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4.路地の一突き

Author: 中岡 始
last update Huling Na-update: 2025-12-26 09:32:29

コインパーキングの入口に差し掛かったとき、雨はちょうど上がったばかりだった。

アスファルトの表面には、黄色いラインを歪ませるように水たまりが点々と残っている。白い駐車番号の数字が、水に滲んでぼやけて見えた。タイヤの跡が黒く筋を引き、街灯の光がそこに反射している。

生温い湿気が、頬と首筋にまとわりついた。さっきまで降っていた雨が、空気に溶け残っている感じだ。遠くの大通りからは、車の走行音と、誰かの笑い声がかすかに届く。ここはその喧噪から少しだけ離れた、切り取られたような一角だった。

充は、カーキのジャケットのポケットに突っ込んでいた手を出し、スマホの画面を一度確認した。二十一時を少し回ったところ。待ち合わせの時刻には、まだ数分ある。

堂島が相手だ。相手に待たれるのは嫌うくせに、自分は平気で早く来るタイプだろう。そんな予感がして、充は視線を路地の奥へと向けた。

コインパーキングの一番奥、フェンスで仕切られた向こう側に、裏路地がある。ビルとビルの隙間にできた細い通路だ。そこに続く影が、街灯から逃げるみたいに伸びている。

「…行くなら、さっさと行けよ」

誰にともなく呟き、自分の足を前に出した。

靴の裏が水たまりを踏み、ぴちゃりと音を立てる。その音が、妙に大きく耳に響いた。手のひらが汗ばんでいる。さっきコンビニのガラスに映った自分の顔を思い出す。あのときと、目の色は変わっていないはずだ。

ビルの隙間に入ると、途端に空気の温度が変わった。さっきまでまとわりついていた生暖かさが少し引き、代わりに排水溝の匂いとコンクリートの冷たさが濃くなる。頭上には、細い空の筋しか見えない。

路地の奥、暗がりの中に、人影が一つ立っていた。

「よく来たな」

先に声をかけてきたそいつは、笑っているのかどうか分からない口元をしていた。

背は充より少し高いくらい。厚手のパーカーの上に黒いジャケットを羽織り、ジーンズの足元には安っぽくないスニーカー。髪は短く刈られ、耳元には小さなピアスが光っている。顔つきはどこにでもいそうな若い男だが、その目だけが違った。笑っていない。何も笑っていない目をしている。

堂島亮。

何度か遠目には見たことのある顔だった。殴られている誰かの向こう側。店のレジで震える店員の前。夜道で土下座させられている男の後ろ。

近くで見るのは、初めてだった。

「呼ばれたからな」

充は、なるべく淡々と答えた。

「お前に」

堂島は口の端を上げた。笑いと呼ぶには温度のない動きだった。

「素直でいいねえ。最近のガキどもは、呼んでも来ねえからさ」

「ガキども、ね」

その「ガキ」の中に、海斗の後輩が含まれていることを思うと、喉の奥が少し苦くなる。

「本人は?」

「来ねえよ。あいつは使えねえ」

堂島は、路地の壁にもたれかかりながら言った。雨の滴が、上のエアコン室外機からぽたぽたと落ちてきて、ジャケットの肩を濡らしている。

「だから代わりのコマを呼んだんだろ。お前」

「代わりって」

「お前、あのガキの先輩なんだろ。紹介料もらってんじゃねえの」

海斗が紹介した、と言っていた。堂島の中で、その線はとうの昔に充にも伸びているらしい。

「紹介料なんか、もらってねえよ」

充は、笑い飛ばすように言った。

「そもそも、俺はその話に関係なかった。今日こうして来てんのは、そいつの借金がこれ以上増えないようにってだけだ」

「へえ」

堂島は目を細め、ゆっくりと近づいてきた。足音はほとんどしない。それが余計に距離を詰められた感覚を強くする。

「正義の味方ってやつ?」

「そういうのじゃねえ」

喉の奥が熱い。自分でそんな言葉を出したくはない。

「ただ、俺も昔借金でクソみたいな目にあったからな。親が。だから、そいつの親まで巻き込まれるの見たくねえだけだ」

堂島は立ち止まった。充との距離、腕一本分。そこまで来て、顔を覗き込むようにしてきた。

「親思いだねえ」

目の奥が冷たいまま、口元だけが笑う。

「自分の親は、今どうしてんだ」

「とっくに切った」

「冷てえな」

「向こうが先に切ったんだよ」

淡々と言い返しながらも、胸の奥を針でつつかれたような痛みが走る。父親の背中と、酒瓶の匂いが一瞬だけ蘇った。

「ま、親の話はどうでもいいか」

堂島は気にした様子もなく、片手をポケットに突っ込んだ。

「問題は金だよ。金。あのガキの残りの借金がいくらか、知ってるか?」

「…ざっくりは」

海斗から聞いた数字が頭に浮かぶ。最初の二十万が、利息で膨れ続け、今やその倍近くになっている。

「四十ちょい」

堂島は、指を四本立てて見せた。

「それに、ここまで俺の手間と時間を使った“迷惑料”が乗っかってる」

「迷惑料ね」

「そう。迷惑料。俺だって忙しいのにさ、あいつの家の住所調べて、実家の電話番号まで取って、何回も連絡して」

「それは、お前が勝手にやったことだろ」

「勝手に、ね」

堂島は笑い声を漏らした。それが笑いであることを、耳が拒否しようとする。

「“勝手に”やらなきゃ、金なんか返ってこねえだろ。この街で飯食ってくってのは、そういうことだよ」

充は、深く息を吸った。湿った空気が肺の奥に入り込み、胸のあたりで重く溜まる。

「四十。全部まとめて今すぐは出せねえけど、半分くらいなら何とかする」

自分の口から、その言葉が出た瞬間、現実が一段階重くなった。

今の自分の貯金と、来月の給料と、カードの限度額を頭の中で素早く計算する。ギリギリ、半分は何とかなる。残りは分割で、店のシフト増やせばどうにかならないわけじゃない。

どれだけ無茶な算段でも、「不可能」ではないと自分に言い聞かせる。

「残りの半分は、俺が保証する。あいつに今以上の利息つけるのやめて、家に手出すのもやめろ」

堂島は、しばらく充をまじまじと見た。路地の少し離れたところで、水が滴る音だけがしている。

「お前」

やがて、彼はゆっくりと言った。

「自分の首絞めてる自覚、あんのか」

「あるよ」

「あるなら、普通やんねえだろ」

「普通じゃねえから今ここにいんだろ。俺もお前も」

堂島の口元が、ほんの少しだけ歪んだ。笑っているのか、苛立っているのか判別しづらい形だ。

「あのガキのこと、そこまで気にする義理あんの?」

「ねえよ」

即答した。

「義理なんかない。けど、俺がそれやんなかったら、多分誰もやんねえから」

それは正直な気持ちだった。海斗も、その後輩も、自分のことで精一杯だ。上の世代の誰かが間に入らなければ、この手の話は簡単に地獄まで転がる。

堂島は、ほんの少し顔を傾け、充の目を覗き込んだ。

「…へえ」

低くそう言った声には、先ほどまでの薄笑いとは違う響きが混じっていた。

「偉いじゃん。警察官みてえ」

その単語に、心臓が一瞬だけ跳ねた。

慎一の顔が、脳裏に浮かぶ。真面目で、不器用で、でも、誰よりも人のことを見てしまう男の顔。

「警察官なんかじゃねえよ」

充は、低い声で返した。

「俺はただの、夜の店のスタッフだ」

「スタッフねえ」

堂島は鼻を鳴らした。

「そういうやつが一番タチ悪いんだよな。自分を“ただの○○”だって言い聞かせて、自分のやってることの重さから逃げようとする」

言っていることは、一部、当たっていた。

「で、その“ただの夜の店のスタッフ”さんは、今ここで何をしに来たわけ?」

「話をしに来た」

充は、堂島から視線を外さずに言った。

「あいつをこれ以上追い詰めるんじゃなくて、落とし所をつけてもらいに。お前がやってることが全部真っ黒なのは分かってる。でも、全部がひっくり返る前に、どこかで止めないと、俺みたいな立場のやつが増えるだけだ」

「お前みたいな立場?」

「借金で家壊れたガキの、なれの果て」

堂島の目が、ほんの少しだけ細くなった。

「警察にチクった?」

突然、話題を変えるように、彼は言った。

「…は?」

「今日。誰かに相談した?」

頭の奥で、警察署のロビーと、蛍光灯の光と、慎一の顔が一瞬だけフラッシュバックする。

「別に」

「顔、動いたぞ」

堂島は笑う。今度は明らかに、相手を嗤う笑いだ。

「ここ来る前に、どっか寄っただろ。警察署とか」

「…ただの世間話だよ」

「世間話ね」

堂島はゆっくりと歩き出した。充の周囲を、円を描くように一周する。靴音が湿った路面に吸い込まれていく。

「お前みたいなタイプは、どっかで絶対“正しい大人”に頼ろうとするんだよな。自分の中の正義だけで動いてるわけじゃなくて、“ちゃんとした人間”の後ろ盾が欲しくなる」

耳の内側に、嫌な汗が滲む。

「頼ってねえよ」

「ほんと?」

堂島は立ち止まり、懐に手を入れた。

その動きに、充の背中の筋肉が反射的にこわばる。

「なんだよ」

堂島は何も答えなかった。代わりに、懐から銀色のものを取り出す。

折りたたみナイフだった。刃渡りはそう長くないが、光を受けて鋭く光っている。雨の雫が刃に落ちて、細い線を作った。

「ビビんなよ」

堂島は、ナイフをひらひらと手の中で弄びながら言った。

「別にいきなり刺したりしねえよ。脅しだよ、脅し」

「充分だろ」

喉が渇いた。唾を飲み込もうとするが、うまくいかない。舌が上顎に貼りつく。

「四十万だかなんだか知らねえけど」

充は、出来るだけ声を安定させようとした。

「それ払うために、今ここで俺を刺してどうする。金、返ってこねえだろ」

「お前が死ぬと思ってんの?」

堂島は笑う。

「刺す場所選べば、死なねえよ。ちょっと血が出て、ちょっと痛いくらい」

「冗談が好きだな」

「これが冗談に聞こえないなら、お前この街に長くいすぎて感覚バグってんだよ」

ナイフの刃先が、充の胸元のあたりにちらつく。距離はまだある。飛びかかられれば避けられるかもしれない。そう思いながらも、足が路面に釘付けになったように動かない。

ここで逃げたら、何のために来たのか分からない。何も守れない。自分の体面だけ守って、誰かに犠牲を押しつけて帰ることになる。

「…あのガキには、手出さないって約束するなら」

充は、ナイフの先を見据えたまま言った。

「俺の方にいくらでも傷つけていい。金も、時間も、身体も、可能な限り出す」

堂島の目がわずかに見開かれる。

「殴るなら殴れ。刺すなら、痛くねえとこ選べ。俺は叫んだりしねえから」

自分で言って、自分で頭がおかしいと思う。そんな都合のいい刺され方があるわけがない。でも、何かしらの「条件」を提示していないと、ここで飲み込まれそうだった。

堂島は少し黙っていた。ナイフを指の間でくるくると回しながら、充の顔をじっと見ている。その視線の中に、怒りとも興味ともつかない色が混じっている。

「ほんっと、お前さ」

低く呟きが落ちた。

「正義感ぶるの、やめた方がいいよ」

「ぶってねえよ」

「ぶってんだよ」

堂島は一歩近づく。同時に、ナイフの刃先がその分近づく。

「お前みたいなのが、一番人を巻き込むんだよな。自分だけが傷つけばいいって顔して、実際には周りが血まみれになってる」

その言葉に、胸の奥を殴られたような感覚がした。

その瞬間だった。

「警察だ!」

路地の入口の方から、鋭い声が飛んできた。

「堂島、刃物を捨てろ!」

時間が、一瞬だけ止まったように感じられた。

振り返る間もなく、堂島の手が充の腕を掴む。勢いよく引き寄せられ、背中が堂島の胸にぶつかった。ナイフの冷たい刃先が、今度は確実に彼の脇腹の辺りをかすめる位置に来る。

「動くなよ」

耳元で囁く声は、さっきまでの軽さを完全に失っていた。

路地の入口側を見ると、そこには制服姿の警察官が一人、路地の手前に立っていた。長谷慎一だ。街灯の光に縁取られたその姿が、一瞬だけ幻のように見える。

慎一の隣には、もう一人警官がいる。高瀬だ。少し年上の、その顔も充には見覚えがあった。

二人とも、ピストルにはまだ手をかけていない。だが、その目つきは完全に仕事のものだ。

「堂島」

慎一が、はっきりとした声で言った。

「その手を離せ。刃物を捨てろ。今ならまだ、単純な傷害で済む」

「うるせえな」

堂島は、充の腕をさらに強く引き寄せた。肩と背中にかかる力が、骨を軋ませる。

「どこで匂い嗅ぎつけてきたか知らねえけど…邪魔すんなよ、長谷さんよ」

名前を呼ばれても、慎一の表情は変わらない。ただ、目だけがわずかに細くなった。

「こいつは関係ねえだろ」

慎一は言った。

「お前が貸したのは、あのガキであって、こいつじゃない。人違いだ」

「人違いじゃねえよ」

堂島は、充の顎のあたりにナイフの刃先をちらつかせる。

「こいつが勝手にしゃしゃり出てきたんだよ。“あのガキの代わりに何でもするから”ってさ。可愛いだろ」

「…長谷」

充は、自分の声がかすれていることに気づいた。

「来んな」

思わずそう言っていた。自分でも驚くほど、弱い声だった。

「こいつが相手なら、俺だけで…」

「黙ってろ」

慎一の声が飛ぶ。いつもより低い。

「お前は今、完全に“人質”だ。勝手にしゃべるな」

人質。その単語が、現実として重みを持って落ちてきた。

堂島は、おもしろがるように笑った。

「そうそう。今のお前は、人質。交渉のカード。警察さん相手に使える、便利な駒」

「堂島」

高瀬が口を挟んだ。

「落ち着け。お前、ここで誰か刺したら、本当に終わりだぞ。今まではグレーゾーンでなんとかしてきたかもしれねえけど、人一人血まみれにしたら、洒落にならねえ」

「うるせえって言ってんだろ」

ナイフを持つ手に、微かな震えが伝わっているのが、背中越しに感じられた。堂島だって、完全に理性を失ってはいない。しかし、その理性がどこまで働くか、誰にも分からない。

慎一は、一歩前に出た。靴の裏が水たまりを踏む音がする。

「そこで止まれ!」

堂島が叫ぶ。

「あと一歩近づいたら、こいつの腹か喉、どっちかぶっ刺すからな」

ナイフの刃が、充の腹の辺りを掠めるように動く。冷たい金属の感触が、布越しに伝わってくる。皮膚の表面がぞわりと粟立った。

「…堂島」

慎一は、ゆっくりと両手を上げて見せた。銃に手を伸ばす意思がないことを示すように。

「話をしよう」

「話なら今してんだろ」

「違う。ちゃんとした話だ」

慎一は、まっすぐに堂島を見据えた。

「お前は頭悪くない。物流の会社で働いてたときに、数字には強かったろ」

その言葉に、堂島の顔が一瞬だけ引きつった。

「なんで…」

「お前の前科はこっちも把握してる。お前がどういう経緯で今ここにいるかも。だから分かる。お前は損得勘定ができるタイプの人間だ」

慎一は、一歩だけ足を前に出した。それ以上近づくわけではない。ただ、重心をほんの僅か前に移す。

「今ここで、目の前の人間を刺す。得か、損か」

その問いに、堂島は瞬きもせず、慎一を睨みつけた。

「警察官ってのは、口が上手いねえ」

「お前と同じくらいにはな」

慎一は淡々と返した。

「考えろ。ここでこいつを刺したら、その瞬間に“単なる貸金業者”から“殺人未遂犯”になる。お前のやってきた裏の仕事も含めて、全部ひっくり返る。今までは、“表に出ない範囲”で済んでたかもしれない。だが、刃物が入った瞬間に、それは変わる」

「…」

「お前、自分の将来全部捨てるほど、こいつやあのガキに執着あんのか」

その問いかけに、路地の空気が一瞬だけ静まった。

堂島の呼吸が、背中越しに伝わる。早いが、まだ乱れてはいない。ナイフを握る手に汗が滲んでいるのが、ほんの少しだけ握りの変化から伝わってくる。

「…てめえ」

堂島は、低く唸るように言った。

「気安く“将来”とか言ってんじゃねえよ」

「気安くなんかねえよ」

慎一は一歩も引かない。

「お前には、まだ選ぶ権利があるって言ってるだけだ」

「うるせえ!」

堂島の声が、わずかに上ずった。ナイフの刃先が、充のシャツの布地を少し裂く。冷たい空気が肌に触れた。

「お前らみてえな“正しい大人”に説教されるのが、何よりムカつくんだよ!」

その叫びと同時に、時間が一気に加速した。

堂島の身体が、わずかに前に動く。ナイフを持つ腕が、外側から内側へと振られる。

慎一が、その動きに反応した。前に踏み込み、身体を低くしながら、充と堂島の間に滑り込むように入る。

「っ…!」

背中にかかっていた圧力が、一瞬だけ軽くなった。代わりに、目の前で布と肉を裂くような、鈍い音がした。

刃物が何かに当たる感触が、手のひらにまで伝わってくる気がした。実際には、何も触っていないのに。

慎一の身体が、ほんの一瞬硬直する。それから、かすかな息が漏れた。

「あ」

声にならない声が、充の喉から出た。

時間が、スローモーションになった。

慎一の表情がスローモーションで変わっていく。驚き、怒り、痛み、それらの感情が一瞬のうちに通り過ぎていく。口元がわずかに歪み、目が細められる。

ナイフの刃が、慎一の脇腹あたりに深く刺さっている。ジャケットの布地が裂け、その間から赤いものが滲み出てくる。

血だ。

最初は線のようだったそれが、じわじわと染み広がり、ジャケットの色を変えていく。暗い路地であっても、その赤さははっきり分かった。

「長谷!」

高瀬の叫びが、ずっと遠くから聞こえてくるように感じる。実際にはすぐ横なのに、耳が距離を錯覚している。

慎一は、それでも身体を前に押し出した。ナイフを持つ堂島の手首を掴もうと伸ばした右手が、確かに堂島の腕を捉える。

「っ…離せ!」

堂島が怒鳴り、腕を振り払おうとする。慎一は、その動きにしがみつくようにして止める。

「高瀬!」

短く叫ぶ声が飛ぶ。

「今だ!」

その合図に、高瀬が飛び込んだ。堂島の背中に体当たりするようにぶつかり、そのまま地面に押し倒す。三人の身体が複雑に絡み合い、路地の狭い空間で転がる。

ナイフが手から離れ、アスファルトの上を跳ねて金属音を立てた。路地の端にまで転がり、そこでようやく止まる。

「長谷、大丈夫か!」

「…大丈夫、なわけねえだろ」

慎一が、半分笑うように、半分うめくように答えた。その声は、いつもの調子よりだいぶ低く、掠れている。

堂島の身体は、高瀬の膝と腕で押さえつけられている。彼はなおも暴れようとするが、高瀬の押さえ方は迷いがなかった。何度もこういう現場を経験してきた手つきだ。

「動くな」

高瀬が短く言い、片手で堂島の腕を後ろにねじり上げる。堂島が呻き声を上げた。

その間、慎一の身体が前に傾ぎ、ゆっくりと膝をついた。

充は、足が勝手に動いていた。気づけば、倒れかけた慎一の身体を支えるように、その肩を抱き留めていた。

「長谷!」

自分でも聞いたことのないような声が出た。

慎一の身体は、重かった。いつも制服越しに見ていたより、ずっと。腕の中で、その重みが現実としてのしかかる。

ジャケットの下から、温かいものがじわりと溢れてくるのが分かった。胸元と手のひらが、湿った感触で満たされる。

血の匂いがする。鉄のような、錆びた鉄板を舐めたときの味に似た匂いが、鼻から喉にかけて満ちる。

「おい…」

充は、慎一の顔を覗き込んだ。

顔色が、驚くほど早く変わっていく。さっきまで路地の入口で見たときと比べて、肌の色が一気に白くなっている。唇が薄く乾いていく。

「…泣くな」

慎一は、薄く笑おうとした。口元が少しだけ上がる。

「まだ、死んでねえよ」

「泣いてねえし」

充は、反射的に返した。実際、涙はまだ出ていない。ただ、視界が妙に滲んでいる。血の匂いと湿気のせいだと思いたかった。

「高瀬!」

慎一が、再び声を張る。

「早く…救急、呼べ」

「もう呼んだ!」

高瀬が返す。片手で堂島を押さえつけながら、もう片方の手で無線機に触る。

「本部、こちら○○、傷病者一名、至急救急要請!刺創、腹部…意識あり、呼吸…」

言葉が、充の頭の中を素通りしていく。意味は分かるのに、実感として入ってこない。

「おい、充」

慎一が、充の顔を見る。ぼんやりとした視線の焦点が少しだけ合う。

「…お前、まだ、動けるな」

「当たり前だろ」

「じゃあ、ここ押さえろ」

慎一は、自分の脇腹に当てていた手を、少しだけどかした。そこから、さらに血が溢れそうになる。

「あ」

充は思わず声を上げた。

「ちょ…」

「いいから」

慎一は、短く言った。

「お前の手で…止血。押さえろ。強く」

震える指を、慎一の指が掴む。そのまま、血の滲む布の上に導かれる。触れた瞬間、熱が掌に焼きつくように感じられた。

「あ、ああ…」

言葉にならない声が漏れる。指先が、滑る。血と汗で、シャツの布地がぐずぐずになっている。

「もっと…強く押さえろ」

慎一の声は、さっきより少し弱かった。

「痛いくらいで、ちょうどいい」

「…死んだら、殴るからな」

口が勝手に動いた。

「後で、生き返ったら殴るからな」

「お前…」

慎一の口元がわずかに笑う。

「相変わらず、口が悪い」

「誰のせいだと思ってんだよ」

呼吸が浅くなる。胸が苦しいのは、息を止めているからか、それとも目の前の光景のせいか。

堂島はなおも暴れようとし、高瀬は全力で押さえ続けている。路地の入口の方では、誰かが顔を覗かせているのが見えた。野次馬が集まり始めている。

「撮るな!下がってろ!」

別の警官の声が飛び、スマホを掲げようとした誰かが慌てて引っ込む。世界は、騒がしいはずなのに、充の耳には自分と慎一の呼吸音と、血が地面に滴るかすかな音だけが鮮明だった。

「…充」

慎一が、再び彼の名前を呼んだ。今度の声は、やけに静かだ。

「聞け」

「聞いてる」

「いいか」

慎一は、目を細める。その瞳の奥に、何かを決意する色が浮かんだ。

「俺には…息子がいる」

「知ってる」

充は、短く答えた。

「高校生だろ。前に聞いた」

何度か世間話の中で聞いたことがある。“うちのガキがさ”と。名前は、ちゃんと聞いたことがなかった。

「…陸斗っていう」

初めて、はっきりと名前を告げる。

「長谷…陸斗」

その名前が、充の胸の中に、ゆっくりと沈んでいく。見たこともないその少年の姿を、勝手に想像しようとする。慎一に似ているのか、母親に似ているのか。真面目そうなのか、反抗的なのか。

「賢くて…ひねくれてて…どうしようもないくらい、ちゃんとした…ガキだ」

慎一の口元が、少しだけ笑う。その笑いは、痛みと混じっている。

「俺が…いなくなっても…あいつは、多分…一人で、どうにかする」

「おい」

充は、慎一の肩を揺さぶった。

「“いなくなっても”とか、言うな」

「でも…」

慎一は、息を吸うたびに顔を歪めながら、続けた。

「一人で…どうにかさせたくない」

その言葉が、喉の奥に刺さる。

「だから…」

慎一は、充を見た。視線が、はっきりと結びつく。

「陸斗を…頼む」

時間が、本当に止まった気がした。

その一言が、充の頭の中で、何度も反響する。陸斗。陸斗。陸斗。

「…は?」

間抜けな声が口から出た。

「いや、お前…今、何言った」

「頼むって…言った」

慎一は、淡々と繰り返す。

「お前なら…あいつに…嘘つかねえ…だろ」

「…ふざけんなよ」

言葉が、勝手に溢れた。

「なんで今、その話すんだよ。なんで俺なんだよ。俺、あいつの顔も知らねえし、親でもなんでもねえし…」

「俺は…知ってる」

慎一の目は、もう半分ほどしか開いていない。

「お前が…誰かを…見捨てない…タイプだって…知ってる」

「知ってるとか、勝手に決めんな」

掌に伝わる血の温度が、徐々に変わっていく気がする。さっきまで熱かったそれが、少しずつぬるくなっているような感覚。

「俺のせいで…刺されたくせに」

充は歯を食いしばった。

「なんで、最後の最後まで、他人の心配してんだよ」

「それが…俺の…悪い癖だ」

弱々しく笑う声に、怒りと悲しみが入り混じった何かが胸をかきむしる。

嫌だ。こんな約束、したくない。ここで「分かった」と言ってしまったら、その瞬間に自分の人生が別の方向に決まってしまう気がした。

でも、ここで「嫌だ」と言えるか。

この血まみれの男に向かって。「自分のことだけで精一杯だから」と、突き放せるか。

口が動かない。声が出ない。

救急車のサイレンの音が、遠くから聞こえてくる。さっきよりもはっきりとした音量で、近づいてきている。

時間が動き出した。さっきまでスローモーションだった景色が、急に現実の速さに戻る。

「…頼むよ」

慎一は、最後にもう一度だけ言った。

「充…」

その声が、途切れる。

充は、自分の喉の奥から何かがせり上がってくるのを感じた。叫びたいのに、声にならない。涙が出ない代わりに、胸の中で何かが裂けるような痛みが広がる。

「…分かった」

結局、出てきた言葉は、それだった。

「分かったから…だから、今は黙ってろ」

度し難いほど不器用な言い方だった。もっと他に、言い方があったかもしれない。でも、それが精一杯だった。

慎一の口元が、かすかに上がる。

「…ありがと…」

その言葉と同時に、彼の身体から力が抜けた。頭が、充の腕の中で少し傾ぐ。瞼がゆっくりと落ちていく。

「長谷!」

高瀬の声が、今度はすぐ隣から聞こえた。

「意識持っとけ!おい、長谷!」

誰かが駆け寄ってくる足音。救急隊員のものだろう。ストレッチャーの車輪の音が、路地の入口の方から近づいてくる。

「手、離すなよ!」

誰かが充に叫んだ。止血を続けろという指示だろう。手を離したら、この人は本当に戻ってこない気がして、充はさらに力を込めた。

血でぬるぬるになった布地が指の間からはみ出し、爪の間にも入り込んでくる。それでも押さえ続ける。掌が痺れても、力を緩められない。

救急隊員が到着し、次々と指示の声が飛ぶ。

「血圧低下!意識レベル…」

「傷口ここ!押さえてるの誰?」

「俺…」

かすれた声で答えた瞬間、ようやく誰かに手を代わられた。充の手のひらが空気に晒される。冷たい湿気が、血と汗で濡れた皮膚に触れ、震えが走った。

立ち上がろうとしたとき、膝が抜けた。地面に片膝をつく。その膝にも、水たまりの冷たさが伝わる。

ストレッチャーに慎一の身体が載せられる。彼の顔はもう、自分の方向を見ていない。酸素マスクが口と鼻を覆い、その上から白い救急隊員の手が彼の頭部を固定している。

サイレンの音が、さらに大きくなる。救急車が路地の入口で待機しているのだろう。その車体の白と赤が、路地の壁に反射して揺れる。

充は、その場に釘付けになって動けなかった。

耳の奥で、さっきの言葉が何度も何度も繰り返される。

陸斗を…頼む。

俺がいなくなっても。

頼む。

嫌だ。そんな約束、聞きたくなかった。あの場で、あんな状態の相手に、そんなことを言わせたくなかった。

でも、現実は残酷だ。

目の前で血を流したのは、自分を庇ったからだ。堂島のナイフは、本来なら自分のどこかを貫いていたかもしれない。その軌道に、慎一が滑り込んだ。

「俺が殺した」

充は、誰にも聞こえないくらいの小さな声で呟いた。

「俺が、殺した」

その言葉が、自分の胸の中で固まっていく。冷たい石のように、そこに居座る。

同時に。

「俺が預かった」

さっきの約束が、もう一つの石として沈んでいく。

顔も知らない高校生。長谷陸斗。慎一の息子。

その存在を、自分は今、受け取ってしまった。

救急車のサイレンの音が、やがて遠ざかっていく。その音が完全に聞こえなくなっても、充の耳の中では、まだ鳴り続けていた。

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  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   12.捨てるもの、連れていくもの

    土曜の昼の光は、平日のそれより少しゆるい。窓から差し込む陽射しが、リビングの床に長方形の明るさをつくり、その上にほこりがふわふわと漂っていた。陸斗は、その光をぼんやりと眺めながら、段ボールの山の前に座り込んでいた。生活安全課の三浦が手配してくれた段ボールが十枚、玄関脇に積まれている。ベージュ色の紙の肌はまだ新しく、折り目すらついていない。ガムテープと黒マジックのペンが、その隣でやる気を出せと言わんばかりに横たわっていた。やる気は、まだ出ない。インターホンが鳴ったのは、昼の少し前だった。「長谷」ドア越しの声は聞き慣れたものだった。モニターを覗く前に、誰だか分かる。玄関の鍵を開けると、高瀬が立っていた。その隣に、少し眠そうな顔の充がいる。高瀬はスーツ姿で、しかしネクタイは少しだけ緩んでいた。充はグレーのパーカーに黒いジャージというラフな格好で、肩にスポーツバッグを提げている。「おう」充が片手を上げる。「本日の力仕事要員、参上」「…よろしくお願いします」陸斗は、少しだけ頭を下げた。高瀬も、軽く笑う。「そんな改まるなよ。こっちも半分個人的な用事だし」三人で玄関を上がると、狭い土間に靴が増えた。父の革靴、自分のスニーカーに、仕事用の黒い革靴と、充の白いスニーカーが加わる。靴箱の上には、粗大ごみの案内チラシが貼られている。「段ボール、届いてるな」高瀬がリビングを覗き込みながら言う。「じゃ、まずは書類関係からやっつけるか」彼が真っ先に向かったのは、寝室だった。慎一の部屋には、クローゼットとは別に、警察関係のものがまとめてある棚がある。そこには、制服や制帽、表彰状の入った筒、書類のファイルがぎっしり詰まっている。「これは署で預かる」高瀬は、制服の入ったスーツカバーを持ち上げた。「遺族控えって形で、式典のときとかに使うこともある。長谷さんの階級章とか、辞令とかも、こっちに」「はい」

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   11.鍵の音と見知らぬ靴

    平日の午後の光は、学校の教室の蛍光灯よりやわらかいはずなのに、今はどこか白々しく見えた。正門を出るとき、担任が背中越しに何か言っていた気がする。「無理するなよ」とか「いつでも戻っておいで」とか、そういう類いの言葉。聞こえていないわけじゃなかったが、耳の奥のどこかで弾かれていった。校門の外で待っていたのは、生活安全課の三浦だった。葬儀場の和室で何度か顔を合わせた、あのスーツの男だ。ネクタイは地味な青、書類の入った黒い鞄を手に提げている。「早退させてもらえたか」「…はい」短く答えると、三浦は小さく頷き、駐車場の方へ先に歩き出した。二人で乗り込むのは、つやのないグレーの小型車。パトカーではないが、なぜか警察の匂いがした。シートベルトを締めると、カチャリと金具がはまる音がやけに大きく響く。エンジンがかかり、車が静かに動き出した。窓の外を流れていく街は、いつも通りの色をしていた。コンビニの看板、クリーニング店の赤い旗、自転車に乗った中学生。どれも、「自分がいない間に世界が勝手に変わっていた」気配はない。変わってしまったのは、自分の方だけだ。「官舎では…ちゃんと寝られてるか」ハンドルを握ったまま、三浦がぽつりと尋ねる。「…あんまり」正直に言うと、彼は少しだけ眉を寄せた。「そうか」それ以上、無理に続けてくることはなかった。車内には、ラジオも音楽も流れていない。タイヤがアスファルトを踏む音と、信号で止まるたびに聞こえるブレーキのきしむ音だけが、一定のリズムで耳に届く。官舎の敷地に入ると、見慣れた建物が目に入った。白い壁に、同じ形の窓がいくつも並んでいる。廊下の手すりには、誰かの洗濯物が揺れていた。カラフルなタオルと無地のシャツ。自分の家のベランダにも、ついこの間まで同じような光景があった。駐車スペースに車を停めると、三浦はエンジンを切った。「少しの間、失礼するよ」「はい」二人で車を降り、階段を上る。コンクリートの段差が、靴の底に硬く当た

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   10.俺が引き取る、と言ってしまう瞬間

    控室の障子が、風もないのに揺れたような気がした。実際には、人の出入りで空気が動いただけだろう。葬儀会館の廊下から、誰かの足音と、小さく抑えられた話し声が近づいてきては遠ざかっていく。そのたびに、木枠がわずかにきしむ。座卓の上では、さっき生活安全課の男が書いたメモ用紙が、まだそこにあった。日付と予定と、「官舎 退去目安 三ヶ月以内」の文字。黒いインクが、やけに鮮やかだ。紙の隅っこが、空調か誰かの動きのせいで、ほんの少しだけめくれ上がる。まるで、「まだ決まっていない」と主張するみたいに、小刻みに震えている。「…まあ、いずれにしても、長谷くんが高校を卒業するまでは、進学も含めてサポートしていく形で」生活安全課の男が、言葉を続けていた。「児童相談所とも連携しながら、最善の方法を…」その「最善」という言葉が、この場にいる誰の顔も具体的には思い浮かべていないように聞こえる。パンフレットの文面の中だけで完結している「最善」。紀子は相変わらず、膝の上でハンカチを握りしめている。叔父は腕を組み、どこか決まり悪そうな顔をしている。上司らしい男は、腕時計をちらりと見た。高瀬は、座卓の端で黙っている。彼の前の紙コップの緑茶は、もう完全に冷めているだろう。「…とりあえず、今日はこのくらいに」生活安全課の男が一息ついた。「詳細は、追ってご連絡差し上げます。担当の者もつけますし…」また名刺が配られる気配がした。紙が擦れる音。誰かが名刺入れを取り出す金属の音。陸斗は、自分の前に差し出された名刺を、ぼんやり見つめた。「警視庁 生活安全課 家庭支援係」。さっきと同じ名前と肩書き。何枚も配られているのだろう。まるで、同じスタンプをいろんな紙に押しているみたいだ。自分の指先が、その名刺の端に触れた。ほんの少しだけ、紙の角が皮膚を押す感覚がある。その程度の現実感に、妙に救われる。「…今日は本当に、皆さんお疲れのところ、ありがとうございました」生活安全課の男が頭を下げ

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   9.居場所が消える音

    畳の匂いが、妙に生々しく鼻にまとわりついていた。葬儀会館の二階、一番奥の小さな和室。入り口には「関係者控室」とだけ書かれた札が掛かっている。襖を開けると、四畳半ほどの部屋の真ん中に低い座卓が置かれ、その周りを座布団が取り囲んでいた。テーブルの上には、紙コップと、出されてしばらく経った緑茶の入ったポット。湯気はもうほとんど立っていない。コンビニのおにぎりと、個包装の煎餅、ふやけかけた漬物が、ラップをされた皿の上で所在なげに並んでいる。壁際には、葬儀会社のロゴが入ったティッシュ箱と、ごみ袋がいくつか。天井の蛍光灯は一つだけで、白い光が部屋全体に均一に降り注いでいた。障子の向こうは曇り空で、自然光と蛍光灯の境目が分からない。畳の上に座布団を二つ並べ、その片方に陸斗が座っている。斜め向かいには、父の妹の紀子がいた。黒い喪服のスカートに黒いタイツ。膝の上でハンカチを握りしめている。その隣に、遠縁の叔父と、その妻。反対側には、スーツ姿の男が二人。ひとりは高瀬で、ジャケットを脱ぎ、ワイシャツの腕を少し捲り上げている。もうひとりは見知らぬ男で、名刺を配るときに「生活安全課の○○です」と名乗っていた。全員が座卓を囲んで座り、どこか居心地悪そうに姿勢を正している。遠くで、小さく機械の鳴る音がした。火葬炉のボタンを押す音なのか、エレベーターの到着音なのか分からない。どちらにしても、今この瞬間、父の身体は別の場所で火にくべられている。その事実を頭の隅で理解しながらも、陸斗は視線を目の前のテーブルに落とした。紙コップの中の緑茶は、うっすらと表面に膜のようなものが張りかけている。茶渋が縁に残っているのが見える。口をつける気にはならなかった。「…では、少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」生活安全課の男が、控えめに咳払いをして口を開いた。四十代半ばくらいだろうか。地味な紺のスーツに、派手ではないネクタイ。机の上には、クリアファイルがいくつか置かれている。「長谷さんの今後の生活について、現時点での選択肢を、簡単にお話しさせていただければと」「はい…」

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   8.煙草の煙と罪悪感

    葬儀会館の裏手に出るドアには、「職員以外立入禁止」の札と、その下に小さく「喫煙所」と書かれた紙が貼ってあった。ドアノブに手をかけた瞬間、ひやりとした金属の感触が指先に伝わる。中と外の温度差が、ほんの少しだけそこに残っているみたいだった。押し開けると、冷たい外気が一気に流れ込んできた。コンクリートの床は、まだうっすらと濡れている。さっきまで小雨が降っていたのだろう。排水溝の方には水たまりが残り、その上に薄く灰色の空が映っていた。喫煙所と書かれた青い看板の下に、銀色の丸い灰皿と、木製のベンチが一つ置かれている。その灰皿から、細く白い煙が立ち上っていた。高瀬がいた。黒いスーツの上着を少しだけはだけ、ネクタイを緩めた状態で、ベンチの端に腰掛けている。片肘を膝に乗せ、反対の手に挟んだ煙草をゆっくりと口元に運んだところだった。充は、ドアを閉める前に一瞬だけ躊躇したが、そのまま外に出る。パタン、とドアが閉まる音が、室内のざわめきとの境界線を作った。「…よ」短く声をかける。高瀬が振り返った。目の下に濃いクマができている。喪服にも似た黒いスーツの肩は、さっきまでの儀礼で少しこわばっていたのか、僅かに持ち上がっていた。「来てたのか」高瀬は、煙を肺から吐き出しながら言った。「ああ」充は、ポケットから自分の煙草を取り出す。喪服ではない。濃いグレーのシャツに黒いジャケット、黒いパンツ。全体的に地味な色合いではあるが、周囲の画一的な喪服や制服に比べると、どこか浮いて見えるだろう。葬儀会場に入ったときにも、それは嫌というほど感じた。黒い海の中で、自分だけが微妙にトーンの違う岩みたいに転がっている感覚。親戚でもなく、警察でもなく、友人でもない。「何者」とも言い切れない立場。高瀬が、木そう言いながらも、充はベンチに腰を下ろした。立っている方が落ち着かない。膝にかかる冷たさが、かろうじて現実とつながる感覚をくれる。ポケットから取り出した箱から一本抜き、ライターを探す。いつもなら指が勝手に動くはずの動作が

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   7.殉職という言葉の重さ

    告別式の朝、葬儀場のホールは、昨日と同じなのにどこか違って見えた。白い布に囲まれた祭壇、中央の遺影、両脇の花の塔。配置は変わらない。けれど、今日はそれらの輪郭が、妙にはっきりしている。蛍光灯の白い光が、花の一枚一枚、リボンの端、祭壇の段差をくっきりと浮かび上がらせていた。その手前に、きのうよりもきちんと整列した黒が広がっている。黒い喪服、黒い制服。前列には、肩章に金色の飾りのついた警察幹部たちが座り、その後ろに一般の警察官、そのさらに後ろに親戚や近所の人たちが続く。まるで、黒い海が波打たずに静止しているようだった。正面の遺影では、慎一が相変わらず、制服姿でわずかに口元を緩めている。「ここ」案内係の女性に促され、陸斗は一番前の、家族席の端に腰を下ろした。右隣に、父の妹が座る。左隣には、どこか遠縁の叔父がいる。そのさらに隣には、警察の幹部らしき男が立っていた。黒い革張りの椅子の座面は、冷たくも熱くもなかった。座った瞬間、「自分は今、遺族代表としてここに座っている」という感覚が、ようやく現実として降りてくる。…遺族。胸の奥で、その言葉がうまく形にならない。自分が「遺族」というカテゴリーに入れられてしまったことが、まだ他人事のように思える。ホールの後方では、司会者がマイクの調整をしている。ハウリングを防ぐために軽く音を出すたび、「本日は…」といった断片的な声が空気に溶ける。昨日の夜、控室の布団に横になっても、ほとんど眠れなかった。まぶたを閉じると、病院の白い天井と、安置室の冷たい空気と、父の顔が浮かんできて、そこから先に進めない。気づけば薄明かりが障子越しに差し込んでいて、誰かがそっと部屋の襖を開け、「そろそろ準備を」と小声で告げていた。眠れていないわりに、頭は妙に冴えている。眠気よりも、空腹よりも、「何も感じないこと」への焦りの方が勝っている。「それでは、ただいまより…」司会者の声が、マイクを通して響いた。「故 警部補 長谷慎一 殿の告別式を執り行います」その名が、ホールの

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