LOGIN学会の控室には、新品の紙コップと、落ち着かない空気が積み重なっていた。
朝比奈ひなたは腰掛けたソファの端で、講演スライドの最終チェックをしていた。タイトルは「共有状態の再現性について」。ページの片隅には、研究室の学生が描いたハムスターの落書きがある。緊張すると、どうしてもこの落書きに目が行く。ハムスターは、いつも通り笑っていた。 会場係のノックが鳴り、扉が少しだけ開く。 「朝比奈先生、時間になりましたらお呼びします。あと、共同セッションの方が……」 「はい、ありがとうございます」 ひなたは反射的に立ち上がってしまい、すぐに腰を下ろした。立って待つのは、逃げたい人の癖だ。逃げる必要はない。論文は通っている。査読も通っている。心拍も——平静、のはず。 紙コップの縁に口をつけ、ぬるい水の温度で落ち着こうとした瞬間、空調の流れが、控室の匂いを少しだけ運んできた。 整った紙と、薄い化粧品、それから、かすかな柑橘。 ひなたの指が止まる。柑橘の同じ列に、何か別の分子の影。鼻腔の一番奥で、説明しづらい「惹き」の電流が微かに跳ねた。 コンコン。もう一度、扉が鳴る。 「失礼します。共同セッションの灯川さん、こちらの控室で合流で——」 係の言葉を追い越すように、柔らかい靴音が一歩、二歩。 ひなたは視線を上げる。 そこに立っていたのは、来賓バッジを胸に、軽く会釈をする女性だった。白いシャツの襟元に、目立たない銀のピン。笑うと、目尻がきれいに折れる。 「灯川ユナと申します。ご挨拶、遅くなりました」 名乗りに合わせて、柑橘は輪郭をはっきりさせる。 ひなたの喉の奥で、水の温度が途端にわからなくなった。 どこかで、聞いた名前。どこかで、見た字面。紙の上に残っていた圧の強いインク。だが、何年も前の細い糸は指にかからず、ひなたは、控室の空気ごと一度飲み込む。 「朝比奈ひなたです。こちらこそ、どうぞよろしく」 笑顔は練習した形で出せる。研究者は、笑い方も訓練する。 しかし、呼気の最後にわずかに混ざった乱れを、ひなたは聞いた。たぶん彼女も、聞いただろう。 ユナは控室の奥、テーブルの斜め向かいに座り、名刺を差し出す。 名刺は分厚い紙で、手のひらの熱を拾う。角がすこしだけ丸い紙だった。 灯川ユナ。大学のロゴ。所属。肩書きは、分析ラボのフェロー。 ひなたは肩書きの右隣に小さく記された文字を見つける。「フェロモン動態解析」。 視界の隅で、ハムスターが走った気がした。 「急な共同セッションになってしまって。時間配分、大丈夫ですか?」 「はい。質疑は、きっと活発でしょうけど」 会話は、出だしで少し跳ね、すぐに整う。 ユナは紙コップの水を口に含み、目線を下げる。その視線が上がるまでの一拍が、長い。ひなたはその一拍の意味に、名前をつけられない。視線が会えば、それだけで何かが移動したような錯覚が起きる。教室で、最後列に座る学生と目が合った瞬間の、あの小さな重力。 「先生の“共有状態”の定義、今日の配布資料にも引用がありますよね」 「ええ。簡易版ですが」 「好きです、あの定義。観測で壊れない“共有”を目指している点」 好きです、の一言が、意図より少し深い位置に沈む。 好き、までなら一般的。ですが、とか、特に、で逃げられる。 好きです、は——ひなたの体内で別のメトロノームを鳴らす。 ひなたは首の後ろを指で押さえ、笑ってみせる。 「評価はレビューに任せています。私はただ、再現できるかどうか、だけを」 「再現、その言葉にいつも救われます」 ユナの笑顔の形は落ち着いていて、年齢の線の出方が、ひなたと同じくらいになっていた。あのとき最後列にいた学生を、ひなたは知っている。だが、控室の空気は、昔話に向かいそうで向かわない。 係の声が軽く挟まる。「五分前です」 時間は、二人の間の薄紙をめくるように進む。 ひなたはタブレットを閉じ、マーカーをペンケースに戻した。 蓋を閉める音が、少し大きい。自分の耳には、いつも大きい。 「灯川さん、今日の発表のキーワードは?」 「香り、です」 ユナは少しだけ肩をすくめ、控室の空気を吸う。 「正確には、香りに似た“合図”。人が人を選ぶ瞬間に、どうしても残ってしまう気配。測れるものと、測れないものの間にある薄い膜を、どれくらい揺らせるか」 「……それ、再現できますか?」 「試みます。先生の定義を、実装する側の話として」 香り。合図。 ひなたは自分の呼吸を一度数え直した。 柑橘は、もう控室の背景になっている。代わりに、紙とインクの匂いが前に出てきて、鼻腔の上に落ちる。ユナの名刺の角が、まだ手のひらで温かい。 名刺の文字列はどこかで見た。そう、見たのだ。ひなたの研究ノートの余白に、似た線の圧で書かれた誰かの一文。あの一文——何だったか。 記憶は輪郭だけで、中心が抜けている。 時計の針が動き、控室の扉が再びノックされた。「そろそろ、お願いします」 「はい」 立ち上がろうとしたひなたの肩に、ユナの視線が触れる。 触れた、だけだ。何も起きていない。 それでも、胸の内側で何かが、さっきよりも整って脈を打つ。 「先生、講演、楽しみにしています」 「あなたのも」 廊下へ出ると、カーペットの柔らかさが、靴底を半歩分だけ深く受け止めた。 会場に近づくほど、人の声が重なり、空気の温度は上がる。 その温度の中に、ユナの呼気が混ざると、ひなたの胸の拍が一段だけ上がる。 それをデータに残すかどうか迷っているうちに、ステージ袖が見えた。 司会の声が響く。「次のセッションは——」 ライトの熱が遠くから押してくる。 ひなたはステージの縁を確認し、マイクのバッテリーを一瞥し、スライドの最初のページを頭の中でめくる。 ユナは少し離れた位置で、視線を斜め下に落とし、呼気を整えた。 ひなたがその横顔を見たとき、わずかな既視感が、目の裏側で点いた。 最後列。笑うひと。柑橘。紙に残る圧の強いインク。 舞台に出る。拍手の最初の波が、手前から、奥へ。 ひなたは最初のスライドを映し、話し始める。 「共有状態の再現性について。本日の議論は——」 語尾が、いつもより少し柔らかい。 視界の端で、ユナが頷く。 ひなたの言葉が、会場の空気に混ざり、広がり、戻ってくる。その戻ってきた温度を、ひなたは自分の胸で測る。 質疑の時間。 最前列の研究者が手を挙げ、「観測で状態が変わるなら、再現性は幻想では?」と問う。 ひなたは答える。「幻想を含めて、再現したいのです。人が人に触れるときに立ち上がる状態ごと、再現したい」 もう一つ、手が上がる。 ユナだった。肩書きは読み上げられない。 「共有の定義の中で、観測者と被観測者の区別を、あえて曖昧にしている理由は?」 会場が少しざわめく。 ひなたは、一瞬だけ目を閉じる。 「曖昧なほうが、実際の現場に近いからです。私たちは、見ながら見られています。だから、出入り口は一つではない」 答えている間、ユナの眼差しは波を立てなかった。静かな水面みたいに、光だけを受けていた。 拍手。セッションは終わり、ひなたは袖へ戻る。 ライトの余熱が遅れて肌に届く。 ユナが控室へ向かう廊下の途中で立ち止まり、ひなたを振り返る。 「先生の答え、好きでした」 好き、がまた沈む。 ひなたは、笑って頷くしかできない。言葉は、舞台の上で全部使ってしまった。 控室に戻る。 テーブルの上に名刺が二枚。ひなたのと、ユナの。 紙コップの水は減っていない。 空調の音が一定のリズムを刻み、控室は、さっきより広く見える。 ひなたは名刺の文字を指でなぞる。灯川ユナ。 その名前が紙の上にあることに、安堵する。 名刺が目の前にあるなら、これは、ただの仕事の段取り。そう言い聞かせるには充分だ。 ノック。 「失礼します。先生方、レセプションのご案内です」 「すぐ行きます」 返事をして、ひなたは立ち上がる。 スマホが震え、研究仲間からのメッセージがポップアップする。「良かった」「あの定義、使わせて」「データ、後で共有して」 ひなたは短く返信する。「ありがとう。資料、送ります」 送信の音が、ひどく軽い。 廊下へ出ると、さっきより人が増え、会場の匂いは混ざっていた。 柑橘は、薄くなった。替わりに、金属の匂い。 遠くでユナの笑い声がした。 振り向きはしない。振り向いたら、何かが変わる気がした。 ただ、歩幅を半歩だけ整える。 足音は二人分。距離は、数メートル。 その数メートルが、妙にちょうどいい。 レセプション会場に入ると、グラスの触れる音が絶え間なく生まれては消え、キッチンから温かい香りがやってくる。 ひなたはグラスを受け取り、炭酸の泡を見つめる。泡はすぐに消えるが、舌の上にはしばらく残る。 ユナが横に来る。自然な距離。名前を呼ぶには近すぎて、名乗らずに済ませるには遠すぎる。 「先生、ひとつだけ聞いていいですか」 「どうぞ」 「再現したいのは、状態ですか。人ですか」 泡が一つ、舌で弾ける。 ひなたは、答えを探す。 状態、と言えば、何かを守れる。 人、と言えば、何かを壊せる。 どちらにしても、嘘になる気がした。 「——共有の立ち上がり、です」 ギリギリで、ひなたは言葉を見つける。 「その、はじまり方を、できるだけ正確に」 ユナは、少しだけ笑って頷き、グラスを軽く傾けた。 乾杯ではない。合図、なのだと思う。 レセプションの照明が低くなり、司会の声がいくつかの賞を読み上げる。 拍手の波が、今度は向こうからこちらへ押し寄せる。 ひなたは、音の中で呼吸を数え、泡の弾けるタイミングと同期させる。 同期は、簡単だ。 共有は——むずかしい。 その違いが、今夜ははっきりとわかった。 帰り際、ユナが手を振る。 「また、今度。データ、楽しみにしています」 「はい。こちらこそ」 歩き出すと、カーペットが足音を吸い、扉が静かに閉まる。 柑橘は、ほとんど消えていた。 代わりに、紙とインクの匂い。名刺の匂い。 ひなたは胸ポケットを軽く押さえる。そこに紙があるだけで、今日の出来事は無事に名前を持てる。 ポケットの紙は、ほんの少し角が丸い。 柔らかく使われた証拠。 その角が、ひなたの指に触れたとき——胸の拍が、静かに、ひとつだけ上がる。 理由は、まだいらない。 理由は、きっと、後から来る。 ⸻ 夜の外気に触れた瞬間、スマホが震えた。 研究室のグループチャット。 「先生、控室に質問票の束が置きっぱなしでした。誰かの一枚、面白いです」 添付の写真に、短い手書きが見えた。 丸い字。少し強い筆圧。 ——愛の理論化は、可能だと思います。 でもそれを信じる人が必要です。 既視感が、ようやく中心を持った。 ひなたは歩みを止め、写真を拡大し、指先で文字の縁をなぞる。 名刺の匂いが、その瞬間だけ柑橘に戻る。 胸の拍は、落ち着いている。 落ち着いているのに、どこかで鳴っている。 フェロモンが鳴る、という言い方を、ひなたは研究者として避けてきたひなたが消えたのは、午後二時三十七分だった。 その時刻が正確にわかるのは、家中にある十七台の観測機器が、ほぼ同時にエラーを吐いたからだ。昨日から続く情動共鳴光の解析中、ひなたはリビング中央に設置した簡易観測装置の前で腕を組んでいた。世界中で発生している光とYH-Modelの波形を比較するため、朝からずっとデータを眺めている。 ユナはソファでノートパソコンを開き、その横顔を眺めていた。「先生」「なに」「眉間」「眉間?」「今日ずっと難しい」「顔の話?」「顔の話」 ひなたは無視してモニターへ戻った。画面には二本の波形が重なっている。一つは世界各地で観測された情動共鳴光。もう一つは、自分たちのBond Overflow。形はよく似ている。けれど、同じではない。「世界中の発光現象に、YH-Modelと共通する周期がある」「へぇ」「ただし振幅は極端に小さい。昨日見た通り、フェロモンを介さない例もあるし、対象がその場に存在しないケースもある」「うん」「つまり――」「先生」「なに」「私、たぶん今、論文の査読者みたいな顔してないよ」「聞いて」「聞いてるよ。半分くらい」「半分」 ひなたが振り返る。その瞬間、装置のランプが一つ光った。 ユナが指を差す。「先生、今の」「見た」 二人とも黙った。もう一度、光る。今度は二つ、その次には四つ。「増えてない?」「増えてる」 ひなたが操作盤へ手を伸ばす。装置は昨日から各地の情動共鳴光を受信しているだけで、こちらから何かを送信する設定にはしていない。そのはずだった。 画面右上の数値が、ゆっくりと上がり始める。 12、19、34、68。「先生」「待って」「待ってる場合?」「原因を切り分ける」 ひなたが接続を一つずつ解除していく。東京、ソウル、台北、パリ。通信先を落としても数値は下がらず、むしろ規則正しく上昇を続けた。 ユナがソファから立つ。「これ、前にも見たことない?」「どれ」「先生が焦って、機械が言うこと聞かなくなって、そのあと大体すごいことになるやつ」「そんな分類はない」「シリーズ化してるよ」「してない」 数値が137を示したところで、モニターの端に警告表示が浮かんだ。《YH-Model:外部共鳴を検出》 ひなたの手が止まる。「外部?」「世界から?」
最初に光ったのは、名前も知らない二人だった。 午前七時十二分。都内の駅ホームを映す定点カメラの映像に、並んで立つ二人の輪郭が淡く浮かんだ。 電車を待ちながら片方が眠そうに欠伸をし、もう片方が肩へ頭を預ける。その瞬間、二人の周囲だけ空気の明度が上がり、薄い桃色の光が数秒ほど残った。 映像はすぐにSNSへ転載された。《これ何?》《加工?》《朝から発光してる》《またYH-Model?》《恋人が光ってるんだけど》 最後の投稿から、状況が変わった。 同じような映像が、別の街から上がり始めた。 コンビニの前で缶コーヒーを渡す二人。横断歩道で手をつなぐ二人。病院の待合室で、眠る相手の肩へ上着をかける人。長い信号待ちのあいだに何かを話して笑った夫婦。そのどれにも、輪郭に沿うような淡い光が映っていた。 光の強さも、色も一定ではない。 白に近いものもあれば、桃色に見えるものもあり、ほとんど透明に近い揺らぎしか残さないものもある。 共通しているのは、二人のあいだで何かが行き来した瞬間に発生していることだった。 ひなたは朝食の途中で箸を止め、リビングのモニターに並ぶ映像を見ていた。 昨夜までなら、ユナが書いていた小説の文章が現実へ干渉し始めた可能性をまず疑っただろう。文字列と現象発生地点の相関、公開時間との一致、YH-Model波形との同期。調べる項目はいくらでもある。 けれど今朝、画面の中で光っているのはユナでも、自分でもなかった。「先生」 ユナがパンをちぎりながら言う。「世界、光ってるね」「見えてる」「きれい」「まだ原因はわかってない」「先生、こういうとき絶対それ言うよね」「わからないものを、わかったことにしたくないから」「でも、愛っぽい」「その分類が一番危ないんだよ」 そう答えながら、ひなたは映像を拡大する。 画面の右側には、世界各地から送られてきた観測値が並んでいる。 フェロモン濃度は上昇しているが、Bond Overflowほどではない。心拍同期率も個人差が大きく、αとΩだけに限定されているわけでもなかった。β同士の夫婦、番登録をしていない恋人、親子と思われる組み合わせまで、弱い発光反応が確認されている。 YH-Modelのコピーではない。 それだけは、すぐにわかった。「先生、これ」 ユナが画面の一つを指す。
講義から帰ると、ユナはすぐに自分の部屋へ籠もった。 浜田山の家の二階、壁一面に本と資料が並び、百合小説の帯やイベントでもらったポストカードがところどころに挟まれている創作スペース。窓際の机にはノートパソコンと小さなキーボードが置かれ、その横には昨夜の停電で使ったものとは別の、小さなアロマキャンドルがまだ蓋を閉じたまま残っていた。 ひなたはリビングで論文の修正をしていたが、二階から聞こえる一定の打鍵音が、いつの間にか意識の端へ入り込んでいることに気づいた。 カタカタ、と軽い音が続き、ときどき止まる。 数秒の沈黙のあと、また始まる。 研究室で聞くキーボードの音とは少し違った。研究者が文章を書くときは、たいてい既に頭の中にあるものを正確な形へ落とすために指を動かす。ユナの音はもっと不規則で、考えながら書いているというより、どこかから来たものを追いかけながら文字にしているように聞こえた。 ひなたはタブレットの画面を一度閉じる。 自分でも理由はよくわからなかった。「何書いてるの」 二階へ上がり、半分開いていた扉から声をかけると、ユナは振り向かずに答えた。「小説」「それは見ればわかる」「じゃあ聞かなくてよかったじゃん」「内容を聞いてるの」「先生の話」 指が止まった。「私?」「うん」「許可取った?」「今取ってる」「事後申請だよね」「まだ公開してないから事前」 ユナはそう言って、ようやく振り向いた。 画面の白い光が横顔に当たり、琥珀色の瞳の縁だけが少し明るく見える。ひなたは机の横まで歩き、画面を覗き込もうとして、ユナがノートパソコンを少しだけ手前へ引いた。「見せないの?」「まだ途中」「私の話なのに」「だから途中で見せたくない」「研究対象本人には開示義務が」「小説にはないです」 ユナは笑い、またキーボードへ向き直った。 ひなたはその背中をしばらく見たあと、部屋の中にある小さなソファへ腰を下ろした。帰るつもりだったのに、そのまま残ったのは、たぶん好奇心だった。 少なくとも、研究者としてはそういうことにしておいた。 画面に並んでいる文章は、距離のせいで完全には読めない。 ただ、一行だけ見えた。 ――彼女は、何度でも同じ人を選んだ。 ひなたは少しだけ眉を寄せる。「今日の講義?」「ちょっとだけ」「そのまま使って
翌朝、電気は戻っていた。 目を覚ましたひなたが最初に気づいたのは、カーテンの隙間から入る光ではなく、冷蔵庫の低い駆動音だった。一定の間隔で小さく震えるその音が、昨夜にはなかった生活の輪郭を部屋へ戻している。空調も動き、壁際のモニターには待機画面が浮かび、止まっていた機械たちが何事もなかったように自分の役割へ戻っていた。 テーブルの上には、短くなった蝋燭が残っている。 白い蝋が側面を伝ったまま固まり、昨夜そこに火があったことだけを静かに残していた。 ひなたはソファを見る。 ユナはまだ眠っていた。 毛布を肩まで引き上げ、片方の手だけが外へ出ている。昨夜、何度も握った手。明るい朝の中で見ると、それは特別なものには見えない。指も、爪も、手のひらも、ただ一人の人間の身体だった。 それでも、ひなたはその手を見た瞬間、昨夜の暗闇を思い出した。 計測器が止まり、数値が消え、何も証明できなくなった部屋で、それでも離したくないと思ったこと。 その意志がどの神経から生まれたのかも、どのホルモンが関係していたのかも、結局ひなたは測らなかった。 モニターが小さく起動音を鳴らす。 ひなたは反射的にそちらを見る。《システム復旧》《通信状態:正常》《YH-Model観測:再開可能》 最後の一行で、少しだけ笑った。 再開可能。 昨日までなら、その表示を見た瞬間に計測を始めていただろう。 心拍を取り、フェロモン濃度を確認し、停電前後の変化を比較する。研究者として、それは自然な行動だった。 けれど、今朝はすぐに触れなかった。「先生」 背後から、眠そうな声がする。 振り向くと、ユナが毛布の中から顔だけ出していた。「起きた?」「うん。電気、戻ったね」「戻った」「サーバーは?」「たぶん復旧してる」「愛も?」「それは止まってない」 言ってから、ひなたは少しだけ黙った。 ユナも一拍遅れて笑った。「先生、今の自然だった」「何が」「愛」「言った?」「言ったよ」「……寝起きだから」「私は起きてるよ」「そういう意味じゃない」 ユナが毛布の中で肩を揺らす。 モニターの隅で心拍数の表示が立ち上がる。 ひなたの数字が少し上がり、遅れてユナの数字も動いた。「戻ってる」 ユナが言う。「何が?」「数字」「そうだね」「昨日より安心する?
世界は停止し、愛だけが正常に動いていた。 ひなたがそんなことを考えてから、どれくらい経ったのだろう。 壁際のモニターは電源を落としたまま黒い画面をこちらへ向け、スマホの通信表示は圏外と接続を行ったり来たりしている。学会もSNSも、今ごろ復旧作業に追われているはずなのに、そこから切り離されたリビングだけは妙に静かで、昼間まで世界中を騒がせていたYH-Modelの中心とは思えないほど、いつもの夜に戻りかけていた。 ひなたは、ユナの手を握ったままだった。 接触すると復旧が延びる可能性がある。数分前、自分でそう言ったはずなのに、手を離そうとは思わなかった。掌から伝わる体温は、計測器に表示される皮膚表面温度より曖昧で、どこまでが自分の熱で、どこからがユナの熱なのかもわからない。それでも指の重なりに意識を向けるたび、そこだけが周囲より少し温かく感じられた。「先生、まだ手つないでるね」「知ってる」「サーバー、大丈夫かな」「確認できないから、今は考えないことにする」「先生が考えないことってあるの?」「私だって諦めることくらいあるよ」「成長したね」「……失礼だね」 ユナが笑い、その小さな呼気が静かな部屋の空気を揺らした。 いつもなら、笑顔ひとつで心拍センサーが数字を変え、フェロモン検出器が反応し、モニターのどこかに警告が出る。自分が何を感じるより先に、機械のほうが変化を見つけることさえあった。 今は何も表示されていないが、何も起きていないわけではない。 胸の奥では、さっきより少しだけ速くなったような拍が続いている。それが本当に変化したのか、意識を向けたから大きく感じるだけなのかはわからない。確かめようと思えば、手首に指を当てて数えることもできる。それでもひなたはそうせず、暗いモニターへ視線を向けた。 黒い画面には、並んで座る二人の輪郭がかすかに映っていた。 世界平均心拍数も、感情同期率も、∞の記号もなく、観測するための画面に観測していた自分自身が映り込んでいる。その構図にどこか覚えがある気がして、ひなたは少しだけ目を細めた。 観る行為が、対象のふるまいを変える。 ずっと昔、大学の講堂で黒板の脇に書いた言葉が、記憶の奥からゆっくり浮かび上がる。 あの頃の自分は、愛を観測するつもりでいた。測って、説明して、再現できる形にするつもりだったのに、
朝七時、世界はまだ復旧していなかった。 正確には、夜中に一度だけ復旧し、その五分後にまた落ちたらしい。 ひなたはリビングのモニターに表示されたエラー画面を見つめ、無言でコーヒーを飲んでいた。画面の中央には、赤い文字が一行だけ浮かんでいる。《接続できません》 その下に、小さく追記されていた。《原因:アクセス集中、および未確認のフェロモン干渉》「未確認じゃない」 ひなたが低く言う。「確認済みだよね」 ユナはソファで毛布にくるまりながら、スマホの画面を下へ滑らせる。「私たちです」「名乗り出なくていい」 昨夜公開されたYH-Model論文は、学会サーバーを三度落とした。その後、論文の断片がSNSへ流れ、今度はSNS側が落ちた。 学会とSNSが同時に停止。 原因は、論文へのアクセス集中。 そして、アクセスした人々の感情同期によって発生した、世界規模のフェロモン波だった。「先生、みんな論文読んで興奮しすぎたんだね」「学術的興奮とフェロモン放出を同列に扱わないで」「でも測定値は同じ方向」「そこが嫌なんだよ」 ひなたはモニター横の計測器を確認する。 世界平均心拍数、上昇。 フェロモン検出量、上昇。 通信負荷、限界値超過。 感情同期率、計測不能。 最下段に、見覚えのある記号が出ていた。 ∞。「先生」「見えてる」「愛が通信容量を超えました」「そんな公式発表は出させない」⸻ 午前八時、昨日と同じく香坂から電話が来た。『朝比奈先生、緊急事態です』「でしょうね」『学会の内部回線も落ちました』「内部回線は外部アクセスと別系統では?」『別系統です』「じゃあ、なんで」『研究者が全員、同じタイミングで論文を保存しようとしました』「研究者として恥ずかしくないんですか」『保存できなかった者から泣いています』「感情の報告はいりません」 通話の向こうで、誰かが叫ぶ。『復旧した!』『アクセスするな!』『誰だ、今開いたの!』『図表だけ! 図表だけ見せて!』 数秒後、通話が切れた。 ひなたはスマホを耳から離し、画面を見つめる。《通信が切断されました》「学会、楽しそう」 ユナが言う。「地獄の見方が明るい」「だって、論文を読みたくて喧嘩してるんでしょ」「知性が負荷になってる」 その瞬間、リビングの照明が