づいたら、こいつの腹か喉、どっちかぶっ刺すからな」
ナイフの刃が、充の腹の辺りを掠めるように動く。冷たい金属の感触が、布越しに伝わってくる。皮膚の表面がぞわりと粟立った。
「…堂島」
慎一は、ゆっくりと両手を上げて見せた。銃に手を伸ばす意思がないことを示すように。
「話をしよう」
「話なら今してんだろ」
「違う。ちゃんとした話だ」
慎一は、まっすぐに堂島を見据えた。
「お前は頭悪くない。物流の会社で働いてたときに、数字には強かったろ」
その言葉に、堂島の顔が一瞬だけ引きつった。
「なんで…」
「お前の前科はこっちも把握してる。お前がどういう経緯で今ここにいるかも。だから分かる。お前は損得勘定ができるタイプの人間だ」
慎一は、一歩だけ足を前に出した。それ以上近づくわけではない。ただ、重心をほんの僅か前に移す。
「今ここで、目の前の人間を刺す。得か、損か」
その問いに、堂島は瞬きもせず、慎一を睨みつけた。
「警察官ってのは、口が上手いねえ」
「お前と同じくらいにはな」
慎一は淡々と返した。
「考えろ。ここでこいつを刺したら、その瞬間に“単なる貸金業者”から“殺人未遂犯”になる。お前のやってきた裏の仕事も含めて、全部ひっくり返る。今までは、“表に出ない範囲”で済んでたかもしれない。だが、刃物が入った瞬間に、それは変わる」
「…」
「お前、自分の将来全部捨てるほど、こいつやあのガキに執着あんのか」
その問いかけに、路地の空気が一瞬だけ静まった。
堂島の呼吸が、背中越しに伝わる。早いが、まだ乱れてはいない。ナイフを握る手に汗が滲んでいるのが、ほんの少しだけ握りの変化から伝わってくる。
「…てめえ」
堂島は、低く唸るように言った。
「気安く“将来”とか言ってんじゃねえよ」
「気安くなんかねえよ」
慎一は一歩も引かない。
「お前には、まだ選ぶ権利があるって言ってるだけだ」
「うるせえ!」
堂島の声が、わずかに上ずった。ナイフの刃先が、充のシャツの布地を少し裂く。冷たい空気が肌に触れた。
「お前らみてえな“正しい大人”に説教されるのが、何よりムカつくんだよ!」
その叫びと同時に、時間が一気に加速した。
堂島の身体が、わずかに前に動く。ナイフを持つ腕が、外側から内側へと振られる。
慎一が、その動きに反応した。前に踏み込み、身体を低くしながら、充と堂島の間に滑り込むように入る。
「っ…!」
背中にかかっていた圧力が、一瞬だけ軽くなった。代わりに、目の前で布と肉を裂くような、鈍い音がした。
刃物が何かに当たる感触が、手のひらにまで伝わってくる気がした。実際には、何も触っていないのに。
慎一の身体が、ほんの一瞬硬直する。それから、かすかな息が漏れた。
「あ」
声にならない声が、充の喉から出た。
時間が、スローモーションになった。
慎一の表情がスローモーションで変わっていく。驚き、怒り、痛み、それらの感情が一瞬のうちに通り過ぎていく。口元がわずかに歪み、目が細められる。
ナイフの刃が、慎一の脇腹あたりに深く刺さっている。ジャケットの布地が裂け、その間から赤いものが滲み出てくる。
血だ。
最初は線のようだったそれが、じわじわと染み広がり、ジャケットの色を変えていく。暗い路地であっても、その赤さははっきり分かった。
「長谷!」
高瀬の叫びが、ずっと遠くから聞こえてくるように感じる。実際にはすぐ横なのに、耳が距離を錯覚している。
慎一は、それでも身体を前に押し出した。ナイフを持つ堂島の手首を掴もうと伸ばした右手が、確かに堂島の腕を捉える。
「っ…離せ!」
堂島が怒鳴り、腕を振り払おうとする。慎一は、その動きにしがみつくようにして止める。
「高瀬!」
短く叫ぶ声が飛ぶ。
「今だ!」
その合図に、高瀬が飛び込んだ。堂島の背中に体当たりするようにぶつかり、そのまま地面に押し倒す。三人の身体が複雑に絡み合い、路地の狭い空間で転がる。
ナイフが手から離れ、アスファルトの上を跳ねて金属音を立てた。路地の端にまで転がり、そこでようやく止まる。
「長谷、大丈夫か!」
「…大丈夫、なわけねえだろ」
慎一が、半分笑うように、半分うめくように答えた。その声は、いつもの調子よりだいぶ低く、掠れている。
堂島の身体は、高瀬の膝と腕で押さえつけられている。彼はなおも暴れようとするが、高瀬の押さえ方は迷いがなかった。何度もこういう現場を経験してきた手つきだ。
「動くな」
高瀬が短く言い、片手で堂島の腕を後ろにねじり上げる。堂島が呻き声を上げた。
その間、慎一の身体が前に傾ぎ、ゆっくりと膝をついた。
充は、足が勝手に動いていた。気づけば、倒れかけた慎一の身体を支えるように、その肩を抱き留めていた。
「長谷!」
自分でも聞いたことのないような声が出た。
慎一の身体は、重かった。いつも制服越しに見ていたより、ずっと。腕の中で、その重みが現実としてのしかかる。
ジャケットの下から、温かいものがじわりと溢れてくるのが分かった。胸元と手のひらが、湿った感触で満たされる。
血の匂いがする。鉄のような、錆びた鉄板を舐めたときの味に似た匂いが、鼻から喉にかけて満ちる。
「おい…」
充は、慎一の顔を覗き込んだ。
顔色が、驚くほど早く変わっていく。さっきまで路地の入口で見たときと比べて、肌の色が一気に白くなっている。唇が薄く乾いていく。
「…泣くな」
慎一は、薄く笑おうとした。口元が少しだけ上がる。
「まだ、死んでねえよ」
「泣いてねえし」
充は、反射的に返した。実際、涙はまだ出ていない。ただ、視界が妙に滲んでいる。血の匂いと湿気のせいだと思いたかった。
「高瀬!」
慎一が、再び声を張る。
「早く…救急、呼べ」
「もう呼んだ!」
高瀬が返す。片手で堂島を押さえつけながら、もう片方の手で無線機に触る。
「本部、こちら○○、傷病者一名、至急救急要請!刺創、腹部…意識あり、呼吸…」
言葉が、充の頭の中を素通りしていく。意味は分かるのに、実感として入ってこない。
「おい、充」
慎一が、充の顔を見る。ぼんやりとした視線の焦点が少しだけ合う。
「…お前、まだ、動けるな」
「当たり前だろ」
「じゃあ、ここ押さえろ」
慎一は、自分の脇腹に当てていた手を、少しだけどかした。そこから、さらに血が溢れそうになる。
「あ」
充は思わず声を上げた。
「ちょ…」
「いいから」
慎一は、短く言った。
「お前の手で…止血。押さえろ。強く」
震える指を、慎一の指が掴む。そのまま、血の滲む布の上に導かれる。触れた瞬間、熱が掌に焼きつくように感じられた。
「あ、ああ…」
言葉にならない声が漏れる。指先が、滑る。血と汗で、シャツの布地がぐずぐずになっている。
「もっと…強く押さえろ」
慎一の声は、さっきより少し弱かった。
「痛いくらいで、ちょうどいい」
「…死んだら、殴るからな」
口が勝手に動いた。
「後で、生き返ったら殴るからな」
「お前…」
慎一の口元がわずかに笑う。
「相変わらず、口が悪い」
「誰のせいだと思ってんだよ」
呼吸が浅くなる。胸が苦しいのは、息を止めているからか、それとも目の前の光景のせいか。
堂島はなおも暴れようとし、高瀬は全力で押さえ続けている。路地の入口の方では、誰かが顔を覗かせているのが見えた。野次馬が集まり始めている。
「撮るな!下がってろ!」
別の警官の声が飛び、スマホを掲げようとした誰かが慌てて引っ込む。世界は、騒がしいはずなのに、充の耳には自分と慎一の呼吸音と、血が地面に滴るかすかな音だけが鮮明だった。
「…充」
慎一が、再び彼の名前を呼んだ。今度の声は、やけに静かだ。
「聞け」
「聞いてる」
「いいか」
慎一は、目を細める。その瞳の奥に、何かを決意する色が浮かんだ。
「俺には…息子がいる」
「知ってる」
充は、短く答えた。
「高校生だろ。前に聞いた」
何度か世間話の中で聞いたことがある。“うちのガキがさ”と。名前は、ちゃんと聞いたことがなかった。
「…陸斗っていう」
初めて、はっきりと名前を告げる。
「長谷…陸斗」
その名前が、充の胸の中に、ゆっくりと沈んでいく。見たこともないその少年の姿を、勝手に想像しようとする。慎一に似ているのか、母親に似ているのか。真面目そうなのか、反抗的なのか。
「賢くて…ひねくれてて…どうしようもないくらい、ちゃんとした…ガキだ」
慎一の口元が、少しだけ笑う。その笑いは、痛みと混じっている。
「俺が…いなくなっても…あいつは、多分…一人で、どうにかする」
「おい」
充は、慎一の肩を揺さぶった。
「“いなくなっても”とか、言うな」
「でも…」
慎一は、息を吸うたびに顔を歪めながら、続けた。
「一人で…どうにかさせたくない」
その言葉が、喉の奥に刺さる。
「だから…」
慎一は、充を見た。視線が、はっきりと結びつく。
「陸斗を…頼む」
時間が、本当に止まった気がした。
その一言が、充の頭の中で、何度も反響する。陸斗。陸斗。陸斗。
「…は?」
間抜けな声が口から出た。
「いや、お前…今、何言った」
「頼むって…言った」
慎一は、淡々と繰り返す。
「お前なら…あいつに…嘘つかねえ…だろ」
「…ふざけんなよ」
言葉が、勝手に溢れた。
「なんで今、その話すんだよ。なんで俺なんだよ。俺、あいつの顔も知らねえし、親でもなんでもねえし…」
「俺は…知ってる」
慎一の目は、もう半分ほどしか開いていない。
「お前が…誰かを…見捨てない…タイプだって…知ってる」
「知ってるとか、勝手に決めんな」
掌に伝わる血の温度が、徐々に変わっていく気がする。さっきまで熱かったそれが、少しずつぬるくなっているような感覚。
「俺のせいで…刺されたくせに」
充は歯を食いしばった。
「なんで、最後の最後まで、他人の心配してんだよ」
「それが…俺の…悪い癖だ」
弱々しく笑う声に、怒りと悲しみが入り混じった何かが胸をかきむしる。
嫌だ。こんな約束、したくない。ここで「分かった」と言ってしまったら、その瞬間に自分の人生が別の方向に決まってしまう気がした。
でも、ここで「嫌だ」と言えるか。
この血まみれの男に向かって。「自分のことだけで精一杯だから」と、突き放せるか。
口が動かない。声が出ない。
救急車のサイレンの音が、遠くから聞こえてくる。さっきよりもはっきりとした音量で、近づいてきている。
時間が動き出した。さっきまでスローモーションだった景色が、急に現実の速さに戻る。
「…頼むよ」
慎一は、最後にもう一度だけ言った。
「充…」
その声が、途切れる。
充は、自分の喉の奥から何かがせり上がってくるのを感じた。叫びたいのに、声にならない。涙が出ない代わりに、胸の中で何かが裂けるような痛みが広がる。
「…分かった」
結局、出てきた言葉は、それだった。
「分かったから…だから、今は黙ってろ」
度し難いほど不器用な言い方だった。もっと他に、言い方があったかもしれない。でも、それが精一杯だった。
慎一の口元が、かすかに上がる。
「…ありがと…」
その言葉と同時に、彼の身体から力が抜けた。頭が、充の腕の中で少し傾ぐ。瞼がゆっくりと落ちていく。
「長谷!」
高瀬の声が、今度はすぐ隣から聞こえた。
「意識持っとけ!おい、長谷!」
誰かが駆け寄ってくる足音。救急隊員のものだろう。ストレッチャーの車輪の音が、路地の入口の方から近づいてくる。
「手、離すなよ!」
誰かが充に叫んだ。止血を続けろという指示だろう。手を離したら、この人は本当に戻ってこない気がして、充はさらに力を込めた。
血でぬるぬるになった布地が指の間からはみ出し、爪の間にも入り込んでくる。それでも押さえ続ける。掌が痺れても、力を緩められない。
救急隊員が到着し、次々と指示の声が飛ぶ。
「血圧低下!意識レベル…」
「傷口ここ!押さえてるの誰?」
「俺…」
かすれた声で答えた瞬間、ようやく誰かに手を代わられた。充の手のひらが空気に晒される。冷たい湿気が、血と汗で濡れた皮膚に触れ、震えが走った。
立ち上がろうとしたとき、膝が抜けた。地面に片膝をつく。その膝にも、水たまりの冷たさが伝わる。
ストレッチャーに慎一の身体が載せられる。彼の顔はもう、自分の方向を見ていない。酸素マスクが口と鼻を覆い、その上から白い救急隊員の手が彼の頭部を固定している。
サイレンの音が、さらに大きくなる。救急車が路地の入口で待機しているのだろう。その車体の白と赤が、路地の壁に反射して揺れる。
充は、その場に釘付けになって動けなかった。
耳の奥で、さっきの言葉が何度も何度も繰り返される。
陸斗を…頼む。
俺がいなくなっても。
頼む。
嫌だ。そんな約束、聞きたくなかった。あの場で、あんな状態の相手に、そんなことを言わせたくなかった。
でも、現実は残酷だ。
目の前で血を流したのは、自分を庇ったからだ。堂島のナイフは、本来なら自分のどこかを貫いていたかもしれない。その軌道に、慎一が滑り込んだ。
「俺が殺した」
充は、誰にも聞こえないくらいの小さな声で呟いた。
「俺が、殺した」
その言葉が、自分の胸の中で固まっていく。冷たい石のように、そこに居座る。
同時に。
「俺が預かった」
さっきの約束が、もう一つの石として沈んでいく。
顔も知らない高校生。長谷陸斗。慎一の息子。
その存在を、自分は今、受け取ってしまった。
救急車のサイレンの音が、やがて遠ざかっていく。その音が完全に聞こえなくなっても、充の耳の中では、まだ鳴り続けていた。
カーテンの向こうで、空がまだ決めかねている色をしていた。夜の濃さを完全には手放していないのに、黒だけではない。薄い灰色に、少しだけ青が混ざって、ビルの谷間に滲む気配がある。窓ガラスには、遠くのネオンの名残が点のまま残り、眠りの途中で置き忘れられた光みたいに瞬いていた。充はキッチンに立って、蛇口の水を細く出した。水音が静かな部屋に通っていく。流し台の金属がひやりとして、指先の温度が吸い取られる。昨夜の湯気の余韻はもうない。けれど、肌の奥にだけ温度が残っている。泡の感触が、まだ手のひらの線の間に薄く残っているような気がして、充は指を一度握り込んだ。握り込むと、指の関節が少しだけ引っ張られる。仕事で酷使した手の感覚に戻る。現実に戻る。その戻り方が、以前とは違う。以前の朝は、終わりの印だった。夜が終わる。店の光が消える。笑い声が背中から落ちる。冷たい風の中を歩いて、鍵を開けて、やっと静けさに潜り込む。朝は、逃げ込む側の時間だった。今は、出て行く側の時間になっている。出て行くのは陸斗で、充は送り出す側に残る。残る側の胸の内に、取り残される痛みがないわけではない。けれど、残ることが置いていかれることと同じではないと、ようやく体が覚え始めていた。流し台の横に置いたコップをすすぎ、乾いた布巾で拭く。布巾は柔軟剤の匂いがする。甘すぎない匂いが、生活の匂いとして落ち着いている。充はその匂いが好きになった自分に少しだけ驚く。香水の匂いのように、鎧にはならない。酒の匂いのように、胃に残らない。毎日触れても嫌にならない匂いだ。背後で、布が擦れる音がした。スーツの生地の音は、家の中では浮く。浮くのに、その浮き方がもう痛くない。充は振り向かずに、布の擦れる音がどこを動いているのかを音だけで追った。寝室から廊下へ、廊下から玄関へ。足音は大きくない。靴下のままの足音が、床を柔らかく踏んでいる。充は流し台の水を止め、手を拭いた。キッチンカウンターの上に置いてある皿を一枚ずつ片付ける。昨夜のうちに洗っておけばよかったと一瞬だけ思うが、思うだけで終わる。罪悪感の種類が変わった。できなかったことを責めるためではなく、今日はこういう段取りだった、と納得するために思う。玄関の方で、小さく金属が触れ合う音がする。
浴室の扉を開けると、熱と湿り気が一枚の膜みたいに肌へまとわりついた。照明の白さが湯気に散って、輪郭の曖昧な空間になる。外の新宿の遠音は、窓ガラスと壁の向こうで薄く擦れるだけだ。ここに入ると、街の息づかいより水の音のほうが強い。蛇口をひねる音、シャワーの粒が床に弾ける音、排水口へ流れていく音。それらが反響して、家の中の他のすべてを押しのける。充はバスチェアを少しだけずらして、床に置いたシャンプーボトルの位置を確かめた。細かい動作なのに、指先が落ち着かない。落ち着かない理由を、胸の奥でまだ言葉にしたくないまま、湯気の中に沈める。こういうとき、何かを言うより、手を動かしたほうがいい。手を動かせば、余計な感情が泡に混ざって流れていく。陸斗が後ろから入ってくる気配がした。タオルの擦れる音と、足裏が濡れた床を踏むぺたぺたした音。たったそれだけで、充の背中の筋肉が一瞬だけ強張り、すぐに緩む。硬くなるのは癖だ。守るとか守られるとか、そういう言葉がまだ肌のどこかに残っているからだ。緩むのは、今はもうそれだけじゃないと知っているからだ。洗い場の鏡に、二人の影がぼんやり映った。湯気で曇っていて、線が滲む。滲むのが助かると思った。はっきり見えると、照れが先に立つ。照れは、今さらだ。今さらなのに、まだある。なくならない。なくならないから、日常が日常のまま続く。充はシャワーを手に取り、自分の肩を流した。湯の温度が肌に当たって、今日の疲れが少しだけほどける。サロンの一日分の立ちっぱなしと、指先の細かい緊張。それが湯気の中で溶けていく。溶けていくのに、ただ眠くなるのではなく、胸の奥が静かに整っていく感じがした。陸斗は洗い場の奥で、黙って身体を流していた。余計な気配を出さないような動き方だ。昔の陸斗なら、こういう場面で何をどうしていいのか分からず、言葉を探していた。今は違う。黙り方が変わった。黙ることが、逃げではなく、相手の時間を尊重する形になっている。その変化が、充の中の何かを甘やかす。甘やかされるのが怖かった時期はもう過ぎたのに、それでも甘やかされると少しだけ胸が詰まる。充はシャンプーボトルを手に取った。押すと、透明な液が掌に落ちる。少し甘い香りが鼻先に立つ。サロンで使うものとは違う、家の匂い。
ビルの谷間を抜ける風は、相変わらず強い。ネオンの明かりが路面を濡れたみたいに光らせて、通り過ぎる人の影が流れていく。新宿は眠らない街だと、誰もが言う。眠らないことが正義みたいに、勝ちみたいに。充は昔、その正義にすがっていた。眠らないことが自分の存在の証明だと思っていた。眠らなければ、何かに負けない気がした。眠ったら、取り残される気がした。だから朝が怖かった。今夜の新宿は同じ景色なのに、見え方が違う。ネオンの明かりは眩しいままなのに、目が痛くない。笑い声は遠いのに、背中を押してこない。どこかの店の外で、誰かが大声で名前を呼んでいる。その声が、以前は自分の首根っこを掴むように聞こえた。呼ばれたら、戻らなければいけない気がした。今はただの声だ。街の一部だ。自分を決めない。充は歩幅を急がせない。足の裏に残る疲れを、そのまま受け取る。夜の仕事を選んでいた頃は、疲れを感じないふりをするのが癖だった。感じた瞬間に、折れそうで。折れたら終わりで。終わりは、食べていけないことだと信じていた。けれど今の疲れは、違う種類のものだった。サロンで一日立って、指先を細かく動かして、緊張を保ったあとに、今夜はほんの少しだけ別の自分を遊ばせた。身体は正直に重さを返してくる。それが嫌じゃない。疲れが、生活の中に収まっている。収まる枠がある。コンビニの光が角を曲がったところで、四角く浮かんでいた。自動ドアが開くたびに、温い空気と揚げ物の匂いが漏れ出してくる。充は吸い寄せられるように入って、ペットボトルの水を一本手に取った。冷蔵ケースの冷気が指に当たる。レジに並ぶ人の顔は眠そうなのに、誰もがどこかでまだ夜を引きずっている。会計を済ませて外に出ると、街は少しだけ静かになっていた。始発前の時間帯に近づくと、騒がしい新宿にも隙間ができる。隙間の空気は冷たくて、やけに現実的だ。ビルの間を走る車の音が遠く、足元の自分の靴音が目立つ。靴音を聞きながら、充は古い外階段の軋みを思い出す。三階まで上がるたびに、手すりの冷たさと、息の重さと、鍵穴に鍵を差し込む指のもたつきがあった。あの頃は、帰宅の音が生存確認だった。鍵が回る音が、自分がまだ折れていないことの証拠だった。今は、鍵の音が帰還になる。帰るという行
夜の支度を始める前に、充は一度だけ、洗面所の鏡に映る自分の顔を眺めた。サロン帰りの髪は、まだシャンプーの匂いが薄く残っていて、指で梳くと湿り気が落ち着いていく。手の甲は乾燥して、指先のささくれが小さく引っかかった。仕事の証拠だ。以前ならその証拠に苛立ったかもしれない。爪の形や、手の荒れは、夜の自分を裏切るから。けれど今は違う。荒れていても、戻れる場所がある。荒れた手で触れる髪がある。リビングの方から、生活の音が聞こえた。何か紙をめくる音、ペンが机に当たる小さな音。充はその音を背中で受け止めながら、息を吸う。胸の奥がざわつかないことを確かめるように。ドアの隙間から見える室内の明かりは、柔らかい。新宿の夜に出ていくときの明かりは、いつも派手で、いつも過剰だ。それに慣れすぎた過去があるから、今の家の明かりが静かに見える。静かでも薄くはない。むしろ、逃げ込むための暗さではなく、戻るための明るさだった。充は玄関の棚の方へ目を向けた。写真立ての中の慎一の笑い方は、相変わらず少しだけ照れくさそうで、視線を合わせると自分の方が逸らしたくなる。充は靴を履きながら、写真に頭を下げるようなことはしない。祈りではなく、確認だ。今日の夜を、自分で選ぶという確認。スマホが震えた。楓からの短いメッセージが画面に出る。「今、店前。早く来い」短さが、楓らしい。湿っぽさがない。気を遣っているのに、気を遣っていると見せない。充は指先で返事を打ち、送信して、スマホをポケットに入れた。「行ってくる」リビングの方へ声を投げると、紙の音が止まった。「気をつけて」返事はそれだけだった。追いかけてはこない。止めもしない。許可をもらっている感覚もない。だからこそ、充は自分の足で玄関を出られる。外に出ると、新宿の夜はすぐに顔に貼りついた。空気に混じる排気の匂い、誰かの香水、揚げ物の油、ビルの隙間から漏れる店内の音。足元のコンクリートが昼の熱をまだ少し残していて、靴裏からじわりと伝わる。昔はその熱が、自分の中の焦りと同じ温度だった。早く稼がないといけない。早く馴染まないといけない。早く笑えないといけない。今は違う。熱は、ただの夜の温度だ。
リビングの窓から入る光は、午前のわりにまだ柔らかく、カーテンの織り目を透かして床に薄い影を落としていた。新宿の高い建物の影が、時間帯によっては部屋の明るさをゆっくり調整する。外では車の音が途切れず、遠くの工事の金属音が、天気のいい日ほど乾いた響きで混じる。それでも室内は静かで、静かさの中心にあるのは、二人が同じ空気を吸っているという当たり前だった。ローテーブルの端に、分厚い法律書が積まれている。背表紙の角は手垢で少し丸くなり、付箋の色が何層にも重なって、ページの波打ちが外からでも分かる。その隣に、映画のDVDが二、三枚、雑に重ねられていた。ケースの透明なプラスチックには細かな擦り傷があり、タイトルの文字が光に反射して瞬く。さらにその隣には、充のヘアカタログが開きっぱなしで置かれている。モデルの髪は艶やかで、ページの匂いはインクと紙の甘さが混じって、法令集の乾いた匂いとは別の温度を持っていた。シザーケースは、充が家に帰ると必ず置く場所が決まっている。玄関に置きっぱなしにするほど無頓着ではないが、几帳面にしまい込むほどの余裕もない。革のケースがテーブルの角に触れ、控えめな重さでそこにいる。金属のハサミの冷たさは、触れると今でも少しだけ背筋を伸ばさせる。客の髪に触れるときの緊張感が、家の中までついてくるのではなく、家に入ったところでふっと外れる。その外れ方が、昔と違う。充はキッチンで皿を拭いていた。朝食の皿と、マグカップ二つ。拭き上げるたびに陶器が乾いた音を返す。タオルは少し古く、洗剤の匂いが染みついているが、嫌な匂いではない。生活の匂いだ。充はそれを嗅ぐたびに、ここが現場ではなく家だと分かる。ローテーブル側では、陸斗がスマホと通帳を並べていた。スマホの画面をタップする指先の軽い音が、部屋の静けさの中で規則正しく聞こえる。スーツではなく、部屋着の薄いシャツ姿だ。それでも肩の角度は仕事の癖を残していて、背中が自然に真っ直ぐになる。充は皿を拭きながら、ローテーブルの上の混ざり具合を眺めた。きっちり揃っていたら、逆に落ち着かない気がする。昔の自分なら、散らかった部屋を見て苛立っていただろう。苛立って、声を荒らげる代わりに黙って片づけて、相手に「何も言わない」ことで圧をかけていた。今は、散らかり
玄関の照明は、夜の名残りみたいに薄く点いていた。新宿の遠い車の音が、窓ガラスの向こうで絶えず流れている。冷えた廊下の空気に、昨夜の湯気がわずかに残っていて、洗濯洗剤の匂いと混ざり合い、家という箱の中の呼吸を作っていた。玄関脇の棚は、最初からここにあったみたいに馴染んでいる。木目の浅い棚板の上に、三つのものが並んでいた。額縁に入った長谷慎一の写真。一足だけ残った、昔のReina時代のピンヒール。細いヒールの金具が、光を拾う。隣には、紺のネクタイがきれいに折られ、落ち着いた線を引いていた。この三つが同じ場所にあることに、充は今でもときどき息を忘れる。何かを飾ったというより、置く場所が決まっただけなのに。過去がまだ痛むことと、痛みをしまい込めることは、同時に起こるらしい。どちらか一方だけになれなかった時間が、棚の上では不思議なくらい静かに並んでいる。廊下の奥から、布が擦れる音がした。スーツの肩が動く音。靴下越しに床を踏む足音が、慎重に近づく。充はキッチンの流し台で手を拭きながら、振り向かずに耳だけを向けた。昔のぼろいアパートでは、外階段の軋みと鍵穴に差し込む金属音で生存を確かめていた。今は、室内の音が柔らかく続いて、同じ家にいることを当たり前みたいに教えてくる。陸斗が廊下に出てきた。スーツの色が、玄関の薄い灯りの中で黒に沈みすぎず、深い紺に見える。肩のラインが以前より硬い。いや、硬いというより、形が決まっている。背中の布の張りが、仕事に向かう人間のものになっている。充はその背中を見るたび、胸の底のどこかが小さく落ち着くのを感じる。寂しさではなく、確認に近い。ここまで来た、という確認だ。陸斗はもう、学生でも修習生でもない。弁護士の肩書きが現実の重さを持つようになって久しい。けれど、玄関で靴紐を結ぶときだけは、昔の癖が残る。片方の靴に指が触れたまま一瞬止まり、息を整えるように首を傾ける。陸斗は棚の方へ視線を置いた。祈るような角度ではない。写真の前で手を合わせるわけでもない。ただ、そこに目を置く。呼吸の置き場として。迷いがある日も、腹を括る日も、その仕草は変わらない。充は拭いた手をもう一度タオルで押さえ、冷蔵庫の上に置いていた郵便物をまとめて持った。封筒の角が指
お前ら二人。心配ばっかしてた。夜の仕事なんかさせたくない。自分を嫌いになりすぎないように。それらが整然と並んでいることが、逆に怖かった。文字にした瞬間、言葉は逃げなくなる。逃げない言葉は、胸の奥に刺さる。陸斗は画面を閉じようとして、指が止まった。信号が青になるまでの数秒が、やけに長い。胸の奥で、別の台詞が勝手に再生される。あの夜明け前、湿布の匂いが部屋に残っていた時間。自分の声が、思っていたより低くて、思っていたより震えていたことまで、体が覚えている。「守られるだけの子どもじゃ、もういられない
カレンダーの紙は、いつの間にか二枚先までめくれていた。冷蔵庫の扉にマグネットで留められたそれは、角が少し丸まり、赤ペンで囲われた丸印がいくつも重なっている。給料日、イベントの日、そして何も書かれていないはずの平日にも、ところどころ小さく「ヘルプ」と書き込まれていた。「みっこ」の名前が並ぶシフト表は、そのカレンダーのすぐ横、Reinaのバックヤードの壁に貼られている。ホワイトボードにペンで埋められたマス目は、今月に限って、やけに黒い印が多かった。「アンタ、今月入りすぎじゃない?」楓の声が、背後から飛んでくる。シフト表の前に立っ
ビルの前まで桐生を見送っていったタクシーのテールランプが、角を曲がって完全に視界から消える。エンジン音が遠ざかるにつれて、さっきまで張り詰めていた裏路地の空気が、じわじわとしぼんでいった。楓が、肩にかけていたカーディガンを直しながら、二人を順番に見た。「今日はもう、素直に帰りなさいよ」「腕、ちゃんと冷やしとけよ。明日絶対痛くなるから」佐伯も、軽く笑ってはいるけれど、その目つきはいつになく真面目だ。「はい…すみません」陸斗が小さく頭を下げると、楓は「謝るのはうちらの方な
グラスの縁についた水滴が、じわりと広がって輪郭を溶かしていく。その様子をぼんやり眺めていたとき、店内の空気が、ほんの少しだけ変わった。音量が上がったわけでもない。照明が劇的に切り替わったわけでもない。ただ、あちこちのテーブルから漏れていた笑い声が、一瞬だけ揃って同じ方向を向いたような、そんな感じがした。「今日、みっこいる?」隣のボックスから、女の客の弾んだ声が聞こえる。「まだじゃない? さっき上がってきたって言ってたけど」「今日もシャンパン入れさせよ」くすくす笑いとグラスの音が続く。その名前を







