로그인その知らせを持ってきたのは、夕方のラストの電話が途切れた直後だった。
風俗店のバックヤード。薄汚れたソファと、書類の詰まったスチールラックと、電子レンジと、湯沸かしポット。それらを無理やり同じ空間に押し込めた六畳ほどの部屋に、蛍光灯の白い光が広がっている。
カーテンの向こう側では、電話が鳴れば男のスタッフが受話器を取り、女たちが笑い声を作り、車の鍵がジャラジャラと鳴る。ここだけ切り離されたみたいな静けさがあるようで、実際には壁が薄いせいで全ての音がじんわり染み込んでくる。
桜井充は、デスクの上に置かれた出勤簿にボールペンを走らせていた。今日の売上、女の子たちの上がり時間、トラブルのメモ。数字と文字を並べていけば、だいたい一日の終わりが見えてくる。
安物のコロンの匂いと、電子レンジで温めた弁当の残り香、タバコの煙が混ざった空気を吸い込み、白いシャツの袖を肘までまくる。指の節には、昔つけた傷の跡が細く残っていた。
ドアがノックされ、そのまま開いた。
「充さん、ちょっといいっすか」
顔を覗かせたのは、バイトの送迎スタッフの一人、海斗だった。まだあどけなさの残る顔つきに、やたら派手なピアスと、胸ポケットから覗くタバコの箱。十九歳、という数字が、そのバランスの悪さを象徴している。
充はペンを止め、顔を上げた。
「何」
「外…いいっすか。ここじゃちょっと」
その言い方に、嫌な予感が喉元を掠めた。仕事の話なら、ここで十分だ。ここじゃないところでしか言えない話は、大抵ろくなもんじゃない。
充はため息をつき、ペンをデスクに置いた。
「三分な。客から電話入ったら戻る」
「はい」
バックヤードを出ると、廊下を挟んで事務所と待機室があり、その奥にビルの共用非常階段へ通じる扉がある。非常口の小さな緑色のランプが暗がりの中で光っていた。
金属製の扉を開けると、冷たい空気が流れ込んでくる。秋も終わりかけの夕方、ビルの隙間からは、赤紫に染まり始めた空が少しだけ覗いていた。下からは、歌舞伎町の雑多な音が昇ってくる。呼び込みの声、車のクラクション、遠くのサイレン。
海斗は、階段の踊り場にしゃがみ込み、その場でタバコに火をつけようとした。
「ここ禁煙」
「え?」
「ここ、ビルの管理のおっさんがうるせえの。吸うならもう一階下りろ」
「す、すんません」
慌ててライターをポケットに戻す。頼りない仕草だ、と充は思った。こんなやつが夜の街で運転しているのだから、世の中よくできていない。
「で。何」
海斗は、膝の上に手を置き、しばらく口をもごもごさせていた。言葉を選んでいるのか、それとも言い出しづらいだけなのか。
「…借金のことなんすけど」
その単語が出た瞬間、充の背中の筋肉が、反射的に硬くなった。
借金。夜の街では特別珍しい言葉ではない。でも、その中身によっては、命に近いところで響く音に変わる。
「俺の、じゃないっす。俺の…後輩の」
「お前に後輩なんていたっけ」
「いますよ、一応。前の店で一緒にやってたやつで。今は辞めてるんすけど」
海斗は、落ち着きなく指先を擦り合わせた。息が白い。
「そいつが、ちょっと…ヤバいとこから金借りちゃって」
「ヤバいとこ」
その言い方には段階がある。消費者金融レベルの「高いけど合法」なヤバさと、名刺も出せない「違法」なヤバさと。
「どこから」
充が問い詰めるように聞くと、海斗は目を泳がせ、口を噤んだ。言おうか言うまいか、迷っている表情だ。
充は、ため息を一つ吐いてから、わざと軽い声を出した。
「言わねえと話にならねえだろ。俺、エスパーじゃないからさ」
「…堂島ってとこっす」
喉の奥に錆びた鉄を押し込まれたような感覚がした。
堂島。耳にするのも嫌な名前だった。
「堂島亮」
確認するように口にすると、海斗はびくりと肩を揺らした。
「知ってるんすか」
「…まあ」
知っている以上に、近くで見たことがある。数年前、路地の向こう側で誰かを殴っていた男。狭い飲み屋のレジ前で、店員の胸倉を掴んでいた男。金を払えない客から時計を巻き上げていた男。
そして、慎一に「絶対に近づくな」と言われた男。
喉の奥が少し乾いた。階段の手すりに片手を置き、冷たい金属の感触を指先に染み込ませる。
「そいつ、いくら借りた」
「最初は二十くらいって聞いたんすけど…利息がヤバくて。週ごとに増えていくやつで」
「トイチってやつな」
「トイチ?」
「十日で一割、とかさ。週で二割とか。雪だるま方式ってやつ」
「…そんな感じっす。最初は日払いでちゃんと返してたんすけど、店辞めてから収入減ったみたいで。最近全然払えてないみたいで」
海斗は早口になっていく。言葉の端々に、自分の責任ではないと言い訳したい色が滲んでいる。
「で、今日の昼、そいつから電話きて。“どうしよう”って」
「どうしよう、ね」
充は目を細めた。
「どうしようってレベルじゃねえだろ、それ」
「ですよね。でも、そいつ本当にビビってて。家にも電話かかってきてるらしくて」
「家?」
その一言で、状況の深刻さが一段階上がる。本人の携帯だけで済んでいるうちはまだいい。家にかかり始めたら、次は職場、その次は親兄弟。取り立てる側は、恥をかかせる方法に迷わない。
「親、普通の人?」
「普通っす。地方から出てきたサラリーマン家族って感じで。だから余計にヤバいっていうか…」
海斗は頭を抱えた。
「で、なんでお前が焦ってんの」
充は、少し意地悪く聞いてみた。
「そいつが困ってんのは分かったけど、お前の借金じゃねえだろ。手ェ引いときゃ関係ない話だ」
「でも…」
海斗は歯切れ悪く唇を噛む。
「そいつに、堂島のとこ紹介したの、俺なんすよ」
その言葉に、空気の重さが変わった。
「…はあ?」
「前の店のとき、給料遅れてて。どうしても家賃払えないって言ってて。“知り合いに金貸してくれる人いるよ”って、軽い気持ちで…」
「軽い気持ちで」
充は頭の奥がじん、とするのを感じた。
こういうのは、この街では珍しくない。ちょっとした紹介料が欲しくて、あるいは自分も昔世話になったから、と軽いノリで違法金融に繋ぐ。最初の一回がうまく回ると、それが成功体験として定着する。
その先で、誰がどれだけ落ちるかなんて、考えない。
「で、今になってヤバいって気づいたわけか」
「はい…」
海斗は肩をすくめてうなだれた。
「俺、もうその人とは関係切ってるんすけど、後輩が“お前の紹介したとこだろ”って言うから。どうしたらいいか分かんなくて。…充さん、堂島のこと知ってるんなら、なんか…」
「なんか、じゃねえよ」
無意識に声が上擦りそうになり、充は慌てて押さえ込んだ。
堂島に近づくな。あいつは冗談の通じないタイプだ。お前みたいなのが、骨までしゃぶられて捨てられる。
慎一の声が、頭の奥で響いた。
いつの会話だったか。数ヶ月前か、一年前か。正確なタイミングは思い出せない。ただ、署のあの狭い部屋で、缶コーヒーを飲みながら、その名前を口にしたことだけは覚えている。
「堂島亮って知ってる?」
そう聞いたとき、慎一は珍しく顔をしかめた。
「知ってる。そんな名前、できれば聞きたくなかった」
「…そんなに」
「暴力団とズブズブの半グレだ。高利貸しと取り立てと、違法な仕事の仲介。お前が想像できる程度の悪さは全部やってると思え」
「関わるなって感じ?」
「ああ。“絶対に”だ」
慎一の声は、そのときだけいつもより低かった。
「堂島の名前が出てきたら、一人でどうにかしようとするな。そういう相手は、お前一人の力でどうにかなるもんじゃない」
「じゃ、どうすりゃいいんだよ」
「そのときは俺に言え」
「警察にチクれって?」
「言い方」
わずかに眉を寄せて苦笑した慎一が、そのまま真顔に戻る。
「お前が本当に誰かを守りたいなら、自分一人で潰れる前に、頼れるところは全部使え。俺も、その“頼れるところ”の一つでいるつもりだ」
…堂島には近づくな。
そのときの強い口調が、今になって喉に絡みつく。
海斗は、それを知らない。十九歳のガキが、そこまでの裏の事情に触れているわけがない。
「…そいつ、今どこにいんの」
充は、少し声のトーンを落として聞いた。
「昼間はバイト行ってましたけど…さっきLINEきて。“今日の夜、呼び出された”って」
「呼び出された?」
「“このままバックレるなら、家まで行くぞ”って言われたらしくて。とりあえず会って話せって」
海斗はスマホを取り出し、画面を見せる。そこには、後輩とのメッセージが並んでいた。
“今日の21時、◯◯パーキング裏。逃げたら家行く”
場所の名前を見た瞬間、充は眉をひそめた。いつも使っているコインパーキング。店の送迎の車を停めることもある、馴染みの場所だ。
「そこ、うちの店のすぐ近くだろ」
「そうっすね。だから余計…」
海斗はぐっと唇を噛んだ。
「俺が行っても、なめられるだけっす。あの人、俺のこと舐めてるし。前に一緒に飲んだときも、ずっと説教されて。“若いからって調子のんな”とか」
「説教で済んでんならまだマシだ」
充はぼそりと呟いた。
この街では、“説教”が暴力に変わるのに、そんなに時間はかからない。手を出しても問題にならない相手に対してなら、なおさらだ。
「…だから、その」
海斗は顔を上げた。目が、妙に切羽詰まっている。
「充さん、話つけてきてもらえませんか」
「は?」
「充さんなら、なんか…うまくやれるかなって。俺なんかより年上だし、前からこの街いるし」
「年上だからって、何でも知ってるわけじゃねえよ」
「でも、俺よりは…」
海斗の声が尻すぼみになっていく。
充は、階段の壁にもたれかかり、天井を見た。薄汚れた白いペンキの上を、蛍光灯の光がぼんやりと撫でている。隙間から入り込む街の音が、ぐしゃぐしゃのノイズになって耳に流れ込んでくる。
…堂島には近づくな。
慎一の声と、海斗の「お願いします」という声が、頭の中でぶつかり合う。
黙っていれば、自分の手は汚れない。海斗の後輩がどうなろうと、それは自己責任だと切り捨てることもできる。そうやって何度も、自分の身を守ってきた。
でも、想像してしまう。
電話の向こうで震えていた声。家に取り立てが行く。玄関のチャイムが鳴り、スーツ姿の父親が出てきて、事情も分からないまま土下座させられる。母親が泣き、近所の目が集まる。
昔、自分の家の前に、見知らぬ男が立っていたことがある。母がまだ生きていた頃。父の借金絡みで、誰かが怒鳴り込んできたのだ。玄関先で怒鳴り声がして、母が間に入って謝っていた。背丈ほどの自分は、廊下からその光景を見ていた。母の背中が小刻みに震えていた。
あの時の、消えたいような恥ずかしさと、どうしようもない恐怖を、今もまだ身体は覚えている。
「…家に行くって脅されてるなら、余計に堂島には行くなって話なんだけどな」
自分に言い聞かせるように呟く。そうだ。こういうときこそ、警察に相談するべきだ。
でも、海斗が警察に行く姿が想像できない。後輩に「警察にチクった」と責められるのを恐れている顔が、目に見えるようだった。
「充さんが行ってくれたら、話、聞いてくれると思うんすよ。俺より全然怖いし」
「褒めてねえだろ、それ」
「褒めてます」
海斗は必死の顔で言った。
「お願いします。俺…自分で招いたことだけど、ほんとに分かんなくて。どうしたらいいか」
その目を見ていると、「知らねえよ」と突き放す言葉が喉に引っかかる。
自分だって、ここまでだって、誰かに引っ張られたり突き放されたりしてきた。その中で、たまたま慎一みたいな大人に拾われた。拾われなければ、とっくにどこかに落ちていただろう。
今、目の前で助けを求めているこいつを見捨てたら、自分が受け取ったものを全部無駄にする気がした。
「…お前は行かなくていい」
充は、ゆっくりと言った。
「後輩にも、お前が何とかするって約束すんな。俺が勝手に行く。お前は何も言ってない」
「でも」
「“でも”じゃねえよ」
壁から身体を離し、階段を一段上がる。海斗の頭一つ分上から見下ろす形になる。
「自分が紹介したからって、一緒に沈む必要はねえ。お前がここで一緒に来ても、足手まといだ」
「…」
「堂島にこっちの弱み見せたら終わりだ。お前のこと、完全になめきってくる。だから、お前は余計なこと言うな。店の仕事だけしてろ」
きつい言い方だと分かっていた。でも、あえてそう言った。
本当は、自分だって怖い。堂島の顔を間近で見るのは、できれば避けたい。さっき頭の中に浮かんだ慎一の「絶対に近づくな」が、ぐるぐると回っている。
それでも、誰かが行かなければ、この話はどこまでも悪い方向に転がっていく。自分なら、まだ「話す余地」があるかもしれない。自分の身体一つと引き換えなら、何とかなるかもしれない。
甘い考えだと分かっていながら、そこに縋っている。
海斗は、しばらく充の顔を見上げていたが、やがて小さくうなずいた。
「…すみません」
「謝るなら、次からバカな紹介すんな」
「はい」
「で。そいつからのメッセージ、全部スクショしとけ。あとで消すなよ」
「え?」
「何かあったとき、証拠になる。お前のとこにも連絡きたら、録音しとけ。今どきのスマホならできんだろ」
「…そんな、本格的に」
「本格的になる前に手打ちできりゃいいけどな」
そう言いながらも、充は胸の奥に冷たいものを感じていた。本格的になったときのことを考えている自分がいる。
非常階段から室内に戻ると、店の電話が鳴った。女の笑い声がかぶさり、スマホのバイブレーションが机の上で震えている。
充は日常に戻るように、一度深呼吸をした。
このまま忘れたふりをして、いつも通り夜の仕事をして、今日を終わらせることもできる。堂島のことも、海斗の後輩のことも、「自分には関係ない」と言い聞かせればいい。
…でも、どうせ俺は、そういう器用な人間にはなれなかった。
ふと、時計を見ると、針は十九時を少し回っていた。あと二時間で、約束の時間が来る。
「充さん、八時の待ち合わせの送迎、どうします?」
スタッフの一人が声をかけてきた。女の子をピックアップしに行くための車の手配だ。
「翔太に回して。俺、ちょっと外出る」
「外出るって、上がりっすか?」
「まだだ。用事済ませたら戻る。店長にもそう言っといて」
適当な嘘を口にする自分を、少しだけ情けなく感じた。
どうせなら真正面から、「借金トラブルの話をつけに行く」と言えればいい。でも、そんなことを言えば止められる。店長には「そういうのに首突っ込むな」と散々言われてきた。慎一にだって、同じことを言われるだろう。
止められるのが怖いのか。止めてもらいたいのか。自分でも分からない。
充は、ロッカーからカーキ色のジャケットを取り出し、袖を通した。ポケットに財布とスマホと、使い古した煙草の箱を突っ込む。鍵の束が、腰の横で小さく鳴った。
ビルの階段を降りて外に出ると、夕暮れはすでに夜に溶けかけていた。空の高いところに残っていた薄い紫が、ビルの隙間に沈み、代わりにネオンの光が街を染め始めている。
歌舞伎町の入口には、いつものように派手な看板が並び、呼び込みが立っている。客引きの声と、酔っ払いの笑い声と、遠くのカラオケの音が渾然一体になって、街全体がざわざわとざわめいている。
充は、そのざわめきの中を歩きながら、スマホを取り出した。連絡先には「長谷」と登録された名前がある。
押すなら今だ、と頭のどこかが囁く。
慎一に言えば、きっと何かしらの手を打ってくれる。堂島の名前を出せば真剣に話を聞いてくれるだろう。警察として動ける範囲がどこまでか分からなくても、自分一人で行くよりはずっとマシだ。
でも、それは同時に、この街のトラブルを「警察にチクった」ことになる。海斗やその後輩が、周りから何を言われるか想像がつく。
それ以上に。
充は、彼に心配をかけたくなかった。
あの人は、いつも冷静なふりをしているが、内心ではこっちの怪我の一つ一つまで気にかける。前に喧嘩で顔を切ったときも、「大したことない」と言い張る自分を、しつこいくらい病院に連れていこうとした。
そんな相手に、「自分から危ないところに行きます」と言えるか。
「…ちっ」
舌打ちが自然に出た。自分の矛盾に、苛立ちが募る。
気づけば、足は署の方向に向かっていた。歌舞伎町から少し離れたところにある警察署。幾度となく出入りした場所だ。
玄関の自動ドアが開くと、冷たい空気と消毒液の匂いが流れ込んでくる。外のざわめきとは違う、管理された静けさがある。
受付には見慣れた事務員が座っていた。充の姿を見ると、一瞬だけ驚いたように目を瞬かせ、それから苦笑する。
「また来たの」
「または余計だろ。俺、最近は真面目に生きてんだけど」
「はいはい。長谷さん呼ぶ?」
「…いたらな」
受付の女性が電話を取る間、充はロビーのベンチに腰を下ろした。硬いプラスチックの椅子が、尻の骨に当たる。壁には「特殊詐欺に注意」「飲酒運転撲滅」といったポスターが並んでいる。綺麗事と正論の羅列。
白い蛍光灯の光は、夜のネオンとは違う冷たさを持っていた。目を細めて天井を見上げると、いくつもの照明が規則正しく並んでいる。それが、妙に窮屈に感じられる。
数分もしないうちに、廊下から足音が聞こえた。
「よ」
見慣れた声とともに姿を現したのは、制服姿の長谷慎一だった。シャツの袖を肘までまくり、ネクタイを少し緩めている。仕事の合間に抜けてきたのだろう。
「珍しい時間に来たな」
慎一はロビーの真ん中で立ち止まり、充を見下ろす。その目が、一瞬だけ全身をスキャンするように動いた。怪我はないか、どこかおかしな様子はないか。そんな確認の視線。
「なんだ。捕まったわけじゃないなら、俺の管轄じゃないぞ」
「捕まってねえよ」
充は鼻で笑い、立ち上がった。
「別件。ちょっと、顔見に来ただけ」
「顔見に来た、ね」
慎一は口元に薄い笑みを浮かべた。
「モテる男はつらいな」
「どこにそんな要素あんだよ」
くだらないやりとりが、いつもの呼吸を作る。充の中の緊張が、ほんの少しだけ緩んだ。
「で。別件ってのは」
「んー…」
喉まで出かかった言葉を、飲み込む。
ここで「後輩が借金で」と全て話してしまえば、あとは任せてしまえばいい。慎一に怒鳴られても、「堂島には行くな」とまた釘を刺されても、何度でも聞いてきた声だ。
それなのに、その先を口にする勇気が出ない。
「最近さ」
充は、わざと話題をずらすように言った。
「なんか、うちの近所で変な奴うろついてるって聞いてさ。子ども狙いのやつとか。そういうの、見つかってんのかなと思って」
「…誰情報だよ、それ」
「隣の店のババア」
「ババアは大体話盛るからな」
慎一はため息をついた。
「別に、ここらは特別治安悪いわけじゃない。ただ、お前らが働いてる界隈は、元々いろんな人間が混ざってるから、変なのも紛れ込みやすい」
「だよな」
「だからこそ、気をつけろっていつも言ってる」
慎一は、じっと充の顔を見つめた。
「お前、最近どうなんだ。ちゃんと飯食ってるか」
「親かよ」
「半分な」
一瞬だけ目が笑う。その軽さの奥に、真面目な心配が見えた。
充は視線を逸らし、受付のポスターに目をやる。振り込め詐欺の犯人像が、誰かに似ている気がして笑いそうになる。
「まあ…それなりに。夜勤は体に悪いけどな」
「夜勤が体にいい仕事なんてそうそうない」
慎一は腕を組み、少しだけ身体を傾けた。
「お前さ」
「ん」
「今日、仕事はもう終わりか」
「途中。ちょっと抜けてきただけ」
「このあと、どこ行く」
何気ないふうを装った問いかけだった。でも、その瞳の奥に、小さな警戒が灯っているのが分かる。
充は、心臓が一瞬だけ強く打つのを感じた。
「どこって」
時間を稼ぐように、笑ってみせる。
「さあ」
「さあ、じゃないだろ」
慎一は目を細めた。
「こういうときのお前は、大体ろくでもないとこに顔出してる」
「偏見だな」
「経験則だ」
軽口の応酬。その裏で、充の喉はひどく乾いていた。舌で上顎をなぞる。コーヒーが飲みたいような、何も飲みたくないような。
「…まっすぐ帰るよ。“たぶん”」
結局、彼はそう言った。
「その“たぶん”が余計だ」
慎一は眉を上げる。
「何がある」
「何もねえよ」
「あるだろ」
まっすぐな視線が射抜いてくる。嘘を見透かされているのが分かる。
ここで全部話してしまえば、どれだけ楽か。
堂島の名前を出して、「海斗の後輩が」と説明すれば、慎一は真剣に対応してくれる。その未来が、目の前に差し出されている。
それでも、口は動かなかった。
助けを求めることは、同時に、自分の無力さを認めることだ。あれだけ「自分の足で立て」と言われてきて、ここで「やっぱり一人じゃ無理でした」と言えるか。
それに、堂島の名前を出すことは、慎一を危険に巻き込むことにもなる。仕事として関わる以上、彼は現場に出る可能性がある。あの男と同じ場所に立たせることを想像すると、胃がきゅっと縮む。
「…ちょっと、知り合いとメシ行くだけ」
嘘と本当の間くらいの言葉が出る。後輩は知り合いだし、場所がメシ屋じゃないだけで。
「メシねえ」
慎一は短く息を吐いた。
「酒はほどほどにな」
「未成年じゃねえんだから、そこは自由だろ」
「酔って転んで頭打ったら、俺が報告書書かなきゃいけなくなる」
「面倒見いいな」
「仕事だよ」
そう言いつつも、その目はまだ充の様子を探っている。
「本当に、大丈夫か」
その一言に、心がぐらりと揺れた。
大丈夫じゃない。全然大丈夫じゃない。これから危ないところに行こうとしている人間の顔だと、自分でも分かっている。
「…何とかなっから」
いつもだったら、「平気だろ」と軽く笑ってごまかせる。でも、今回はその軽さが出てこない。代わりに出た言葉は、根拠のない虚勢だった。
慎一は、それを聞いてしばらく黙っていた。ほんの数秒の沈黙が、妙に長く感じられる。
「今夜、雨が降るかもしれない」
唐突に、そんなことを言った。
「帰り、足元気をつけろ」
「…天気予報かよ」
「俺の経験則だ」
そう言って、慎一はほんの少しだけ笑った。その笑いは、いつもより狭い範囲でしか表情を動かしていない。
「本当に何かあったら、すぐ電話しろ。言い訳する前にな」
「はいはい」
返事だけは軽く言う。
本当に何かあったら、そのときはもう遅いだろう、という皮肉が喉まで出かかって、飲み込んだ。
ロビーを後にし、署を出る。自動ドアが閉まる音が背後で響く。外の空気は、さっきより冷たくなっていた。遠くで救急車のサイレンが鳴っている。
空を見上げると、薄い雲が街の光を受けて鈍く光っている。星は見えない。
ポケットの中のスマホが、軽く震えた。見ると、海斗からのメッセージだ。
“あいつ、二十分くらい早く来るかもって”
時計を見る。二十時少し過ぎ。約束の時間より早い。堂島は、相手を待たせるのは好きでも、自分が待たされるのは嫌いだ。そんな話を誰かから聞いたことがある。
「…はあ」
深くため息をつき、充は歩き出した。
歌舞伎町に戻る道。ネオンの光が強くなり、街は完全に夜の顔になっている。看板の文字が色とりどりの光を放ち、人影が交錯する。
途中のコンビニの前を通りかかったとき、自動ドアの横のショーウィンドウのガラスに、自分の姿が映った。
カーキのジャケットに、黒いスキニーパンツ。目つきが悪いと言われ慣れた顔。少し伸びた前髪が額にかかり、唇の端が無意識にへの字に曲がっている。
その姿は、昔、慎一に補導されていた頃の自分と、ほとんど変わっていないように見えた。ただ、瞳の奥にあるものが少しだけ違う。諦めと、意地と、誰かを守ろうとする拙い気持ちが混ざって、濁っている。
「帰るなら今だ」
頭のどこかがそう告げた。
ここで引き返して、店に戻って、何もなかった顔で仕事に戻る。海斗には、「ごめん、やっぱり無理だった」と言う。後輩には連絡しない。
堂島と会わなければ、自分の身は守れる。慎一との約束も、ギリギリ守ったと言えなくもない。
ガラス越しに、自分の目が自分を見返す。
…本当に、それでいいのか。
あのとき、母が玄関先で見せた背中を思い出す。借金取りに頭を下げ、涙をこらえていた姿。あのとき誰かが間に入ってくれていたら、と何度も思った。
今、自分は、その「誰か」になれるかもしれない場所に立っている。
「…」
指先が、ポケットの中で震えた。スマホが小さく鳴る。海斗から、短いメッセージが届いている。
“すみません”
その文字を見て、充は目を伏せた。
帰るなら今だ。でも、今帰ったら、一生後悔する気がする。
「ったく」
自分に向かって悪態をつく。
「ほんと、バカだな」
ガラスに映った自分の口が、同じ言葉を無言で繰り返した。
足を止めていた時間は、数秒か、長くても一分か。その短い時間に、頭の中ではいくつもの選択肢が生まれては消えた。
最後に残ったのは、ただ一つ。
充は顔を上げ、コンビニのショーウィンドウから視線を外した。ポケットから煙草を取り出し、火もつけずに一本を唇に咥える。それだけで、呼吸が少しだけ整う。
そして、コインパーキングのある方角へ、歩き出した。
街の光が背中を押すように後ろから照らす。胸の奥で、嫌な予感がじっとりと広がりながらも、足は止まらなかった。
カーテンの向こうで、空がまだ決めかねている色をしていた。夜の濃さを完全には手放していないのに、黒だけではない。薄い灰色に、少しだけ青が混ざって、ビルの谷間に滲む気配がある。窓ガラスには、遠くのネオンの名残が点のまま残り、眠りの途中で置き忘れられた光みたいに瞬いていた。充はキッチンに立って、蛇口の水を細く出した。水音が静かな部屋に通っていく。流し台の金属がひやりとして、指先の温度が吸い取られる。昨夜の湯気の余韻はもうない。けれど、肌の奥にだけ温度が残っている。泡の感触が、まだ手のひらの線の間に薄く残っているような気がして、充は指を一度握り込んだ。握り込むと、指の関節が少しだけ引っ張られる。仕事で酷使した手の感覚に戻る。現実に戻る。その戻り方が、以前とは違う。以前の朝は、終わりの印だった。夜が終わる。店の光が消える。笑い声が背中から落ちる。冷たい風の中を歩いて、鍵を開けて、やっと静けさに潜り込む。朝は、逃げ込む側の時間だった。今は、出て行く側の時間になっている。出て行くのは陸斗で、充は送り出す側に残る。残る側の胸の内に、取り残される痛みがないわけではない。けれど、残ることが置いていかれることと同じではないと、ようやく体が覚え始めていた。流し台の横に置いたコップをすすぎ、乾いた布巾で拭く。布巾は柔軟剤の匂いがする。甘すぎない匂いが、生活の匂いとして落ち着いている。充はその匂いが好きになった自分に少しだけ驚く。香水の匂いのように、鎧にはならない。酒の匂いのように、胃に残らない。毎日触れても嫌にならない匂いだ。背後で、布が擦れる音がした。スーツの生地の音は、家の中では浮く。浮くのに、その浮き方がもう痛くない。充は振り向かずに、布の擦れる音がどこを動いているのかを音だけで追った。寝室から廊下へ、廊下から玄関へ。足音は大きくない。靴下のままの足音が、床を柔らかく踏んでいる。充は流し台の水を止め、手を拭いた。キッチンカウンターの上に置いてある皿を一枚ずつ片付ける。昨夜のうちに洗っておけばよかったと一瞬だけ思うが、思うだけで終わる。罪悪感の種類が変わった。できなかったことを責めるためではなく、今日はこういう段取りだった、と納得するために思う。玄関の方で、小さく金属が触れ合う音がする。
浴室の扉を開けると、熱と湿り気が一枚の膜みたいに肌へまとわりついた。照明の白さが湯気に散って、輪郭の曖昧な空間になる。外の新宿の遠音は、窓ガラスと壁の向こうで薄く擦れるだけだ。ここに入ると、街の息づかいより水の音のほうが強い。蛇口をひねる音、シャワーの粒が床に弾ける音、排水口へ流れていく音。それらが反響して、家の中の他のすべてを押しのける。充はバスチェアを少しだけずらして、床に置いたシャンプーボトルの位置を確かめた。細かい動作なのに、指先が落ち着かない。落ち着かない理由を、胸の奥でまだ言葉にしたくないまま、湯気の中に沈める。こういうとき、何かを言うより、手を動かしたほうがいい。手を動かせば、余計な感情が泡に混ざって流れていく。陸斗が後ろから入ってくる気配がした。タオルの擦れる音と、足裏が濡れた床を踏むぺたぺたした音。たったそれだけで、充の背中の筋肉が一瞬だけ強張り、すぐに緩む。硬くなるのは癖だ。守るとか守られるとか、そういう言葉がまだ肌のどこかに残っているからだ。緩むのは、今はもうそれだけじゃないと知っているからだ。洗い場の鏡に、二人の影がぼんやり映った。湯気で曇っていて、線が滲む。滲むのが助かると思った。はっきり見えると、照れが先に立つ。照れは、今さらだ。今さらなのに、まだある。なくならない。なくならないから、日常が日常のまま続く。充はシャワーを手に取り、自分の肩を流した。湯の温度が肌に当たって、今日の疲れが少しだけほどける。サロンの一日分の立ちっぱなしと、指先の細かい緊張。それが湯気の中で溶けていく。溶けていくのに、ただ眠くなるのではなく、胸の奥が静かに整っていく感じがした。陸斗は洗い場の奥で、黙って身体を流していた。余計な気配を出さないような動き方だ。昔の陸斗なら、こういう場面で何をどうしていいのか分からず、言葉を探していた。今は違う。黙り方が変わった。黙ることが、逃げではなく、相手の時間を尊重する形になっている。その変化が、充の中の何かを甘やかす。甘やかされるのが怖かった時期はもう過ぎたのに、それでも甘やかされると少しだけ胸が詰まる。充はシャンプーボトルを手に取った。押すと、透明な液が掌に落ちる。少し甘い香りが鼻先に立つ。サロンで使うものとは違う、家の匂い。
ビルの谷間を抜ける風は、相変わらず強い。ネオンの明かりが路面を濡れたみたいに光らせて、通り過ぎる人の影が流れていく。新宿は眠らない街だと、誰もが言う。眠らないことが正義みたいに、勝ちみたいに。充は昔、その正義にすがっていた。眠らないことが自分の存在の証明だと思っていた。眠らなければ、何かに負けない気がした。眠ったら、取り残される気がした。だから朝が怖かった。今夜の新宿は同じ景色なのに、見え方が違う。ネオンの明かりは眩しいままなのに、目が痛くない。笑い声は遠いのに、背中を押してこない。どこかの店の外で、誰かが大声で名前を呼んでいる。その声が、以前は自分の首根っこを掴むように聞こえた。呼ばれたら、戻らなければいけない気がした。今はただの声だ。街の一部だ。自分を決めない。充は歩幅を急がせない。足の裏に残る疲れを、そのまま受け取る。夜の仕事を選んでいた頃は、疲れを感じないふりをするのが癖だった。感じた瞬間に、折れそうで。折れたら終わりで。終わりは、食べていけないことだと信じていた。けれど今の疲れは、違う種類のものだった。サロンで一日立って、指先を細かく動かして、緊張を保ったあとに、今夜はほんの少しだけ別の自分を遊ばせた。身体は正直に重さを返してくる。それが嫌じゃない。疲れが、生活の中に収まっている。収まる枠がある。コンビニの光が角を曲がったところで、四角く浮かんでいた。自動ドアが開くたびに、温い空気と揚げ物の匂いが漏れ出してくる。充は吸い寄せられるように入って、ペットボトルの水を一本手に取った。冷蔵ケースの冷気が指に当たる。レジに並ぶ人の顔は眠そうなのに、誰もがどこかでまだ夜を引きずっている。会計を済ませて外に出ると、街は少しだけ静かになっていた。始発前の時間帯に近づくと、騒がしい新宿にも隙間ができる。隙間の空気は冷たくて、やけに現実的だ。ビルの間を走る車の音が遠く、足元の自分の靴音が目立つ。靴音を聞きながら、充は古い外階段の軋みを思い出す。三階まで上がるたびに、手すりの冷たさと、息の重さと、鍵穴に鍵を差し込む指のもたつきがあった。あの頃は、帰宅の音が生存確認だった。鍵が回る音が、自分がまだ折れていないことの証拠だった。今は、鍵の音が帰還になる。帰るという行
夜の支度を始める前に、充は一度だけ、洗面所の鏡に映る自分の顔を眺めた。サロン帰りの髪は、まだシャンプーの匂いが薄く残っていて、指で梳くと湿り気が落ち着いていく。手の甲は乾燥して、指先のささくれが小さく引っかかった。仕事の証拠だ。以前ならその証拠に苛立ったかもしれない。爪の形や、手の荒れは、夜の自分を裏切るから。けれど今は違う。荒れていても、戻れる場所がある。荒れた手で触れる髪がある。リビングの方から、生活の音が聞こえた。何か紙をめくる音、ペンが机に当たる小さな音。充はその音を背中で受け止めながら、息を吸う。胸の奥がざわつかないことを確かめるように。ドアの隙間から見える室内の明かりは、柔らかい。新宿の夜に出ていくときの明かりは、いつも派手で、いつも過剰だ。それに慣れすぎた過去があるから、今の家の明かりが静かに見える。静かでも薄くはない。むしろ、逃げ込むための暗さではなく、戻るための明るさだった。充は玄関の棚の方へ目を向けた。写真立ての中の慎一の笑い方は、相変わらず少しだけ照れくさそうで、視線を合わせると自分の方が逸らしたくなる。充は靴を履きながら、写真に頭を下げるようなことはしない。祈りではなく、確認だ。今日の夜を、自分で選ぶという確認。スマホが震えた。楓からの短いメッセージが画面に出る。「今、店前。早く来い」短さが、楓らしい。湿っぽさがない。気を遣っているのに、気を遣っていると見せない。充は指先で返事を打ち、送信して、スマホをポケットに入れた。「行ってくる」リビングの方へ声を投げると、紙の音が止まった。「気をつけて」返事はそれだけだった。追いかけてはこない。止めもしない。許可をもらっている感覚もない。だからこそ、充は自分の足で玄関を出られる。外に出ると、新宿の夜はすぐに顔に貼りついた。空気に混じる排気の匂い、誰かの香水、揚げ物の油、ビルの隙間から漏れる店内の音。足元のコンクリートが昼の熱をまだ少し残していて、靴裏からじわりと伝わる。昔はその熱が、自分の中の焦りと同じ温度だった。早く稼がないといけない。早く馴染まないといけない。早く笑えないといけない。今は違う。熱は、ただの夜の温度だ。
リビングの窓から入る光は、午前のわりにまだ柔らかく、カーテンの織り目を透かして床に薄い影を落としていた。新宿の高い建物の影が、時間帯によっては部屋の明るさをゆっくり調整する。外では車の音が途切れず、遠くの工事の金属音が、天気のいい日ほど乾いた響きで混じる。それでも室内は静かで、静かさの中心にあるのは、二人が同じ空気を吸っているという当たり前だった。ローテーブルの端に、分厚い法律書が積まれている。背表紙の角は手垢で少し丸くなり、付箋の色が何層にも重なって、ページの波打ちが外からでも分かる。その隣に、映画のDVDが二、三枚、雑に重ねられていた。ケースの透明なプラスチックには細かな擦り傷があり、タイトルの文字が光に反射して瞬く。さらにその隣には、充のヘアカタログが開きっぱなしで置かれている。モデルの髪は艶やかで、ページの匂いはインクと紙の甘さが混じって、法令集の乾いた匂いとは別の温度を持っていた。シザーケースは、充が家に帰ると必ず置く場所が決まっている。玄関に置きっぱなしにするほど無頓着ではないが、几帳面にしまい込むほどの余裕もない。革のケースがテーブルの角に触れ、控えめな重さでそこにいる。金属のハサミの冷たさは、触れると今でも少しだけ背筋を伸ばさせる。客の髪に触れるときの緊張感が、家の中までついてくるのではなく、家に入ったところでふっと外れる。その外れ方が、昔と違う。充はキッチンで皿を拭いていた。朝食の皿と、マグカップ二つ。拭き上げるたびに陶器が乾いた音を返す。タオルは少し古く、洗剤の匂いが染みついているが、嫌な匂いではない。生活の匂いだ。充はそれを嗅ぐたびに、ここが現場ではなく家だと分かる。ローテーブル側では、陸斗がスマホと通帳を並べていた。スマホの画面をタップする指先の軽い音が、部屋の静けさの中で規則正しく聞こえる。スーツではなく、部屋着の薄いシャツ姿だ。それでも肩の角度は仕事の癖を残していて、背中が自然に真っ直ぐになる。充は皿を拭きながら、ローテーブルの上の混ざり具合を眺めた。きっちり揃っていたら、逆に落ち着かない気がする。昔の自分なら、散らかった部屋を見て苛立っていただろう。苛立って、声を荒らげる代わりに黙って片づけて、相手に「何も言わない」ことで圧をかけていた。今は、散らかり
玄関の照明は、夜の名残りみたいに薄く点いていた。新宿の遠い車の音が、窓ガラスの向こうで絶えず流れている。冷えた廊下の空気に、昨夜の湯気がわずかに残っていて、洗濯洗剤の匂いと混ざり合い、家という箱の中の呼吸を作っていた。玄関脇の棚は、最初からここにあったみたいに馴染んでいる。木目の浅い棚板の上に、三つのものが並んでいた。額縁に入った長谷慎一の写真。一足だけ残った、昔のReina時代のピンヒール。細いヒールの金具が、光を拾う。隣には、紺のネクタイがきれいに折られ、落ち着いた線を引いていた。この三つが同じ場所にあることに、充は今でもときどき息を忘れる。何かを飾ったというより、置く場所が決まっただけなのに。過去がまだ痛むことと、痛みをしまい込めることは、同時に起こるらしい。どちらか一方だけになれなかった時間が、棚の上では不思議なくらい静かに並んでいる。廊下の奥から、布が擦れる音がした。スーツの肩が動く音。靴下越しに床を踏む足音が、慎重に近づく。充はキッチンの流し台で手を拭きながら、振り向かずに耳だけを向けた。昔のぼろいアパートでは、外階段の軋みと鍵穴に差し込む金属音で生存を確かめていた。今は、室内の音が柔らかく続いて、同じ家にいることを当たり前みたいに教えてくる。陸斗が廊下に出てきた。スーツの色が、玄関の薄い灯りの中で黒に沈みすぎず、深い紺に見える。肩のラインが以前より硬い。いや、硬いというより、形が決まっている。背中の布の張りが、仕事に向かう人間のものになっている。充はその背中を見るたび、胸の底のどこかが小さく落ち着くのを感じる。寂しさではなく、確認に近い。ここまで来た、という確認だ。陸斗はもう、学生でも修習生でもない。弁護士の肩書きが現実の重さを持つようになって久しい。けれど、玄関で靴紐を結ぶときだけは、昔の癖が残る。片方の靴に指が触れたまま一瞬止まり、息を整えるように首を傾ける。陸斗は棚の方へ視線を置いた。祈るような角度ではない。写真の前で手を合わせるわけでもない。ただ、そこに目を置く。呼吸の置き場として。迷いがある日も、腹を括る日も、その仕草は変わらない。充は拭いた手をもう一度タオルで押さえ、冷蔵庫の上に置いていた郵便物をまとめて持った。封筒の角が指
段ボールの山は、引っ越しの熱をまだ吐ききれずに、部屋の隅々で紙の匂いを立てていた。新品の壁紙は無臭で、だからこそテープの粘着剤と埃と汗の混じった匂いが、どこにも逃げずに浮かんでいる。仮につけた照明の白さが、床に落ちた影の輪郭をくっきりと削り出し、影だけが必要以上に濃い。窓の外からは、新宿の車の遠い音が途切れずに流れてくる。救急車ではない、誰かの生活が動いているだけの音。タイヤの擦れる湿った低音が、ガラス越しに薄く震え、しばらくして消える。その繰り返しが、部屋の静けさを逆に際立たせていた。充は床に座ったまま、掌の汗が冷えるのを感じていた。膝の上に置いた手が、どこか他人のものみたいに重い。背中
お前ら二人。心配ばっかしてた。夜の仕事なんかさせたくない。自分を嫌いになりすぎないように。それらが整然と並んでいることが、逆に怖かった。文字にした瞬間、言葉は逃げなくなる。逃げない言葉は、胸の奥に刺さる。陸斗は画面を閉じようとして、指が止まった。信号が青になるまでの数秒が、やけに長い。胸の奥で、別の台詞が勝手に再生される。あの夜明け前、湿布の匂いが部屋に残っていた時間。自分の声が、思っていたより低くて、思っていたより震えていたことまで、体が覚えている。「守られるだけの子どもじゃ、もういられない
カレンダーの紙は、いつの間にか二枚先までめくれていた。冷蔵庫の扉にマグネットで留められたそれは、角が少し丸まり、赤ペンで囲われた丸印がいくつも重なっている。給料日、イベントの日、そして何も書かれていないはずの平日にも、ところどころ小さく「ヘルプ」と書き込まれていた。「みっこ」の名前が並ぶシフト表は、そのカレンダーのすぐ横、Reinaのバックヤードの壁に貼られている。ホワイトボードにペンで埋められたマス目は、今月に限って、やけに黒い印が多かった。「アンタ、今月入りすぎじゃない?」楓の声が、背後から飛んでくる。シフト表の前に立っ
ビルの前まで桐生を見送っていったタクシーのテールランプが、角を曲がって完全に視界から消える。エンジン音が遠ざかるにつれて、さっきまで張り詰めていた裏路地の空気が、じわじわとしぼんでいった。楓が、肩にかけていたカーディガンを直しながら、二人を順番に見た。「今日はもう、素直に帰りなさいよ」「腕、ちゃんと冷やしとけよ。明日絶対痛くなるから」佐伯も、軽く笑ってはいるけれど、その目つきはいつになく真面目だ。「はい…すみません」陸斗が小さく頭を下げると、楓は「謝るのはうちらの方な