ANMELDENひとしきり吐き戻して、喉の震えも、耐えがたい吐き気もおさまって。
持ってきてもらった水で口の中をゆすぎ、どろどろの顔も洗って――そんな風にし終えたころには、どくどくうるさかった心臓も、苦しかった呼吸も、落ち着きを取り戻していました。
「もう平気か?」
「ぅん……」
ぐず、と胃酸混じりの
こくん、と子供みたいに頷くしかできないわたしでした。
泣いたばかりなせいか、まだ頭の芯が痺れたみたいにじりじりと鳴っていました。恥ずかしくて、情けなくて、彼の目をまともに見られません。
「ごめ……なさい。シオンくん。その……服、汚して」
謝る声は次第にちいさくなって、蚊が鳴くみたいにかすれてしまいます。
彼は「ああ」と笑って、
「構うこたない。どうせおんなじのいっぱい持ってるんだから」
「そ……かな……」
後ろめたさは消えることなく、ずっと根深く胸の中に張りついたままでしたけど。それで
――気が付いたら、目の前に天井がありました。 ぼけーっと天井を見上げて、「ああ、朝かぁ」なんてのんきなことを思いながらごろんと寝返りを打って、「わぁ!!」 跳ね起きました。我に返って。 魔女の長衣を着たまま、わたしはベッドで横になっていました。 帽子やケープ、あと腰に巻いていたポーチなんかはサイドボードにまとめて置いてあって、丈の短いブーツもベッドの足元に置かれていましたが。「ぁっ、え? あれ……あれぇ!?」 ぜんぶ夢だったのでしょうか。いいえ、それはないはずです。わたし、ちゃんと儀式をしてきました。長衣にほんのり移ってしまったらしい香袋の香りからでもそれは分かります。 じゃあ――もしかして、わたし、あのまま眠っちゃった? シオンくんに、抱きしめてもらった……まま? 窓の外を見ると――陽はすっかり高くなっていました。「ぁ……わ、わ。わわわっ!」 あたふたとベッドを降り、狼狽のあまりあやうくこけそうになりながら。 皺になりかけたスカートのすそをぱたぱたと叩いて直し、髪も適当になでつけて。もたもたと靴を履いて、部屋を飛び出しました。 血の気が引く思いで真っ青になりながら、廊下を駆け抜けて、お店へ。「シオン、く――おはよ……!」「あらぁ、フリスちゃん。おはよう」「昨日も大変だったみたいねぇ。ちゃんと眠れた?」「あ。あたし達のことは気にしないで頂戴ね。しっかり休んでなさい?」 ほほほ、と笑いながら口々に挨拶してきたのは、お店に来ていたトスカの女性たち、主婦のみなさんでした。「あ、はひ。おはよ――ござい、ますっ! ぇと……」 あわあわと頭を下げて、挨拶を返すわたし。 みなさんは「ほほほ」と声を合わせて笑うと、三人で囲んでいたもう一人の腕や背中をべしべしと叩きました。 シオンくんでした。困ったみたいな顔で口の端を引きつらせながら、主婦のみなさんに囲まれていました。「……おは
葬送の祝詞を終え、儀式の道具を片付けて――とぼとぼとおぼつかない足どりで森から引き返した頃には、白々と夜が明けはじめていました。 徹夜のせいで頭がぼんやりしていました。 ふたりが旅立った後、祝詞の最中にわたしは一度泣いてしまっていて、ただでさえ徹夜してしまったうえにそんなことまであったせいで目がしぱしぱしていました。 目の前に映るすべてが、何もかもが頼りなく覚束ないような、そんな感覚。 薄明の日差しが差す森を出て、家の前に着いたときは、思わず安堵の息が零れていました。わたしはお店の裏手に回って、音をたてないようにそっと扉を開けます。「おかえり」「ぁ……」 裏手の玄関のすぐそこで、シオンくんが待っていました。 とっさに何を言えばいいかわからなくなってしまって、あわあわと顔を赤くしながら慌てふためいて。そんなふうにみっともなくうろたえた末に、わたしはようやく、虫が鳴くような声を絞り出すことができました。「ただ……ぃま……」「おかえりなさい」 のろまなわたしの挨拶に、もう一度答えを返してくれます。「疲れたろ。風呂と朝食、どっちから先にする?」「ぁ、う……えと」 お風呂に入ってさっぱりしたい、と真っ先に思いました。 けれど、おなかもとても空いていて、今にもぐうぐうと不平の声を立てそうです。 何より――眠いです。このままベッドに飛び込んで思うさま寝てしまいたい。「あの」「ん?」 けれど。シオンくんの顔を間近で見上げたとき、わたしの胸に去来したのはそれらのどれとも違う、まったく別の答えでした。「ぎゅっ……て、してもらって、いい?」「いいけど」 苦笑混じりに小首をかしげて。声にはしなかったけれど、「どうして?」と不思議がっているのが分かります。「おねがい」「……わかった。おいで」 両腕を開いてくれる、その胸の中へ。 身体を寄せて、額を擦り付
「風神セイディ・愛神シェトレイエ――男女の恋情・男女の愛欲を盤上に転がす二柱。その加護・その御手に、我は伏して感謝を奏上いたします」 儀式の構成から、セイディとシェトレイエの二柱を除きます。 代わりに、同じく二柱――わたしは伏せかけていた面を上げ、能うる限りの朗々たる声で呼びかけました。「天秤の柱に我は立つ。天秤の右腕に貴きもの・天と創造の主神ライオス照覧あれ。天秤の左腕に深きもの・大地と夜明けの女神ウルリカ祝福あれ。 比翼の絆を言祝ぐ天神・連理の絆を言祝ぐ地神・魔女の呼び声に応ずるものあるならば、どうかその手を引いていざない給え。此処なる白光の下、比翼連理の在処《ありか》まで――!」 ――ああ。 ああ――ああ! ――掴んだ! そうだったんだ――ああ、そういうことだったんだ。 なんてことだろう、わたしは本当にどうしようもない。心配性で不安ばっかりの、疑りやのバカな娘だった。 彼も、彼女と同じだった。 いつかは、彼女と結ばれて――家庭を持って、共に暮らす日を想っていた。 いつかは、彼女の望みと同じに、ふたりの子供がいる未来を思い描いていた。ただ、そこに至るまでに見ていた道程が、違っていたというだけ。 彼の夢想は、未来は、冒険者としての大望――二人で見てきた夢の先にあった。 冒険者として大功を得て、彼女に何不自由ない暮らしを用意できるように。 いつか生まれる新しい家族が、立派な父親だといつだって胸を張って誇りに思えるような、ただそれだけで人生を越えてゆく支えになれるような、ひとかどの男であれるように。 子供を産んで、それで幸福な幕引きになど、なりはしないから。 その先へ。さらにその先まで。願わくば少しでも穏やかに護られる、長く安穏たる道を敷いてやりたいと――彼は。 ――ああ、だからこそ。 男女の恋情と愛欲を司る二柱ではだめだったの
夜の森――その奥まったところに、頭上の枝がぽっかりと開けて、白々とした月明りの差し込む空間があります。 まるで劇場のステージに明かりが降るようなそこは、森に住まう誰かのためにあつらえたみたいな、天然の舞台です。 けれど、魔法の技を深く修めた者にとって、ここはただそれだけの場所ではありません。 大地の霊脈――《龍脈》が幾重にも交わり、強い魔力を宿した土地。 魔術士達の間では、霊穴――あるいは《龍穴》と呼ばれる、見えざる魔力の泉。一種の霊地です。 強い魔力を宿した霊地はその魔力を養分として霊草や霊木が育ち、のみならず、魔術儀式に適した土地ともなります。 魔術儀式。あるいは《儀式魔術》。 土地や道具、魔法陣の力を借りて、通常の魔術の範疇では行使し得ない大きな力を振るうための術式です。 荷物運びと道中の護衛のために来てもらったパペットくんを伴って、その夜のわたしは、そこにいました。 ラウグライン大森林の外縁近くに位置するその場所、わたしが知る《龍穴》のひとつです。 裾の長い長衣に縁の広い三角帽子。肩にはケープをかけて、もしかしたらあなたも絵本や物語で見たことがあるかもしれない、魔女そのものの姿です。 月明りが差し込むその場所に魔法陣を描き、朝露を清めた水を小瓶に詰めたものへわたしの魔力を込め、瓶の口から振りまきます。 杖の先端で線を掘っただけの魔法陣がぼぅっと青褪めた光を放ち、舞台を月色に照らしだしました。 わたしの傍ら――敷布をかけた小ぶりの台座には、火を焚いたちいさな香炉。 これらの道具はすべて、今は少し離れたところで待ってくれているパペットくんに運んでもらったものでした。 あと、魔法陣を書いてくれたのもパペットくんです。その……硬い地面にしっかりした線を引くのが、わたしの腕力だと難しかったせいなんですけれど。「………………ふぅ」 支度は整いました。 腰に巻いたポーチから、香袋をひとつ――『素敵な恋に出会えるおまじない』の香り袋を香炉の火にくべ
「…………それは」 口ごもってしまうわたしに、シオンくんは畳みかけてきます。「今のフリスは、彼女と接触した結果として《感染魔術》の影響下にある。見たところ、昼に眠っていた間は彼女の『夢』を見なかったみたいだけど……また夜になれば、それも保証の限りじゃないんじゃないのか」「……………………」 図星です。彼の推察は、正鵠を射ていました。 いにしえより、夜は常世の住人たちのための時間だといわれてします。 それは夜の女神ネフィリールが死者の国を預かる女神でもあり、また死者の眠りと生者の眠り――そしてすべての大いなる神々の眠り、その安息を司る女神だから、なのだと。 そして現実としても、夜とは死霊や怨霊、悪霊、あるいは異界の悪魔たちのような《魔》に属する者達が、その力を増す領域です。 それは、神々が休息と安息の眠りにつき、その加護が一時緩んでしまうがためなのだと、そう言い伝えられています。 いいえ。真実あの『夢』を再び見ることとなったとしても、事態がそれだけならまだいいのです。わたし一人だけのことならば。 類感魔術・感染魔術の要諦は、『類似したものは互いに影響しあう』、『ひとたび接触したものは離れた後でも互いに影響を及ぼす』ということ。 今はまだ、魔女の《魔眼》で彼女を見てしまったわたしだけが一方的に影響を受けています。けれど、ひとたび結ばれてしまった縁《えにし》の影響は、やがて否応なく彼女の側へも波及してゆくでしょう。 いずれ、わたしが彼女の『記憶』を夢に見たように、彼女もまたわたしの『記憶』を見てしまうのです。 そして、わたしは――彼女が死者であることを知っています。 彼女がいかにして死者となったかを、わたしは知っているのです。伝聞というかたちではあるとしても。 だから、「……弔って、あげたい」 死は取り返しがつきません。 だから、死者である彼女に対して――わたしができる、たったひとつのことを。
むかし、どこかで誰かに教えてもらったことがあります。 『香り』というのは五感が感じる感覚の中で、もっとも強く残る記憶なのだと。 魔女の香袋は血族の血を通していにしえから連綿と伝えられてきた、紛れなき魔女術のひとつ。魔女術工芸品のひとつです。 それらはすべて、その効果ごとに使う花や薬草、香油の種類、袋に縫い付ける刺繍まで事細かに決まっています。 ゆえに、魔女術工芸品の製法にのっとり正しく作られる限りにおいて、同じ『おまじない』を込めた香袋は、どこのどんな魔女が作ったとしてもまったく同じものになります――もちろん、その香りも。「あのひとが探していたのは、この香り」 彼女が探していたのは、霊を見ることのできる『誰か』ではなかった。 彼女が探していたのは、今もその記憶に残る懐かしい香り。 ――そう。だからこそなのです。 もう二年も前に亡くなったあのひとが、今になってこのお店を訪《おとな》ったのは。 わたしが以前にこのお店で薬師をしていた頃、お店の棚におまじないの香袋を置いたことはありませんでした。 わたしがシオンくんやビアンカさん達と二度目の冒険の旅をしていた間、わたしの代わりに薬師としてこのお店を預かってくれていたお師匠さまも、それは同じだったのでしょう。 恋に出会うおまじないの香袋を作りはじめたのは、シオンくんとふたりでこのお店を開いてから。 工房でひとつひとつ仕込んでいた期間を足しても、ほんの二日前。だから彼女は、今この時にわたし達のお店を見出したのです。「ね……シオンくん。シオンくんは、《類感魔術》……それから、《感染魔術》って、知ってる?」「古い魔術――《呪術》で括られてる一派の魔術理論だろう? 『類似したものは互いに影響しあう』、『ひとたび接触したものは離れた後でも互いに影響を及ぼす』――だったか」「うん」







