LOGINその知らせを持ってきたのは、夕方のラストの電話が途切れた直後だった。
風俗店のバックヤード。薄汚れたソファと、書類の詰まったスチールラックと、電子レンジと、湯沸かしポット。それらを無理やり同じ空間に押し込めた六畳ほどの部屋に、蛍光灯の白い光が広がっている。
カーテンの向こう側では、電話が鳴れば男のスタッフが受話器を取り、女たちが笑い声を作り、車の鍵がジャラジャラと鳴る。ここだけ切り離されたみたいな静けさがあるようで、実際には壁が薄いせいで全ての音がじんわり染み込んでくる。
桜井充は、デスクの上に置かれた出勤簿にボールペンを走らせていた。今日の売上、女の子たちの上がり時間、トラブルのメモ。数字と文字を並べていけば、だいたい一日の終わりが見えてくる。
安物のコロンの匂いと、電子レンジで温めた弁当の残り香、タバコの煙が混ざった空気を吸い込み、白いシャツの袖を肘までまくる。指の節には、昔つけた傷の跡が細く残っていた。
ドアがノックされ、そのまま開いた。
「充さん、ちょっといいっすか」
顔を覗かせたのは、バイトの送迎スタッフの一人、海斗だった。まだあどけなさの残る顔つきに、やたら派手なピアスと、胸ポケットから覗くタバコの箱。十九歳、という数字が、そのバランスの悪さを象徴している。
充はペンを止め、顔を上げた。
「何」
「外…いいっすか。ここじゃちょっと」
その言い方に、嫌な予感が喉元を掠めた。仕事の話なら、ここで十分だ。ここじゃないところでしか言えない話は、大抵ろくなもんじゃない。
充はため息をつき、ペンをデスクに置いた。
「三分な。客から電話入ったら戻る」
「はい」
バックヤードを出ると、廊下を挟んで事務所と待機室があり、その奥にビルの共用非常階段へ通じる扉がある。非常口の小さな緑色のランプが暗がりの中で光っていた。
金属製の扉を開けると、冷たい空気が流れ込んでくる。秋も終わりかけの夕方、ビルの隙間からは、赤紫に染まり始めた空が少しだけ覗いていた。下からは、歌舞伎町の雑多な音が昇ってくる。呼び込みの声、車のクラクション、遠くのサイレン。
海斗は、階段の踊り場にしゃがみ込み、その場でタバコに火をつけようとした。
「ここ禁煙」
「え?」
「ここ、ビルの管理のおっさんがうるせえの。吸うならもう一階下りろ」
「す、すんません」
慌ててライターをポケットに戻す。頼りない仕草だ、と充は思った。こんなやつが夜の街で運転しているのだから、世の中よくできていない。
「で。何」
海斗は、膝の上に手を置き、しばらく口をもごもごさせていた。言葉を選んでいるのか、それとも言い出しづらいだけなのか。
「…借金のことなんすけど」
その単語が出た瞬間、充の背中の筋肉が、反射的に硬くなった。
借金。夜の街では特別珍しい言葉ではない。でも、その中身によっては、命に近いところで響く音に変わる。
「俺の、じゃないっす。俺の…後輩の」
「お前に後輩なんていたっけ」
「いますよ、一応。前の店で一緒にやってたやつで。今は辞めてるんすけど」
海斗は、落ち着きなく指先を擦り合わせた。息が白い。
「そいつが、ちょっと…ヤバいとこから金借りちゃって」
「ヤバいとこ」
その言い方には段階がある。消費者金融レベルの「高いけど合法」なヤバさと、名刺も出せない「違法」なヤバさと。
「どこから」
充が問い詰めるように聞くと、海斗は目を泳がせ、口を噤んだ。言おうか言うまいか、迷っている表情だ。
充は、ため息を一つ吐いてから、わざと軽い声を出した。
「言わねえと話にならねえだろ。俺、エスパーじゃないからさ」
「…堂島ってとこっす」
喉の奥に錆びた鉄を押し込まれたような感覚がした。
堂島。耳にするのも嫌な名前だった。
「堂島亮」
確認するように口にすると、海斗はびくりと肩を揺らした。
「知ってるんすか」
「…まあ」
知っている以上に、近くで見たことがある。数年前、路地の向こう側で誰かを殴っていた男。狭い飲み屋のレジ前で、店員の胸倉を掴んでいた男。金を払えない客から時計を巻き上げていた男。
そして、慎一に「絶対に近づくな」と言われた男。
喉の奥が少し乾いた。階段の手すりに片手を置き、冷たい金属の感触を指先に染み込ませる。
「そいつ、いくら借りた」
「最初は二十くらいって聞いたんすけど…利息がヤバくて。週ごとに増えていくやつで」
「トイチってやつな」
「トイチ?」
「十日で一割、とかさ。週で二割とか。雪だるま方式ってやつ」
「…そんな感じっす。最初は日払いでちゃんと返してたんすけど、店辞めてから収入減ったみたいで。最近全然払えてないみたいで」
海斗は早口になっていく。言葉の端々に、自分の責任ではないと言い訳したい色が滲んでいる。
「で、今日の昼、そいつから電話きて。“どうしよう”って」
「どうしよう、ね」
充は目を細めた。
「どうしようってレベルじゃねえだろ、それ」
「ですよね。でも、そいつ本当にビビってて。家にも電話かかってきてるらしくて」
「家?」
その一言で、状況の深刻さが一段階上がる。本人の携帯だけで済んでいるうちはまだいい。家にかかり始めたら、次は職場、その次は親兄弟。取り立てる側は、恥をかかせる方法に迷わない。
「親、普通の人?」
「普通っす。地方から出てきたサラリーマン家族って感じで。だから余計にヤバいっていうか…」
海斗は頭を抱えた。
「で、なんでお前が焦ってんの」
充は、少し意地悪く聞いてみた。
「そいつが困ってんのは分かったけど、お前の借金じゃねえだろ。手ェ引いときゃ関係ない話だ」
「でも…」
海斗は歯切れ悪く唇を噛む。
「そいつに、堂島のとこ紹介したの、俺なんすよ」
その言葉に、空気の重さが変わった。
「…はあ?」
「前の店のとき、給料遅れてて。どうしても家賃払えないって言ってて。“知り合いに金貸してくれる人いるよ”って、軽い気持ちで…」
「軽い気持ちで」
充は頭の奥がじん、とするのを感じた。
こういうのは、この街では珍しくない。ちょっとした紹介料が欲しくて、あるいは自分も昔世話になったから、と軽いノリで違法金融に繋ぐ。最初の一回がうまく回ると、それが成功体験として定着する。
その先で、誰がどれだけ落ちるかなんて、考えない。
「で、今になってヤバいって気づいたわけか」
「はい…」
海斗は肩をすくめてうなだれた。
「俺、もうその人とは関係切ってるんすけど、後輩が“お前の紹介したとこだろ”って言うから。どうしたらいいか分かんなくて。…充さん、堂島のこと知ってるんなら、なんか…」
「なんか、じゃねえよ」
無意識に声が上擦りそうになり、充は慌てて押さえ込んだ。
堂島に近づくな。あいつは冗談の通じないタイプだ。お前みたいなのが、骨までしゃぶられて捨てられる。
慎一の声が、頭の奥で響いた。
いつの会話だったか。数ヶ月前か、一年前か。正確なタイミングは思い出せない。ただ、署のあの狭い部屋で、缶コーヒーを飲みながら、その名前を口にしたことだけは覚えている。
「堂島亮って知ってる?」
そう聞いたとき、慎一は珍しく顔をしかめた。
「知ってる。そんな名前、できれば聞きたくなかった」
「…そんなに」
「暴力団とズブズブの半グレだ。高利貸しと取り立てと、違法な仕事の仲介。お前が想像できる程度の悪さは全部やってると思え」
「関わるなって感じ?」
「ああ。“絶対に”だ」
慎一の声は、そのときだけいつもより低かった。
「堂島の名前が出てきたら、一人でどうにかしようとするな。そういう相手は、お前一人の力でどうにかなるもんじゃない」
「じゃ、どうすりゃいいんだよ」
「そのときは俺に言え」
「警察にチクれって?」
「言い方」
わずかに眉を寄せて苦笑した慎一が、そのまま真顔に戻る。
「お前が本当に誰かを守りたいなら、自分一人で潰れる前に、頼れるところは全部使え。俺も、その“頼れるところ”の一つでいるつもりだ」
…堂島には近づくな。
そのときの強い口調が、今になって喉に絡みつく。
海斗は、それを知らない。十九歳のガキが、そこまでの裏の事情に触れているわけがない。
「…そいつ、今どこにいんの」
充は、少し声のトーンを落として聞いた。
「昼間はバイト行ってましたけど…さっきLINEきて。“今日の夜、呼び出された”って」
「呼び出された?」
「“このままバックレるなら、家まで行くぞ”って言われたらしくて。とりあえず会って話せって」
海斗はスマホを取り出し、画面を見せる。そこには、後輩とのメッセージが並んでいた。
“今日の21時、◯◯パーキング裏。逃げたら家行く”
場所の名前を見た瞬間、充は眉をひそめた。いつも使っているコインパーキング。店の送迎の車を停めることもある、馴染みの場所だ。
「そこ、うちの店のすぐ近くだろ」
「そうっすね。だから余計…」
海斗はぐっと唇を噛んだ。
「俺が行っても、なめられるだけっす。あの人、俺のこと舐めてるし。前に一緒に飲んだときも、ずっと説教されて。“若いからって調子のんな”とか」
「説教で済んでんならまだマシだ」
充はぼそりと呟いた。
この街では、“説教”が暴力に変わるのに、そんなに時間はかからない。手を出しても問題にならない相手に対してなら、なおさらだ。
「…だから、その」
海斗は顔を上げた。目が、妙に切羽詰まっている。
「充さん、話つけてきてもらえませんか」
「は?」
「充さんなら、なんか…うまくやれるかなって。俺なんかより年上だし、前からこの街いるし」
「年上だからって、何でも知ってるわけじゃねえよ」
「でも、俺よりは…」
海斗の声が尻すぼみになっていく。
充は、階段の壁にもたれかかり、天井を見た。薄汚れた白いペンキの上を、蛍光灯の光がぼんやりと撫でている。隙間から入り込む街の音が、ぐしゃぐしゃのノイズになって耳に流れ込んでくる。
…堂島には近づくな。
慎一の声と、海斗の「お願いします」という声が、頭の中でぶつかり合う。
黙っていれば、自分の手は汚れない。海斗の後輩がどうなろうと、それは自己責任だと切り捨てることもできる。そうやって何度も、自分の身を守ってきた。
でも、想像してしまう。
電話の向こうで震えていた声。家に取り立てが行く。玄関のチャイムが鳴り、スーツ姿の父親が出てきて、事情も分からないまま土下座させられる。母親が泣き、近所の目が集まる。
昔、自分の家の前に、見知らぬ男が立っていたことがある。母がまだ生きていた頃。父の借金絡みで、誰かが怒鳴り込んできたのだ。玄関先で怒鳴り声がして、母が間に入って謝っていた。背丈ほどの自分は、廊下からその光景を見ていた。母の背中が小刻みに震えていた。
あの時の、消えたいような恥ずかしさと、どうしようもない恐怖を、今もまだ身体は覚えている。
「…家に行くって脅されてるなら、余計に堂島には行くなって話なんだけどな」
自分に言い聞かせるように呟く。そうだ。こういうときこそ、警察に相談するべきだ。
でも、海斗が警察に行く姿が想像できない。後輩に「警察にチクった」と責められるのを恐れている顔が、目に見えるようだった。
「充さんが行ってくれたら、話、聞いてくれると思うんすよ。俺より全然怖いし」
「褒めてねえだろ、それ」
「褒めてます」
海斗は必死の顔で言った。
「お願いします。俺…自分で招いたことだけど、ほんとに分かんなくて。どうしたらいいか」
その目を見ていると、「知らねえよ」と突き放す言葉が喉に引っかかる。
自分だって、ここまでだって、誰かに引っ張られたり突き放されたりしてきた。その中で、たまたま慎一みたいな大人に拾われた。拾われなければ、とっくにどこかに落ちていただろう。
今、目の前で助けを求めているこいつを見捨てたら、自分が受け取ったものを全部無駄にする気がした。
「…お前は行かなくていい」
充は、ゆっくりと言った。
「後輩にも、お前が何とかするって約束すんな。俺が勝手に行く。お前は何も言ってない」
「でも」
「“でも”じゃねえよ」
壁から身体を離し、階段を一段上がる。海斗の頭一つ分上から見下ろす形になる。
「自分が紹介したからって、一緒に沈む必要はねえ。お前がここで一緒に来ても、足手まといだ」
「…」
「堂島にこっちの弱み見せたら終わりだ。お前のこと、完全になめきってくる。だから、お前は余計なこと言うな。店の仕事だけしてろ」
きつい言い方だと分かっていた。でも、あえてそう言った。
本当は、自分だって怖い。堂島の顔を間近で見るのは、できれば避けたい。さっき頭の中に浮かんだ慎一の「絶対に近づくな」が、ぐるぐると回っている。
それでも、誰かが行かなければ、この話はどこまでも悪い方向に転がっていく。自分なら、まだ「話す余地」があるかもしれない。自分の身体一つと引き換えなら、何とかなるかもしれない。
甘い考えだと分かっていながら、そこに縋っている。
海斗は、しばらく充の顔を見上げていたが、やがて小さくうなずいた。
「…すみません」
「謝るなら、次からバカな紹介すんな」
「はい」
「で。そいつからのメッセージ、全部スクショしとけ。あとで消すなよ」
「え?」
「何かあったとき、証拠になる。お前のとこにも連絡きたら、録音しとけ。今どきのスマホならできんだろ」
「…そんな、本格的に」
「本格的になる前に手打ちできりゃいいけどな」
そう言いながらも、充は胸の奥に冷たいものを感じていた。本格的になったときのことを考えている自分がいる。
非常階段から室内に戻ると、店の電話が鳴った。女の笑い声がかぶさり、スマホのバイブレーションが机の上で震えている。
充は日常に戻るように、一度深呼吸をした。
このまま忘れたふりをして、いつも通り夜の仕事をして、今日を終わらせることもできる。堂島のことも、海斗の後輩のことも、「自分には関係ない」と言い聞かせればいい。
…でも、どうせ俺は、そういう器用な人間にはなれなかった。
ふと、時計を見ると、針は十九時を少し回っていた。あと二時間で、約束の時間が来る。
「充さん、八時の待ち合わせの送迎、どうします?」
スタッフの一人が声をかけてきた。女の子をピックアップしに行くための車の手配だ。
「翔太に回して。俺、ちょっと外出る」
「外出るって、上がりっすか?」
「まだだ。用事済ませたら戻る。店長にもそう言っといて」
適当な嘘を口にする自分を、少しだけ情けなく感じた。
どうせなら真正面から、「借金トラブルの話をつけに行く」と言えればいい。でも、そんなことを言えば止められる。店長には「そういうのに首突っ込むな」と散々言われてきた。慎一にだって、同じことを言われるだろう。
止められるのが怖いのか。止めてもらいたいのか。自分でも分からない。
充は、ロッカーからカーキ色のジャケットを取り出し、袖を通した。ポケットに財布とスマホと、使い古した煙草の箱を突っ込む。鍵の束が、腰の横で小さく鳴った。
ビルの階段を降りて外に出ると、夕暮れはすでに夜に溶けかけていた。空の高いところに残っていた薄い紫が、ビルの隙間に沈み、代わりにネオンの光が街を染め始めている。
歌舞伎町の入口には、いつものように派手な看板が並び、呼び込みが立っている。客引きの声と、酔っ払いの笑い声と、遠くのカラオケの音が渾然一体になって、街全体がざわざわとざわめいている。
充は、そのざわめきの中を歩きながら、スマホを取り出した。連絡先には「長谷」と登録された名前がある。
押すなら今だ、と頭のどこかが囁く。
慎一に言えば、きっと何かしらの手を打ってくれる。堂島の名前を出せば真剣に話を聞いてくれるだろう。警察として動ける範囲がどこまでか分からなくても、自分一人で行くよりはずっとマシだ。
でも、それは同時に、この街のトラブルを「警察にチクった」ことになる。海斗やその後輩が、周りから何を言われるか想像がつく。
それ以上に。
充は、彼に心配をかけたくなかった。
あの人は、いつも冷静なふりをしているが、内心ではこっちの怪我の一つ一つまで気にかける。前に喧嘩で顔を切ったときも、「大したことない」と言い張る自分を、しつこいくらい病院に連れていこうとした。
そんな相手に、「自分から危ないところに行きます」と言えるか。
「…ちっ」
舌打ちが自然に出た。自分の矛盾に、苛立ちが募る。
気づけば、足は署の方向に向かっていた。歌舞伎町から少し離れたところにある警察署。幾度となく出入りした場所だ。
玄関の自動ドアが開くと、冷たい空気と消毒液の匂いが流れ込んでくる。外のざわめきとは違う、管理された静けさがある。
受付には見慣れた事務員が座っていた。充の姿を見ると、一瞬だけ驚いたように目を瞬かせ、それから苦笑する。
「また来たの」
「または余計だろ。俺、最近は真面目に生きてんだけど」
「はいはい。長谷さん呼ぶ?」
「…いたらな」
受付の女性が電話を取る間、充はロビーのベンチに腰を下ろした。硬いプラスチックの椅子が、尻の骨に当たる。壁には「特殊詐欺に注意」「飲酒運転撲滅」といったポスターが並んでいる。綺麗事と正論の羅列。
白い蛍光灯の光は、夜のネオンとは違う冷たさを持っていた。目を細めて天井を見上げると、いくつもの照明が規則正しく並んでいる。それが、妙に窮屈に感じられる。
数分もしないうちに、廊下から足音が聞こえた。
「よ」
見慣れた声とともに姿を現したのは、制服姿の長谷慎一だった。シャツの袖を肘までまくり、ネクタイを少し緩めている。仕事の合間に抜けてきたのだろう。
「珍しい時間に来たな」
慎一はロビーの真ん中で立ち止まり、充を見下ろす。その目が、一瞬だけ全身をスキャンするように動いた。怪我はないか、どこかおかしな様子はないか。そんな確認の視線。
「なんだ。捕まったわけじゃないなら、俺の管轄じゃないぞ」
「捕まってねえよ」
充は鼻で笑い、立ち上がった。
「別件。ちょっと、顔見に来ただけ」
「顔見に来た、ね」
慎一は口元に薄い笑みを浮かべた。
「モテる男はつらいな」
「どこにそんな要素あんだよ」
くだらないやりとりが、いつもの呼吸を作る。充の中の緊張が、ほんの少しだけ緩んだ。
「で。別件ってのは」
「んー…」
喉まで出かかった言葉を、飲み込む。
ここで「後輩が借金で」と全て話してしまえば、あとは任せてしまえばいい。慎一に怒鳴られても、「堂島には行くな」とまた釘を刺されても、何度でも聞いてきた声だ。
それなのに、その先を口にする勇気が出ない。
「最近さ」
充は、わざと話題をずらすように言った。
「なんか、うちの近所で変な奴うろついてるって聞いてさ。子ども狙いのやつとか。そういうの、見つかってんのかなと思って」
「…誰情報だよ、それ」
「隣の店のババア」
「ババアは大体話盛るからな」
慎一はため息をついた。
「別に、ここらは特別治安悪いわけじゃない。ただ、お前らが働いてる界隈は、元々いろんな人間が混ざってるから、変なのも紛れ込みやすい」
「だよな」
「だからこそ、気をつけろっていつも言ってる」
慎一は、じっと充の顔を見つめた。
「お前、最近どうなんだ。ちゃんと飯食ってるか」
「親かよ」
「半分な」
一瞬だけ目が笑う。その軽さの奥に、真面目な心配が見えた。
充は視線を逸らし、受付のポスターに目をやる。振り込め詐欺の犯人像が、誰かに似ている気がして笑いそうになる。
「まあ…それなりに。夜勤は体に悪いけどな」
「夜勤が体にいい仕事なんてそうそうない」
慎一は腕を組み、少しだけ身体を傾けた。
「お前さ」
「ん」
「今日、仕事はもう終わりか」
「途中。ちょっと抜けてきただけ」
「このあと、どこ行く」
何気ないふうを装った問いかけだった。でも、その瞳の奥に、小さな警戒が灯っているのが分かる。
充は、心臓が一瞬だけ強く打つのを感じた。
「どこって」
時間を稼ぐように、笑ってみせる。
「さあ」
「さあ、じゃないだろ」
慎一は目を細めた。
「こういうときのお前は、大体ろくでもないとこに顔出してる」
「偏見だな」
「経験則だ」
軽口の応酬。その裏で、充の喉はひどく乾いていた。舌で上顎をなぞる。コーヒーが飲みたいような、何も飲みたくないような。
「…まっすぐ帰るよ。“たぶん”」
結局、彼はそう言った。
「その“たぶん”が余計だ」
慎一は眉を上げる。
「何がある」
「何もねえよ」
「あるだろ」
まっすぐな視線が射抜いてくる。嘘を見透かされているのが分かる。
ここで全部話してしまえば、どれだけ楽か。
堂島の名前を出して、「海斗の後輩が」と説明すれば、慎一は真剣に対応してくれる。その未来が、目の前に差し出されている。
それでも、口は動かなかった。
助けを求めることは、同時に、自分の無力さを認めることだ。あれだけ「自分の足で立て」と言われてきて、ここで「やっぱり一人じゃ無理でした」と言えるか。
それに、堂島の名前を出すことは、慎一を危険に巻き込むことにもなる。仕事として関わる以上、彼は現場に出る可能性がある。あの男と同じ場所に立たせることを想像すると、胃がきゅっと縮む。
「…ちょっと、知り合いとメシ行くだけ」
嘘と本当の間くらいの言葉が出る。後輩は知り合いだし、場所がメシ屋じゃないだけで。
「メシねえ」
慎一は短く息を吐いた。
「酒はほどほどにな」
「未成年じゃねえんだから、そこは自由だろ」
「酔って転んで頭打ったら、俺が報告書書かなきゃいけなくなる」
「面倒見いいな」
「仕事だよ」
そう言いつつも、その目はまだ充の様子を探っている。
「本当に、大丈夫か」
その一言に、心がぐらりと揺れた。
大丈夫じゃない。全然大丈夫じゃない。これから危ないところに行こうとしている人間の顔だと、自分でも分かっている。
「…何とかなっから」
いつもだったら、「平気だろ」と軽く笑ってごまかせる。でも、今回はその軽さが出てこない。代わりに出た言葉は、根拠のない虚勢だった。
慎一は、それを聞いてしばらく黙っていた。ほんの数秒の沈黙が、妙に長く感じられる。
「今夜、雨が降るかもしれない」
唐突に、そんなことを言った。
「帰り、足元気をつけろ」
「…天気予報かよ」
「俺の経験則だ」
そう言って、慎一はほんの少しだけ笑った。その笑いは、いつもより狭い範囲でしか表情を動かしていない。
「本当に何かあったら、すぐ電話しろ。言い訳する前にな」
「はいはい」
返事だけは軽く言う。
本当に何かあったら、そのときはもう遅いだろう、という皮肉が喉まで出かかって、飲み込んだ。
ロビーを後にし、署を出る。自動ドアが閉まる音が背後で響く。外の空気は、さっきより冷たくなっていた。遠くで救急車のサイレンが鳴っている。
空を見上げると、薄い雲が街の光を受けて鈍く光っている。星は見えない。
ポケットの中のスマホが、軽く震えた。見ると、海斗からのメッセージだ。
“あいつ、二十分くらい早く来るかもって”
時計を見る。二十時少し過ぎ。約束の時間より早い。堂島は、相手を待たせるのは好きでも、自分が待たされるのは嫌いだ。そんな話を誰かから聞いたことがある。
「…はあ」
深くため息をつき、充は歩き出した。
歌舞伎町に戻る道。ネオンの光が強くなり、街は完全に夜の顔になっている。看板の文字が色とりどりの光を放ち、人影が交錯する。
途中のコンビニの前を通りかかったとき、自動ドアの横のショーウィンドウのガラスに、自分の姿が映った。
カーキのジャケットに、黒いスキニーパンツ。目つきが悪いと言われ慣れた顔。少し伸びた前髪が額にかかり、唇の端が無意識にへの字に曲がっている。
その姿は、昔、慎一に補導されていた頃の自分と、ほとんど変わっていないように見えた。ただ、瞳の奥にあるものが少しだけ違う。諦めと、意地と、誰かを守ろうとする拙い気持ちが混ざって、濁っている。
「帰るなら今だ」
頭のどこかがそう告げた。
ここで引き返して、店に戻って、何もなかった顔で仕事に戻る。海斗には、「ごめん、やっぱり無理だった」と言う。後輩には連絡しない。
堂島と会わなければ、自分の身は守れる。慎一との約束も、ギリギリ守ったと言えなくもない。
ガラス越しに、自分の目が自分を見返す。
…本当に、それでいいのか。
あのとき、母が玄関先で見せた背中を思い出す。借金取りに頭を下げ、涙をこらえていた姿。あのとき誰かが間に入ってくれていたら、と何度も思った。
今、自分は、その「誰か」になれるかもしれない場所に立っている。
「…」
指先が、ポケットの中で震えた。スマホが小さく鳴る。海斗から、短いメッセージが届いている。
“すみません”
その文字を見て、充は目を伏せた。
帰るなら今だ。でも、今帰ったら、一生後悔する気がする。
「ったく」
自分に向かって悪態をつく。
「ほんと、バカだな」
ガラスに映った自分の口が、同じ言葉を無言で繰り返した。
足を止めていた時間は、数秒か、長くても一分か。その短い時間に、頭の中ではいくつもの選択肢が生まれては消えた。
最後に残ったのは、ただ一つ。
充は顔を上げ、コンビニのショーウィンドウから視線を外した。ポケットから煙草を取り出し、火もつけずに一本を唇に咥える。それだけで、呼吸が少しだけ整う。
そして、コインパーキングのある方角へ、歩き出した。
街の光が背中を押すように後ろから照らす。胸の奥で、嫌な予感がじっとりと広がりながらも、足は止まらなかった。
平日の午後の光は、学校の教室の蛍光灯よりやわらかいはずなのに、今はどこか白々しく見えた。正門を出るとき、担任が背中越しに何か言っていた気がする。「無理するなよ」とか「いつでも戻っておいで」とか、そういう類いの言葉。聞こえていないわけじゃなかったが、耳の奥のどこかで弾かれていった。校門の外で待っていたのは、生活安全課の三浦だった。葬儀場の和室で何度か顔を合わせた、あのスーツの男だ。ネクタイは地味な青、書類の入った黒い鞄を手に提げている。「早退させてもらえたか」「…はい」短く答えると、三浦は小さく頷き、駐車場の方へ先に歩き出した。二人で乗り込むのは、つやのないグレーの小型車。パトカーではないが、なぜか警察の匂いがした。シートベルトを締めると、カチャリと金具がはまる音がやけに大きく響く。エンジンがかかり、車が静かに動き出した。窓の外を流れていく街は、いつも通りの色をしていた。コンビニの看板、クリーニング店の赤い旗、自転車に乗った中学生。どれも、「自分がいない間に世界が勝手に変わっていた」気配はない。変わってしまったのは、自分の方だけだ。「官舎では…ちゃんと寝られてるか」ハンドルを握ったまま、三浦がぽつりと尋ねる。「…あんまり」正直に言うと、彼は少しだけ眉を寄せた。「そうか」それ以上、無理に続けてくることはなかった。車内には、ラジオも音楽も流れていない。タイヤがアスファルトを踏む音と、信号で止まるたびに聞こえるブレーキのきしむ音だけが、一定のリズムで耳に届く。官舎の敷地に入ると、見慣れた建物が目に入った。白い壁に、同じ形の窓がいくつも並んでいる。廊下の手すりには、誰かの洗濯物が揺れていた。カラフルなタオルと無地のシャツ。自分の家のベランダにも、ついこの間まで同じような光景があった。駐車スペースに車を停めると、三浦はエンジンを切った。「少しの間、失礼するよ」「はい」二人で車を降り、階段を上る。コンクリートの段差が、靴の底に硬く当た
控室の障子が、風もないのに揺れたような気がした。実際には、人の出入りで空気が動いただけだろう。葬儀会館の廊下から、誰かの足音と、小さく抑えられた話し声が近づいてきては遠ざかっていく。そのたびに、木枠がわずかにきしむ。座卓の上では、さっき生活安全課の男が書いたメモ用紙が、まだそこにあった。日付と予定と、「官舎 退去目安 三ヶ月以内」の文字。黒いインクが、やけに鮮やかだ。紙の隅っこが、空調か誰かの動きのせいで、ほんの少しだけめくれ上がる。まるで、「まだ決まっていない」と主張するみたいに、小刻みに震えている。「…まあ、いずれにしても、長谷くんが高校を卒業するまでは、進学も含めてサポートしていく形で」生活安全課の男が、言葉を続けていた。「児童相談所とも連携しながら、最善の方法を…」その「最善」という言葉が、この場にいる誰の顔も具体的には思い浮かべていないように聞こえる。パンフレットの文面の中だけで完結している「最善」。紀子は相変わらず、膝の上でハンカチを握りしめている。叔父は腕を組み、どこか決まり悪そうな顔をしている。上司らしい男は、腕時計をちらりと見た。高瀬は、座卓の端で黙っている。彼の前の紙コップの緑茶は、もう完全に冷めているだろう。「…とりあえず、今日はこのくらいに」生活安全課の男が一息ついた。「詳細は、追ってご連絡差し上げます。担当の者もつけますし…」また名刺が配られる気配がした。紙が擦れる音。誰かが名刺入れを取り出す金属の音。陸斗は、自分の前に差し出された名刺を、ぼんやり見つめた。「警視庁 生活安全課 家庭支援係」。さっきと同じ名前と肩書き。何枚も配られているのだろう。まるで、同じスタンプをいろんな紙に押しているみたいだ。自分の指先が、その名刺の端に触れた。ほんの少しだけ、紙の角が皮膚を押す感覚がある。その程度の現実感に、妙に救われる。「…今日は本当に、皆さんお疲れのところ、ありがとうございました」生活安全課の男が頭を下げ
畳の匂いが、妙に生々しく鼻にまとわりついていた。葬儀会館の二階、一番奥の小さな和室。入り口には「関係者控室」とだけ書かれた札が掛かっている。襖を開けると、四畳半ほどの部屋の真ん中に低い座卓が置かれ、その周りを座布団が取り囲んでいた。テーブルの上には、紙コップと、出されてしばらく経った緑茶の入ったポット。湯気はもうほとんど立っていない。コンビニのおにぎりと、個包装の煎餅、ふやけかけた漬物が、ラップをされた皿の上で所在なげに並んでいる。壁際には、葬儀会社のロゴが入ったティッシュ箱と、ごみ袋がいくつか。天井の蛍光灯は一つだけで、白い光が部屋全体に均一に降り注いでいた。障子の向こうは曇り空で、自然光と蛍光灯の境目が分からない。畳の上に座布団を二つ並べ、その片方に陸斗が座っている。斜め向かいには、父の妹の紀子がいた。黒い喪服のスカートに黒いタイツ。膝の上でハンカチを握りしめている。その隣に、遠縁の叔父と、その妻。反対側には、スーツ姿の男が二人。ひとりは高瀬で、ジャケットを脱ぎ、ワイシャツの腕を少し捲り上げている。もうひとりは見知らぬ男で、名刺を配るときに「生活安全課の○○です」と名乗っていた。全員が座卓を囲んで座り、どこか居心地悪そうに姿勢を正している。遠くで、小さく機械の鳴る音がした。火葬炉のボタンを押す音なのか、エレベーターの到着音なのか分からない。どちらにしても、今この瞬間、父の身体は別の場所で火にくべられている。その事実を頭の隅で理解しながらも、陸斗は視線を目の前のテーブルに落とした。紙コップの中の緑茶は、うっすらと表面に膜のようなものが張りかけている。茶渋が縁に残っているのが見える。口をつける気にはならなかった。「…では、少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」生活安全課の男が、控えめに咳払いをして口を開いた。四十代半ばくらいだろうか。地味な紺のスーツに、派手ではないネクタイ。机の上には、クリアファイルがいくつか置かれている。「長谷さんの今後の生活について、現時点での選択肢を、簡単にお話しさせていただければと」「はい…」
葬儀会館の裏手に出るドアには、「職員以外立入禁止」の札と、その下に小さく「喫煙所」と書かれた紙が貼ってあった。ドアノブに手をかけた瞬間、ひやりとした金属の感触が指先に伝わる。中と外の温度差が、ほんの少しだけそこに残っているみたいだった。押し開けると、冷たい外気が一気に流れ込んできた。コンクリートの床は、まだうっすらと濡れている。さっきまで小雨が降っていたのだろう。排水溝の方には水たまりが残り、その上に薄く灰色の空が映っていた。喫煙所と書かれた青い看板の下に、銀色の丸い灰皿と、木製のベンチが一つ置かれている。その灰皿から、細く白い煙が立ち上っていた。高瀬がいた。黒いスーツの上着を少しだけはだけ、ネクタイを緩めた状態で、ベンチの端に腰掛けている。片肘を膝に乗せ、反対の手に挟んだ煙草をゆっくりと口元に運んだところだった。充は、ドアを閉める前に一瞬だけ躊躇したが、そのまま外に出る。パタン、とドアが閉まる音が、室内のざわめきとの境界線を作った。「…よ」短く声をかける。高瀬が振り返った。目の下に濃いクマができている。喪服にも似た黒いスーツの肩は、さっきまでの儀礼で少しこわばっていたのか、僅かに持ち上がっていた。「来てたのか」高瀬は、煙を肺から吐き出しながら言った。「ああ」充は、ポケットから自分の煙草を取り出す。喪服ではない。濃いグレーのシャツに黒いジャケット、黒いパンツ。全体的に地味な色合いではあるが、周囲の画一的な喪服や制服に比べると、どこか浮いて見えるだろう。葬儀会場に入ったときにも、それは嫌というほど感じた。黒い海の中で、自分だけが微妙にトーンの違う岩みたいに転がっている感覚。親戚でもなく、警察でもなく、友人でもない。「何者」とも言い切れない立場。高瀬が、木そう言いながらも、充はベンチに腰を下ろした。立っている方が落ち着かない。膝にかかる冷たさが、かろうじて現実とつながる感覚をくれる。ポケットから取り出した箱から一本抜き、ライターを探す。いつもなら指が勝手に動くはずの動作が
告別式の朝、葬儀場のホールは、昨日と同じなのにどこか違って見えた。白い布に囲まれた祭壇、中央の遺影、両脇の花の塔。配置は変わらない。けれど、今日はそれらの輪郭が、妙にはっきりしている。蛍光灯の白い光が、花の一枚一枚、リボンの端、祭壇の段差をくっきりと浮かび上がらせていた。その手前に、きのうよりもきちんと整列した黒が広がっている。黒い喪服、黒い制服。前列には、肩章に金色の飾りのついた警察幹部たちが座り、その後ろに一般の警察官、そのさらに後ろに親戚や近所の人たちが続く。まるで、黒い海が波打たずに静止しているようだった。正面の遺影では、慎一が相変わらず、制服姿でわずかに口元を緩めている。「ここ」案内係の女性に促され、陸斗は一番前の、家族席の端に腰を下ろした。右隣に、父の妹が座る。左隣には、どこか遠縁の叔父がいる。そのさらに隣には、警察の幹部らしき男が立っていた。黒い革張りの椅子の座面は、冷たくも熱くもなかった。座った瞬間、「自分は今、遺族代表としてここに座っている」という感覚が、ようやく現実として降りてくる。…遺族。胸の奥で、その言葉がうまく形にならない。自分が「遺族」というカテゴリーに入れられてしまったことが、まだ他人事のように思える。ホールの後方では、司会者がマイクの調整をしている。ハウリングを防ぐために軽く音を出すたび、「本日は…」といった断片的な声が空気に溶ける。昨日の夜、控室の布団に横になっても、ほとんど眠れなかった。まぶたを閉じると、病院の白い天井と、安置室の冷たい空気と、父の顔が浮かんできて、そこから先に進めない。気づけば薄明かりが障子越しに差し込んでいて、誰かがそっと部屋の襖を開け、「そろそろ準備を」と小声で告げていた。眠れていないわりに、頭は妙に冴えている。眠気よりも、空腹よりも、「何も感じないこと」への焦りの方が勝っている。「それでは、ただいまより…」司会者の声が、マイクを通して響いた。「故 警部補 長谷慎一 殿の告別式を執り行います」その名が、ホールの
黒い海の真ん中に、白い四角が浮かんでいるように見えた。葬儀場のホールに足を踏み入れた瞬間、長谷陸斗は、真っ先に正面の祭壇に目を奪われた。白い布で囲まれた段々の祭壇。その中央、一番高いところに、制服姿の父の写真が掲げられている。制帽をかぶり、きちんとネクタイを締め、胸には見慣れない勲章のようなもの。カメラ目線で、ほんの少し口元を緩めている。仕事用の証明写真の一枚なのだろう。ここ数年、家で笑ったときの顔とは、どこか違う気がする。遺影の周りを、菊と百合とカスミソウの白い花が埋め尽くしていた。左右には盛られた花の塔。足元には、黒い喪服と警察の制服が、波のように広がっている。黒い背中、黒い肩章、黒い礼服。ひとつひとつの輪郭がよく見えないほど、同じ色が重なっていた。鼻の奥に、線香の煙と花の匂いが入り込んできた。甘くて、少しむせ返るような匂い。病院の消毒液の匂いよりは柔らかいのに、今はどちらも同じくらい現実感がない。「長谷くん、こっち」横から袖をつかまれ、陸斗は我に返った。父の同僚らしい若い警官が、小声で言う。「受付、座ってもらうから。弔問に来た人に挨拶だけしてくれればいいからな」「…はい」返事をするとき、自分の声が少し風邪を引いたときみたいに枯れているのに気づいた。受付のテーブルは、ホールの入口横に設けられていた。白いテーブルクロスの上に、記帳台と香典を入れる袋、筆ペンが並んでいる。その横に椅子が二つ置かれていて、すでに一人、中年の女性が座っていた。遠い親戚だと、さっき紹介された人だ。「あんたが陸斗くんね」彼女は陸斗の顔を見るなり、目じりにしわを寄せて頷いた。「大変だったねえ。今日は座ってるだけでいいから。『ご愁傷様です』って言われたら、『ありがとうございます』って返せばいいからね」「…はい」言われた通りに、陸斗は椅子に腰を下ろした。背もたれの硬さが背中に伝わる。膝の上で両手を握りしめると、指先が冷えているのが分かった。まもなく、最初の弔問客がやってきた。黒いス